節
訳語
翻訳
解説
第2章
神性・神聖な奉仕
節
vyāsa uvāca
iti sampraśna-saṁhṛṣṭo
viprāṇāṁ raumaharṣaṇiḥ
pratipūjya vacas teṣāṁ
pravaktum upacakrame
iti sampraśna-saṁhṛṣṭo
viprāṇāṁ raumaharṣaṇiḥ
pratipūjya vacas teṣāṁ
pravaktum upacakrame
訳語
vyāsaḥ uvāca—ヴィヤーサが言った; iti—そのように; sampraśna—完全な質問; saṃhṛṣṭaḥ—完璧に満足して; viprāṇām—その場の聖者たちの; raumaharṣaṇiḥ—ローマハルシャナの子、すなわちウグラシュラヴァー; pratipūjya—彼らに感謝したあと; vacaḥ—言葉; teṣām—彼らの; pravaktum—彼らに答えるために; upacakrame—試みた。
翻訳
ローマハルシャナの子、すなわちウグラシュラヴァー[スータ・ゴースヴァーミー]は、ブラーフマナたちの完璧な質問に心から満足し、感謝した後、彼らに答え始めた。
解説
スータ・ゴースヴァーミーは、ナイミシャーラニヤの聖者たちから受けた6つの質問にひとつずつ答えていきます。
節
sūta uvāca
yaṁ pravrajantam anupetam apeta-kṛtyaṁ
dvaipāyano viraha-kātara ājuhāva
putreti tan-mayatayā taravo ’bhinedus
taṁ sarva-bhūta-hṛdayaṁ munim ānato ’smi
yaṁ pravrajantam anupetam apeta-kṛtyaṁ
dvaipāyano viraha-kātara ājuhāva
putreti tan-mayatayā taravo ’bhinedus
taṁ sarva-bhūta-hṛdayaṁ munim ānato ’smi
訳語
sūtaḥ—スータ・ゴースヴァーミー; uvāca—言った; yam—~の者に; pravrajantam—放棄階級のために去ろうとしているとき; anupetam—神聖な糸による再生の儀式を受けることなく; apeta—儀式を受けることなく; kṛtyam—規定義務; dvaipāyanaḥ—ヴィヤーサデーヴァ; viraha—別れ; kātaraḥ—~を恐れて; ājuhāva—叫んだ; putra iti—我が子よ; tat-mayatayā—そのように心を奪われて; taravaḥ—全ての木々; abhineduḥ—応えた; tam—彼に; sarva—全ての; bhūta—生命体; hṛdayam—心; munim—聖者; ānataḥ asmi—お辞儀をした。
翻訳
シュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーが言った:私は、全ての人々の心に入ることのできる偉大な聖者[シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー]に敬意を捧げる。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが放棄階級[サンニヤーサ]の生活をするために、聖なる糸を授かる儀式や上流階級が行う儀式もせずに出家しようとしたとき、父ヴィヤーサデーヴァは別れを恐れ、『我が子よ!』と叫んだ。まさに、同じ別れの悲しみを感じていた木々たちだけが、悲嘆に暮れていた父に応えてこだまするばかりだった。
解説
ヴァルナとアーシュラマの制度は、従おうとする者たちが守るべき数多くの規定義務を定めています。それらの義務は、ヴェーダの研究を望んでいる志願者は必ず正しい精神指導者に近づき、自分を弟子にしてもらうよう願い出なくてならない、と命じています。聖なる糸は、アーチャーリャ、すなわち正しい精神指導者からヴェーダを学ぶ資格がある人々の印です。シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、誕生した瞬間から解脱した魂であるため、そのような浄化の儀式を受けませんでした。
ほとんどの場合、人は普通の生物として生まれ、浄化手段を受け入れることで2回目の誕生を遂げます。新しい光を見い出し、精神的に高められる方向を求めるとき、ヴェーダの教えを授かるために精神指導者に近づこうとします。精神指導者は、誠実な心で尋ねる者だけを弟子にし、聖なる糸を授けます。そのようにして、人は再生者、すなわちドヴィジャになります。ドヴィジャの資格を得たあと、ヴェーダを学ぶことができるようになり、ヴェーダの節に精通するようになった人がヴィプラになります。ヴィプラ、すなわち資格を備えたブラーフマナは、こうして絶対者を悟り、精神生活をさらに進んで、やがてヴァイシュナヴァの段階に高められます。ヴァイシュナヴァの段階は、ブラーフマナにとっての大学院だと言えます。向上心に燃えるブラーフマナは必ずヴァイシュナヴァになるべきです。ヴァイシュナヴァは自己を悟った博学なブラーフマナなのですから。
シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはヴァイシュナヴァとして生まれた人物です。ですから、ヴァルナーシュラマ制度の手順全てを踏む必要はありませんでした。最終的に、ヴァルナーシュラマ・ダルマの目的は、未熟な人を主の純粋な献身者、つまりヴァイシュナヴァに変えることにあります。ですから、ウッタマ・アディカーリー、すなわち一流のヴァイシュナヴァに認められたヴァイシュナヴァは、誕生や過去の行為がどうであれ、すでにブラーフマナとして迎えられていたのです。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブはこの原則を受け入れ、イスラム教の家庭に生まれたシュリーラ・ハリダーサ・タークラを聖なる名前のアーチャーリャとして認めました。結論として、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはヴァイシュナヴァとして誕生し、ゆえにブラフマンとしての資質をすでに備えていたということです。どのような儀式も受ける必要はなかったのです。キラータ、フーナ、アーンドラ、プリンダ、プルカシャ、アービーラ、シュンバ、ヤヴァナ、カサ、あるいはそれ以下の人類など、どれほど下等な人間であっても、ヴァイシュナヴァの慈悲を授かって最も気高い超越的な位置に高められるのです。シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはシュリー・スータ・ゴースヴァーミーの精神指導者です。ですから、ナイミシャーラニヤの聖者たちの質問に答える前に、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尊敬の礼を捧げたのでした。
節
yaḥ svānubhāvam akhila-śruti-sāram ekam
adhyātma-dīpam atititīrṣatāṁ tamo ’ndham
saṁsāriṇāṁ karuṇayāha purāṇa-guhyaṁ
taṁ vyāsa-sūnum upayāmi guruṁ munīnām
adhyātma-dīpam atititīrṣatāṁ tamo ’ndham
saṁsāriṇāṁ karuṇayāha purāṇa-guhyaṁ
taṁ vyāsa-sūnum upayāmi guruṁ munīnām
訳語
yaḥ—彼は; sva-anubhāvam—自ら理解している(経験豊かな); akhila—全体的に; śruti—諸ヴェーダ; sāram—真髄; ekam—唯一の人物; adhyātma—超越的な; dīpam—たいまつの明かり; atititīrṣatām—克服することを望んで; tamaḥ andham—非常に暗い物質的な存在; saṃsāriṇām—物質主義的な人間の; karuṇayā—いわれのない慈悲心から; āha —言った; purāṇa—ヴェーダの補足; guhyam—非常に内密な; tam—彼に; vyāsa-sūnum—ヴィヤーサデーヴァの子; upayāmi—私の敬意を表する; gurum—師; munīnām—偉大な聖者たちの。
翻訳
ヴィヤーサデーヴァの子、全ての聖者の師である人物[シュカ]に、私は敬意を捧げる。彼は、物質存在という暗闇の世界から脱け出そうともがいている愚かな物質主義者を深く哀れみ、ヴェーダ知識の真髄を自ら体験することで完全に理解した後、その真髄に関して極めて秘奥なこの補足的知識を語った。
解説
シュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーは、この祈りの節を通して『シュリーマド・バーガヴァタム』の完全な序章を要約しています。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、『ヴェーダンタ・スートラ』に対する元来の補足的な注釈書です。『ヴェーダンタ・スートラ』、あるいは『ブラフマ・スートラ』は、ヴェーダ知識の真髄を示すためにヴィヤーサデーヴァが編集したものです。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、この真髄に関する本来の注釈書です。シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは『ヴェーダンタ・スートラ』を完全に悟った教師であり、ゆえにその注釈書である『シュリーマド・バーガヴァタム』も悟っています。そして、無知を完全に克服したいと願う迷える物質主義者たちに尽きることのない慈悲を示すために、この秘奥な知識を初めて復唱しました。
物質主義の人間が幸福になれるかどうかは、論じるまでもありません。物質的な生物は、ブラフマーであろうと小さな蟻であろうと幸福にはなれません。誰でも幸福になろうといつまでも計画を立てていますが、ひとり残らず、物質自然界の法則のために挫折しています。ですから、物中心の世界は神の創造界の最も暗い部分であると言われています。しかし、不幸な物質主義者であっても、抜け出したいと願うだけでそれは叶います。ところが、残念なことに愚かな彼らは逃げ出したいとも思いません。そのことから、彼らはトゲのある枝を味わうラクダに例えられます。ラクダは血と混ざった枝を好物にしていますが、味わっているのは自分の血であり、舌がそのトゲで切られていることを知りません。同じように、物質的な人は自分の血をまるで蜂蜜のように甘く感じており、自分で作り出した物事にいつも苦しめられているのに、そんな状態から逃れたいと思いません。そのような物質主義者をカルミーといいます。無数のカルミーの中で、一握りの人だけが物質的な生活に疲れ、その迷路から逃れることを望みます。その知的な人をジュニャーニーといいます。『ヴェーダンタ・スートラ』はそのジュニャーニーのために用意されています。しかし、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは至高主の化身であることから、『ヴェーダンタ・スートラ』がよこしまな者たちに誤用されることを予見できたため、『ヴェーダンタ・スートラ』を『バーガヴァタ・プラーナ』で補足しました。このバーガヴァタムは『ブラフマ・スートラ』に関する最初の注釈書であると明言されています。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、バーガヴァタムを、超越的な解脱の境地にあった、自らの子であるシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーにも教えました。シュリーラ・シュカデーヴァは内容を悟り、そして説明しました。シュリーラ・シュカデーヴァの慈悲ゆえに、『バーガヴァタ・ヴェーダーンタ・スートラ』は、物質存在から脱出したいと願う真剣な魂が読むことができるようになったのです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』は『ヴェーダンタ・スートラ』に関する他の追随を許さない注釈書です。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは意図的に『ヴェーダンタ・スートラ』に関わりませんでしたが、それはすでに存在する最適な注釈書を超えることはできないと知っていたからです。彼は自著『シャーリーラカ・バーシャ』を書き、彼のいわゆる従者たちはバーガヴァタムを何か「新しい」解説書として軽んじました。私たちは、マーヤーヴァーダ学派によるバーガヴァタムを敵視する説法に惑わされてはなりません。初心の生徒はこの導入となるシュローカから、『シュリーマド・バーガヴァタム』はパラマハンサのためにある唯一の超越的な文献であることを、そして悪意と呼ばれる物質的な病に無縁な文献であることを知らなくてはなりません。マーヤーヴァーディーは、シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャがナーラーヤナを至高主として認め、また物質創造界を超えたお方であることを認めているにもかかわらず、至高主を妬んでいます。妬み深いマーヤーヴァーディーはバーガヴァタムの世界に入ることはできませんが、物質存在から出たいと望む人は、解脱したシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって語られたこのバーガヴァタムに保護を求めることができます。この書物は、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンとして悟られる、超越的な絶対真理を見ることを可能にする光明なのです。
