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第4章

超越的知識

テキスト

śrī-bhagavān uvāca
imaṁ vivasvate yogaṁ
proktavān aham avyayam
vivasvān manave prāha
manur ikṣvākave ’bravīt

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言った; imam — これ; vivasvate —太陽神に; yogam —至上者との関係の科学; proktavān —教えた; aham — 私; avyayam —不滅の; vivasvān —ヴィヴァスヴァーン(太陽神の名前)manave — (ヴァイヴァスヴァタという名の)人類の父に; prāha —語った; manuḥ —人類の父に; ikṣvākave —イクシュヴァーク王に; abravīt—言った

Translation

バガヴァーン、シュリー・クリシュナ語る:私は不滅のヨーガを太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えたヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教えマヌはイクシュヴァークに教えたのである

Purport

ここで私たちは、バガヴァッド・ギーターの歴史を知ります。はるかに、はるかに遠い昔、ギーターは太陽も含めたすべての惑星の王たちに伝達されました。王族階級は特に住民の保護を最重要視していたので、住民をよく治め、そして物欲性欲の鎖の猛襲から彼らを守るためにその階級の人々はバガヴァッド・ギーターの科学をよく理解していなければなりません。人間としての生活は、精神的な知識を開発するためのもの、バガヴァーンと自分との永遠の関係を知るためのものですから、すべての惑星の、すべての国の国家元首は、教育、教養、信仰の面を通じて、ギーターの教訓を市民たちに教えなければなりません。言い換えると、それぞれの国の国民が、せっかく人間として生まれた尊い機会を無駄にせずに、この偉大な科学を利用して、本来の目的を達成させるため、国家元首が先にたってクリシュナ意識についての学問を自国に広めよ、ということなのです。

この時代、太陽神はヴィヴァスヴァーンという名で呼ばれ、太陽系の全惑星の起源である太陽の王でした。『ブラフマ・サンヒター』にはこう書いてあります。

yac-cakṣur eṣa savitā sakala-grahāṇāṁ
rājā samasta-sura-mūrtir aśeṣa-tejāḥ
yasyājñayā bhramati sambhṛta-kāla-cakro
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi

主ブラフマーは言いました。「バガヴァーン、ゴーヴィンダ(クリシュナ)を拝ませて下さい。あのかたはすべての根源である原初のお方であって、その命令のもとに、全惑星の王たる太陽は、計り知れない力と熱を持つことになったのです。太陽はあの方の眼を象徴し、太陽は神命に従ってその軌道を運行しています」

太陽は諸惑星の王であり、太陽神は太陽を統治して、他の惑星に熱と光を与えながら、それらを支配しています。彼は主クリシュナによって任命され、そして主クリシュナは彼、ヴィヴァスヴァーンを最初の弟子にして、バガヴァッド・ギーターの真理を学ばせ、理解させました。従ってギーターは、俗界の微々たる学者のための思弁的論文などではありません。永遠に伝えられてきた最高の権威ある知識の書なのです。

『マハーバーラタ』のなかでも、ギーターの歴史を知ることが出来ます。

tretā-yugādau ca tato
vivasvān manave dadau
manuś ca loka-bhṛty-arthaṁ
sutāyekṣvākave dadau
ikṣvākuṇā ca kathito
vyāpya lokān avasthitaḥ

「神に関するこの学問は、トレーター時代の初期にヴィヴァスヴァーンからマヌへと伝えられた。人類の父であるマヌは、自分の息子、この地球の王、イクシュヴァーク大王にそれを伝えた。大王はラグ王朝の始祖であって、後にこの王家に主ラーマチャンドラが降誕されたのである。」だからバガヴァッド・ギーターはイクシュヴァーク大王の時代から人社会に存在していました。

現在はカリユガが始まって五千年ほど経っています。この時代は43万2千年続くのです。その前は、ドワーパラ時代といって、80万年続きました。その前がトレーター時代で百二十万年ありました。ですから約二百万五千年ほど以前に、マヌが自分の息子であり、また弟子でもあったイクシュヴァーク大王、この地球の王にバガヴァッド・ギーターを語り伝えたのです。マヌの時代は約三億五百三十万年で終わるとされていますが、現在ですでに一億二千四十万年ほど経ちました。そのマヌが生まれる以前に主なる神は弟子の太陽神ヴィヴァスヴァーンにギーターを語り教えられたのです。それはざっと見積もって少なくとも一億二千四十万年前のこと。人間社会に伝わってからは、二百万年が過ぎました。そして再び主がアルジュナにギーターを語られたのが、今からざっと五千年前のことでした。以上が、ギーターとギーターの語り手である主なる神、シュリー・クリシュナによって示されたギーターの歴史です。はじめにヴィヴァスヴァーンに伝えた理由は、彼がクシャトリヤだったからです。彼は全クシャトリヤの父祖でした。従ってクシャトリヤは、太陽神の子孫ということになります。バガヴァッド・ギーターはヴェーダと同様に、バガヴァーンが自ら語られたものなので、このなかの知識は人知を超えたものです。ヴェーダの教訓が人間の解説なしに、そのまま受け入れられたように、ギーターもまた世俗的ないわゆる常識的な解釈をせずにそのまま受け入れなければなりません。自分勝手な解釈をしてはいけません。そんなことをすればギーターの真実義を曲げることになるからです。ゆえにバガヴァッド・ギーターは師から弟子へと真義そのままに受け継がれていくべきものです。まさにここで述べているように、主が太陽神に語り、太陽神が息子のマヌに語り、そしてマヌが息子のイクシュヴァークに語った。

テキスト

evaṁ paramparā-prāptam
imaṁ rājarṣayo viduḥ
sa kāleneha mahatā
yogo naṣṭaḥ paran-tapa

Synonyms

evam —このように; paramparā —師弟継承によって; prāptam—受け入れられた; imam — この科学; rāja-ṛṣayaḥ —聖なる王たち; viduḥ —理解した; saḥ — その知識; kālena —時がたつにつれて; iha — この世界で; mahatā —偉大な;yogaḥ —至上者との関係の科学naṣṭaḥ — ちりぢりになった; parantapa — おお、アルジュナ、敵の征服者よ

Translation

この無上の科学はこのようにして師弟継承の鎖によって伝えられ、聖王たちはこれをよく会得していたが、時代とともに鎖は切れ人々はその科学の真義を見失った。

Purport

It is clearly stated that the Gītā was especially meant for the saintly kings because they were to execute its purpose in ruling over the citizens. Certainly Bhagavad-gītā was never meant for the demonic persons, who would dissipate its value for no one’s benefit and would devise all types of interpretations according to personal whims. As soon as the original purpose was scattered by the motives of the unscrupulous commentators, there arose the need to reestablish the disciplic succession. Five thousand years ago it was detected by the Lord Himself that the disciplic succession was broken, and therefore He declared that the purpose of the Gītā appeared to be lost. In the same way, at the present moment also there are so many editions of the Gītā (especially in English), but almost all of them are not according to authorized disciplic succession. There are innumerable interpretations rendered by different mundane scholars, but almost all of them do not accept the Supreme Personality of Godhead, Kṛṣṇa, although they make a good business on the words of Śrī Kṛṣṇa. This spirit is demonic, because demons do not believe in God but simply enjoy the property of the Supreme. Since there is a great need of an edition of the Gītā in English, as it is received by the paramparā (disciplic succession) system, an attempt is made herewith to fulfill this great want. Bhagavad-gītā – accepted as it is – is a great boon to humanity; but if it is accepted as a treatise of philosophical speculations, it is simply a waste of time.

テキスト

sa evāyaṁ mayā te ’dya
yogaḥ proktaḥ purātanaḥ
bhakto ’si me sakhā ceti
rahasyaṁ hy etad uttamam

Synonyms

saḥ —同じ; eva —確かに; ayam — これ; mayā —私によって; te — あなたに; adya —今日; yogaḥ — ヨーガの哲学; proktaḥ —語られる; purātanaḥ —大変古い; bhaktaḥ —献身者; asi — あなたは~である; me —私の; sakhā —友; ca — もまた; iti — それゆえ; rahasyam —神秘; hi —確かに;etat —これ; uttamam —超越的な

Translation

太古の昔よりあるこの科学、神と人との関係を説く無上の学を私は今日、私の献身者にして友なる君に語る。君はこの人知を超えた神秘を会得できるのだ

Purport

人間は二種類に分けられます。一つは神を信じ、神に仕えようと心がける人、献身者。もう一方は、神を信じない、私欲情欲の塊、悪魔といってもいいでしょう。ここで主なる神は、この大いなる学問の受容者として、アルジュナを選ばれました。なぜなら、彼は、主を心の底から信じ、愛していましたから。悪魔の部類に入る人間には、この偉大にして崇高な神秘の科学を理解することは出来ません。この大知識の書は、様々な形で出版されていますが、その中には、献身者が注釈しているのもあり、悪魔が注釈しているものもあります。献身者の注解は真実であり、悪魔の注解は無益で無用の長物です。アルジュナはシュリー・クリシュナをバガヴァーンとして信じています。このアルジュナの志を受け継いだ注解なら、この偉大な学問の目的に本当に沿うものです。ですが、クリシュナをバガヴァーンとして認めずに、クリシュナについて何か別な解釈をでっちあげて、一般の読者や大衆をクリシュナの教えの道からそらせる注解は、悪魔の所業です。各人は、このような誤った道に導かれないように注意して、アルジュナから代々、師弟継承された真理を学ばなくてはなりません。そうしてこそ、本当にこの本のはかり知れぬ恩恵に浴することができます。

テキスト

arjuna uvāca
aparaṁ bhavato janma
paraṁ janma vivasvataḥ
katham etad vijānīyāṁ
tvam ādau proktavān iti

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; aparam —年下の; bhavataḥ — あなたの; janma —誕生; param —年上の; janma —誕生;vivasvataḥ —太陽神の; katham — どのように; etat — これ;vijānīyām —私は理解するのだろうか; tvam — あなたは; ādau — 始めに; proktavān —教えた; iti — このように

Translation

アルジュナ問う:太陽神ヴィヴァスヴァーンが生まれたのはあなたの誕生よりはるかに昔のことあなたが彼にこの学問を授けたとは一体どのように解釈すればよいのですか

Purport

正真正銘の献身者であるアルジュナが、主クリシュナの言葉を信じられない、こんなことがあっていいものでしょうか?実は、アルジュナは自分がわからないから質問しているのではなくて、バガヴァーンを信じていない人々や、クリシュナをバガヴァーンと認めたくない悪魔のために、こう言っているのです。ただこのためだけに、まるで自分がクリシュナのことを知らないかのような顔をして質問したのです。それは第十章ではっきりしますが、アルジュナは、クリシュナがバガヴァーンであることを完全に知っていました。万象の源泉であり、しかも、あらゆる事物から超越した至上者であることを知っていました。もちろん、クリシュナはデーヴァキーの息子として地上に降臨なさいました。クリシュナがバガヴァーンのままで、原初に永遠なる根源のお姿のままで、どのようにして地上に降誕されたか、これは一般の人には到底、理解しがたい神秘です。ゆえに、この点を明らかにするため、アルジュナはこの質問をしたのでした。クリシュナ自らに無上の権威をもってこの事実を話していただくために。クリシュナが最高権威者であることは現在ばかりでなく、はるか太古の昔から全世界に認められていたのですが、悪魔どもだけがクリシュナ自身にご自分のことを語っていただこうとして、質問しました。悪魔族は常にクリシュナのことを、自分たちが理解できるような形に歪曲して描写するから、その余地がないようにと、こんな質問をしたのです。人はそれぞれ自分自身のために、クリシュナ学を学ぶ必要があります。ですから、クリシュナが自らご自身のことを語られるということは、全世界にとって実にめでたい限りです。いつも自分たちの見地からクリシュナを解釈している悪魔族にとって、クリシュナ自身が説明する内容は、奇妙な、非常識なものに思えるでしょうが、献身者たちは、クリシュナに関するクリシュナ自身の声明を、どれほど喜び歓迎することか、献身者たちは夜となく昼となく、そうした権威あるクリシュナによる教えを礼拝するものなのです。なぜなら彼らはもっともっと、少しでも多くクリシュナについて知りたい、学びたいと熱望しているのですから。クリシュナを“人間”だと考えていた無神論者は、彼は超人格であり、サッチダーナンダ・ヴィグラハ(喜びと完全なる知識そのものである永遠の姿)であり、人知の及ばぬ超越者であり、そして物質界の三性質に支配されず、時間と空間に影響されない存在であることを知るでしょう。アルジュナのようなクリシュナの献身者は、彼の超越的な位置について、ほんのわずかでも誤解することはないのです。アルジュナのようなクリシュナの献身者は、彼の超越的な位置について、ほんのわずかでも誤解することはないのです。アルジュナが主の御前にこの質問を呈したのは、クリシュナを三性質に支配される普通の人間だと思っている無神論者に向かって、あえて戦いを挑むため、ひとえにその理由によるものでした。

テキスト

śrī-bhagavān uvāca
bahūni me vyatītāni
janmāni tava cārjuna
tāny ahaṁ veda sarvāṇi
na tvaṁ vettha paran-tapa

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言った;bahūni —多くの; me —私の; vyatītāni —経てきた;janmāni —誕生; tava — あなたの; ca — そして~もまた; arjuna —おお、アルジュナよ; tāni — それらを; aham — 私は; veda — 知っている; sarvāṇi—全て; na — ~でない; tvam — あなたは; vettha —知っている; parantapa —おお、敵の征服者よ

Translation

バガヴァーン答える:滅敵者アルジュナよ、私も君も、何回となくこの世に生まれて来たのだ。私は全てを覚えているが君は前世のことを何も知らない

Purport

主なる神は化身して何度も何度も地上に出現されました。そのことは『ブラフマ・サンヒター』(5.33)に詳しく書いてあります。

advaitam acyutam anādim ananta-rūpam
ādyaṁ purāṇa-puruṣaṁ nava-yauvanaṁ ca
vedeṣu durlabham adurlabham ātma-bhaktau
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi

「私はバガヴァーン、ゴーヴィンダ(クリシュナ)を礼拝します。そのかたは原初の神格。絶対無比にして完全無欠。始めなく終わりなく、無数の形に展開してなお、原初のままに実在する。最古最老のそのかたは、常に新鮮な若者の姿であらわれる。このような永遠不滅、至高至福、全治全能の主のさまざまな姿を、最上級のヴェーダ学者たちは知っている。だが主の化身は、常に純粋にして真実な献身者の前にその姿を現す」

同じ『ブラフマ・サンヒター』(5.39)でこうも言われています。

rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan
nānāvatāram akarod bhuvaneṣu kintu
kṛṣṇaḥ svayaṁ samabhavat paramaḥ pumān yo
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi

「私はバガヴァーン、ゴーヴィンダ(クリシュナ)を礼拝する。そのかたは常にラーマ、ナラシンハ等さまざまな化身の中におわし、また多くの準化身の中におわす。原初のバガヴァーンクリシュナはまた、そのままで化身する」

ヴェーダにも、主は無二の一者であるが、無数の形をとって現れる、と書いてあります。彼はヴァイドゥリヤ石のように、一つでさまざまな色彩に変化します。主の化身は、純粋かつ真実な献身者にそれとわかるものであり、単にヴェーダを学んだだけでわかるものではありません。(サンスクリット引用)アルジュナのような献身者は、主の忠実な伴侶であって、主が化身して地上に現れるときはいつでも、こうした親しい献身者たちの一人であり、この節を読んでわかるのは、主クリシュナがバガヴァッド・ギーターを太陽神ヴィヴァスヴァーンに語ったとき、アルジュナもまた異なった地位でその場にいたということです、何百万年の以前に。ですが、主とアルジュナの違うところは、主はその事実を知っており、アルジュナは全く記憶していません。ここが全体の一部分である生物と全体である至上主との相違点なのです。アルジュナはこの場で、敵を滅ぼす大英雄とまで呼ばれていますが、自分の幾多の過去世において何があったか、さっぱり思い出せません。ですから、一個の生物として現実世界でどれほど大きく評価されていても、至上主とは全く次元が違うのです。主の忠実な献身者ならだれでも解脱した人には違いませんが、主と比べることなど到底できません。『ブラフマ・サンヒター』で、主は“完全無欠(アチュータ)”と形容されています。これは、主はご自身を決して忘れない、ということです。物質世界で活動している場合でも。したがって、主と生物は、あらゆる面で全く比較を絶しています。アルジュナのように解脱した生物でも、神と肩を並べることなどできません。アルジュナは主の献身者ではありますが、時折主の性格を忘れてしまいます。しかし恩寵によって献身者はすぐに、主の完全無欠さを覚りますが、不信者や悪魔どもは、どうしても主の超越性を理解することができません。結論として、バガヴァッド・ギーターの内容は、悪魔的頭脳の持ち主には理解できないということです。クリシュナは何百万年も前に行った活動のことを全部覚えていらっしゃいますが、それはアルジュナには不可能です。二人とも永遠の存在なのですが、この相違があります。生物は肉体が変わることによって、前の肉体時代のことをなにもかも忘れてしまいますが、主は一切を忘れません。なぜなら、主はみずからのサッチダーナンダ体を変えないから。彼はアドヴァイタ(不二)です。彼の体と彼そのものが不異なのです。彼にかかわることはすべて精神的なのです。一方、制約された魂においては、魂と肉体は別のもの、。主は、体と魂が同一なのですから、たとえ物質次元に下りてきても、普通の生物とは全く違うのです。次に主が説明されるようなこと、主の超越性に、悪魔族はどうしても順応することができません。

テキスト

ajo ’pi sann avyayātmā
bhūtānām īśvaro ’pi san
prakṛtiṁ svām adhiṣṭhāya
sambhavāmy ātma-māyayā

Synonyms

ajaḥ —生まれない; api — ~だけれども; san —そうである; avyaya —朽ちることなく; ātmā —体; bhūtānām —生まれる者たちすべて; īśvaraḥ —至上主; api — ~だけれども;san — そうである; prakṛtim — 超越的な姿で; svām—私自身の; adhiṣṭhāya — そう位置している; sambhavāmi —私は化身する; ātma-māyayā —私の内的エネルギーによって

Translation

私はうまれることなく滅することなく私の超越的体は恒常不変である私はすべての生物の至上主であるがどの時代にも原初の超越的な姿で出現する

Purport

さて、主はご自分のプラクリティ(自らの姿)について説明されています。プラクリティは“自然”という意味もあるし、スヴァルーパ、つまり“自分の形相”という意味もあります。主は、ご自分特有の姿で地上に現れる、とおっしゃっています。一般の生物は、その肉身を変えますが、主は決して体相を変えません。現在の生である種の体を持っている制約された魂は、次の生にはまた別の種類の体を持つことになります。これが生物の“転生”というものです。生物は物質界をこのようにして移動します。ところが主の場合はちがいます。出現するときは、いつでも彼特有の色相です。神の超越的なる威力によるものです。言い換えると、クリシュナはこの物質界に、原初にして永遠なる姿で顕現れる、二本の手で笛を持って、彼は物質界の汚れを全く寄せつけず、この上なく清らかな永遠の姿で、この世に出現するのです。彼は宇宙の主であるけれども、その神秘きわまる体を地上に現す場合には、一般の生物と同じような誕生の経過を見せます。主クリシュナは、赤ん坊から子供へ、子供から少年へ、そして青年へと成長しましたが、驚くべきことには、その先、決して年を取りませんでした。クルクシェートラの戦場に彼が現われた時には、家庭に大勢の孫たちがいました。つまり物質界の計算で行けば、かなりな年でした。それなのに、彼は二十か二十五の間の青年のように見えました。私たちは年老いたクリシュナの絵などをみることはできません。なぜなら彼は私たちのように老いないからです。全創造物の中で、最古最老の御方だというのに、過去、現在、未来にわたって。体も知性も彼においては恒常不変です。物質界に現われていながら、そのまま不生不滅の喜びと知識に満ちた永遠の姿なのだと言うことがここで明らかになっています。彼の出現と消滅は太陽が昇って私たちの見えるところで移動し、やがて視界から消えるようなもの、と言っていいでしょう。夕方、太陽が見えなくなると、私たちは“日が沈んだ”と思い、暁に太陽が見えてくると、“太陽が地平線に上った”と思います。本当は、太陽はいつも同じところにあるのです。私たちの眼力が弱く、視野が狭いために、太陽が空に出たり消えたりするように考えてしまうのです。主クリシュナの出現と消滅は、普通の生物の場合と根本的に全く異なっていて、精神的エネルギーによる永遠のサッチダーナンダ体が、物質性に少しも汚染されていないことを、明白に示しています。諸ヴェーダは、不生不滅のバガヴァーンがこの世に何度も降誕することを確言しています。ヴェーダの補充録にも、彼は地上に降誕してもその体を変えないと明記してあります。『バーガヴァタム』では、彼は彼の母親の前に現われた、六種のすぐれた特性をそなえた、四本腕のナーラーヤンとして現われています。主が永遠なる本来の姿で現われるのは、生物に対する無上の慈悲なのです。人々が、思索や想像によらないで、バガヴァーンの真の姿を瞑想できるようにとの配慮です。マーヤーヴァーディーは、神の姿など単なる想像にすぎない、と考えていますが、これはまったく的外れです。ヴィシュヴァ・コーシャ辞典によればマーヤーまたはアートマ・マーヤーは主の原因なき慈悲を意味します。主は、以前の出現と滅時について一切を知っていらっしゃいますが、一般の生物は新しい体を得るとすぐに、以前の体のことを、一切合財忘れ果ててしまいます。彼は地上において驚異的、超人的な活動をして、彼が万物の主であることを、否応なく私たちに認めさせます。主は常に絶対的実在であって、その形と本質に何の差異もないのです。ここで、一体何のために主がこの世に現われたり消えたりするのか、という疑問が起こります。その説明が次の節にあります。

テキスト

yadā yadā hi dharmasya
glānir bhavati bhārata
abhyutthānam adharmasya
tadātmānaṁ sṛjāmy aham

Synonyms

yadā yadā — いつでもどこでも; hi —確かに;dharmasya —宗教の; glāniḥ —矛盾; bhavati —顕著になる; bhārata —おお、バーラタの子孫よ;abhyutthānam —支配; adharmasya —反宗教の;tadā — そのとき; ātmānam —自身; sṛjāmi —現われる;aham — 私は

Translation

宗教が正しく実践されなくなったとき反宗教的な風潮が世にはびこったときおおバラタ王の子孫よ私はいつどこへでも現われる

Purport

ここでサンスクリット語のスリジャーミ、英語でmanifestと訳される言葉は、大層重要な意味を持っています。スリジャーミというのは、被創造物が生まれるとか造られるとかいう意味で使われる表現ではありません。なぜなら、前節にあるとおり、主の体は創造られたものではなくて、その固有の形は無始無終、永遠の存在なのですから、。したがって、ここでスリジャーミは、主が主ご自身の姿で出現されるという意味です。予定によると、ブラフマーの一日に生まれる十四人のマヌのうち、第七番目のマヌの二十八時代であるドヴァーパラ・ユガの終末期に、主は出現されることになっています。ですが、彼はそうした規則には全くとらわれない方であり、何事もしたいようになさる、完全に自由自在な方なのです。ですから主はいつでも、世界が反宗教的な思想で支配されそうになったり、真正な宗教が消滅したりするときに、ご自分の意志でこの世に出現なさいます。宗教の原理原則は、諸ヴェーダに明確に述べられているのであって、その模範に少しでも合わない行いをしていると、人は次第に精神的に低落していきます。『バーガヴァタム』には、ヴェーダの宗教規範は、神の定めた法律だとあります。宗教のシステムを作り出すことができるのは、ただ主なる神のみです。諸ヴェーダも初めに神ご自身がブラフマーの心に語られたものだとされています。ですから宗教におけるさまざまな法則は、バガヴァーンが直接に人間へ下された命令なのです。この正しい宗教の原理原則が、バガヴァッド・ギーター全体に、はっきりと示されています。至上主の命令のもとに、法の道筋を明確に通すのが、全ヴェーダの目的であり、そしてギーターの最後には、主自らが、最高の道、宗教の究極点を定めて下さいました。それは「主のみに全託せよ」です。ヴェーダの法則は、人を神に完全に身を委ねさせるためにあります。そしてこの法が悪魔族に乱されたときに、主は出現なさいます。『バーガヴァタム』を学ぶと、主ブッダはクリシュナの化身だったことがわかります。唯物思想が世にはびこり、物質至上主義者たちが、ヴェーダを自分たちの都合のいいように解釈して、それを口実にして勝手な振る舞いをしていたときに、ブッダはこの世に現われました。ヴェーダには、動物の犠牲について、ある特殊な目的のためにだけ、厳密な規則にしたがって行うようにとの指示があるのに、悪魔的な心情をもつ人々は、ヴェーダの規則を無視して、「ヴェーダは動物の犠牲を許可している」とばかりに、むやみにこれを行っていました。人々にこの愚行を止めさせ、不殺生、非暴力というヴェーダのおきてを確立するために主ブッダは出現したのです。このように、主の化身はそれぞれに独特の使命をもって出現します。このことは、すべて啓示聖典に記されています。聖典に指摘されてもいないのに、アヴァターラと称してはいけません。では、主はインドの土地だけに現われるのか?そんなことはありません。主はどんなところにでも、どこへでも出現なさいます。主が現われようと希望したときに、いつでも、どこにでも。主は化身して、一定の環境にある一定の人々に理解できるような、宗教を説いて下さいます。ですが、どの化身も役目は同じ。人々の意識を神意識へと高め、法の道に従わせることです。時には主ご自身が現われることもあるし、時には神の子、神の召使という形で真正な使者を送ることもあります。さらに何かの姿に変装して現われることもあります。

バガヴァッド・ギーターの教程は、アルジュナに向かって、また彼のように高い精神的な段階の人々に向かって語られました。彼らは世界の他の地域の人々に較べて、高度な精神的進歩をとげていたからです。2+2=4という数式は小学校の算数でも大学の数学でも同じように通用します。ですが、数学には、ごく初歩的なものから高等数学まであります。したがって主の化身は、同じ原理を説いているのですが、出現する時代と環境(人の民族性や、国情や教育程度など)いに応じて、あるいは高等数学をあるいは足し算引き算だけを教えます。高度の宗教は、人間社会に4区分と4階級が定着するのとともに、始まります。このことについては後で説明します。とにかく、神の化身たちの全目的は、人々のクリシュナ意識を目覚めさせることです。この意識は、時代と環境に応じて、現われたり現われなかったりするのです。

テキスト

paritrāṇāya sādhūnāṁ
vināśāya ca duṣkṛtām
dharma-saṁsthāpanārthāya
sambhavāmi yuge yuge

Synonyms

paritrāṇāya —救出のために; sādhūnām —献身者の; vināśāya —絶滅のために; ca — そして;duṣkṛtām —悪漢の; dharma —宗教原則; saḿsthāpana-arthāya — 再興するために; sambhavāmi— 私は現われる; yuge —時代; yuge —時代の後