節
nārāyaṇaṁ namaskṛtya
naraṁ caiva narottamam
devīṁ sarasvatīṁ vyāsaṁ
tato jayam udīrayet
naraṁ caiva narottamam
devīṁ sarasvatīṁ vyāsaṁ
tato jayam udīrayet
訳語
nārāyaṇam—人格神; namaḥ-kṛtya—敬意を捧げた後; naram ca eva—そしてナーラーヤナ・リシ; nara-uttamam—超人的な人間; devīm—女神; sarasvatīm—学問の女神; vyāsam—ヴィヤーサデーヴァ; tataḥ—その後; jayam—克服するための全てのこと; udīrayet—告げられる。
翻訳
克服する手段そのものである『シュリーマド・バーガヴァタム』を語る前に、人格主神ナーラーヤナに、超人的な人間であるナラ・ナーラーヤナ・リシに、学問の女神である母なるサラスヴァティーに、そして著者シュリーラ・ヴャーサデーヴァに敬意を捧げなくてはならない。
解説
全てのヴェーダ経典と各プラーナは、物質存在の暗黒の領域を克服するためにあります。物質界の生命体は、太古の昔からあまりにも利己的な感覚を満たすことにとらわれているために、神との絆を忘れている状態にいます。物質界での生存競争に限りはなく、計画を立てるだけで抜け出すことができません。無限に続く生存競争を克服しようと望むならば、神との永遠なる絆を再び築かなくてはならないのです。そして、そのような治療法を実践する気があるのなら、ヴェーダやプラーナのような経典に救いを求めなくてはなりません。愚かな人たちは、プラーナはヴェーダとは関係がない、と言います。しかし、プラーナはヴェーダの補足説明であり、さまざまな種類の人が対象になっています。全ての人間が同じだというわけではありません。徳性に動かされている人もいれば、激性に動かされている人や無知の性質に動かされている人たちもいます。各プラーナは、あらゆる段階の人がその内容を学んで見失った自分の立場を取り戻し、厳しい生存競争を克服できるように分けて編集されています。シュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーはプラーナを吟唱する道を示しました。これは、ヴェーダ経典や各プラーナを人々に広める熱意を持つ人たちが従える方法です。『シュリーマド・バーガヴァタム』は非の打ちどころのないプラーナであり、物質の束縛から永遠に解放されたいと望む人々のために特に用意されています。
節
munayaḥ sādhu pṛṣṭo ’haṁ
bhavadbhir loka-maṅgalam
yat kṛtaḥ kṛṣṇa-sampraśno
yenātmā suprasīdati
bhavadbhir loka-maṅgalam
yat kṛtaḥ kṛṣṇa-sampraśno
yenātmā suprasīdati
訳語
munayaḥ—聖者たちよ; sādhu—これは関連している; pṛṣṭaḥ—尋ねた; aham—私自身; bhavadbhiḥ—あなたたちによって; loka—世界; maṅgalam—福利; yat—なぜなら; kṛtaḥ—する; kṛṣṇa—至高主; sampraśnaḥ—関連した質問; yena—それによって; ātmā—自己; suprasīdati—心から喜んで。
翻訳
聖者たちよ。私はあなたたちの正しい質問を受けた。主クリシュナに関わる質問だからこそ価値があり、そしてそれは世界の幸福と結びついている。このような質問だけが、自己を完全に満たすことができる。
解説
バーガヴァタムを学ぶことで絶対真理が分かる、とこれまで言われているのですから、ナイミシャーラニヤの聖者たちは適切で正しい質問をしていると言えます。至高主で、また絶対真理であるクリシュナに関わる質問だからです。人格神は『バガヴァッド・ギーター』(15−15)で、全てのヴェーダに込められているのは主クリシュナを探求する熱意だけであると言っています。このように、クリシュナに関連する質問はヴェーダにまつわる質問の要点です。
全世界は問答であふれています。鳥も獣も人間たちも、尽きることのない問答を交わして忙しく暮らしています。朝、鳥たちは巣の中で目を覚ました瞬間から夕方になって巣に戻ってくるまで質問と答えで忙しく、人間も、夜熟睡している時間を除いて、いつも質問と答えに明け暮れ、ビジネスパーソンたちは問答を繰り返しながら寸暇を惜しんで働き、裁判所の弁護士たちや学生たちも問答しながら東奔西走し、国会議員も政治家も、新聞社の社長も問答で大忙し。このように、彼らは死ぬまで問答を繰り返しているのですが、心は全く満たされていません。魂の満足は、クリシュナに関わる問答によって得られるものなのです。
クリシュナは私たちにとって最も親密な主人、友人、父親、子ども、あるいは恋愛の相手です。クリシュナを忘れてしまった私たちは、多くの問答の対象を作り出しましたが、そのどれひとつを取っても、私たちを完全に満たしてはくれません。全ては(クリシュナを除き)つかの間の満足を与えてくれるだけです。完全な満足感を味わいたいのであれば、クリシュナに関連した問答を交わさなくてはなりません。質問を受けて答えるという行為なくして、私たちは一瞬たりとも生きていけません。『シュリーマド・バーガヴァタム』はクリシュナに関わる質問と答えを扱っていますから、この崇高な書物について読んだり聞いたりすることで最高の満足を得ることができます。私たちは『シュリーマド・バーガヴァタム』を学び、政治や宗教に関連するあらゆる問題に対する全面的な解決を得なくてはなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』とクリシュナは、全ての物事の核心なのです。
節
sa vai puṁsāṁ paro dharmo
yato bhaktir adhokṣaje
ahaituky apratihatā
yayātmā suprasīdati
yato bhaktir adhokṣaje
ahaituky apratihatā
yayātmā suprasīdati
訳語
saḥ—それ; vai—確かに; puṃsām—人類のために; paraḥ—崇高な; dharmaḥ—職業; yataḥ—それによって; bhaktiḥ—献身奉仕; adhokṣaje—超越性のために; ahaitukī—いわれのない; apratihatā—壊れることのない; yayā—それによって; ātmā—自己; suprasīdati—完全に満たされて。
翻訳
全人類にとっての最高の職業[ダルマ]とは、崇高な主に愛情を込めた献身奉仕をする段階に達するための営みのことである。そのような献身奉仕が自己を完全に満たすためには、不純な動機を持たず、何事にも妨げられずに行われるべきである。
解説
この言葉の中で、シュリー・スータ・ゴースヴァーミーは、ナイミシャーラニヤの聖者たちによる最初の質問に答えています。聖者たちは、啓示経典全体を要約し、そして最重要部分を示すように尋ねました。道を踏み外した人々や一般の人々がそれらを簡単に受け入れられるように、との思いでした。ヴェーダは人類に対して2種類の職業を定めています。ひとつはプラヴリッティ・マールガ、すなわち感覚の楽しみの生涯で、もうひとつは、ニヴリッティ・マールガ、放棄の生涯です。快楽だけの生き方は劣り、至高の原因のために自らを犠牲にする生き方は優れています。生命体の物質界での生活は、真の生活が病に侵された状態です。真の生活とは精神的な存在、すなわちブラフマ・ブータの存在であり、永遠で至福と知識に満たされた生活です。物質存在は一時的で幻に過ぎず、苦しみに満ちています。幸福は一切ありません。人々は苦しみから逃れようとむなしい努力を続け、苦しみの途切れたときが幸福だと勘違いしています。ですから、一時的で、苦しみと幻想に包まれた物質的快楽中心の生き方は劣っています。しかし、至高主への献身奉仕は永遠で幸福感に満たされ、修練する人全てを目覚めた生活に導いてくれるため、優れた質を備えた職業とされています。この生き方は、劣った質に関わることで汚されることがあります。例えば、物質的な利益を得るために献身奉仕をすれば、放棄の道の妨げになることは間違いありません。究極の善のために放棄や自制を養う努力は、病に侵された生活での楽しみよりも確かに優れています。そのような楽しみは、病状を悪化させ、長引かせるだけです。ですから、主への献身奉仕は、純粋無垢、すなわち物質的な楽しみに対する望みが一切ない状態でなくてはなりません。だからこそ、不要な望み、果報的活動、哲学的推論に汚されていない主への献身奉仕という優れた職業を受け入れなくてはなりません。それだけが、主への奉仕という永遠の心の安らぎに私たちを導いてくれるのです。
私たちは意図的にダルマという言葉を職業、と表現しています。それはダルマには「自分の存在を支えるもの」という語源があるからです。生物の存在を支えるのは、自らの行動と至高主、主クリシュナとの永遠なる絆との調和です。クリシュナは生命体の中軸で、全てを魅了する生命体であり、永遠なる姿を持つ他の全生命体の中の永遠な姿であるお方です。どの生命体も、本来の精神的な存在において自分自身の永遠の姿を持っており、クリシュナはそのような彼らにとって永遠の魅力です。クリシュナは完全なる全体であり、他一切はクリシュナの部分体です。その関係は、奉仕をする者と奉仕を受ける者として表現できます。それは超越的で、物質界にある私たちの経験とは完全に区別されるものです。この奉仕者と奉仕を受ける者との関係は、親密な関係における最も心満たされた境地であり、献身奉仕を高めるほどに理解できるようになります。誰もが、たとえ今物質存在に縛られていようとも、主に崇高な愛情奉仕を捧げるべきです。献身奉仕こそが、徐々に私たちに真の生活の手掛かりを与え、この上ない満足感を提供してくれます。
節
vāsudeve bhagavati
bhakti-yogaḥ prayojitaḥ
janayaty āśu vairāgyaṁ
jñānaṁ ca yad ahaitukam
bhakti-yogaḥ prayojitaḥ
janayaty āśu vairāgyaṁ
jñānaṁ ca yad ahaitukam
訳語
vāsudeve — クリシュナに; bhagavati — 人格神に; bhakti-yogaḥ — 献身奉仕との接触; prayojitaḥ — 適応されて; janayati — 作り出す; āśu — すぐに; vairāgyam — 無執着; jñānam — 知識; ca — そして; yat — であるもの; ahaitukam — いわれのない。
翻訳
人格神、シュリー・クリシュナに献身奉仕をすることで、すぐにいわれのない知識を授かり、この世に対して無執着となる。
解説
至高主、シュリー・クリシュナへの献身奉仕は物質的な感情で行われている、と考える人々は、啓示経典が勧めているのは儀式、慈善、苦行、知識、神秘的な力などの、超越的な悟りを得るための方法である、と異議を唱えるかもしれません。バクティ、すなわち主への献身奉仕は、レベルの高い活動ができない者のためにある、と考えているのです。一般的にバクティの崇拝は、シュードラ、ヴァイシャ、それほど知性の高くない女性のためにあるとされています。しかし、それは事実ではありません。バクティ・ヨーガはあらゆる崇高な活動の中の頂点にあり、ゆえに崇高で、たやすくできる手段です。真剣に至高主と結ばれたいと願う純粋な献身者には崇高で、バクティの門口に立つ初心者には簡単な方法です。至高人格神、シュリー・クリシュナとの接点を持つことは偉大な科学であり、シュードラ、ヴァイシャ、女性、あるいは低いシュードラよりもさらに低い人々を含む万民に開かれた方法です。ならば、高尚なブラーフマナや自己を悟った偉大な王たちは言うまでもありません。儀式、慈善、苦行などの他の高度な活動は、純粋で科学的なバクティ・ヨーガを実践すればおのずと付随するものです。