Translation

正信正行の人々を助け異端邪信のともがらを打ち倒し宗教の法則を再び世に興すために私は どの時代にも降臨する

Purport

バガヴァッド・ギーターでは、サードゥ(聖者)とはクリシュナ意識の人を言います。たとえ外見は反宗教的にみえても、内がクリシュナ意識に満ちている人は、サードゥ、正信正行の人です。他方、クリシュナ意識について何の関心もなく、むしろこれを嫌って無視するような人をドゥシュクリターンと呼びます。世俗的な教育や教養をどれほど見につけていても、ドシュクリターンは愚か者であり、最低級の人類です。反対に、学問もなく世間的な教養もあまり身につけていなくとも、その人が100%、クリシュナ意識で動いているなら、正真正銘のサードゥといっていいでしょう。無神論者たちに対しては、なにもわざわざ至上主が自ら現われて彼らを征伐する必要はありません。ラーヴァナやカンサの場合はそうなさいましたが。細々とした悪魔どもを打ちこらす場合は、主は代行者を派遣なさいます。そのために十分な資格のある代理人を、主はあまたお持ちです。ですが、主は特に、純粋な献身者たちを慰め満足させるために降臨なさるのです。神の純粋な献身者たちは、往々にして悪魔的な人間どもに悩まされ、苦しめられています。悪魔族は、たとえそれが自分の血縁者であっても、神の献身者を迫害します。プララーダ・マハラージは、ヒラニャカシプの息子でしたが、彼はどれほど父に苦しめられたことか。クリシュナの母となったデーヴァキーは、カンサの妹ですが、彼女とその夫ヴァスデーヴァは、二人の間にクリシュナが生まれるという理由だけで、ひどい迫害を受けました。ですから主クリシュナは、カンサを殺すよりむしろ先にデーヴァキーを助けるために出現されたのです。もっとも、この二つは同時に遂行されましたが。したがって、正信者を救い、悪魔的な邪信者を滅ぼすために、主は化身して現われる、ということを、ここで述べているのです。

クリシュナダース・カヴィラージ著の『チャイタンニャ・チャリタームリタ』には、この化身の原理を要約して次のようにうたった詩節があります。

sṛṣṭi-hetu yei mūrti prapañce avatare
sei īśvara-mūrti ‘avatāra’ nāma dhare
māyātīta paravyome sabāra avasthāna
viśve avatari’ dhare ‘avatāra’ nāma

「神の化身は神の国から降りて、この世に誕生する。固有の姿で現世に顕れたバガヴァーン(至上者なる最高神)をアヴァターラと呼ぶ。彼らは神の国の従者。物質界に現われてアヴァターラとなる。」

アヴァターラには、いろいろな種類があります。プルシャーヴァターラ、グナーヴァターラ、リーラーヴァターラ、シャクティヤーヴェーシャ・アヴァターラ、マンヴァンタラ・アヴァタラーラ、そしてユガーヴァターラ等々、すべて、全宇宙にわたって、定時に出現します。この中で、主クリシュナが第一の根元の主であり、全アヴァターラの源泉となっています。主シュリー・クリシュナは、彼独特の、ヴリンダーヴァン遊戯の姿を見たがっている純粋な献身者たちの切望を満たす、という特別な目的のために、この世に降誕されました。ですからクリシュナ・アヴァターラの第一の目的は、そうした彼の献身者たちを喜ばせ満足させることです。

主は、どの時代にも化身してこの世に現われる、と言います。これは、現代のカリ時代にも出現するということです。『シュリーマド・バーガヴァタム』に記されてあるように、このカリ時代の化身は主チャイタンニャ・マハープラブです。彼はサンキールタン運動によるクリシュナ礼拝(聖名の集合詠唱)と、クリシュナ意識を全インドに広められました。そしてサンキールタンの教化は世界中の町から町へ、村から村へと広まっていくだろうと予言されたのです。主チャイタンニャがバガヴァーン、クリシュナの化身であることは、啓示聖典の機密部分に、あからさまにではなくひそかに示されています。『ウパニシャッド』『マハーバーラタ』そして『バーガヴァタム』などに、。主クリシュナの献身者は、主チャイタンニャのサンキールタン運動に大そう惹きつけられます。この主の化身は、異端邪信の人々を殺したりしません。主の無条件の慈悲によって彼らの目を覚まし、救い上げて下さるのです。

テキスト

janma karma ca me divyam
evaṁ yo vetti tattvataḥ
tyaktvā dehaṁ punar janma
naiti mām eti so ’rjuna

Synonyms

janma —誕生; karma —活動; ca — もまた; me —私の;divyam —超越的な; evam —このような; yaḥ — (~である)者はだれでも; vetti —知る; tattvataḥ — 本当に; tyaktvā —~を離れた後; deham — この肉体; punaḥ —再び; janma —誕生;na —決して ない; eti —到達する; mām —私に; eti —到達する; saḥ — 彼は; arjuna — おお、アルジュナよ

Translation

わが顕現と活動の超越性を理解する者はその肉体を離れた後に、アルジュナよ再び物質世界に誕生することなくわが永遠の住処に来たりて住むのだ

Purport

主が人知を超えた妙絶の郷から、この世は降誕されることは、すでに第六節で説明しました。このバガヴァーンご自身の出現の真相をよく理解できる人は、もうすでに物質界の束縛が解けているのですから、今生の肉体生活の終止後はただちに神の国に戻るのです。このように生物が物質界の束縛から解放されることは実に容易ならざることです。マーヤーヴァーディーたち、およびヨーギーたちは、非常な困難とあまたの生まれ変わりを経た後にようやく、このような自由の境涯に達することができます。それでもなお、彼らがやっと辿り着いた境地、つまり、主の光輝である非人格ブラフマジョーティに没入することは、至って生半可な、不完全なものであって、物質界に逆戻りする危険が常にあります。しかし、神の献身者は、主の体と活動の超越性を理解するだけで、今生の肉体生活が終わると主の御国に入れ、この場合は決して物質世界に再生しないのです。『ブラフマ・サンヒター』にはこう書いてあります。主は多くの姿や化身をもっていると。主はさまざまな姿で現われますが、皆すべて同一のバガヴァーンなのです。この事実を人は理解し確信しなければなりません。世俗的な学者や経験主義的な哲学者には理解できないことですが。ヴェーダにはこう記されています。

eko devo nitya-līlānurakto
bhakta-vyāpī hṛdy antar-ātmā

「一人なるバガヴァーンは、純粋真実な献身者たちとの関係により、さまざまに玄妙な形相を現して永遠に活動する」ヴェーダのこの詩節が、いまこのバガヴァッド・ギーターの詩節で、主ご自身によって確認されたわけです。この真理を、ヴェーダとバガヴァーンの権威において受け入れて、無駄な哲学的思索で時間を浪費しない人は、だれでも最高にして完全な解脱の境地に達します。信仰によってこの真理を受容することにより、人は必ず解脱します。ヴェーダの言葉がまさにこの場合にこそ、性格に当てはまります。主クリシュナが至上者であるあることを理解する人、また主に向かって、「あなたは至上ブラフマンと同じバガヴァーン」と言う人はだれでも、すみやかに解脱します。そして主の永遠の交際者となることは決定的です。言い換えれば、そのように主の誠実な献身者は、自己完成を間違いなく実現できるということです。これは次のヴェーダの言葉が断定しています。

tam eva viditvāti mṛtyum eti
nānyaḥ panthā vidyate ’yanāya

「人が完全に生死を離れて自由になる道はただ一つ、ただ主なるバガヴァーンを知ることのみ」これ以外に道はありません。なぜなら、主クリシュナがバガヴァーンであることを理解できない人は、必ず無知の支配下にあるのですから、結果として、その人は救われません。バガヴァッド・ギーターを自己流の世俗的な学識で翻訳し解釈している人は、蜜がたっぷり入っている壷の、その表面をなめているだけにすぎないからです。そうした経験至上主義の哲学者たちは、たとえ像世間でどのように重要視され、尊敬されていても、真の解脱を得る資格のない連中なのです。そうした張り子の虎のような俗学者たちが救われるには、主の献身者の無条件の慈悲が彼らに及ぶときまで待たなくてはなりません。ですから人間はどうして、このクリシュナ意識の原理を心から信じ、知性で理解してこれを受け入れるように努力しなければなりません。こうしてこそはじめて、人生は完成するのです。

テキスト

vīta-rāga-bhaya-krodhā
man-mayā mām upāśritāḥ
bahavo jñāna-tapasā
pūtā mad-bhāvam āgatāḥ

Synonyms

vīta — ~から自由な; rāga —執着; bhaya —恐れ;krodhāḥ — そして怒り; mat-mayā —完全に私に; mām — 私に; upāśritāḥ —完全に位置して; bahavaḥ —多くの; jñāna—知識の; tapasā —苦行によって; pūtāḥ —浄化されて; mat-bhāvam —私への超越的な愛; āgatāḥ—到着した

Translation

執着と恐怖と怒りから離れすべてを私に任せ 私に憩いたよって過去よりあまたの人々は私の知識によって清浄となりことごとく皆私への超越的愛に着いたのだ

Purport

いままで説明したとおり、物質的なことにのめり過ぎている人にとって、人である至高絶対真理の性質を理解することは、まことに難しいです。一般的に言えば、生命の肉体的概念に固執する人々、つまり、「生命は肉体である。したがって肉体が死ぬことはすなわち生命の消滅である」という考え方の人々は、あまりにも唯物的であって、こういう人種には、「至高の実在が一個の人格である」ことなど、ほとんど理解不可能でしょう。完全な知識を具え、不断の歓喜に満ちた不滅の体、人知の及ばぬ玄妙な体が実在する、ことなど、唯物論者にとっては想像すらできないでしょう。唯物思想では、体というものは滅び去るもの、愚かで、みじめ極まるもの、ということになっています。したがって、唯物教育を受けた一般の人々は、主の姿を教えられても、どうしても心の中から、今いったような体の概念が離れません。唯物論者にとっては、物質的に巨大で強力であることが最高なのです。したがって、彼らは、至上者は非人格だろうと想像します。あまりにも唯物思想に毒されていますから、肉体が消滅した後も個別性は存続する、という意見を聞くと、びっくり仰天します。そういう人たちは、精神界での生活も自分独特な個人的なものなのだとと聞くと、死んだ後までかくも不自由な人間であり続けることを嫌って、むしろ無とか空とかいうものに帰ってしまったほうがいいと思い、その学説に同調します。ふつう、彼らは生物を海の泡に例えます。一時的に海から湧き出て、すぐまた、はかなく海に戻ってしまう、個々の人格が消滅して空に帰してしまうこと、それが精神的な存在にとって最高度の完成だと言うのです。ところが、これは精神的存在、つまり私たち意識をもった生物がどういうものか、その真相を知らない恐るべき精神状態なのです。さらにまた、精神的存在について全く理解できない人が世の中には大勢います。多種多様な学説や、互いに相反するいろいろなタイプの哲学的推測に接したあげく、人々は嫌気がさしたり腹を立てたりして、至高の大儀とか人生の大目的などというものはないのだ、と愚かにも結論してしまいます。結局のところ、あらゆるものは空虚であり、無であると。しかしこういう考えの人々は、病的状態に落ちいっているのです。中には、世間の名利を追うことに忙しくて、精神的なことに注意をはらう暇がない人々がいます。またその反対に、生物の最高霊源、宇宙の大霊に溶け入ってしまうことを望んでいる人もいます。そして精神てきな事柄に関する粉々たる遊説に絶望のあまり腹を立てて、もはや何ものも信じなくなっている人々もいます。この最後の部類に属する連中は、ある種の麻薬に頼り、情緒的な幻覚をみて、それを超越的視力と思い込んだりします。人間は以上述べた三つの執着状態から抜け出なければなりません。すなわち、1. 精神的生活に無関心であること。2. 個人としての精神生活を恐れること。3. 失敗や欲求不満から虚無思想を持つこと。これら三つの状態から離脱するためには、正しいグルの導きによって、主の完全な保護を受けなければなりません。そして、規定の修行をし、献身生活の規則に従うことです。

献身生活の最後の段階を「バーヴァ」(神聖愛)と称しています。『バクティ・ラサムリタ・シンドゥ』ではこう言っています。

ādau śraddhā tataḥ sādhu-
saṅgo ’tha bhajana-kriyā
tato ’nartha-nivṛttiḥ syāt
tato niṣṭhā rucis tataḥ
athāsaktis tato bhāvas
tataḥ premābhyudañcati
sādhakānām ayaṁ premṇaḥ
prādurbhāve bhavet kramaḥ

「まずはじめに人は自己実現、つまり真理を悟ろうという願いを持たなくてはならない。この願いを持っていると、人は自然に精神的に進歩した人々と交わるようになる。そして次の段階で、その人は進歩したグルのもとに入門し、その師の指導に従って献身奉仕を始めるのである。グルに教えられながら、この献身奉仕を続けることにより、その人は物質的なものへ執着しないようになり、自己の本性に安定する。すると、バガヴァーン、シュリー・クリシュナについて聞きたい、学びたいという愛好心が出てくる。この愛好心は次第に高まって、クリシュナ意識に対する愛慕心となっていく。このクリシュナ意識が成熟してバーヴァ(プレーマの直前の段階)となる。神に対する真実の超越的愛、これをプレーマという。プレーマの境地こそ、生命の完成そのものである。」プレーマの境地では、神と人との絶え間なき愛の交流があります。真正なグルに導かれて、献身奉仕をゆるやかに進めることによって、人はこの最高の段階に達することができます。物質的な事物への執着をすっかり落とし、個人としての精神生活も恐れなくなり、欲求不満から虚無思想に陥ることもなくなるのです。そしてそれから、ついに至上主の御住地に着くことができるのです。

テキスト

ye yathā māṁ prapadyante
tāṁs tathaiva bhajāmy aham
mama vartmānuvartante
manuṣyāḥ pārtha sarvaśaḥ

Synonyms

ye — (~である)全ての人の; yathā — ~に応じて; mām —私に; prapadyante —身を委ねる; tān —彼らに; tathā — そのように; eva —確かに; bhajāmi—報いる; aham —私は; mama —私の; vartma —道;anuvartante —従う; manuṣyāḥ —全ての人々; pārtha — おお、プリターの息子よ; sarvaśaḥ — あらゆる点で

Translation

私へ身を委ねた程度に応じて私は人々に報いるプリターの子よ、すべての生物はあらゆる方角から私への道を進んでいるのだ

Purport

だれでも皆、さまざまな側面からクリシュナを探し求めています。ある者は、バガヴァーン、クリシュナのことを非人格的なブラフマジョーティの光輝として、部分的に知っています。また、ある者は、原子を含めた万有のなかに宿り、宇宙に遍満するスーパーソウルとして知っています。しかし、クリシュナを完全に知っているのは、彼の純粋な献身者たちです。クリシュナはすべての人の悟りの対象であり、したがってだれでも彼を理解する態度に応じて満足を得られます。精神科医においても、クリシュナは純粋な献身者たちに対して、各人の希望通りの態度で報いて下さいます。クリシュナを無上の主人だと思っている献身者には、無上の主人として対し、クリシュナを親しい友のように思っている人には、この上なく親密な友としてまた彼を自分の息子のように感じている人には理想的な息子のように、そして愛人のように恋い慕っている人には、すばらしい恋人として対して下さいます。彼に対する愛の強さに応じてクリシュナはすべての献身者たちに公平平等に報いて下さるのです。この物質世界においても同じこと。異なった心的態度の献身者たちは各自に特有のやり方で、彼と愛情を交わし合っています。この物質世界でも、かの超越的世界でも同じく、彼の純粋な献身者たちはそれぞれにあの方と楽しく交わって、主にじかに奉仕をし、そして主は彼らにあふれる慈愛を注いで超越的な喜びを賜るのです。他方、絶対真理が人であることを認めない人たち、また生物の個別性を無にすることによって精神的自殺を望んでいる人たち、この種の人々をも、クリシュナは、ご自身の光輝に吸収して、救って下さいます。こうした非人格主義者は、永遠不滅で喜びに満ちた至上者を受け入れないので、主に仕える喜びを味わうことができません。自分の意志で個別性を滅ぼしてしまうからです。彼らのなかには、その非人格的状態に長時間止まっていることができず、物質界に戻ってきて休眠していた活動欲を再開する者さえいます。こういう人たちはまだ精神界の惑星に定住する資格ができていないために、もう一度、この物質界に戻って、活動を通じて修行する機会を与えられるのです。それからまた、利得が欲しくて働く人々に対しては、規定の義務を遂行するその成績によって主はヤゲーシュワラとしてご褒美を下さいます。また、超能力を欲しがって修行しているヨーギーには、その熱心さに応じて希望している力を下さいます。要するに、だれがどんなことをするのでも、彼の恵みがなければ成功は不可能だということです。そして、あらゆる種類の精神的発達段階はすべて、同じ道、神の国へ到る道を進む途上での前後にすぎません。クリシュナ意識の頂上に登りつくまでは、どれも不完全な状態にいるわけです。『シュリーマド・バーガヴァタム』には次のように書いてあります。

akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param

「欲を捨てた人(神の献身者の状態)も、またさまざまな欲を持った人も、そして解脱を望む人も、生命の全き完成のために心身を尽くしてバガヴァーンを礼拝し、クリシュナ意識の完成に達しなければならない。」

テキスト

kāṅkṣantaḥ karmaṇāṁ siddhiṁ
yajanta iha devatāḥ
kṣipraṁ hi mānuṣe loke
siddhir bhavati karma-jā

Synonyms

kāńkṣantaḥ —望んで; karmaṇām —果報を求める活動;siddhim —完成; yajante —彼らは供儀によって崇拝する;iha — 物質界において; devatāḥ —神々;kṣipram — すぐに; hi —確かに; mānuṣe 人間界において; loke — この世界における; siddhiḥ —成功; bhavati—来る; karma-jā —果報を求める活動から

Translation

この世の人々は仕事の成功と果報を求めさまざまな神々を拝んでそれを願うこのようにして働けば早くたやすく物質界の果報は得られるのだ

Purport

さまざまな神々について、人々は大きな考え違いをしています。知性の低い人たち、なかには大学者で通っている人もいますが、彼らは、こうした神々は至上主のもついろいろな姿の一つだと誤解しています。そうではありません。神々はそれぞれに、主なる神の極小部分にすぎないのです。主なる神は一人、そして一人なる神の部分は無数にあります。ヴェーダには「神は一人なり」とあります。「至上なる神は一人、クリシュナ」そしてあまたの神々は、物質界を管理するため、それぞれに異なった種類と程度の力を委託されています。神々は物質界に属する生物なのです。ナーラーヤナ、あるいはヴィシュヌ、またはクリシュナと呼ばれる最高神と肩を並べることなど、全く不可能な、微々たる存在なのです。最高神と、これらの神々を同じレベルのものだと考える人は、すなわち無神論者であり不信心者です。デーヴァのなかで最も偉大なブラフマーやシヴァに礼拝されているのです。まことに奇妙なことですが、この世には、愚かな人々に拝まれている人間の指導者たちが大勢います。これは神人同型説か動物形態観(神または超自然物を動物の形で表すこと)の誤解によるものでしょう。この地上では、金権のある人と神々が捧げ物を受けます。しかし、ナーラーヤナまたはヴィシュヌ、またの名をクリシュナと呼ぶバガヴァーンは、この世に属するお方ではありません。物質創造物を、肉体を超越した御方なのです。絶対真理が人であることを認めない主義のリーダーであるシュリーパーダ・シャンカラチャーリャでさえ、ナーラーヤナ、別名クリシュナについては、これを支持してこの物質界を超えたものであるとしているのです。それでもなお、愚かな人々はあちこちの神々を拝みます。彼らは手っ取り早い成果を望んでいるからです。そうして得た成果は、ほんの一時的なもので、子供の玩具のようなものにすぎない、ということを彼らは知りません。クリシュナ意識に目覚めた知性の高い人は、一時的な空しい利益のために極小部分的な神々を拝むようなことはしません。この世の神々は、拝んでいる人々と同様に、この世の終わりと同時に消滅してしまうのです。こうした神々からの恵みは物質的なものであり、ごく一時的なものです。物質界とその住民、神々とその崇拝者も含めて、宇宙の大海に生じる水泡なのです。それなのに人間たちは、土地だの家族だの、快適な家や調度といった物質的な富を、はかなく空しいものを求めて狂ったように右往左往しています。それを手に入れるために、ご利益のありそうな神様を拝んだり、社会で金権のある有力者に追従したりします。政界のボスに取り入って拝み倒して、大臣にでもしてもらったら、この上ない大利益を獲たものと考えます。いわゆる指導者とか、重要人物にペコペコと卑屈に頭を下げ、奴隷のように仕えて、その結果、なるほど望みの地位や富を手に入れます。真実の目から見るとまことにくだらない空しいものを。こういう愚かな人たちは、クリシュナ意識に何の興味も関心も示しません。物質的生存の苦難を、根本的に解決しようという気持ちを持っていないのです。彼らは五官の楽しみだけを追い求め、そのためにほんの僅かな便宜をはかってもらおうとして、あちこちの力ある神々を拝んでいます。クリシュナ意識に目を向ける人はまれであり、ほとんどの人々は物質的喜びにだけ関心があって、そのために特定の力ある生き物を拝んでいる、ということをこの節はうたっているのです。

テキスト

cātur-varṇyaṁ mayā sṛṣṭaṁ
guṇa-karma-vibhāgaśaḥ
tasya kartāram api māṁ
viddhy akartāram avyayam

Synonyms

cātuḥ-varṇyam —人間社会の四つの区分; mayā—私によって; sṛṣṭam —創造された; guṇa —性質の; karma — そして活動; vibhāgaśaḥ — 区分に応じて; tasya — それの;kartāram —父; api — ~だけれども; mām — 私を; viddhi — あなたは知りなさい; akartāram — 非行為者として; avyayam —不変不動の

Translation

自然界の三性質と活動に応じて私は人間社会を四つに区別したこの四階層は私が造ったのだが私は行為を超越し不変不動である

Purport

主はすべてのものの創造者です。万象は彼より生じ、万象は彼によってその存在を保ち、そして万象は滅して彼に憩う。したがって社会秩序の四階層も彼がつくられました。まずはじめは知的人間のクラス、学術的にはブラーフマナと称し、徳性の傾向を持った人々です。次は行政管理を天性とするクラス、学術的名称はクシャトリヤ。激性の人々。次が商売に向いたクラス、ヴァイシャと称して、激性と無知がミックスした人々。それから労働者のクラス、シュードラ。無知の人々。クリシュナはこの四階層をつくられましたが、もちろん、どれにも属しません。彼は、人間をはじめとする”制約された魂”ではないからです。人間界は他の動物界と同じですが、人類を動物の身分から引き上げるために、主が前記の区別をつくられたのです。これによって人類は体系的にクリシュナ意識を発達させることができます。人が生まれてからどんなことに興味を持つか、どんな仕事につくようになるかは、その人が自然界の三性質をどのように身につけているかで決まります。物質自然の三性質に応じて、どのような生命の徴候が現われるかは、第十八章で詳しく説明してあります。しかし、クリシュナ意識の人は、ブラーフマナよりも上です。ブラーフマナは”ブラフマン”(至上絶対の真理、宇宙の大原理)を知るだろう、というのでこの名称がつけてありますが、彼らのうち大半は、主クリシュナの非人格的表現であるブラフマンに心を寄せます。ですが、ブラーフマナそしての知識の限界を超えた人だけが、バガヴァーン、主シュリークリシュナの知識に到達して、クリシュナ意識の人となるのです。別な言葉を使えば、ヴァイシュナヴァ、すなわち、ヴィシュヌの献身者になるのです。クリシュナ意識は、クリシュナのさまざまな完全分身、つまり、ラーマ、ナラシンハ、ヴァラーハその他、の知識をも完全に包含しています。クリシュナが人間社会の四階層を超越しているように、クリシュナ意識の人も社会のあらゆる区別、階層を超越しています。さまざまな共同体、団体からも、国家からも、人種からも超越しているのです。

テキスト

na māṁ karmāṇi limpanti
na me karma-phale spṛhā
iti māṁ yo ’bhijānāti
karmabhir na sa badhyate

Synonyms

na —~でない; mām — 私に; karmāṇi — あらゆる種類の活動;limpanti — 影響する; na — nor; me —私の; karma-phale — 果報を求める活動への; spṛhā —熱望; iti —このように; mām — 私を;yaḥ — (~である)人; abhijānāti —知るkarmabhiḥ — そのような仕事の反動によって; na —決して~でない; saḥ — 彼は; badhyate— もつれる

Translation

私はどんな活動にも影響されないそしてどんな結果も望んでいない私につていこの真理を知るものは仕事に捕らわれず、その結果にとらわれない

Purport

王は常に正しい。王は国法の支配外である、というきまりが物質界には存在します。同様に、主は、この物質世界の造り主でありますが、この世界の諸活動には決して影響されません。彼は造り、そして造った物から超然としています。ところが生物は、ものを所有したいという性癖のために、仕事の結果、もうけとか名誉とかに目がくらんで、かけずりまわっています。会社の創設者は、社員たちの善悪の行動について責任はありません。ですが社員は各自に、その行動に責任があります。生物は感覚を満足させるために、それぞれ行動します。ですがその行動は主が定めたものではありません。感覚の喜びを増すために、生物はこの世で仕事に従事します。そして死んだ後は天国で幸福を味わいたいと願います。主は、主自ら完全に満足していますから、いわゆる、’天国の幸福’というようなものに、少しも興味がありません。天の神々などは、彼が雇った召使にすぎません。創設者は社員連中が望んでいるような次元の幸福などは求めません。彼は物質界の作用と反作用から超越しています。たとえば、雨は、地上に生ずる多様な植物に対して、べつに何の責任もありませんが、どんな植物も雨がなくては成長不可能です。ヴェーダの啓示ではこのことを次のように明言しています。

nimitta-mātram evāsau
sṛjyānāṁ sarga-karmaṇi
pradhāna-kāraṇī-bhūtā
yato vai sṛjya-śaktayaḥ

「森羅万象(物質創造体)の究極原因は、ただひとつ、主である。直接の原因は物質自然力であって、この力で目に見える宇宙が出現したのである。」創造された存在には、上は神々から人類、そして下等動物にいたるまで実に多くの種類があります。そしてすべてみな、過去に行った善悪の行為による反作用、カルマを受けています。主はただ彼らに、活動のための適当な肉体や環境と、規定どおりの自然性質を与えるだけであって、彼らの過去と現在の行動に何の責任もありません。『ヴェーダーンタ・スートラ』には、「主はいずれの生物に対しても全く公平である」と明記してあります。生物はそれぞれ、自分の行動に対して責任があります。主は物質界における主の代理者(外部エネルギー)を通じて、生物に活動の場を与えるだけです。この複雑きわまるカルマの法則に精通すればだれでも、自分の仕事の結果について一喜一憂しなくなります。言い換えれば、この主の超越性を理解できる人は、すなわちクリシュナ意識に入った人であって、二度と再びカルマの法則に支配されない、ということです。主の超越性を悟らず、主の活動を一般生物の行動と同じ次元で考える人は、当然のこと、カルマの車輪に巻き込まれることになります。一方、至高の真理を悟った人は、クリシュナ意識に安住した自由な魂なのです。

テキスト

evaṁ jñātvā kṛtaṁ karma
pūrvair api mumukṣubhiḥ
kuru karmaiva tasmāt tvaṁ
pūrvaiḥ pūrva-taraṁ kṛtam

Synonyms

evam —このように; jñātvā — よく知って; kṛtam —実行された; karma —活動; pūrvaiḥ —過去の権威者たちによって; api—本当に; mumukṣubhiḥ —解脱を得た; kuru — さあ、実行しなさい; karma —規定された義務; eva —確かに;tasmāt — それゆえ; tvam — あなたは; pūrvaiḥ —古人たちによって; pūrva-taram — 古代の; kṛtam — 実行されたように