知識と無執着は、超越的な悟りの道にある大切なふたつの原則です。精神的な道は、物質と精神、全ての完璧な知識へと私たちを導き、その完璧な知識を授かれば、物質的な感情に無執着になり、精神的な活動に執着するようになります。知識に乏しい人は、物質的な物事への無執着を、何もしない状態だと考えがちですが、そうではありません。ナイシュカルマとは、良い結果や悪い結果を作り出す行動を取らない、という意味です。否定と言っても、肯定を否定するわけではありません。不必要な事を否定すると言っても、必要なことを否定することにはなりません。同じように、物質的な姿に無執着になっても、本来の姿を否定することにはなりません。バクティによる崇拝は、本来の姿を悟るためにあります。その姿を悟れば否定的な姿はおのずと放棄されるものです。ですから、真実の姿に対して真実の奉仕をしてバクティ・ヨーガを高めていけば、劣った物事に無執着になり、優れた物事に執着するようになります。同じように、バクティの方法は生命体の最も気高い天職ですから、物質的な快楽から離れる道に導いてくれます。それが純粋な献身者の印です。献身者は愚かではありませんし、劣った物事のために働いたり物質的な価値観を持っているわけでもありません。その境地は、机上の空論で達成できるものではありません。全能者の恩恵あってこそ、実現するものです。結論として、純粋な献身者は知識や無執着心などの優れた気質を全て備えているが、知識や無執着心だけではバクティの原則に精通できないのです。バクティは、人類にとって最良の仕事なのです。
節
dharmaḥ svanuṣṭhitaḥ puṁsāṁ
viṣvaksena-kathāsu yaḥ
notpādayed yadi ratiṁ
śrama eva hi kevalam
viṣvaksena-kathāsu yaḥ
notpādayed yadi ratiṁ
śrama eva hi kevalam
訳語
dharmaḥ — 職業; svanuṣṭhitaḥ — 自分の立場の観点から実行される; puṃsām — 人類の; viṣvaksena — 人格神(完全分身); kathāsu — ~の教えにおいて; yaḥ — ~であること; na — ではない; utpādayet — 作り出す; yadi — もし; ratim — 魅力; śramaḥ — 無益な労働; eva — ~にすぎない; hi — 確かに; kevalam — 全体的に。
翻訳
自分の立場に応じて仕事をしても、その活動によって人格神の教えに対する魅力が呼び起こされなければ、それは全くの無益な労働にすぎない。
解説
さまざまな人生観に基づくさまざまな職業があります。肉体を超えたものを見ることのできない感性の乏しい物質主義者は、感覚を超えたものは考えられません。ですから、そのような人の職業上の活動は凝縮された、あるいは拡大された自己中心の活動に限られています。凝縮された自己中心の活動は、自分の肉体周辺が軸になっています。これは下等動物によく見られることです。拡大された自己中心の活動は人間社会に見られる現象であり、肉体の快適さを目的として、その現象は家族、社会、地域社会、国家、世界にまで及びます。これらの単純な物質主義者の上に、心の及ぶ範囲で考えを巡らせる思索者がいて、彼らは詩を詠んだり、哲学に親しんだり、体や心に限った自己中心的な目的を一にして何かの主義を作ったりします。しかし、体と心の上には眠れる魂が存在し、その魂が体から去ってしまえば体と心の自己中心性は跡形なく消え去ってしまいます。それでも、知性に欠ける人々は、精神魂が必要としているものについての情報を全く持っていません。
愚かな人々は魂について何も知らず、また魂が体と心の範囲を超えていることも理解できないため、自分の義務を実行しても心は満たされません。この節では、自己の満足について取り上げています。自己は肉体と微細な心を超えています。体と心を動かしている原動力なのです。眠れる魂が何を必要としているかを知らなければ、体と心を喜ばせても幸福になれません。体と心は、魂を覆っている不要な物質にすぎません。魂が必要としている物事が満たされるべきです。鳥籠をきれいにするだけで鳥を満足させることはできません。鳥に何が必要なのかを知らなくてはならないのです。
魂の望みは、物質の束縛という限られた世界を抜け出して完全な自由をつかむことです。巨大な宇宙を取り囲む壁を突き破り、そして自由の光と世界を見ることを待ち望んでいます。それが魂に必要なことであり、その完全な自由は、完全な魂、すなわち人格神に巡り会うときに初めて達成されます。全ての生物の内に、神への愛情が眠っています。私たち本来の精神的存在は、粗雑な、あるいは微細な物体へのゆがんだ愛着という形で体と心を通して現れます。だからこそ私たちは、神聖な意識を呼び起こす職業を遂行しなくてはなりません。これを可能にする唯一の方法が至高主の崇高な活動について聞いて語ることであり、このような神の超越的な言葉を聞いたり唱えたりすることへの執着心を高めることのない職業上の活動は、この節で時間の無駄であると言われています。なぜなら、どのような職業上の義務でも(それがどのような主義に属していようとも)、魂を解き放つことができないからです。救済活動でさえ、自由を授ける根源の人物を見逃しているため、無価値な活動であると言えます。愚鈍な物質主義者でも、手に入れた物質的な利益が、現世でも別の世界でも時間と空間によって限られていることを目の当たりにできます。彼は、たとえスヴァルガローカに高められても、自分の魂が求め続けている永遠の住まいは見つけられません。魂の永遠の渇望は、完璧な献身奉仕という、完全で科学的な方法によって満たされなくてはならないのです。
節
dharmasya hy āpavargyasya
nārtho ’rthāyopakalpate
nārthasya dharmaikāntasya
kāmo lābhāya hi smṛtaḥ
nārtho ’rthāyopakalpate
nārthasya dharmaikāntasya
kāmo lābhāya hi smṛtaḥ
訳語
dharmasya—職業上の仕事; hi—確かに; āpavargyasya—究極の自由; na—ではない; arthaḥ—終わり; arthāya—物質的利益のために; upakalpate—~のためにある; na—どちらも~でない; arthasya—物質的利益の; dharma-eka-antasya—究極の職業上の奉仕をしている者にとって; kāmaḥ—感覚を満たすこと; lābhāya—~の達成; hi—確かに; smṛtaḥ—偉大な聖者たちによって説明されている。
翻訳
全ての職業上の仕事は、確かに究極の解脱のためにあるもので、決して物質的利益のために為されてはならない。さらに聖者たちは、究極の職業上の奉仕をしている者は、手に入れた物質的な利益を感覚を満たすために使ってはならない、と言っている。
解説
すでに説明したように、主に純粋な献身奉仕をすれば、完璧な知識と物質生活に対する無執着心もおのずと高まります。一方で、さまざまな職業上の仕事全ては、宗教的な仕事も含め、物質的な利益を得るためにあると考える人たちもいます。世界のどこでも、一般人には、宗教や他の職業上の奉仕と交換に物質的利益を得ようとする傾向があります。ヴェーダ経典の中にでさえ、宗教的活動による物質的利益という誘惑の罠が仕掛けられており、ほとんどの人がそのような宗教的な誘惑や祝福に魅了されています。なぜ、宗教に携わる人でさえ物質的な利益に誘惑されるのでしょうか。それは、物質的利益が望みを叶えてくれるからであり、それは結局感覚を満たすことにつながっているからです。職業上の仕事に関わるこのサイクルには、物質的利益を伴う宗教活動、望みの成就を伴う物質的利益が含まれています。感覚を満たす行為は、多種多様な仕事で奔走している人たちの一般的な行動パターンです。しかし、このシュローカにあるスータ・ゴースヴァーミーの言葉によれば、『シュリーマド・バーガヴァタム』の見解と同じく、それは無価値なものとされています。
私たちは、どのような職業上の仕事であっても、物質的利益のためだけに行ってはなりません。また、物質的利益も感覚を満たすために使うべきではありません。物質的利益を活用する方法が、次の節で説明されています。
節
kāmasya nendriya-prītir
lābho jīveta yāvatā
jīvasya tattva-jijñāsā
nārtho yaś ceha karmabhiḥ
lābho jīveta yāvatā
jīvasya tattva-jijñāsā
nārtho yaś ceha karmabhiḥ
訳語
kāmasya—望みの; na—ではない; indriya—諸感覚; prītiḥ—満足; lābhaḥ—利益; jīveta—自己保存; yāvatā—~ほど~である; jīvasya—生命体の; tattva—絶対真理; jijñāsā—質問; na—ではない; arthaḥ—終わり; yaḥ ca iha—他の何物でも; karmabhiḥ—職業上の義務によって。
翻訳
人生の目標を感覚を満たすことに向けてはならない。人間は絶対真理について問うために生きているのだから、健全な生活、あるいは自己を維持するだけの生活を望むべきである。それ以外は、何事であっても、自分の行動の目標にしてはならない。
解説
混乱を極めている物質文明は、感覚満足を叶えるだけの間違った方向に進んでいます。そのような文明では、感覚満足が生活全体の最終的な目標になっています。政治、社会事業、利他的行為、慈善活動、さらには宗教や魂の救済においても、同じように感覚を満たそうとする傾向がますます強くなっています。政界では、各党の指導者たちが自己の個人的感覚を満たすために争っています。有権者はいわゆる指導者と呼ばれている人物を讃えますが、それは自分たちの感覚満足を約束してくれる時だけで、感覚が満たされないとなるとすぐに辞任させます。指導者は有権者の感覚を満たすことができず、いつも有権者を失望させています。これはどの分野にも共通しています。誰も人生の真の問題について真剣に考えていないのです。救いの道を求めている人でさえ絶対真理とひとつになることを望み、感覚満足を求めて精神的な自殺をしています。しかしバーガヴァタムは、感覚満足のために生きてはならない、と教えます。感覚を満たすのは自己の維持に必要とされる程度であり、感覚満足そのものが目的であってはなりません。肉体は感覚でできており、またある程度満たす必要がありますから、所定の規則が用意されています。しかし、感覚は際限なく楽しませるために存在するのではありません。例えば、男女が結婚して共に生活することは子孫のために必要なことですが、感覚の楽しみのためではありません。国民が自ら抑制しないときに産児制限が提唱されたりしますが、愚かな人たちは、絶対真理を求めれば自動的に産児制限につながることを知りません。絶対真理を求める人はいつも真理を探すのに忙しいため、不必要な感覚満足に惑わされることは決してありません。ですから、どのような生活をしていても、究極目標は絶対真理の追究に向けられるべきです。そのように行動する人はさまざまな感覚満足に走る機会が少なくなり、幸せに暮らせるようになります。絶対真理とはどういうものかが、続く節で説明されていきます。
節
vadanti tat tattva-vidas
tattvaṁ yaj jñānam advayam
brahmeti paramātmeti
bhagavān iti śabdyate
tattvaṁ yaj jñānam advayam
brahmeti paramātmeti
bhagavān iti śabdyate
訳語
vadanti—彼らは言う; tat—それ; tattva-vidaḥ—博学な魂たち; tattvam—絶対真理; yat—であるもの; jñānam—知識; advayam—非二元性; brahma iti—ブラフマンとして知られている; paramātmā iti—パラマートマーとして知られている; bhagavān iti—バガヴァーンとして知られている; śabdyate—そのように発音された。
翻訳
絶対真理を知る博学な超越主義者たちは、二元性のないこの根源をブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンと呼ぶ。
解説
絶対真理は主体と客体の両方であり、その間に質の違いはありません。ですから、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンは質的に全く同じです。同じ根源が、ウパニシャッドの生徒にはブラフマンとして、ヒラニヤガルバあるいはヨーギーたちにはパラマートマーとして、そして献身者にはバガヴァーンとして悟られています。言い換えれば、バガヴァーン、すなわち人格神が絶対真理を表現する究極の言葉だということです。パラマートマーは人格神の部分的な現れであり、姿形のないブラフマンは、太陽光線が太陽神からの光であるように、人格神から放出されているまばゆい光です。このふたつの流派に属する知識の不充分な生徒は、自分たちの悟りを盾に論争することがありますが、絶対真理を正しく見る人物は、ひとつの絶対真理にある上記の3つの様相が、3つの角度から見た異なる視点であることをよく知っています。