Translation

古来より解脱した魂たちはすべてこの私の超越的性質を理解して行動したゆえに君も古人たちを見習って義務を遂行せよ

Purport

人間には二つのクラスがあります。物質的な事物に執着しきって、心身ともに汚れている人々、それからすでに物質的な事物から自由になった人々。クリシュナ意識はこの双方にとって同じように有益です。心身に汚いものがこびりついている人々は、規則的な献身奉仕の道に従うことによって、このクリシュナ意識への道を、精神的浄化手段にすることができます。すでに汚れを落としてしまった人々は、同じこのクリシュナ意識による活動を続けていれば、後から進んでくる人々の模範になるでしょう。愚かな人たちや、クリシュナ意識の初心者は、クリシュナ意識についての知識が欠けているものですから、ともすれば活動を止めようとします。戦場での仕事を避けたいというアルジュナの希望を主は許可されませんでした。人はどのようにして活動するかを知る必要があります。クリシュナ意識による活動を止めて、静かなところで瞑想ばかりしているのは、クリシュナのために勇ましく仕事をすることから比べると、はるかに劣っています。ここでアルジュナは、主の古い弟子たちの後に従って、クリシュナ意識で活動せよ、と勧められました。前に紹介した太陽神ヴィヴァスヴァーンのように。至上主は、ご自身の過去の行動をすべて知っておられ、またかつてクリシュナ意識で活動した人々のことも、すべて知っておられます。ですから主は、数百万年以前に主からこの術を学んだ太陽神を見習え、と言われるのです。主クリシュナの古代からの弟子たちは皆、クリシュナの定めた義務を立派に遂行して、解脱したのです。

テキスト

kiṁ karma kim akarmeti
kavayo ’py atra mohitāḥ
tat te karma pravakṣyāmi
yaj jñātvā mokṣyase ’śubhāt

Synonyms

kim —何が~であるか; karma —活動; kim —何が~であるか; akarma —無活動; iti — このように; kavayaḥ —賢明な者; api — もまた;atra — このことに関して mohitāḥ — 混乱する; tat — それ;te — あなたに; karma —活動; pravakṣyāmi — 私は説明しよう; yat — それ; jñātvā —知れば mokṣyase — あなたは解放されるだろう;aśubhāt —不幸から

Translation

活動とは、また無活動とはいかなるものか賢明な者でも、これを定義するのに迷う今私がここで活動とは何かを説明するこれを知って君はあらゆる不幸から離れよ

Purport

クリシュナ意識による活動は、昔からの真正な献身者たちを手本にして行わなければなりません。そのことは第十五節にすでに述べられています。なぜ自分勝手に行ってはいけないか、それはこれからの説明を読めばわかります。

クリシュナ意識で活動するには、この章の始めに説明した師弟継承の系列内の権威ある人々に指導してもらわなくてはなりません。クリシュナ意識の体系は、主よりまず太陽神に伝えられ、太陽神が息子のマヌへ、マヌがその息子のイクシュヴァークへ伝えました。実にはるか昔からこの地上に流れているのです。ですから、人はこの連綿と続いている師弟継承の列内にある権威者たちの行動を見習わなくてはなりません。そうしないと、どんなに聡明な人でも迷ってしまいます。この理由から、主はクリシュナ意識活動について、アルジュナに直接はっきりと教示することをお決めになったのです。これによって、アルジュナの後に続く者たちが、迷わないで済むのです。

だれでも自分の不完全な経験による知識だけで、宗教の範囲を定められるものではありません。本当は、宗教というものは主なる神ご自身が定めるものです。人間の不完全な思考で宗教をつくりだすことは不可能です。私たちは、ブラフマー、シヴァ、ナーラダ、マヌ、クマーラ、カピラ、プララーダ、ビーシュマ、シュカデーヴァ・ゴースワーミー、ヤマラージャ、ジャナカ、バリ・マハラージ等々の偉大なる権威者たちの足跡に従わなければいけません。頭で考えても宗教はわかりません。自己の本性を知ることはできません。ゆえに、献身者に対する限りない愛情から、主はアルジュナに向かって、活動と無活動の何たるかを説明なさいます。クリシュナ意識でする活動だけが、人間を物質存在のわなから解放できるのです。

テキスト

karmaṇo hy api boddhavyaṁ
boddhavyaṁ ca vikarmaṇaḥ
akarmaṇaś ca boddhavyaṁ
gahanā karmaṇo gatiḥ

Synonyms

karmaṇaḥ —活動について; hi —確かに; api — もまた;boddhavyam —理解されるべきである; boddhavyam —理解されるべきである; ca — もまた; vikarmaṇaḥ —禁じられた活動について; akarmaṇaḥ —無活動について; ca — もまた; boddhavyam —理解されるべきである; gahanā — とても難しい; karmaṇaḥ —活動の; gatiḥ —入り口

Translation

活動の諸相はまことに複雑にして神秘でありこれを理解することは実にむずかしいゆえに人は活動と誤活動と無活動について正しく学ばなければならない

Purport

物質の束縛から解放されて自由自在になりたいと真剣にねがっているなら、活動と無活動と誤活動の相違をよく理解しなければいけません。活動または行為とその反作用、それから活動の誤用のこと、これはきわめて難しい問題なので、私たちは熱心に分析研究するべきです。クリシュナ意識と、三性質による活動を理解するためには、至上者と自分との関係を学ばなければいけません。生きとし生けるものはすべて、主の永遠の僕であることを完全に学び知った人なら、自然の結果としてクリシュナ意識で活動することになります。バガヴァッド・ギーターの内容はことごとく、この結論を指し示しています。この結論に反する考え方、行動はすべて禁じられた行為、つまり誤活動です。このことを良く知るためには、クリシュナ意識の権威者たちと親しく交わって、彼らからその神秘を学びとらなければなりません。こうすれば、直接に主から学ぶのと同じことになります。こうする以外には、最高に知性の発達した人でも、活動の正誤がわからなくなって、途方に暮れるでしょう。

テキスト

karmaṇy akarma yaḥ paśyed
akarmaṇi ca karma yaḥ
sa buddhimān manuṣyeṣu
sa yuktaḥ kṛtsna-karma-kṛt

Synonyms

karmaṇi — 活動の中に; akarma —無活動; yaḥ — (~である)人;paśyet —見る; akarmaṇi 無活動の中に; ca —もまた; karma—果報を求める活動 ; yaḥ — (~である)人; saḥ — 彼は; buddhi-mān —知性がある; manuṣyeṣu — 人間界において; saḥ — 彼は;yuktaḥ —超越的立場にいる; kṛtsna-karma-kṛt— あらゆる活動に従事しているけれども

Translation

活動の中に無活動を見て無活動の中に活動を見る人はたとえどのような種類の仕事をしていても相対世界を超越した覚者である

Purport

クリシュナ意識で行動している人は当然、カルマの鎖に縛られてはいません。すべての活動を、彼はクリシュナのために行っているのですから。仕事の結果がどうあろうと、彼はそれによって喜んだり悲しんだりしないのです。たとえクリシュナのために、どんな種類の仕事に従事していようと、彼こそ人間界における覚者、真理を悟った人です。アカルマとは、活動の反作用を生じない、という意味です。結果を生む活動は、自己実現の障害になるという理由で、マーヤーヴァーディー達は仕事から遠ざかります。ですが献身者は、自分の位置、バガヴァーンの永遠の従者であるという立場を正しく理解していますから、クリシュナ意識でどんな仕事でもします。何もかもクリシュナのためにするのだ、、、という、この世ならぬ深遠な幸福感を味わいながら、彼は奉仕しています。個人的な満足感など彼にとっては問題外なのです。自分はクリシュナの永遠の従者なのだという気持ちがあらゆる業報からその人を解放するのです。

テキスト

yasya sarve samārambhāḥ
kāma-saṅkalpa-varjitāḥ
jñānāgni-dagdha-karmāṇaṁ
tam āhuḥ paṇḍitaṁ budhāḥ

Synonyms

yasya — (~である)人; sarve — あらゆる種類の; samārambhāḥ —試み; kāma —感覚満足への欲望に基づいた;sańkalpa —決心; varjitāḥ — ~が欠けている; jñāna —完全な知識の; agni —火によって; dagdha —焼かれる;karmāṇam — その人の活動; tam —彼を; āhuḥ —断言する;paṇḍitam —学識のある; budhāḥ —知る者たち

Translation

すべての欲望を持たずに行動する者は完全智を得た人と心得よ聖者たちはそのような人々を大智の火でカルマを焼き尽くした人と呼ぶ

Purport

完全なる知識を得た人だけが、クリシュナ意識でする人の活動を理解できます。クリシュナ意識の人々は、自分の感覚を喜ばせよう、満足させようという気持ちが全くありません。こういう人は、完全な知識によって活動の反作用を焼き尽くします。その完全な知識とは、自己の本性、本質が、バガヴァーンの永遠の従者であるという徹底した自覚です。本当に学んだ人なら、そのような境地に達するはずです。主の永遠の従者であるという、この大いなる知識の発達は、火にたとえられます。この火は、ひとたび点されると、あらゆる種類のカルマをもやしてしまうのです。

テキスト

tyaktvā karma-phalāsaṅgaṁ
nitya-tṛpto nirāśrayaḥ
karmaṇy abhipravṛtto ’pi
naiva kiñcit karoti saḥ

Synonyms

tyaktvā —捨て去って; karma-phala-āsańgam —活動の結果への執着; nitya —常に; tṛptaḥ —満足して; nirāśrayaḥ — どんな保護もなく; karmaṇi —活動に; abhipravṛttaḥ —完全に従事して ; api ~にもかかわらず; na — ~でない; eva —確かに; kiñcit —何でも;karoti — するsaḥ — 彼は

Translation

仕事の結果に全く執着しない人は常に満足し、自由であるあらゆる種類の活動をしてしかもカルマがないのである

Purport

クリシュナ意識、すべてクリシュナのためにする、という気持ちになると、はじめて仕事の束縛から解放されます。クリシュナ意識の人は、バガヴァーンに対する純粋な愛から、仕事をします。そして彼はその仕事の結果には何の関心もありません。自分の生活のことについてすら無関心です。すべてのことを、クリシュナにお任せしています。金品をためこんだり、すでに自分の所有となっているものの保全に気をつかうこともありません。最善を尽くして義務を遂行し、あとはクリシュナに全託します。このような無執着の人は、善悪のカルマから免れて、常に自由です。まるで、何ごともしないかのようです。これがアカルマ(カルマのない活動)です。このほかのクリシュナ意識を欠いた活動はすべて、その行為者を縛り付けます。これをヴィカルマ(誤活動)というのです。

テキスト

nirāśīr yata-cittātmā
tyakta-sarva-parigrahaḥ
śārīraṁ kevalaṁ karma
kurvan nāpnoti kilbiṣam

Synonyms

nirāśīḥ — ; 結果への望みを持たずに; yata —支配された;citta-ātmā —心と知性; tyakta —捨て去って; sarva—全ての; parigrahaḥ —所有物に対する所有の観念; śārīram — 肉体と魂をともに保つことにおいて;kevalam — ~だけkarma —活動; kurvan —~をして; na —決して~ない; āpnoti —得る; kilbiṣam —罪の反動

Translation

このような英知の人は心と知性を完全に抑制し我所有の観念が全くない命をつなぐに足るだけ働きしたがってカルマを全く受けない

Purport

クリシュナ意識の人は、自分のした仕事の結果に何ら期待しません。それが成功しようと失敗しようと、すべて神のおぼし召しだと思っています。彼の心と知性は完全にコントロールされているのです。彼は自分が至上者の一部分だと知っていますから、そのように役を勤めるだけ。役は自分が決めるのではなく、全体である至上者が決めたもの。そして至上者の摂理によってなされるのです。手が動く場合、手がひとりでに動くわけではありません。体全部の努力によって動くのです。クリシュナ意識の人は、常に至上者の希望とぴったり合った行動をとります。なぜなら、彼は個人的に感覚を満足させようという欲がないからです。ですから彼は正確に機械の一部品として動きます。機械の部品を持続的に用いるためには油をさしたり掃除をしたりする必要があります。それと同じようにクリシュナ意識の人は、主に対する超世の献身奉仕を楽しむために、働いて自活します。このような生活にはカルマはありえません。ちょうど動物のように、彼は自分の肉体にさえ所有権を主張しません。冷酷な飼い主は、時折飼っている動物を殺したりしますが、それでもその動物は抗議もしません。自分のものは何一つ持っていません。クリシュナ意識の人は、自己の本質、本性を完全に知って、それになりきっているので物質的な対象を所有する、という観念がほとんどありません。肉体と魂を養っていくためにも、不正な手段で金をかき集めるようなことは絶対にしません。したがって物質界における罪悪に汚染されることは絶対にありません。彼の活動には、反作用、カルマがまったくないのです。

テキスト

yadṛcchā-lābha-santuṣṭo
dvandvātīto vimatsaraḥ
samaḥ siddhāv asiddhau ca
kṛtvāpi na nibadhyate

Synonyms

yadṛcchā —自然に; lābha —獲得物に;santuṣṭaḥ —満足して; dvandva —二元相対; atītaḥ — ~を超えて; vimatsaraḥ — ねたみから自由である; samaḥ —不動の;siddhau — 成功において; asiddhau —失敗; ca — もまた; kṛtvā — ~する; api — ~だけれども; na —決して~ない; nibadhyate —影響される

Translation

無理なく入ってくるもので満足し二元相対性を超越して他をうらやむことなく成功にも失敗にも心を動かさぬ者はどんな仕事をしても束縛されない

Purport

クリシュナ意識の人は、わが身を養うことさえ、さほどの努力をしません。彼は、無理なく自然に入ってくる収入で満足しています。頭を下げてものを乞うようなことは決してしませんが、自分の力に応じて誠実に働きます。そしてその働きによって得たもので、心から満足しています。だから生計的には独立しています。クリシュナ意識による彼の生活は、だれの干渉も許しません。とはいえ、主に仕えるためなら、彼はこの世の二元相対性に悩まされずに、どんな種類の活動でもします。物質世界の相対性とは、寒暑、幸・不幸、などの言葉に表れています。クリシュナ意識の人はこの相対性を超克していますから、クリシュナを満足させるためなら、どんな種類の仕事でも、ためらわずにします。世間の人々からは成功に見えようと失敗に見えようと、一切関知しません。これが最勝最上の知識を持った人の特徴です。

テキスト

gata-saṅgasya muktasya
jñānāvasthita-cetasaḥ
yajñāyācarataḥ karma
samagraṁ pravilīyate