バーガヴァタムの第1章の最初のシュローカで説明されているように、至高の真理は自ら充実し、全てを認識し、相対性という幻想を超越しているお方です。相対的世界では、知る側と知られる側は異なった存在ですが、絶対真理の内では、両者は同じです。相対的世界では、知る側は命ある魂、つまり上位のエネルギーですが、知られる側は命のない物体、つまり下位のエネルギーです。このために下位と上位という二元性があるのですが、絶対的世界では知る側と知られる側は共に上位エネルギーです。至高のエネルギー源には3種類のエネルギーがあります。エネルギーとエネルギー源の間に違いはありませんが、エネルギーの質が違います。絶対的世界と生命体は共に上位エネルギーですが、物質界は下位のエネルギーです。下位のエネルギーと関わっている生命体は幻惑されており、自分を下位のエネルギーの一部だと考えています。このために、物質界には相対性という観念が存在しています。絶対的世界では、知る側と知られる側が異なるという観念はないため、存在するもの全てが絶対的なのです。
節
tac chraddadhānā munayo
jñāna-vairāgya-yuktayā
paśyanty ātmani cātmānaṁ
bhaktyā śruta-gṛhītayā
jñāna-vairāgya-yuktayā
paśyanty ātmani cātmānaṁ
bhaktyā śruta-gṛhītayā
訳語
tat—それ; śraddadhānāḥ—真剣に知ろうとしている; munayaḥ—聖者たち; jñāna—知識; vairāgya—無執着心; yuktayā—充分に備えている; paśyanti—見る; ātmani—自分自身の中で; ca—そして; ātmānam—パラマートマー; bhaktyā—献身奉仕において; śruta—各ヴェーダ; gṛhītayā—適切に受け入れて。
翻訳
真剣に探求する生徒や聖者は、知識と無執着心を充分に備え、ヴェーダーンタ・シュルティから聞いた理解に基づいて献身奉仕をすることで絶対真理を悟る。
解説
絶対真理は、絶対的な真理そのものである主ヴァースデーヴァ、つまり人格神への献身奉仕という方法で完全に悟ることができます。ブラフマンは主の体から放たれる神々しい光であり、パラマートマーは主の部分的な現れです。ですから、絶対真理のブラフマンとパラマートマーの悟りは部分的な悟りにすぎません。人間は、カルミー、ジュニャーニー、ヨーギー、そして献身者の4種類に分けられます。カルミーは物質主義者ですが、他の3種類は超越的な段階に位置しています。一流の超越主義者は、至高者を悟っている献身者です。二流の超越主義者は、絶対者の完全部分体を部分的に悟っている人々、そして三流の超越主義者は、絶対者の精神的な焦点についてほとんど知らない人々です。『バガヴァッド・ギーター』や他のヴェーダ経典が述べているように、至高者についての悟りは、充分な知識と物質的な物事への無執着心に支えられた献身奉仕によって得ることができます。すでに説明したように、献身奉仕をすることで知識や物質的なものへの無執着心もおのずと育まれます。ブラフマンとパラマートマーの悟りは絶対真理の不完全な悟りですから、ブラフマンとパラマートマーを悟る方法、すなわちジュニャーナとヨーガは、絶対真理を悟る上での不完全な方法と言えます。物質的な物事に対する無執着心と知識が一体となり、またヴェーダーンタ・シュルティを耳で聞き入れることで確立される献身奉仕は、真剣に道を求める生徒が絶対真理を理解できる唯一の完璧な方法です。ですから献身奉仕は、充分な知性を持たない超越主義者のためのものではありません。献身者にも一流、二流、三流の段階があります。三流の献身者、つまり初心者で、知識も不充分で、物質的な物事への関わりを捨て切れず、単に寺院で神像を崇拝する初期段階の方法に惹かれている人は、物質的な献身者と呼ばれています。物質的な献身者は、超越的な利益よりも物質的な利益に心が奪われています。ですから、物質的な献身奉仕の段階から二流の献身奉仕へと自らを確実に高めなくてはなりません。二流の献身者は、奉仕をする上での4つの原則である人格神、主の献身者、無知な人々、妬む人々、を判別することができます。私たちは、少なくとも二流の段階にまで自らを高め、絶対真理を知る資格を得なくてはなりません。
ですから三流の献身者は、バーガヴァタという由緒正しい源から献身奉仕に関わる教えを授かる必要があります。第一のバーガヴァタは純粋な献身者として確立された人物で、別のバーガヴァタムは人格神の言葉です。このため三流の献身者は、献身奉仕の教えを学ぶために献身者のもとへ行かなくてはなりません。献身者とは、バーガヴァタムを商売にして生計を立てているような吟唱家のことではありません。スータ・ゴースヴァーミーのように、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの代表者で、また万民のあらゆる面での恩恵のために献身奉仕の教えを説いている人物を指します。初心の献身者は、由緒正しい人物から教えを聞いても、その言葉に味わいを見出すことはできません。彼らは、自分の感覚を満足させようと、職業吟唱家の話を聞いて献身者のふりをします。このような聞き方は全てを台無しにしてしまうので、間違った方法には用心しなくてはなりません。『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』が繰り返し言及しているように、神の崇高な言葉はもちろん超越的ですが、ヘビの舌に触れたミルクが汚されるという例があるのですから、職業吟唱家が話す超越的な話題に耳を傾けるべきではありません。
このように、誠実な献身者は自らを高めるために、ウパニシャッドやヴェーダーンタ、また先代の権威者やゴースヴァーミーが残した他の書物のようなヴェーダ経典を学ぶ心構えが必要です。そのような文献の言葉に耳を傾けなければ、確かな発達を遂げることはできません。また、その教えを聞いて従わなければ、見せかけの献身奉仕は結局は名ばかりで、献身奉仕の道の妨げになるだけです。ですから、シュルティ、スムリティ、プラーナや、パンチャラートラの原則に立脚していない献身奉仕は、外見だけの献身奉仕としてすぐに拒絶すべきです。正しい権限のない献身者を純粋な献身者と見なしてはなりません。ヴェーダ経典の教えを正しく理解すれば、人格神が局所的な姿として自分の内に常に存在していることが理解できるようになります。その境地をサマーディといいます。
節
ataḥ pumbhir dvija-śreṣṭhā
varṇāśrama-vibhāgaśaḥ
svanuṣṭhitasya dharmasya
saṁsiddhir hari-toṣaṇam
varṇāśrama-vibhāgaśaḥ
svanuṣṭhitasya dharmasya
saṁsiddhir hari-toṣaṇam
訳語
ataḥ—そのように; pumbhiḥ—人によって; dvija-śreṣṭhāḥ—再誕者の中で最も優れた者たちよ; varṇa-āśrama—4つの階級と4つの地位の制度; vibhāgaśaḥ—その区分によって; svanuṣṭhitasya—自分自身の規定された義務の; dharmasya—職業上の; saṃsiddhiḥ—最高完成; hari—人格神; toṣaṇam—喜ばしい。
翻訳
再誕者の中で最も優れた者たちよ。ゆえに結論として言えることは、社会階級と生活区分にふさわしい職業上の義務を遂行して得られる最高の完成は、人格神を喜ばせるということである。
解説
世界のどこであっても、人間社会は4つの階級と4つの地位に区分されています。4つの階級とは、知的階級、軍人階級、生産者階級、労働者階級のことで、これは家系ではなく、労働内容や気質で分類されます。次に、4つの生活段階、すなわち学生生活、世帯者生活、退職生活、献身生活があります。社会に最善の利益をもたらすためにも、この生活区分は欠かせません。この区分がなければ、社会の機構は秩序正しく発展できません。そしてどの区分の目的も、人格神という最高の権威者を喜ばせることでなくてはなりません。この区分制度はヴァルナーシュラマ・ダルマとして知られており、文化的な生活にふさわしい制度です。ヴァルナーシュラマ制度は、絶対真理を悟ることができるように作られています。ある階級が別の階級を支配するという不自然な制度ではありません。絶対真理を悟るという人生の目標がインドリヤ・プリーティ、すなわち感覚満足への過度の執着によって見失われると、先に説明したように、ヴァルナーシュラマ制度は、弱い立場の階級を力ずくで支配しようとする利己的な者たちに悪用されることがあります。カリ・ユガという争いの時代ではすでにこの間違った支配が横行していますが、良識ある人々は、カーストや地位という区分は社会全体の円滑な交流のために、そして高尚な考えに基づく自己の悟りのために用意されており、それ以外の目的はないことをよく知っています。
この節で言われていることは、人生の最高の目標、あるいはヴァルナーシュラマ・ダルマ制度の最高完成は、至高主の満足のために万民一丸となって協力する、ということです。これは、『バガヴァッド・ギーター』(4−13)でも確証されていることです。
節
tasmād ekena manasā
bhagavān sātvatāṁ patiḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
dhyeyaḥ pūjyaś ca nityadā
bhagavān sātvatāṁ patiḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
dhyeyaḥ pūjyaś ca nityadā
訳語
tasmāt — ゆえに; ekena — 一点に定めることで; manasā — 心を集中させ; bhagavān — 人格神; sātvatām — 献身者たちの; patiḥ — 守る方; śrotavyaḥ — 聞かれるべきである; kīrtitavyaḥ — 讃えられること; ca — そして; dhyeyaḥ — 思い出されること; pūjyaḥ — 崇拝されること; ca — そして; nityadā — 絶えず。
翻訳
ゆえに私たちは、献身者の保護者である人格神について一心不乱に絶えず聞き、讃え、思い、崇拝しなくてはならない。
解説
絶対真理を悟ることが人生の究極目標であるならば、それは何としてでも実現させなくてはなりません。讃えること、聞くこと、覚えていること、崇拝すること、というこの4つの手段は、先に挙げたどの階級や地位においても共通する務めです。この原則に従わなければ、誰も生き続けることはできません。生命体の活動には、この4つの生活原則に基づく活動が含まれています。特に現代社会では、ほとんどの活動が聞くことと讃えることに支えられています。どのような地位のどのような人でも、新聞で讃えられれば、その内容の正否にかかわらず一夜にして有名人になります。政党の指導者が新聞の宣伝を通して讃えられ、並の政治家がたちまち重要人物に祭りあげられたりします。しかし、称賛に値しない人間を虚飾の宣伝で持ち上げても、その人物にとっても社会にとっても有意義な結果は得られません。そのような宣伝でその場限りの反応はあるかもしれませんが、永続的な結果は生まれません。時間を無駄にしているだけです。称賛に値する真の相手は、万物を私たちの前に具現させた至高人格神です。この事実についてはこのバーガヴァタムの最初のシュローカ、「ジャンマーディ アッシャ」からあまねく言明されました。人を讃え、人の話を聞こうとする姿勢は、称賛に値する真の対象、すなわち至高の存在に向けられなくてはなりません。その心構えが私たちに真の幸福をもたらすのです。
節
yad-anudhyāsinā yuktāḥ
karma-granthi-nibandhanam
chindanti kovidās tasya
ko na kuryāt kathā-ratim
karma-granthi-nibandhanam
chindanti kovidās tasya
ko na kuryāt kathā-ratim
訳語
yat—であるもの; anudhyā—記憶; asinā—剣; yuktāḥ—~を身につけて; karma—反動的活動; granthi—結び目; nibandhanam—組み合わせる; chindanti—切る; kovidāḥ —知性; tasya—主の; kaḥ—誰; na—ではない; kuryāt—しようとする; kathā —教え; ratim—注意。
翻訳
聡明な人物は、手に剣を持ち、主を思い続けながら結果を生じる活動 [カルマ] という束縛の結び目を切り離す。ならば、主の教えに耳を傾けない者がいるだろうか。
解説
精神的な火花が物質と接触すると、結び目が作られます。果報的活動に伴う行動とその反動から解放されたいと願う人は、その結び目を切り離さなくてはなりません。解脱とは、結果となって生じた活動の連鎖に束縛されない状態のことです。この状態は、人格神の超越的な娯楽を常に覚えている人には、おのずから付随するものです。至高主の活動(主の遊戯)は全て、物質エネルギーの様相を超越しているからです。それらは、全てを魅了してやまない神々しい営みですから、至高主の精神的な遊戯とのふれあいは、束縛された魂を次第に精神的に高め、やがて物質的な束縛という結び目を切り捨ててくれます。