Synonyms

gata-sańgasya —物質自然の性質に無執着な人の; muktasya —解放を得た人の; jñāna-avasthita —超越性に位置する; cetasaḥ — その人の知恵; yajñāya—ヤグニャ(クリシュナ)のために; ācarataḥ —活動して; karma —活動; samagram — 完全に; pravilīyate — すっかり吸収される

Translation

物質世界の三性質にとらわれず無常絶対の知識を体した人の仕事は主の超越性の中に完全に吸収される

Purport

クリシュナ意識に満ちてくると、人は相対性のわなから抜け出します。物質自然界の性質から開放されます。その人は解脱し、真に自由となります。なぜなら、自分とクリシュナとの本質的な関係を悟るからです。そしてクリシュナ意識からそれることができなくなります。その結果として、彼が何をしようとそれはクリシュナのため、万物の本源であるヴィシュヌのためにしているのです。つまり専門用語で言えば、彼の仕事はすべて「供儀」となります。なぜなら供儀とは、至上者クリシュナ、ヴィシュヌを喜ばせることであるから。また、そうした活動の反作用はすべて主の超越性の中に吸収されてしまうから、カルマに苦しむなどということは、全くありえません。

テキスト

brahmārpaṇaṁ brahma havir
brahmāgnau brahmaṇā hutam
brahmaiva tena gantavyaṁ
brahma-karma-samādhinā

Synonyms

brahma —精神的性質をもつ; arpaṇam —貢献;brahma —至上者; haviḥ —バター; brahma —精神的なl;agnau — 極致の火の中に; brahmaṇā —魂によって; hutam —捧げられた; brahma —精神王国;eva —確かに; tena —彼によって; gantavyam — 到達される;brahma —精神的な; karma — 活動において; samādhinā —完全に没頭することによって

Translation

クリシュナ意識に没入している人は精神的活動の貢献により、必ず神の王国に達するその活動の極地は絶対でありささげられたものも精神的である

Purport

クリシュナ意識による活動が、どのようにして人を精神的目標に導くかを、ここでは説明しています。クリシュナ意識での活動は種々さまざまありますが、それは以下の節が説明します。ここでは、クリシュナ意識の原理だけを説いています。物質に汚染され制約された魂は、当然の事として物質的環境の中で活動しますが、なんとかしてそこから抜け出さなければいけません。その方法がクリシュナ意識なのです。たとえば乳製品を食べ過ぎて腸をこわし、それで苦しんでいる人を別の乳製品、ヨーグルトで治すようなもの。このギーターで示されているように、物質の海に溺れた制約された魂は、クリシュナ意識によって救い出すことができます。方法は一般に供儀、または供養という名称で知られているヴィシュヌ、またはクリシュナを喜ばせる目的だけで行う活動です。この世でクリシュナ意識の活動が多くなればなるほど、環境は浄化され、精神的になってきます。ブラフマンとは精神のこと。主なる神は精神的であり、その超越的な姿より発する光線をブラフマジョーティと言います。神の光輝です。存在するものはすべてこの光輝の中に在ります。しかしジョーティが幻覚(マーヤー)五官の欲望で覆われたとき、それを物質と呼びます。物質と言う覆いはクリシュナ意識ですぐに取り去ることができます。クリシュナに捧げられた供物や業績、それを消費する機関や人、消費する過程、寄与する人、その結果を混ぜ合わせれば、ブラフマン、絶対の真理です。この円満完全な永遠の実在にマーヤーというカバーがかかった場合、これを物質現象と呼んでいます。物質現象を絶対実在にぴったり合わせることで、精神性を取り戻すことができます。クリシュナ意識は幻覚意識、妄想を至上者ブラフマンに転化する方法です。心がクリシュナ意識に完全に没入している時、それをサマーディと呼んでいます。こうした超越意識で行うことはすべて供儀です。言い換えれば絶対者への供養です。こうした精神的意識のもとにおいては、寄与する人も寄与された事物もこれを用いる人々もその指導者も、そしてその結果も何もかもすべて、一体となって永遠の大実在に帰するのです。これがクリシュナ意識の方法なのです。

テキスト

daivam evāpare yajñaṁ
yoginaḥ paryupāsate
brahmāgnāv apare yajñaṁ
yajñenaivopajuhvati

Synonyms

daivam — 神々を崇拝することに; eva — このように; apare— ある者は; yajñam —供物; yoginaḥ —神秘家;paryupāsate —完璧に崇拝する; brahma —絶対真理の; agnau — 火の中に; apare —他の者は; yajñam —供養する; yajñena —供物によって; eva —このように; upajuhvati —捧げる

Translation

種々さまざまな神々にそれぞれ異なった供養をするヨーギーもあり至高ブラフマンの火の中に捧げ物をするヨーギーもある

Purport

クリシュナ意識で義務を遂行している人を、完全なヨーギー、または最高級の秘伝受法者と呼んでいます。しかしそうではない修行者もいます。同じように供養していても、その対象がいろいろな神々であったり、または至高ブラフマンであったりします。至高ブラフマンというのは、至上者の非人格的な相です。つまり、さまざまな部門ごとに、異なった種類の供養法があります。ですが、違ったことをしているように見えても、それは表面的な手順がそれぞれに異なるだけの話で、本質的には至上主ヴィシュヌを喜ばせ満足させるのが、本来の意味です。それは、ヴィシュヌの別名がヤグニャ(供犠)であることからもわかるでしょう。多種多様な供養法にも大きくえrg分けると2種類になります。すなわち、現世利益を求めるための供養と、真理の知識を求めるための供養クリシュナ意識の人は、自分の所有物をすべて至上主の満足のためにささげるけれでも他の人々は、はかない祝福を願っていろいろな神々に金品を供えて御機嫌をとりむすぶ。インドラ神とか、太陽神とかに。またマーヤーヴァーディたちは、自分の個としての人格そのものを溶解して、ブラフマンにささげる。いろいろな神々は、至上主から物質界運営のために任命された強力な生物である。彼らは宇宙内の熱、水分、光などを管理している。だから物質的な利益を願う人々は、ヴェーダの礼式に従って、神々に向けてさまざまな供養をする。こういう人たちを、バフ・イーシュヴァラ・ヴァーディと言う。各種の神々を信ずる人々、と言う意味である。一万、絶対真理の非人格相を拝む人々は、そうした神々の姿は一時的なもので、ある種の幻影にすぎないと観て、自分の個我そのものを聖火投じてささげ、個人として存続を止めて至上者に溶け入ってしまう。このようなマーヤーヴァーディたちは、科学的な思索に時を過ごし、思量を通じて至上者の超越性を知ろうとしている。別な言い方をすると、果報を求めて働く人々は、物質的な楽しむのために神々へ金品を供え、絶対真理が人であることを認めない人々は、自分そのものをささげて至上者に溶け込んでしまう。そのようなマーヤーヴァーディたちにとって、供養の火壇は至高ブラフマンであり、ささげ者は自分の個我である。それをブラフマンの火で焼き尽くすのである。これに対して、クリシュナ意識の人は、アルジュナのように、クリシュナの御意ままにすべてをささげる。所有物は言うに及ばす、自分自身までもーークリシュナの御前に供える。彼こそ最上級のヨーギであり、しかも永遠に個別性を保ち続けているのである。

テキスト

śrotrādīnīndriyāṇy anye
saṁyamāgniṣu juhvati
śabdādīn viṣayān anya
indriyāgniṣu juhvati

Synonyms

śrotra-ādīni —開く過程のような; indriyāṇi —感覚; anye —他の者は; saḿyama —抑制の; agniṣu — 火の中に; juhvati — ささげる; śabda-ādīn —音の振動など, etc.;viṣayān —感覚満足の対象; anye —他の者は;indriya —感覚器官の; agniṣu — 火の中に; juhvati—彼らは供儀を行う

Translation

ある者(ブラフマチャリー)は聴覚、その他の感覚を抑制の火に投じて供えものとしまた、他の者(規定に従う世帯者)はその他の感覚の対象を供養の火壇に供える。

Purport

人間生活の四区分、ブラフマチャーリー、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーシー、これらはみな人類が、完全なるヨーギーになるための助けとして設定されました。人間としての生活は感覚を満足させて楽しむのが目的ではありません。それでは動物と同じことになってしまいます。私たちは正しい精神生活を送るために人として生まれました。この四つの順序はその目的で配置されました。一番目のブラフマチャーリーの時期は、真正なグルに指導されて、心で感覚の欲望を断つ訓練をします。この節にある内容は、彼らのことを言っています。ブラフマチャーリーは、クリシュナ意識に関係のある言葉だけ聞きます。他の言葉は一切、聞こうとしません。聞くということは、真理を知る上に最も基本的な動作です。したがって純粋な模範的なブラフマチャーリーは「主の栄光を唱え聞く」ことに没頭します。物質界の様々な音の波動を受け付けないうように自己抑制して、絶対無上の音ハレークリシュナの波動だけを彼の聴覚はとらえます。同じようにして、次のグリハスタの時期にある人々は、ある程度の欲望を満たすことが許されていますが、それも抑制して行います。性生活と飲酒、肉食、これらは現代の人間社会で当然の事として行われていますが、正規の世帯者は、こうしたことを勝手きままに無制限には行いません。結婚と言ういわば宗教的な制度が、文明社会にはゆきわたっています。これは性生活を規制する方法です。この性生活を規制すること、及び性生活に執着しないこともまた、一種の供犠です。なぜならその正しい世帯者は、高度の精神生活のために動物的本能を犠牲にしているからです。

テキスト

sarvāṇīndriya-karmāṇi
prāṇa-karmāṇi cāpare
ātma-saṁyama-yogāgnau
juhvati jñāna-dīpite

Synonyms

sarvāṇi —全ての~の; indriya —感覚; karmāṇi —機能;prāṇa-karmāṇi —呼吸機能ca — もまた;apare —他の者は; ātma-saḿyama —心の支配の;yoga —結びつく方法; agnau — ~の火の中に; juhvati —捧げる; jñāna-dīpite —自己実現を強く望んで

Translation

自己実現を熱望している人々は心と感覚をことごとく抑制し呼吸と五官の機能すべてを供儀として精神統一の火に投じる

Purport

パタンジャリが考案したヨーガ体系のことを、ここでは述べています。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』のなかでは、魂のことを、プラティヤグ・マートマー、およびパラーグ・アートマーと呼んでいます。感覚の楽しみに執着している間は、魂はパラーグ・アートマーと呼ばれ、感覚の楽しみから離れたとき、プラティヤグ・アートマーと呼ばれます。魂は体内で働いている十種の気の作用に支配されます。これは、呼吸法として知られているものです。パタンジャリ式のヨーガ・システムは体内にある気を技術的にコントロールして、魂を物質汚染から浄化する方法を教えています。この体系によると、プラティヤグ・アートマーこそ究極の目的です。このプラティヤグ・アートマーというのは、物質的活動から完全に撤退した状態です。諸感覚は、その対象と相互に作用しあいます。耳は音を聞く、目は物を見る、鼻は匂いを嗅ぐ、舌は物を味わう、手は物に触る、これらはすべて自我の外側の活動に従事しています。これが、プラーナ・ヴァーユ作用(機能)と称するものです。また、アパーナ・ヴァーユは下降を、ウダーナ・ヴァーユは上昇を、ヴィヤーナ・ヴァーユは伸縮を、そしてサマーナ・ヴァーユは平衡の調整を司っています。真に知識のあるヨーギーは、これらすべての気を自己実現のために用いているのです。

テキスト

dravya-yajñās tapo-yajñā
yoga-yajñās tathāpare
svādhyāya-jñāna-yajñāś ca
yatayaḥ saṁśita-vratāḥ

Synonyms

dravya-yajñāḥ —自分の財産を捧げる; tapaḥ-yajñāḥ—苦行を捧げる; yoga-yajñāḥ —八秘法を捧げる; tathā —このように; apare —他の者は; svādhyāya — ヴェーダの研究にささげる; jñāna-yajñāḥ —超越的知識の進歩を捧げる; ca —もまた;yatayaḥ —悟りを開いた人; saḿśita-vratāḥ —厳しい誓いを立てて

Translation

厳しい誓いを立ててある者は財産を捧げ、ある者は厳しい苦行を行うある者は八秘法のヨーガを行じある者は超越的知識を求めてヴェーダを学び、悟りを開く

Purport

供犠にはさまざまな種類があります。金、物、土地など、各種の慈善事業に寄与する人々もいます。インドでは、富裕な商人たちや王族階級の人々が様々な慈善事業を設けています。たとえば、ダルマ・シャーラーとか、アンナ・クシェートラとか、アティティ・シャーラー、アナーターラヤ、ヴィデヤーピータなどなど。他の国でも病院、老人ホームその他、貧しい人々に食事や教育や医療を無料で提供する施設が数多くあります。このような慈善活動はすべて、ドラヴィヤマラ・ヤグニャと呼ばれています。また精神的にもっと高度な生活を望む人や、宇宙内のもっと高級な惑星に移り住みたい人は、自発的にさまざまな種類の禁欲、耐久生活をします。たとえば、チャンドラーヤナとか、チャトゥルマースヤといったような、固い誓いをたてて、実に厳しい規則を自ら課する生活をします。チャトゥルマースヤの誓いを立てたひとは、一年のうちの4ヶ月間(七月から十月)ひげをそらない、一定の食物を断つ、一日に二度は食べない、それから一歩も家の外に出ない。こんなふうに生活の中の楽しみを犠牲にするのを、タポーマヤ・ヤグニャと称します。また別なタイプの人々はパタンジャリ系の秘伝的ヨーガを(絶対的実在に没入するために)実習したり、ハタ・ヨーガやアシュターンガ・ヨーガを(何か特殊なことに熟達し、完成するために)実習したりします。また聖地をくまなく巡礼して歩く人々もいます。こうした種類のものはすべて、ヨーガ・ヤグニャと称し物質界においてある一定の事柄を成就させるために、至上主に供えるのです。それからまた、ヴェーダ文献の各種、ことに諸『ウパニシャッド』『ヴェーダンタ・スートラ』またはサーンキャ哲学などの研究に従事する人たちもいます。これらはスヴァーディヤーヤ・ヤグニャ、学問の供犠です。これらすべての修行者たちは、それぞれ異なった形の供物を忠実に供え続け、より高い境地に向上しようとしているのです。しかし、クリシュナ意識は、こうした種類のものとは全くちがいます。クリシュナ意識は、至上主に直接仕えるのです。クリシュナ意識には、前述のどの供儀によっても到達することはできません。ただ主はおよび主の真正な献身者の恩寵によってのみ達しえます。ですからクリシュナ意識はこの世の範疇を越えたものなのです。