ですから、物質的束縛からの解放は献身奉仕の副産物と言えます。精神的な知識は解脱の獲得に充分ではありません。そのような精神的知識を献身奉仕で包む必要があります。そうすることで最終的に献身奉仕だけが正道として残り、その結果として解脱が達成されます。物質的成果を求めて働いている人の結果を生じる活動さえも、献身奉仕を取り入れることで解脱につながることがあります。献身奉仕と融合したカルマをカルマ・ヨーガ、献身奉仕と融合した経験的知識をジュニャーナ・ヨーガと言います。しかし、純粋なバクティ・ヨーガはそのようなカルマやジュニャーナから独立しています。なぜなら、純粋なバクティ・ヨーガだけで、束縛された生活からの自由はもとより、主への超越的な愛情奉仕も手に入れられるからです。
ですから、知識に乏しい一般人に優る賢明な人は、主について聞き、主を讃え、主を思い、いつでも、絶え間なく主を崇拝することで、主を思い続けなくてはなりません。それが完璧な献身奉仕の方法です。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブにバクティ・ヨーガの伝播を任されたヴリンダーヴァナのゴースヴァーミーたちは、この方法に厳格に従い、私たちのために超越的な科学に満ちた文献を数多く残して下さいました。『シュリーマド・バーガヴァタム』や他の由緒正しい経典の教えに基づいて、社会のあらゆる階級と段階の人々が歩むべき道を示してくれたのです。
節
śuśrūṣoḥ śraddadhānasya
vāsudeva-kathā-ruciḥ
syān mahat-sevayā viprāḥ
puṇya-tīrtha-niṣevaṇāt
vāsudeva-kathā-ruciḥ
syān mahat-sevayā viprāḥ
puṇya-tīrtha-niṣevaṇāt
訳語
śuśrūṣoḥ—聞く者; śraddadhānasya—細心の注意で; vāsudeva—ヴァースデーヴァについて; kathā —言葉; ruciḥ—親しみ; syāt—可能になる; mahat-sevayā—純粋な献身者に奉仕することで; viprāḥ—再生した者たちよ; puṇya-tīrtha—全ての悪から清められた人物たち; niṣevaṇāt—奉仕によって。
翻訳
再誕の聖者たちよ。邪心を一切持たない献身者に仕えることで、優れた奉仕が達成される。そのような奉仕の結果、ヴァースデーヴァの教えを聞くことに強い親しみを感じるようになる。
解説
私たち生命体が束縛されるようになった原因は、主に対する反抗心です。世界には、神聖な気質を持つデーヴァ、そして至高主の権威に敵対するアスラと呼ばれる邪悪な人間がいます。『バガヴァッド・ギーター』(第16章)にはアスラについて的を射た説明があり、その中には、無知の生活へと転落していく生涯を際限なく繰り返し、低位の動物の姿を取り、絶対真理である人格神に関する情報のかけらもない状態に堕ちていく、と述べられています。このようなアスラたちでも、さまざまな国で主に仕えている解脱した召使の慈悲を授かり、主の意志によって神の意識へと導かれます。そのような献身者は主と極めて親密な関係を持っており、彼らが人間社会を無神論の危険から救うために現れるとき、主の強力な化身、主の子ども、主の召使、主の側近者と呼ばれます。しかしその誰一人として、自分を神と呼ぶような間違った主張をすることはありません。それはアスラが放言する神への冒涜であり、アスラに従う邪悪な人間も、神のふりをする人間を化身として崇めたりします。啓示経典は神の化身を定義していますから、啓示経典によって証明されないような人間を神や神の化身として受け入れてはなりません。
神に仕える人物は、神の元に帰りたいと心から願う献身者から神に匹敵するほどの敬意を受けます。そのような召使はマハートマー、あるいはティールタと呼ばれ、時代や場所にふさわしい布教をします。神の召使いは、主の献身者になるよう人々に訴えかけます。自分が神と呼ばれることには耐えられません。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは啓示経典が説く化身の記述と一致した神自身だったのですが、献身者として振る舞っていました。主チャイタニヤをよく知る人々は、主を神と呼びましたが、その度に主は手で耳をふさぎ、主ヴィシュヌの名前を唱えたものでした。主は正真正銘の神自身でしたが、神と呼ばれることを断固として拒みました。主はそのような振る舞いによって、神と呼ばれて悦に入っている厚顔無恥な者にだまされないよう警告していたのです。
神の召使は神の意識を広めるために降誕しますから、賢明な人なら全面的に彼らと協力すべきです。主の召使に仕えれば、主に直接仕えるよりも主を喜ばせることができます。主は、自分の召使が適切に敬愛されている様子を見る方を好みます。なぜなら、そのような召使は主への奉仕のために全てを注ぎ込んでいるからであり、主にとってはとても愛しい存在なのです。主は『バガヴァッド・ギーター』(18-69)で、身の危険も顧みず主の栄光を広めている人物ほど愛しい者はいない、と宣言しています。主の召使に仕えることで、やがてその召使の気質を受け継ぎ、神の栄光を聞くにふさわしい資格を得るのです。神について聞こうとする熱意こそが、神の王国に入ることのできるための最初の資格です。
節
śṛṇvatāṁ sva-kathāḥ kṛṣṇaḥ
puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ
hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi
vidhunoti suhṛt satām
puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ
hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi
vidhunoti suhṛt satām
訳語
śṛṇvatām—~の言葉を聞く熱意を高めた者たち; sva-kathāḥ—主自身の言葉; kṛṣṇaḥ—人格神; puṇya—美徳; śravaṇa—聞くこと; kīrtanaḥ—唱えること; hṛdi antaḥ sthaḥ —自分の心の中で; hi—確かに; abhadrāṇi—物質を楽しもうとする望み; vidhunoti—洗い流す; suhṛt—恩恵を施す人; satām—誠実な人物の。
翻訳
人格神であるシュリー・クリシュナは全生命の内に住むパラマートマー[至高の魂]であり、誠実な献身者に恩恵を授けるお方である。主の教えは、それ自体が美徳に満ちているが、その美徳は正しく聞き、そして語られるときのみ理解される。主はそのような教えを聞く熱意を高めた献身者の心から、物質的な楽しみに対する欲望を洗い流して下さる。
解説
人格神、シュリー・クリシュナの言葉は、主となんら変わるところがありません。ですから、冒涜する心を持たずに神について聞き、神を讃えるとき、主クリシュナは超越的な音としてその場に存在し、またその音は主自身と同じ力を備えています。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは『シクシャーシュタカ』で、主の聖なる名前は主の力を全て備えており、主自らその無数の名前に力を与えていると述べています。唱える時間帯が厳格に決められているわけではなく、誰でも、都合のいいときに敬意を込めて集中して唱えることができます。主は、超越的な音として私たちの前に自らを現すほど優しいお方ですが、不運なことに、私たちは主の名前や活動を聞いたり讃えたりすることに魅力が感じられません。聖なる名前を聞いて唱える味わいを高めることについては、すでに説明したように、主の純粋な献身者への奉仕という媒体を通して実現されます。
主は、献身者の呼び掛けにじかに反応してくださいます。献身者が主への超越的な奉仕を始めたいと誠心誠意考え、主について真剣に聞こうとする様子を見ると、献身者が主にたやすく近づけるように、内側から働き掛けてくれます。主は、主の国に帰ろうとする私たちの思いよりも、もっと強く私たちを帰してあげたいと思っています。神の元に帰りたいと願うのは一握りの人だけで、ほとんどの人はそのようなことを考えません。しかし、そう願う人を、シュリー・クリシュナはあらゆる方面で助けようとします。
神の国に入ることができるのは、罪を全て洗い清めた人物に限られます。物質的な罪は、物質自然界を支配しようとする願望から生じますが、そのような望みを捨てることは困難を極めます。神の元に帰ろうとする献身者にとって、女性と財産は前途に立ちはだかる大きな障害です。献身奉仕に励んでいた意志の強固な人物さえ、その誘惑に負け、解脱の道から撤退することがありました。しかし主が自ら手を差し伸べられた時には、主の神聖な恩恵に支えられて、神の元へと帰る道はたやすいものとなります。
女性や財産と関わることによって心が乱されることは、特に驚くべきことではありません。全ての生命体がそのような物事と以前から、いや太古の昔から関わっているからであり、私たちとは本来無縁のこのような状態から立ち直るには時間がかかるものです。しかし、主の栄光を聞く努力を続けていれば、やがて自分本来の立場に目覚めるようになります。神の恩恵を得たそのような献身者は、混乱状態から身を守るための充分な力を授かり、発達を阻害するあらゆる要素が着実に心から洗い流されるのです。
節
naṣṭa-prāyeṣv abhadreṣu
nityaṁ bhāgavata-sevayā
bhagavaty uttama-śloke
bhaktir bhavati naiṣṭhikī
nityaṁ bhāgavata-sevayā
bhagavaty uttama-śloke
bhaktir bhavati naiṣṭhikī
訳語
naṣṭa—破壊されて; prāyeṣu—ほとんどゼロまで; abhadreṣu—不吉なもの全て; nityam—定期的に; bhāgavata—『シュリーマド・バーガヴァタム』あるいは純粋な献身者; sevayā—仕えることで; bhagavati—人格神に; uttama—超越的な; śloke—祈りの言葉; bhaktiḥ—愛情奉仕; bhavati—作られる; naiṣṭhikī—消すことのできない。
翻訳
定期的にバーガヴァタムの法話に参加し、純粋な献身者に仕えることで、心の中のあらゆる困難がほぼ完璧に根絶され、超越的な詩歌によって讃えられている人格神への愛情奉仕が、不動の事実として心に刻まれる。
解説
これが自己を悟る道の障害となる、心の不吉な物事を根絶する治療法です。バーガヴァタとのふれあいがその治療法です。バーガヴァタには二種類、すなわち書物としてのバーガヴァタと献身者としてのバーガヴァタがあります。どちらも優れた治療法であり、両方でも、どちらかひとつでも障害を排除する力を備えています。献身者としてのバーガヴァタは書物としてのバーガヴァタと同じ優れた存在です。なぜなら献身者としてのバーガヴァタは、書物としてのバーガヴァタに従った生活をしているからであり、書物としてのバーガヴァタには人格神の情報、そしてバーガヴァタ自身でもある純粋な献身者たちについて述べられているからです。本であるバーガヴァタと人であるバーガヴァタは全く同じなのです。
献身者であるバーガヴァタは人格神であるバガヴァーンの直接的な代表者です。献身者であるバーガヴァタを満足させられる人は、書物であるバーガヴァタから恩恵を授かることができます。私たちの理性では、献身者であるバーガヴァタや書物であるバーガヴァタに仕えることによって、献身奉仕の道が徐々に進んでいくことが分かりません。しかしこれはシュリーラ・ナーラダデーヴァという、前世で母親が女中であった人物が語っている事実なのです。母親が聖者たちに仕えていたからこそ彼も聖者たちとのふれあいに恵まれました。聖者たちとのふれあいと、また彼らの食べ残しを食べただけで、彼は偉大な献身者シュリーラ・ナーラダデーヴァになる機会を得たのでした。これがバーガヴァタとの交流から生まれる奇跡的な結果です。そしてこれらの結果を正しく理解するには、バーガヴァタとの誠実な交際をする人は超越的な知識をたやすく手に入れ、結果として主に揺るぎない献身奉仕ができるようになる、という点に着目すべきです。バーガヴァタに導かれながら献身奉仕を高めるほどに、私たちは主に崇高で確かな愛情奉仕ができるようになります。ですから、書物であるバーガヴァタのメッセージは、献身者であるバーガヴァタから授からなくてはなりません。このふたつのバーガヴァタの組み合わせによって、初心の献身者は献身奉仕の道を前進することができるのです。
節
tadā rajas-tamo-bhāvāḥ
kāma-lobhādayaś ca ye
ceta etair anāviddhaṁ
sthitaṁ sattve prasīdati
kāma-lobhādayaś ca ye