テキスト

apāne juhvati prāṇaṁ
prāṇe ’pānaṁ tathāpare
prāṇāpāna-gatī ruddhvā
prāṇāyāma-parāyaṇāḥ
apare niyatāhārāḥ
prāṇān prāṇeṣu juhvati

Synonyms

apāne — 下へ向かう気の中に; juhvati —捧げる;prāṇam —外へ向かう気; prāṇe — 外へ流れる気の中に; apānam —下方へ流れる気; tathā —同様に; apare —他の者は; prāṇa —外に流れる;apāna — そして下方へ流れる気; gatī —動きruddhvā —止めて; prāṇa-āyāma —全ての呼吸を止めることによって達する恍惚境; parāyaṇāḥ — そのような傾向がある; apare —他の者は; niyata —抑制して; āhārāḥ —食べること; prāṇān—外へ向かう気; prāṇeṣu — 外へ向かう気の中に; juhvati —供儀を行う

Translation

また恍惚境に入るため呼吸を抑止する者たちさえいる呼気を止めて吸気に入れて中和しついに呼吸を全く止めて恍惚境に入るまた食を削ぎ呼気にささげて供物とする者もいる

Purport

呼吸をコントロールするヨーガ法は、プラーナーヤーマと呼ばれています。これは、はじめに、ハタ・ヨーガで座法や姿勢の修練をすることになっています。これらはすべて、精神的理解を深めるために肉体感覚を制御するための方法です。これには、体内で逆方向に流れている気流を同時に進ませる、という修練も含まれています。アパーナ気は下方に向かって進み、プラーナ気は上方に向かいます。プラーナーヤーマを修行する人は、この逆行する気流が中和して平衡状態になるように練習します。同様にして、呼気が吸気に捧げられた場合、これをレーチャカと言います。呼気と吸気が完全に止まった場合、これをクンバカ・ヨーガと言います。このクンバカ・ヨーガを修するヨーギーは、肉体的寿命を延ばすことができ、悟りを完成するための助けとすることができます。知性のあるヨーギーは、この生涯において完成するのを望みます。そしてこのクンバカ・ヨーガの修練で寿命を延ばすのです。しかしクリシュナ意識の人は、常に至上主と聖愛の交流がありますから、自然に感覚の抑制ができています。彼の感覚は、いつもクリシュナに仕えていますので、他の方面に反れるひまがありません。ゆえに生涯を終える時は、当然のこととして主クリシュナの至福の国へと移っていきます。ですから彼はこの世での寿命を延ばそうなどとは思いません。彼は即座に解脱します。自由自在の境地に入ります。これは、バガヴァッド・ギーターで言われている通りです。

māṁ ca yo ’vyabhicāreṇa
bhakti-yogena sevate
sa guṇān samatītyaitān
brahma-bhūyāya kalpate

“One who engages in unalloyed devotional service to the Lord transcends the modes of material nature and is immediately elevated to the spiritual platform.” A Kṛṣṇa conscious person begins from the transcendental stage, and he is constantly in that consciousness. Therefore, there is no falling down, and ultimately he enters into the abode of the Lord without delay. The practice of reduced eating is automatically done when one eats only kṛṣṇa-prasādam, or food which is offered first to the Lord. Reducing the eating process is very helpful in the matter of sense control. And without sense control there is no possibility of getting out of the material entanglement.

テキスト

sarve ’py ete yajña-vido
yajña-kṣapita-kalmaṣāḥ
yajña-śiṣṭāmṛta-bhujo
yānti brahma sanātanam

Synonyms

sarve —全て; api —外面的には異なるけれども; ete —これら;yajña-vidaḥ —供儀を履行する目的をよく知って; yajña-kṣapita — そのような行為の結果、浄化されて; kalmaṣāḥ —罪の反動の;yajña-śiṣṭa — そのようなヤグニャの履行の結果;amṛta-bhujaḥ — そのような甘露を味わった人; yānti —近づく; brahma —至高の; sanātanam —永遠の境地

Translation

供儀の真意を知って行う者たちは罪障の業報をのがれ、心身を清めてその供物の残余なる甘露を味わいつつ至高の永久圏に入って行くのだ

Purport

From the foregoing explanation of different types of sacrifice (namely sacrifice of one’s possessions, study of the Vedas or philosophical doctrines, and performance of the yoga system), it is found that the common aim of all is to control the senses. Sense gratification is the root cause of material existence; therefore, unless and until one is situated on a platform apart from sense gratification, there is no chance of being elevated to the eternal platform of full knowledge, full bliss and full life. This platform is in the eternal atmosphere, or Brahman atmosphere. All the above-mentioned sacrifices help one to become cleansed of the sinful reactions of material existence. By this advancement in life, not only does one become happy and opulent in this life, but also, at the end, he enters into the eternal kingdom of God, either merging into the impersonal Brahman or associating with the Supreme Personality of Godhead, Kṛṣṇa.

テキスト

nāyaṁ loko ’sty ayajñasya
kuto ’nyaḥ kuru-sattama

Synonyms

na —決して~でない; ayam — この; lokaḥ —惑星; asti — ~がある;ayajñasya —供儀を行わない者たちにとって kutaḥ — どこに~があるか; anyaḥ —他; kuru-sat-tama — おお、クル王家の中で最

Translation

クル王家のなかで最も勝れた人よ以上に述べた供儀を行わない者たちは決してこの生涯で幸福に過ごせないしまして次の生ではどうなることか

Purport

どんな物質形態、肉体の中に入っていても、魂は決まって自己の本当の位置について無知です。なぜならば、物質的に存在することそれ自体が、今までの度重なる罪深い生涯の複合したカルマだからです。罪深い間違った生活の原因は無知で、その誤った生活が、物質存在に引きずり込まれる原因なのです。ただ人間としての生活だけが、この物質存在のわなから逃げ出せる抜け道なのです。ゆえにヴェーダは、宗教と経済的安楽と欲望の規制からなる道を指し示して、無限に続く苦悩から逃げ出すチャンスを私たちに与えてくれます。宗教の道、つまり、前述のさまざまな型の供儀は、自然に私たちの経済問題を解決してくれます。ヤグニャ、すなわち供物を捧げることにによって、十分な食物やミルクその他の供給を受けることができるのです。人口が増加しても何も心配することはありません。食べ物が十分になると、自然に次の欲望が起こってきます。したがってヴェーダはその欲望を規制するために神聖な結婚を指示します。こうして人はだんだんと物質の束縛を緩めて高い境地に上っていき、やがて最高の生命完成に達して、至上主と交際するようになるのです。生命体の完成は、前記の供儀によって成就されます。ですから、このヴェーダによる供犠を行う気のない人々は、幸福な生活など期待できるでしょうか?

テキスト

evaṁ bahu-vidhā yajñā
vitatā brahmaṇo mukhe
karma-jān viddhi tān sarvān
evaṁ jñātvā vimokṣyase

Synonyms

evam — このように; bahu-vidhāḥ —多種多様の; yajñāḥ —供犠; vitatāḥ — 広がる; brahmaṇaḥ — ヴェーダの;mukhe —口を通して; karma-jān —活動から生まれる;viddhi — あなたは知るべきである; tān — それら; sarvān —全て; evam— このように; jñātvā —知って; vimokṣyase — あなたは解放されるだろう

Translation

このようにさまざまな形の供儀はことごとくヴェーダの是認するものそしてこれはすべてさまざまな活動から生ずるこの理をよく知れば君は自由になる

Purport

以上に説明した様々な種類の供儀は、さまざまなタイプの活動者に合うように、ヴェーダで規定されています。人間はあまりにも肉体的思考にとらわれきっているので、体、心、知性のいずれを使っても活動ができるようにと、こうした供儀が設定されているのです。しかしあくまでも、これらの方法は、肉体、物質からの解放が目的です。このことは、至上主ご自身の御口からでた言葉で確認されています。

テキスト

śreyān dravya-mayād yajñāj
jñāna-yajñaḥ paran-tapa
sarvaṁ karmākhilaṁ pārtha
jñāne parisamāpyate

Synonyms

śreyān — ~より偉大な; dravya-mayāt —物質的所有物の;yajñāt —供儀よりも; jñāna-yajñaḥ —知識の供犠; parantapa — おお、敵をうちこらす者よ; sarvam —全ての; karma —活動; akhilam — 全体で; pārtha — おお、プリターの息子よ; jñāne — 知識において; parisamāpyate —終わる

Translation

敵を討ちこらす者よ、物質の供犠より知識の供犠がはるかに勝っているプリターの息子よ、すべての活動は頂上に達してついに超越知識に通じる

Purport

あらゆる供儀の目的は、知識の完成に到達することです。そして物質的な苦悩から解放され、至上主と愛の交流関係に入ること、クリシュナ意識に浸ることです。ですが、こうした各種のヤグニャ活動にはそれぞれ奥義があります。どうしてもそれを知る必要があります。ヤグニャは、行う人の信仰状態によって異なった形式をとる場合があります。ある人の信仰が、超越知識、つまり真理を知るという段階に届いていたならば、その供犠を行う人は、無知のままただお金や物品等を供えるだけの人よりずっと進歩しています。なぜなら、知識の向上を考えないヤグニャはいつまでも物質平面に留まっているだけで、魂の糧とはならないからです。真実の知識は必然的にクリシュナ意識、超越意識の中で最高点に達します。知識の向上を度外視した供儀は単なる物質的行動にすぎません。ですが、彼らの知識が進歩して超越的な段階までとどくようになったら、その行動は立派なものとなるのです。行う人の意識の差異によって、供儀は“果報を求める部門”とも“真智を求める部門”とも呼ばれています。一時的な現世利益を得るより、知識の向上の方がよいことは明らかです。

テキスト

tad viddhi praṇipātena
paripraśnena sevayā
upadekṣyanti te jñānaṁ
jñāninas tattva-darśinaḥ

Synonyms

tat —様々な供儀についての知識; viddhi —理解するように努めよ; praṇipātena — グルに近づくことによって;paripraśnena —服従的に尋ねることによって; sevayā —奉仕をすることによって; upadekṣyanti —彼らは入門を許すだろう; te —あなたに; jñānam —知識に; jñāninaḥ —自己を悟った人;tattva —真理を; darśinaḥ —見る人

Translation

グルに近づいて真理を学び、恭しく問い、教えに従って師に仕えよ。自己の本性を悟った魂は真理に精通しているので、弟子に知識を授けることが出来るのだ

Purport

The path of spiritual realization is undoubtedly difficult. The Lord therefore advises us to approach a bona fide spiritual master in the line of disciplic succession from the Lord Himself. No one can be a bona fide spiritual master without following this principle of disciplic succession. The Lord is the original spiritual master, and a person in the disciplic succession can convey the message of the Lord as it is to his disciple. No one can be spiritually realized by manufacturing his own process, as is the fashion of the foolish pretenders. The Bhāgavatam (6.3.19) says, dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam: the path of religion is directly enunciated by the Lord. Therefore, mental speculation or dry arguments cannot help lead one to the right path. Nor by independent study of books of knowledge can one progress in spiritual life. One has to approach a bona fide spiritual master to receive the knowledge. Such a spiritual master should be accepted in full surrender, and one should serve the spiritual master like a menial servant, without false prestige. Satisfaction of the self-realized spiritual master is the secret of advancement in spiritual life. Inquiries and submission constitute the proper combination for spiritual understanding. Unless there is submission and service, inquiries from the learned spiritual master will not be effective. One must be able to pass the test of the spiritual master, and when he sees the genuine desire of the disciple, he automatically blesses the disciple with genuine spiritual understanding. In this verse, both blind following and absurd inquiries are condemned. Not only should one hear submissively from the spiritual master, but one must also get a clear understanding from him, in submission and service and inquiries. A bona fide spiritual master is by nature very kind toward the disciple. Therefore when the student is submissive and is always ready to render service, the reciprocation of knowledge and inquiries becomes perfect.