ceta etair anāviddhaṁ
sthitaṁ sattve prasīdati
訳語
tadā—その時; rajaḥ—激性において; tamaḥ—無知において; bhāvāḥ—その状況; kāma—欲情と望み; lobha—切望; ādayaḥ—その他; ca—そして; ye—それらがなんであろうと; cetaḥ—心; etaiḥ—これらによって; anāviddham—影響されることなく; sthitam—立脚して; sattve—徳性において; prasīdati—このようにして完全に満足して。
翻訳
主への愛情奉仕が心の中で不滅のものとして築かれるとき、欲情、欲望、切望といった激性と無知の影響は心から消えていく。その時、献身者は徳性に立脚し、完全に幸福になる。
解説
本来の健全な状態にいる生命体は、精神的な至福に包まれて心から満足しています。この境地をブラフマ・ブータあるいはアートマーナンダ、すなわち自ら満足している境地といいます。この境地は、怠惰で愚かな者が悦に入っている満足感とは違います。怠惰な愚者は、分別なき無知の状態にありますが、自ら満足しているアートマナンディーは、物質的な状態を超越しています。この完璧な境地は、不滅の献身奉仕に立脚したときに得られるものです。献身奉仕は怠惰になることではなく、魂の純粋な活動なのです。
魂の活動は物質と関わることで不純になり、病に冒された活動は欲情、欲望、渇望、怠惰、愚かさ、惰眠といった形で現れるようになります。献身奉仕をすることで、このような激性や無知の影響がことごとく消え去っていきます。献身者はすぐに徳性に立脚し、ヴァースデーヴァの境地、あるいは純粋なサットヴァ、すなわちシュッダ・サットヴァに向かってさらに高められていきます。シュッダ・サットヴァの境地にいる人物だけが、主への純真な愛情という力によっていつもクリシュナを見ることができます。
献身者はいつでも純粋な徳性を持っているため、他人を傷つけることがありません。一方、献身者でない人々は、どれほど教育を受けていても人を傷つけます。献身者は愚かでも感情的でもありません。格好だけ献身者として振る舞っても、人を傷つけ、愚かで、激情的な人間は主の献身者になれません。献身者は主が持っているあらゆる優れた気質を常に備えています。量的な差はあるかもしれませんが、主と献身者が持つその質は全く同じなのです。
節
evaṁ prasanna-manaso
bhagavad-bhakti-yogataḥ
bhagavat-tattva-vijñānaṁ
mukta-saṅgasya jāyate
bhagavad-bhakti-yogataḥ
bhagavat-tattva-vijñānaṁ
mukta-saṅgasya jāyate
訳語
evam—こうして; prasanna—高揚して; manasaḥ—心の; bhagavat-bhakti—主への献身奉仕; yogataḥ—~に触れて; bhagavat—人格神について; tattva—知識; vijñānam—科学的な; mukta—解放されて; saṅgasya—交流の; jāyate—効果的になる。
翻訳
純粋無垢な徳性に立脚し、主に献身奉仕を捧げ、活気あふれる心を持つようになった人物は、物質的な物事全てから解放された境地の中で、明晰めいせきかつ科学的な人格神の知識を獲得する。
解説
『バガヴァッド・ギーター』(7−3)では、無数の大衆の中で、ひとりの幸運な人間が人生の完成を目指して努力する、と言われています。ほとんどの人が激性や無知に動かされ、そのためにいつも欲情、強欲、渇望、無知、惰眠などにとらわれた状態にいます。そのような動物じみた大衆のひとりだけが人間生活の責任に気づき、規定義務に従って人生の完成を求めて努力を始めます。さらに、そのようにして人生を成功させた無数の人たちの中でも、一握りの人々が人格神、シュリー・クリシュナを科学的に理解することができます。さらに『バガヴァッド・ギーター』(18−55)では、シュリー・クリシュナの科学的知識は献身奉仕(バクティ・ヨーガ)によってのみ理解できる、とも言われています。
同じことが、この節の言葉によって確証されています。一般人でも人生の成功を極めた人でも、人格神を科学的かつ完璧に知ることはできません。人生の完成は、自分は物体の産物ではなく精神魂であると理解したときに達成されます。そして、自分は物質と無関係であることを理解した人は、物質的な望みを捨て、精神的な生き物として活力に満ちた生活を始めます。この成功は、激性や無知を超えたときにこそ、つまり、ブラーフマナとしての質を備えた時に達成されます。ブラーフマナはサットヴァ・グナ、すなわち徳性の象徴です。そして、徳性のない人々がクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、あるいはシュードラ以下に位置付けられます。ブラーフマナの境地は、その優れた質ゆえに人間生活の頂点にあります。ですから、少なくともブラーフマナの資質がなければ献身者にはなれません。献身者は行動によって、すでにブラーフマナなのです。しかし、それが最終段階ではありません。この節で言われているように、ブラーフマナでさえ、本当に超越的な境地に入るためにはヴァイシュナヴァになる必要があります。純粋なヴァイシュナヴァは解脱した魂であり、ブラーフマナの段階をも超えています。物質的な段階では、ブラーフマナでさえ束縛された魂と考えられます。その段階では、ブラフマンという超越的な境地の悟りはあっても、至高主に関する科学的な知識が欠けているからです。私たちはブラーフマナの段階を超え、人格神クリシュナを理解するために、ヴァスデーヴァの境地に入らなくてはなりません。人格神の科学は、一段高い精神的な道を歩く人々の研究主題です。愚かな人や知識に欠ける人は至高主を理解できませんし、自分なりにクリシュナを解釈しようとします。しかし真実は、ブラーフマナの境地をも含め、物質様式の汚れを超えていなければ人格神の科学は理解できません。資質を備えたブラーフマナがヴァイシュナヴァになるとき、活気あふれる解脱の境地に入って、人格神の正体を実際に知ることができるようになります。
節
bhidyate hṛdaya-granthiś
chidyante sarva-saṁśayāḥ
kṣīyante cāsya karmāṇi
dṛṣṭa evātmanīśvare
chidyante sarva-saṁśayāḥ
kṣīyante cāsya karmāṇi
dṛṣṭa evātmanīśvare
訳語
bhidyate—刺し貫かれる; hṛdaya—心; granthiḥ—結び目; chidyante—粉砕される; sarva—全て; saṃśayāḥ—疑念; kṣīyante—終結されて; ca—そして; asya—彼の; karmāṇi—果報的活動の鎖; dṛṣṭe—見られること; eva—確かに; ātmani—自己に; īśvare—支配している。
翻訳
こうして心の中の結び目は刺し貫かれ、疑いは粉砕される。果報的活動の鎖は、自己を主人として見るときに断ち切られるのである。
解説
人格神に関する科学的な知識を得るということは、自分自身をも見つめられるようになるということです。生物の正体を精神魂として考えることについては、多くの推論や疑念があります。物質主義者は物質を超えた自己があることを信じませんし、経験主義哲学者は、生命体としての個性のない非人格的な全体的魂を信じています。しかし超越主義者は、魂と至高の魂は別個の存在であり、双方の質は同じでも量的に異なるものと確信しています。他にも理論は多数ありますが、この類いの推論は、バクティ・ヨーガを通してシュリー・クリシュナを真に理解するときに全て消滅します。シュリー・クリシュナを太陽とすれば、絶対真理に関する物質的な推論は漆黒の闇夜です。クリシュナという太陽が心の中に現れるとき、絶対真理に関する物質的な推論という暗闇は跡形もなく消えていきます。太陽が輝いていれば、暗闇は存在できません。無知という闇に隠されている相対的な真理は、至高の魂として全生物の心にいるクリシュナの慈悲によって明らかにされるのです。
『バガヴァッド・ギーター』(10−11)で主は、純粋な献身者に特別な恩恵を示すため、主自ら、献身者の心の中に純粋な知識の灯りをともして、全ての疑いの暗闇を取り除く、と言っています。人格神が献身者の心の中を照らしているからこそ、超越的な愛情奉仕をしている献身者が暗闇にとどまるはずがありません。献身者は絶対真理と相対真理を熟知するようになります。暗闇にとどまることはなく、また人格神によって知識を授けられているのですから、献身者の知識は完璧です。これは、自分の限られた知識で絶対真理を想像する者たちには当てはまりません。完璧な知識をパランパラーといいます。それは、忠実な奉仕と帰依を通して素直な心で聞く誠実な人物に、権威者が授ける演繹的な知識です。至高者の権威に挑戦するばかりでは、至高者を知ることはできません。幻想エネルギーに動かされ、完全体の小さな一部にすぎない反抗者に自分を見せないのは主の権利です。素直な心を持つ献身者だからこそ、超越的な知識は人格神からブラフマーに、ブラフマーからその息子たちへとつながる師弟継承を通して受け継がれます。この過程はそのような献身者たちの内にいる至高の魂によって支えられています。それが超越的な知識を学ぶ完璧な方法なのです。
このように啓発された献身者は、精神と物質の違いを完璧に見分けられるようになります。精神と物体の結び目が主によって切り離されるからです。この結び目をアハンカーラといい、生命体はこのアハンカーラのために自分と物質を同一視するようになります。この結び目がほぐれた瞬間、疑念の雲も消えていきます。自分が仕えるべき主人を知り、主への崇高な愛情奉仕に励み、果報的活動の鎖を完全に断ち切るのです。物質界にいる生命体は、果報的活動という鎖を自分で作り出し、何度も生まれ変わりながら、その活動から生じる良い結果と悪い結果を楽しんでいます。しかし、主に愛情を込めて仕えればすぐにカルマの鎖から自由になります。その境地にいる献身者の行為は、もはやカルマを作り出すことはありません。
節
ato vai kavayo nityaṁ
bhaktiṁ paramayā mudā
vāsudeve bhagavati
kurvanty ātma-prasādanīm
bhaktiṁ paramayā mudā
vāsudeve bhagavati
kurvanty ātma-prasādanīm
訳語
ataḥ—ゆえに; vai—確かに; kavayaḥ—全ての超越主義者; nityam—太古の昔から; bhaktim—主への奉仕; paramayā—至高の; mudā—大きな喜びと共に; vāsudeve—シュリー・クリシュナ; bhagavati—人格神; kurvanti—行なう; ātma—自己; prasādanīm—活気づけるもの。
翻訳
だからこそ全ての超越主義者たちは、太古の昔から大きな喜びに包まれて人格神、主クリシュナに献身奉仕を捧げてきた。そのような献身奉仕によって自己が活性化されるからである。
解説
人格神、主シュリー・クリシュナに対する献身奉仕の特殊性が、この節で述べられています。主シュリー・クリシュナはスヴァヤン・ルーパ人格神であり、シュリー・バラデーヴァ、サンカルシャナ、ヴァースデーヴァ、アニルッダ、プラデュムナ、ナーラーヤナ、さらにはプルシャ・アヴァターラ、グナ・アヴァターラ、リーラー・アヴァターラ、ユガーアヴァターラ、他の無数の化身に至る主の全ての姿は、主シュリー・クリシュナの完全分身、そして総体的な部分体です。生命体は人格神から分離した部分体です。ゆえに主シュリー・クリシュナは神の根源の姿であり、超越的な分野における究極の言葉です。ですから主の姿は、主の永遠な娯楽に関わっている気高い超越主義者には、さらに魅力あふれるものです。主がシュリー・クリシュナやバラデーヴァ以外の姿で出現なさる場合、献身者はヴラジャブーミで繰り広げられる超越的な娯楽のような親密な関係を得ることはできません。主シュリー・クリシュナの超越的な遊戯は、知性に欠ける人々が言う、新しく作られた話ではありません。主の遊戯は永遠で、ブラフマジーの一日の間に一回現され、それは太陽が24時間ごとに東の水平線に昇る様子に似ています。
節
sattvaṁ rajas tama iti prakṛter guṇās tair
yuktaḥ paraḥ puruṣa eka ihāsya dhatte
sthity-ādaye hari-viriñci-hareti saṁjñāḥ
śreyāṁsi tatra khalu sattva-tanor nṛṇāṁ syuḥ
yuktaḥ paraḥ puruṣa eka ihāsya dhatte
sthity-ādaye hari-viriñci-hareti saṁjñāḥ
śreyāṁsi tatra khalu sattva-tanor nṛṇāṁ syuḥ
訳語
sattvam—徳性; rajaḥ—激性; tamaḥ—無知の暗闇; iti—このように; prakṛteḥ—物質自然の; guṇāḥ—質; taiḥ—それらによって; yuktaḥ—~と関わって; paraḥ—超越的な; puruṣaḥ—その人物; ekaḥ—ひとつ; iha asya—この物質界の; dhatte—装う; sthiti-ādaye—創造、維持、破壊などのために; hari—ヴィシュヌ、人格神; viriñci—ブラフマー; hara—主シヴァ; iti—このように; saṃjñāḥ—さまざまな様相; śreyāṃsi—究極の恩恵; tatra—その中に; khalu—もちろん; sattva—徳性; tanoḥ—姿; nṛṇām—人類の; syuḥ—得られて。
翻訳
超越的な人格神は、物質自然の三性質、すなわち激性、徳性、無知と間接的に関わっており、物質界の創造、維持、破壊のためだけにブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3種類の質的姿を装う。人類は、これらの姿の中で徳性の姿であるヴィシュヌから究極の恩恵を受けることができる。
解説
この節では、主の完全分身を媒体として主シュリー・クリシュナに奉仕を捧げなくてはならないことが確証されています。そのため主シュリー・クリシュナとその完全分身は全てヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち神そのものです。シュリー・クリシュナの次の拡張体はバラデーヴァです。バラデーヴァからサンカルシャナ、サンカルシャナからナーラーヤナ、ナーラーヤナから二番目のサンカルシャナ、そしてこのサンカルシャナからヴィシュヌのプルシャ・アヴァターラが現れます。ヴィシュヌ、すなわち物質界の徳性の主宰神は、クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌあるいはパラマートマーと呼ばれるプルシャ・アヴァターラです。ブラフマーはラジャス(激性)、シヴァは無知の主宰神です。この3人の主宰神は物質界の三性質の筆頭者です。創造はブラフマーの激性と努力によってなされ、ヴィシュヌの徳性によって保たれ、破壊される必要があるときには主シヴァがターンダヴァヌリティヤで行います。物質主義者はブラフマーを、愚かな人間はシヴァをそれぞれ崇拝します。しかし純粋な超越主義者は、徳性の姿であるヴィシュヌをさまざまな姿で崇拝します。ヴィシュヌは何億何兆もの総体的な姿、そして分離した姿によって現れます。統合された姿は主神、分離した姿は生命体、ジーヴァと呼ばれています。ジーヴァも主神も本来の姿を持っています。ジーヴァは物質エネルギーに支配されることがありますが、ヴィシュヌはいつでも物質エネルギーの支配者です。人格神であるヴィシュヌが物質界に降誕するのは、物質エネルギーに惑わされている生命体を救うためです。そのような生命体は、主人になるつもりで物質界に現れ、自然の三性質の罠に陥ります。そのため、生命体はさまざまな刑期をまっとうするため、何度も物質的な覆いを変えなければなりません。物質界という牢獄は、人格神の教えに従うブラフマーによって作られ、カルパの終わりにシヴァによって全て破壊されます。しかし、牢獄の維持はヴィシュヌによってなされ、これは国が刑務所を管理しているのと同じです。ですから生老病死が繰り返される物質存在という悲惨な牢獄を出たいのであれば、解放を求めて主ヴィシュヌを喜ばせなくてはなりません。主ヴィシュヌを崇拝する方法は献身奉仕だけですが、物質界で投獄生活を続けなくてはならない人は、一時的な救いを得るために、シヴァ、ブラフマー、インドラ、ヴァルナなどさまざまな神々に、そのような便宜を図るよう求めるかもしれません。しかしどのような神々であっても、投獄された生命体を物質界の束縛された生活から救うことはできません。救うことができるのはヴィシュヌだけです。ですから、究極の恩恵はヴィシュヌ、人格神から授けられるものなのです。
節
pārthivād dāruṇo dhūmas
tasmād agnis trayīmayaḥ
tamasas tu rajas tasmāt
sattvaṁ yad brahma-darśanam
tasmād agnis trayīmayaḥ
tamasas tu rajas tasmāt
sattvaṁ yad brahma-darśanam
訳語
pārthivāt—土から; dāruṇaḥ—薪; dhūmaḥ—煙; tasmāt—それから; agniḥ—火; trayī—ヴェーダの儀式; mayaḥ—~でできた; tamasaḥ—無知の性質において; tu—しかし; rajaḥ—激性; tasmāt—それから; sattvam—徳性; yat—それ; brahma—絶対真理; darśanam—悟り。
翻訳
薪は土が変質したものであるが、煙は生木よりも優れている。さらに火は煙よりも優れている。火を使って[ヴェーダの儀式を通して]優れた知識という恩恵を得ることができるからである。同じように、激性[ラジャス]は無知[タマス]よりも優れているが、徳性[サットヴァ]が最も優れている。徳性によって、絶対真理を悟る境地に到達できるからである。
解説
上述されているように、人格神に献身奉仕をすることで、物質存在という束縛された生活から解放されることができます。さらにこの節には、主に献身奉仕を行うことができるように徳性(サットヴァ)の状態に高められるべきである、という教えも含まれています。しかし、前進している途中で障害に直面しても、熟達した師の導きを受ければ、たとえタマスの状態からでさえ、誰でも徐々にサットヴァの状態へ高められることができます。ですから、真剣な志願者は、さらに前進できるように熟達した師に近づかなくてはなりませんし、また正しく熟達した師は、弟子がタマス、ラジャス、あるいはサットヴァのどの状態にあっても弟子を正しく導く能力を備えています。
ですから、至高人格神のどの質や姿でも崇拝すれば同じ恩恵が得られると考えるのは間違っています。ヴィシュヌを除き全ての分離した姿は物質エネルギーの下で現れたものですから、それらの姿は、物質の束縛から私たちを解放させてくれる唯一のサットヴァの状態に高めてくれることはありません。
低俗な生活、あるいは下等な動物の生活はタマスの性質に支配されています。さまざまな形の物質的な恩恵を強く求める文明人は、ラジャスの状態にいます。その生活状態には、哲学、芸術、道徳や倫理観という繊細な感情によって絶対真理を悟るチャンスがありますが、サットヴァの性質は、絶対真理を悟る助けになることから、さらに優れている物質状態です。言い換えれば、ブラフマー、ヴィシュヌ、ハラ※という主宰神から得られる結果と同じように、崇拝方法の中身はそれぞれ違っているということです。
※ハラとはシヴァの別名。
※ハラとはシヴァの別名。
節
bhejire munayo ’thāgre
bhagavantam adhokṣajam
sattvaṁ viśuddhaṁ kṣemāya
kalpante ye ’nu tān iha
bhagavantam adhokṣajam
sattvaṁ viśuddhaṁ kṣemāya
kalpante ye ’nu tān iha
訳語
bhejire—~に奉仕をする; munayaḥ—聖者たち; atha—こうして; agre—以前に; bhagavantam — 人格神に; adhokṣajam — 超越性; sattvam — 存在; viśuddham—自然の三性質を超えて; kṣemāya—究極の恩恵を得るために; kalpante—~にふさわしい; ye—それら; anu—従う; tān—それら; iha—この物質界において。
翻訳
かつての偉大な聖者たちは、人格神が物質自然の三性質を超越しているため、その人格神に献身奉仕を捧げた。物質的な状態から救われるために主を崇拝したのであり、そのようにして究極の恩恵を授かったのである。このような偉大な権威者の足跡に従う者は、誰でも物質界から解脱を得るにふさわしい人物となる。
解説
宗教を実践する目的は、物質的な利益を得ることでも、精神と物質を判別するだけの単純な知識を得ることでもありません。宗教活動の最終目標は、自分を物質的な束縛から解き放ち、そして人格神が至高者として存在する崇高な世界での自由な生活を得ることにあります。ですから、宗教原則は人格神が直接定めたものであり、主の権威ある代表者であるマハージャナ以外には、誰も宗教の目標を知りません。その目標を知っている主の代表者には12人おり、彼らは皆、主に超越的な奉仕を捧げています。幸福を望む人は、このマハージャナたちの教えに従い、無上の恩恵を授かることができます。
節
mumukṣavo ghora-rūpān
hitvā bhūta-patīn atha
nārāyaṇa-kalāḥ śāntā
bhajanti hy anasūyavaḥ
hitvā bhūta-patīn atha
nārāyaṇa-kalāḥ śāntā
bhajanti hy anasūyavaḥ
訳語
mumukṣavaḥ—解脱を願っている人々; ghora—恐ろしい、不気味な; rūpān—そのような姿; hitvā—避けている; bhūta-patīn—神々; atha—この理由で; nārāyaṇa—人格神; kalāḥ—完全部分体; śāntāḥ—至上の幸福; bhajanti—崇拝する; hi—確かに; anasūyavaḥ—嫉妬心がない。
翻訳
解脱を真剣に求めている人々は少しも嫉妬心がなく、全ての人に敬意を払う。それでいて、彼らが崇拝するのは神々の醜く恐ろしい姿ではなく、主ヴィシュヌや主の完全分身の至福の姿のみである。
解説
ヴィシュヌの根源である至高人格神、シュリー・クリシュナはふたつの部分、すなわち総体的な完全分身と、分離した部分体に自らを拡張させています。分離した部分体は仕える側、総体的な完全部分体、ヴィシュヌ・タットヴァはその奉仕を受ける側です。
至高主から力を授かっている神々も分離した部分体です。ヴィシュヌ・タットヴァではありません。ヴィシュヌ・タットヴァは人格神の本来の姿と等しい力を持つ生命体であり、時代や状況に応じてさまざまな力を現します。分離した部分体が持つ力には限りがあり、ヴィシュヌ・タットヴァのような無限の力は備えていません。ですから、ヴィシュヌ・タットヴァ、あるいは人格神ナーラーヤナという完全部分体と分離した部分体を同じものとして考えてはなりません。そう考える人は、パーシャンディー、冒涜ぼうとく者とされます。カリ時代には多くの愚かな人たちがこの冒涜をおかし、ふたつの存在を同じものと見ています。
分離した部分体は、持っている物質的な力に応じてさまざまな位置に置かれており、その一部はカーラ・バイラヴァ、シュマシャーナ・バイラヴァ、シャニ、マハーカーリー、チャンディカーなどの名前で呼ばれています。これらの神々は、暗闇あるいは無知にある最下等の人々によって崇拝されている場合がほとんどです。ブラフマー、シヴァ、スーリャ、ガネーシャのような神々は、物質的な快楽を渇望する激性の人々によって崇拝されています。しかし、物質自然の徳性(サットヴァ・グナ)にいる人々はヴィシュヌ・タットヴァだけを崇拝します。ヴィシュヌ・タットヴァはさまざまな名前や姿、例えばナーラーヤナ、ダーモーダラ、ヴァーマナ、ゴーヴィンダ、アドークシャジャなどとして崇拝されています。
正しい資質を持つブラーフマナは、シャーラグラーマ・シラーによって代表されるヴィシュヌ・タットヴァを崇拝し、高い階級とされるクシャトリヤやヴァイシャの人々も、一般的にヴィシュヌ・タットヴァを崇拝しています。
徳性の高いブラーフマナは、他の崇拝形式を忌み嫌うことはありません。カーラ・バイラヴァやマハーカーリーのような恐ろしい形相をした神々にさえ敬意を払います。彼らは、至高主のそのような恐ろしい様相が、多様な状況下で仕えている主の召使であることをよく知っています。しかし、恐ろしい様相をしていようと、魅力的な様相をしていようと、神々を崇拝することはありません。物質界から解放されたいと真剣に考えているからこそ、ヴィシュヌの姿だけに心を集中させます。神々はたとえ神々の筆頭者であるブラフマーでさえ、私たちに解脱の境地を授けることはできません。ヒラニヤカシプは永遠の命を得るために厳しい修行をしましたが、彼の崇拝対象であったブラフマーは、その祝福を彼に授けることはできませんでした。ですから、ヴィシュヌ以外をムクティ・パーダ、すなわちムクティ、解脱を授けられる人格神、と呼ぶことはできません。物質界の他の生物と同じ立場にいる神々は全て、物質創造界が壊滅するときに一掃されます。自分自身が解脱を達成できないのですから、彼らを崇拝する者たちを救えないことは言うまでもありません。神々が崇拝者に授けられるのは一時的な恩恵だけであり、究極の恩恵は授けられません。
解脱を求める志願者がことさら神々の崇拝を拒んでいるのはこの理由だけであり、神々を軽んじる気持ちはありません。
節
rajas-tamaḥ-prakṛtayaḥ
sama-śīlā bhajanti vai
pitṛ-bhūta-prajeśādīn
śriyaiśvarya-prajepsavaḥ
sama-śīlā bhajanti vai
pitṛ-bhūta-prajeśādīn