テキスト

yaj jñātvā na punar moham
evaṁ yāsyasi pāṇḍava
yena bhūtāny aśeṣāṇi
drakṣyasy ātmany atho mayi

Synonyms

yat — それを; jñātvā —知れば; na —決して~でない; punaḥ —再び; moham — 幻想へ; evam — このように; yāsyasi — あなたは行くだろう; pāṇḍava —おお、パーンドゥの息子よ; yena —それによって;bhūtāni —生物; aśeṣāṇi —全て; drakṣyasi — あなたは みるだろう; ātmani — スーパーソウルの中に; atha u —言い換えれば; mayi —私の中に

Translation

このようにして悟った魂から真理を知ったならば、君は再び幻想に陥ることはなく、全宇宙の生物はすべて私の一部であり、私の中にあり、私の所有だと知るのだ

Purport

自己の本性を悟った魂、つまり万象の実相を熟知している人から知識を授かった結果は、生きとし生けるものはすべてバガヴァーン、主シュリー・クリシュナの一部であるという真理を悟ることです。クリシュナから分離した感じ、これをマーヤーといいます(マーは非。ヤーは、これ)。クリシュナは歴史上の偉人であって、自分たちとは関係がない、絶対者というのは、人物ではない無相のブラフマンだ、と考えている人々がいます。本当は、バガヴァッド・ギーターに書いてあるように、非人格のブラフマンはクリシュナ自身の光輝なのです。そしてこのバガヴァーン・クリシュナが宇宙万象の本源なのです。『ブラフマ・サンヒター』には、クリシュナはバガヴァーンであって、すべての原因のそのまた原因である、と明確に述べられています。無数の化身たちは彼の多様な分身です。同様に一般生命体もまた、クリシュナの分身です。マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、無数に増殖し分身するとクリシュナはもとのままのクリシュナではなくなる、という誤った考えをしています。これはまさに物質的思考です。一つの物体を細かく分割してしまうと、もとの物体ではなくなります。これは私たちが物質世界で経験していることです。しかし、マーヤーヴァーディーの哲学者は、“絶対”とはどういうものか理解していません。絶対世界では、1+1=1であり、1-1も、=1なのです。

絶対学についての知識が不足しているために、私たちは妄想の雲に覆われて、その結果、クリシュナと分離しているように感じています。私たちはクリシュナの部分ではありますが、といってクリシュナと別のものではありません。不異なのです。生物それぞれの肉体の相違は、マーヤーです。私たちは皆すべて、クリシュナを満足させるために存在しています。アルジュナが、“身内”と称する一時的な肉体的関係を、クリシュナとの永遠な精神的関係より重要に思うのは、ひとえにマーヤーのせいです。ギーターのなかのすべての教えは、実にこの点を目標としています。生物は、主の永遠の召使として、決してクリシュナから離れることはできないのに、クリシュナとは関係ない何か別の存在だと感じています。この感覚をマーヤーというのです。生物は至上者から割り当てられた部分として、満たすべき目的をもっています。だがその目的を忘れてしまって、太古このかた人類とか動物とか神々など、違った肉体をとって存在してきました。この肉体的相違は、主への奉仕を忘れたことから起きたのです。しかし、クリシュナ意識による超越的奉仕に従ったならば、その人は直ちに、この幻覚妄想を払い去ることができます。こうした純正な知識を授けてくれるのは、正統なグルだけであり、これによって私たちは、生物がすなわちクリシュナだとか、神は我なり、とかいう幻想を打ち砕くことができます。スーパーソウル、クリシュナは全生物にとって無上の保護者であり彼の保護を離れると、生物はたちまち物質エネルギーに幻惑されて、自分はクリシュナとは無関係の存在だと妄想するようになります。これが完全な知識です。肉体や物質に対する執着の程度によってクリシュナを忘れている度合いにも強弱があります。ですがいずれにしてもこうした幻覚状態にある生物がひとたびクリシュナ意識に目覚めると、その場で直ちに真の自由が約束されます。『バーガヴァタム』にも次のようにはっきりと書いてあります。クリシュナの永遠の僕という自己の本来の位置に安住すること(クリシュナ意識)、これが解脱です。

テキスト

api ced asi pāpebhyaḥ
sarvebhyaḥ pāpa-kṛt-tamaḥ
sarvaṁ jñāna-plavenaiva
vṛjinaṁ santariṣyasi

Synonyms

api — たとえ~でも; cet —たとえ; asi — あなたは~である; pāpebhyaḥ —罪人のうちで;sarvebhyaḥ —全ての; pāpa-kṛt-tamaḥ —極重の罪人;sarvam — そのようなあらゆる罪の反動; jñāna-plavena —超越的知識の舟によって; eva —確かに; vṛjinam—不幸の大海; santariṣyasi — あなたは完全に渡りきるだろう

Translation

たとえ君が極重の罪人だとしてもこの超越的知識の舟に乗ったならば苦痛と不幸の大海を難なく渡り越えてゆくことができよう

Purport

クリシュナとの関係における自己の本来の位置を正しく理解することは、私たちにとって無上の益です。なぜならそれによって即座に生存のためにもがき戦っている無明の大海からひきあげられるのですから。この物質世界は、“無明(無知)の大海”とか、“火災の森”とか呼ばれています。この大海の中では、どんな泳ぎの名手でも、生存のための闘いはまことに苦しいのです。アプアプもがいている泳者を、舟の上に救い上げてくれる人があったら、それこそ偉大な救世主です。バガヴァーンから授けられた完全な知識こそ、解脱の道です。そしてクリシュナ意識の舟は途方もなく崇高壮麗で、しかも実に乗り易くまた安全の極致なのです。

テキスト

yathaidhāṁsi samiddho ’gnir
bhasma-sāt kurute ’rjuna
jñānāgniḥ sarva-karmāṇi
bhasma-sāt kurute tathā

Synonyms

yathā — ちょうど~のように; edhāḿsi —薪; samiddhaḥ —燃え盛る;agniḥ —火; bhasma-sāt —灰に; kurute —変える; arjuna —おお、アルジュナ; jñāna-agniḥ —知識の火;sarva-karmāṇi —物質活動の反動;bhasma-sāt — 灰に; kurute — 変える; tathā —同様に

Translation

アルジュナよ、燃えさかる炎が薪を焼き尽くして灰にするようにあらゆる物質的行為のカルマはことごとく智慧の火によって燃え尽き灰となる

Purport

自己とは何か。スーパーソウルとは何か。そしてこの二つの関係についての完全な知識を、ここでは火にたとえています。この火は、よくない行為のカルマを焼き尽くすばかりでなく、良い行為のカルマも同じように焼き尽くして灰にしてしまいます。カルマはさまざまな段階があります。それを実のなる樹に例えると、まず、種をまいて木が成長しつつある段階。実を結びつつある段階。すっかり実が成熟してしまった段階。それから、前世から受け継いだカルマ。しかし、生物本来の位置、簡単に言えば、自分とは何か、についての知識は、これらのすべてを焼却して灰にします。人がこの完全なる知識に達したならば、先天的なカルマも後天的なカルマもすべてその知識の火によって焼き尽くされてしまうのです。ヴェーダにはこう書いてあります。「その人は浄と不浄の、双方のカルマ超克する。」

テキスト

na hi jñānena sadṛśaṁ
pavitram iha vidyate
tat svayaṁ yoga-saṁsiddhaḥ
kālenātmani vindati

Synonyms

na —~であるものはない; hi —確かに; jñānena —知識との;sadṛśam — 比較において; pavitram —神聖な; iha — この世界で; vidyate —存在する; tat —それ; svayam —彼自身;yoga — 献身で; saḿsiddhaḥ — 完成した人; kālena— やがて; ātmani — 彼自身の中で; vindati —楽しむ

Translation

超越知識こそこの世における最も崇高にして純粋なるものそしてすべての神秘の結実でありこれを献身奉仕で達成した人は知識を内で楽しむ

Purport

超越的知識という場合、私たちは精神的な英知、理解力のことを言っています。これこそ、この世で最も尊いもの、神聖なものです。無明無知こそ、すべての苦悩、束縛の原因であり、知識こそ自由の原因です。知識の実は献身奉仕によって円熟します。そしてこの超越知識の上に定住している人は、“救い”や“平和”を外部のどこにも求めません。探しません。自分自身の内なる平和を十分に楽しんでいるからです。言い換えれば、この知識と平安は、クリシュナ意識において頂点に達するということです。これがギーターの結論なのです。

テキスト

śraddhāvāḻ labhate jñānaṁ
tat-paraḥ saṁyatendriyaḥ
jñānaṁ labdhvā parāṁ śāntim
acireṇādhigacchati

Synonyms

śraddhā-vān — 信仰の篤い人; labhate —獲得する; jñānam —知識; tat-paraḥ — それに非常に執着して; saḿyata —支配された; indriyaḥ —感覚; jñānam —知識labdhvā—獲得して; parām —超越的な; śāntim —平安; acireṇa — すぐに; adhigacchati —到着するlabdhva--having achieved;

Translation

堅く熱心な信仰を持っている人また感覚の欲望を制御する人は無上の知識を得て究極の平安に容易くまたすみやかに到るであろう

Purport

クリシュナ意識に属するこの無上の知識をわがものとするためには、クリシュナに対する堅固な信仰が必須条件です。クリシュナ意識で行動する、ただこれによってのみ最高の自己完成を成就するのだと確信している人を、篤信家と呼びます。この信念は、熱心な献身奉仕と“ハレークリシュナ・ハレークリシュナ・クリシュナクリシュナ・ハレーハレー・ハレーラーマ・ハレーラーマ・ラーマラーマ・ハレーハレー”の唱名によってできあがります。この唱名は人のハートからあらゆる物質汚染を洗い清めてくれます。さらに私たちは感覚的な欲望をコントロールしなければいけません。クリシュナに対して忠実な人とそして感覚を統御している人は、楽に早くクリシュナ意識の知識を獲得することができるのです。

テキスト

ajñaś cāśraddadhānaś ca
saṁśayātmā vinaśyati
nāyaṁ loko ’sti na paro
na sukhaṁ saṁśayātmanaḥ

Synonyms

ajñaḥ — 標準的教典の知識のない愚か者ca — そして; aśraddadhānaḥ —啓示教典に信念を持たない; ca — もまた; saḿśaya —疑いの; ātmā — 人; vinaśyati —後退する; na —決して~でない; ayam — この;lokaḥ —世界において; asti —~がある; na —~でない; paraḥ — 来世において; na — ~でない; sukham —幸福; saḿśaya —疑い; ātmanaḥ — その人の

Translation

だが無知にして信なき者たち啓示による聖典を疑う人々は永久に神の意識に達することはできない疑い深い魂は現世も来世も不幸である

Purport

神の啓示による聖典は数多くありますが、その中でもバガヴァッド・ギーターは最上です。その性情からして動物に近いような人々は、こうした権威ある啓示聖典についての知識もないし、たまたま耳にすることがあっても頭から信用しません。また、これに関する知識があり、その内容をいくらか引用することさえ出来るのに、実際にはその聖典の言葉を信じていない人々もいます。そしてまた、バガヴァッド・ギーターのような聖典を尊信してはいるけれど、バガヴァーン、シュリー・クリシュナを信じ、礼拝することをしない人々がいます。こうした人々は、クリシュナ意識に定着することはできません。彼らは必ず堕落します。信仰心のない人、そして疑い深い人は決して精神的に進歩しません。神と神が啓示した言葉を信じない人は、現世でも来世でも、幸福とは無縁です。したがって人間は、啓示聖典を信頼し、その指針に従って生活しなくてはいけません。そうすれば自然に真理の知識が身についてきます。この知識だけが私たちを二元相対の世界から脱出させてくれます。真の自由を与えてくれます。簡単にいえば、疑い深い人は解脱できないということです。ですから、師弟継承によるすぐれたアーチャーリャ(グル)に付き従っていく必要があります。そうしてこそ、成功は確実となります。

テキスト

yoga-sannyasta-karmāṇaṁ
jñāna-sañchinna-saṁśayam
ātmavantaṁ na karmāṇi
nibadhnanti dhanañ-jaya

Synonyms

yoga —カルマ・ヨーガの献身奉仕によって; sannyasta —放棄した人; karmāṇam —活動の結果;jñāna —知識によって; sañchinna —切る; saḿśayam —疑い; ātma-vantam —自己の中に位置する; na —決して~でない;karmāṇi —活動; nibadhnanti — 縛る; dhanañjaya — おお、富の征服者よ

Translation

果報を求めずに献身奉仕をし超越的知識によって疑いを打ち砕いた人は自己の本性に徹して不動になりカルマに縛られないのだ、富の征服者よ

Purport

主なるバガヴァーン御自身から授けられた通りのギーターの教えに従っている人は、その超越知識のおかげで、あらゆる疑惑を解消することができます。その人は主の一部分として、クリシュナ意識に満たされているのですから、当然の結果として自己の本性を完全に悟っているわけです。そうなれば、カルマに縛られないことは明白です。

テキスト

tasmād ajñāna-sambhūtaṁ
hṛt-sthaṁ jñānāsinātmanaḥ
chittvainaṁ saṁśayaṁ yogam
ātiṣṭhottiṣṭha bhārata

Synonyms

tasmāt — それゆえ; ajñāna-sambhūtam —無知から生じた;hṛt-stham — ハートに位置した; jñāna —知識の;asinā —武器によって; ātmanaḥ —自己の; chittvā —斬りおとす; enam — この; saḿśayam —疑い; yogam —ヨーガに; ātiṣṭha —位置して; uttiṣṭha —立ち上がって戦え;bhārata — おお、バーラタの子孫よ

Translation

バーラタよ、心に浮かぶ疑いと迷いは君の無知が原因で生ずるのださあ、知識の剣でそれを斬り捨てヨーガで武装し立ち上がって戦え

Purport

“無知”はクリシュナ意識の道を進むにつれて薄らいでいきます。そしてクリシュナ意識は、いろいろなタイプの供儀によって目覚めます。神々を祭って供養すること。宇宙の原理を探求すること。独身生活をして身を清浄に保つこと。家庭人として祖先や子孫に対する義務を立派に果たすこと。感覚の欲望をコントロールすること。ヨーガの秘法を実習すること。さまざまな苦行をすること。金品その他の所有物を寄付すること。ヴェーダに学ぶこと。ヴァルナーシュラマ社会制度での役割をはたすこと。これらはすべて、供儀であり、古代から決められている活動です。しかし、すべての活動を通じて、最も重要なことは、自己実現、つまり自己の本性を自分が何者であるかを悟ることです。ですがクリシュナの権威を疑う者は必ず退転します。ですからギーターを始めとして、他の啓示聖典を学ぶには、真正のグルに仕えながら学べ、と、ここで助言しているのです。真正のグルとは、太古の昔から、至上主の教えをそのまま師弟継承して受け伝えてきた正統なグルのことです。ギーターの教えは数百万年前に主が太陽神に教え、その後、この地球世界にに下り伝わってきました。ですから人間はギーターに説かれているとおりの道に従って進まなければなりません。それから、我欲が強くて力や富などを誇張し、他人を道から外らせるような人々に、くれぐれも用心しなくてはいけません。信じて尊ぶべき御方はただひとり主あるのみ、そして主の御活動は人知を越えたものです。このことがわかる人はギーターを学び始めたときすでに解脱しているのです。

以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第四章“超越的知識”に関するバクティヴェーダンタの解脱は終了。