śriyaiśvarya-prajepsavaḥ
訳語
rajaḥ—激性; tamaḥ—無知の性質; prakṛtayaḥ—そのような考え方; sama-śīlāḥ—同じ種類の; bhajanti—崇拝する; vai—実際に; pita—先祖たち; bhūta—他の生物たち; prajeśa-ādīn—宇宙管理の支配者; śriyā—豊かにする; aiśvarya—富と力; prajā—子孫; īpsavaḥ—そのように望んでいる。
翻訳
激性と無知の様式にいる人は先祖、他の生物、宇宙の営みを管理する神々など、同じ様式にある対象を崇拝する。女性、富、力、子孫という物質的な恩恵に対する欲望に駆り立てられているからである。
解説
神の元に帰ることを真剣に望む人は、どのような神々をも崇拝する必要はありません。『バガヴァッド・ギーター』(7−20、23)では、物質的な快楽に狂奔する者たちは、教養のない者に用意されているむなしい恩恵を求めてさまざまな神々にすがる、と言われています。物質的な快楽をさらに深めるような望みを持つべきではありません。そのような楽しみは必要最低限にとどめ、それ以上でも以下でも望むべきではありません。必要以上の快楽を受け入れることは、物質的な存在の苦しみにさらに縛り付けられることになります。物中心に考える人は、ヴィシュヌ崇拝から得られる恩恵について何も知らないために、もっと富を、もっと女性を、もっと上流階級へ、と欲望を抱きます。ヴィシュヌを崇拝すれば、現世でも来世でも恩恵を授かることができます。この原則を忘れてしまったために、富、妻、子どもを増やすことに目がくらんでいる愚かな人々は、さまざまな神々を拝みます。人生の目的は、苦しみを終わらせることにあり、増やすことではありません。
物質的な楽しみのために神々にすがる必要はありません。神々は主の召使にすぎないのです。召使だからこそ彼らには、水、光、空気などの形で、私たちに必需品を供給する義務があります。私たちは、一生懸命に働き、生きるために働いて得た結果を使って至高主を崇拝しなければなりませんし、またそれが人生のモットーであるべきです。正しい方法に従いながら神を信頼し、自分の職務を注意深く実践するべきであり、そのような姿勢によって、神の元に帰る道を歩き続けることができます。
主シュリー・クリシュナは、ご自身がヴラジャダーマにいらっしゃったころ、ヴラジャの住民たちにインドラの崇拝をやめさせ、各自の仕事を通して崇拝し、神に信念を持つよう助言しました。物質的な利益を求めて複数の神々を崇拝するのは、実は宗教の道からの逸脱です。このような宗教的行為は、バーガヴァタムの最初にカイタヴァ・ダルマという言葉で非難されています。万民が従うべき宗教は世界にただひとつ、それがバーガヴァタ・ダルマ、すなわち至高人格神だけを崇拝するよう教える宗教です。
節
vāsudeva-parā vedā
vāsudeva-parā makhāḥ
vāsudeva-parā yogā
vāsudeva-parāḥ kriyāḥ
vāsudeva-parā makhāḥ
vāsudeva-parā yogā
vāsudeva-parāḥ kriyāḥ
vāsudeva-paraṁ jñānaṁ
vāsudeva-paraṁ tapaḥ
vāsudeva-paro dharmo
vāsudeva-parā gatiḥ
vāsudeva-paraṁ tapaḥ
vāsudeva-paro dharmo
vāsudeva-parā gatiḥ
訳語
vāsudeva—人格神; parāḥ—究極目標; vedāḥ—啓示経典; vāsudeva—人格神; parāḥ—崇拝のための; makhāḥ—儀式; vāsudeva—人格神; parāḥ—到達する方法; yogāḥ—神秘的な方法; vāsudeva—人格神; parāḥ—主の支配下に; kriyāḥ—果報的活動; vāsudeva—人格神; param—至高; jñānam—知識; vāsudeva—人格神; param—最善; tapaḥ—苦行; vāsudeva—人格神; paraḥ—優れた質; dharmaḥ—宗教; vāsudeva—人格神; parāḥ—究極の; gatiḥ—人生の目標。
翻訳
啓示経典が示す知識の究極の対象は、シュリー・クリシュナ、人格神である。儀式を執行する目的は主を喜ばせることにある。ヨーガは主を悟るためにある。どのような果報的活動も、最終的には主だけによって報いられる。主は至高の知識であり、全ての厳しい苦行は主を知るために行われる。宗教 [ダルマ] は主に愛情奉仕をすることである。主は人生の最も気高い目標である。
解説
シュリー・クリシュナ、人格神が崇拝の唯一の対象者であることが、このふたつのシュローカで確証されています。ヴェーダ経典では同じ主題について述べられています。主との関係を再び築き、失われていた主への愛情奉仕を甦らせることがヴェーダの要点です。『バガヴァッド・ギーター』では同じ理論が主自身の言葉で確証されています。すなわち、ヴェーダは主を知るためだけにある、ということです。全ての啓示経典は、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァという主の化身を通して用意されました。物質自然に惑わされて堕落した魂たちにシュリー・クリシュナ、人格神を思い出させるためです。どのような神々でも、私たちを物質的な束縛から解き放してはくれません。それが全てのヴェーダ経典の見解です。人格神について何も知らない非人格論者は至高主の無限の力を過小評価し、他の生物と同じ存在として考えているために、彼らが物質的な束縛から自由になるには大変な困難を伴います。超越的な知識を求めて幾度となく誕生を繰り返した果てに、主に身を委ねられるようになるのです。
ヴェーダが示す活動は儀式に基づいている、と主張する人がいます。確かにその通りです。しかしそのような儀式は、実はヴァースデーヴァに関する真理を悟るためにあります。ヴァースデーヴァの別名をヤジュニャ(儀式)といい、『バガヴァッド・ギーター』でも、全ての儀式や活動はヤジュニャ、あるいはヴィシュヌ、すなわち人格神の満足のために執行されるべきだと述べられています。ヨーガ体系についても同じことが言えます。ヨーガは至高主との接触を指します。しかしその手段には、アーサナ、ディヤーナ、プラーナーヤーマ、そして瞑想など、身体に関わる方法が含まれており、それらはどれもパラマートマーとして代表されるヴァースデーヴァという局所的な姿に心を集中させるためにあります。パラマートマーの悟りは、ヴァースデーヴァの部分的な悟りにすぎず、その方法を極めた後にヴァースデーヴァを完全に悟ることができます。しかしあいにくヨーギーのほとんどは、身体操作によって得られる神秘的な力に心が奪われています。挫折したヨーギーは来世で別のチャンスが与えられ、中断されたヴァースデーヴァの悟りを成し遂げられるよう、善良で教養あるブラーフマナの家庭に生まれたり、あるいは裕福な実業家の家庭に生まれたりすることがあります。そのような幸運なブラーフマナや資産家の息子がチャンスを正しく生かすことができれば、神聖な気質を持つ人物たちとの交流に恵まれ、ヴァースデーヴァをたやすく悟ることができます。しかし不運なことに、そのような機会に恵まれた人でも、再び物質的な富や名誉に目がくらみ、人生の目標をほとんど見失ってしまいます。
これは、知識を高めることでも同じです。『バガヴァッド・ギーター』によると、知識の修練には18の段階があります。そのような知識の修練によって、慢心や虚栄心がなくなり、非暴力になり、忍耐心が強くなり、心が純真になり、偉大な師に献身的に仕えるようになり、自己抑制ができるようになります。知識の修練を通して家庭に無執着になり、生老病死の苦しみを自覚するようになります。そして、これらの知識は人格神、ヴァースデーヴァへの献身奉仕という頂点に達します。ですからヴァースデーヴァは、さまざまな知識の分野を高める究極の目標と言えます。ヴァースデーヴァに会える崇高な境地に導いてくれる知識の修養こそが、本当の知識です。さまざまな分野を含む物質的知識は、『バガヴァッド・ギーター』でアジュニャーナ、真の知識に反するもの、として非難されています。物質的知識の最終目的は感覚満足であり、それは物質界にいる時間を長引かせ、三重の苦悩にいつまでも苦しめられることを意味しています。物質界での苦しみを長引かせるのは無知に他なりません。しかし、その物質的知識が精神的な理解にまで導いてくれるのであれば、物質界での苦しい生活が終わり、ヴァースデーヴァの段階での精神生活が始められるようになります。
同じことがあらゆる種類の苦行に当てはまります。タパスャは、人生の高いゴールに到達するために自ら進んで身体上の苦痛を受けいれる、という意味です。ラーヴァナやヒラニヤカシプは、感覚満足という最終目標を得るために苦痛を伴う過酷な苦行を続けました。現代の政治家も、政治的な収穫を得るために厳しい苦行をすることがあります。これは本当のタパスャではありません。ヴァースデーヴァを知るための苦痛なら進んで受け入れるべきです。それが本当の苦行なのですから。それ以外の苦行は、激性や無知の苦行に分類されます。激性や無知では人生の苦悩を終わらせることはできません。徳性だけが三重の苦しみを和らげてくれます。主クリシュナの両親であるヴァスデーヴァとデーヴァキーは、ヴァースデーヴァを我が子として授かるために苦行をしました。主シュリー・クリシュナは全生命体の父(『バガヴァッド・ギーター』14−4)ですから、根源の生命体です。全ての享楽者の中で主こそが根源かつ永遠の享楽者です。ゆえに無知な者の考えとは裏腹に、誰であろうとも主の父親になることはできません。主シュリー・クリシュナは、ヴァスデーヴァとデーヴァキーの厳しい苦行に満足して、ふたりの子どもになることに同意しました。ですから、苦行をするのであれば、知識の最終点であるヴァースデーヴァを得るためでなくてはなりません。
ヴァースデーヴァは根源の人格神、主シュリー・クリシュナです。先に説明したように、根源の人格神は自らを無数の姿に拡張させました。そのような姿の拡張は主のさまざまなエネルギーによって可能になります。主のエネルギーも多種多様で、内的エネルギーは質的に優れ、外的エネルギーは劣っています。そのことは『バガヴァッド・ギーター』(7−4〜6)で、パラー・プラクリティとアパラー・プラクリティとして説明されています。このように、内的エネルギーによる主のさまざまな拡張体は優れた質を持つ姿ですが、外的エネルギーによる姿は劣っています。生命体も主の拡張体です。主の内的エネルギーによって拡張された生命体は永遠の解脱の境地にあり、一方、物質エネルギーに基づいて拡張された生命体は永遠に束縛された魂です。ですから、知識の修養、苦行、儀式、活動全ては、私たちを動かしている影響の質を変えるためになされるべきです。今は誰もが主の外的エネルギーに支配されていますが、その影響の中身を変えるためにも、精神的なエネルギーを高める努力をしなくてはなりません。『バガヴァッド・ギーター』では、マハートマーと呼ばれる主クリシュナへの奉仕ができるほど心の広い人物たちは内的勢力の中にあり、その結果として、彼らは一心に主への奉仕に励んでいる、と言われています。私たちの人生の目標もそうあるべきです。また、それが全てのヴェーダ経典の見解でもあります。仕事の結果にとらわれ、また超越的な知識についてむなしい推論をして頭を悩ませてはなりません。全ての人が、すぐにでも主への崇高な愛情奉仕をすべきです。また、物質界の創造、維持、破壊のために主の手となって働いている神々たちを崇拝すべきでもありません。物質界の動向を管理する力強い神々が無数に存在しています。彼らは主ヴァースデーヴァの手足となって主に仕えています。主シヴァやブラフマーでさえ神々のリストに含められていますが、主ヴィシュヌ、すなわちヴァースデーヴァは常に神聖な立場に君臨しています。主は物質界の徳性の質を管理していますが、同時に物質の様式を全て超越しているお方です。その状態を示す的確な例があります。刑務所には受刑者と管理者がいます。両者とも国の法律に束縛されています。しかし、国王が刑務所を視察に来たとしても、刑務所の法律に束縛されるわけではありません。国王が刑務所の規則を超えている人物であるように、主も物質界の法律を超越したお方なのです。
節
sa evedaṁ sasarjāgre
bhagavān ātma-māyayā
sad-asad-rūpayā cāsau
guṇamayāguṇo vibhuḥ
bhagavān ātma-māyayā
sad-asad-rūpayā cāsau
guṇamayāguṇo vibhuḥ
訳語
saḥ—それ; eva—確かに; idam—これ; sasarja—創造した; agre—以前; bhagavān—人格神; ātma-māyayā—自分個人の勢力によって; sat—原因; asat—結果; rūpayā—姿によって; ca—そして; asau—同じ主; guṇa-maya—物質自然の性質において; aguṇaḥ—超越的な; vibhuḥ—絶対者。
翻訳
物質界創造の始めに、絶対人格神[ヴァースデーヴァ]は、自らの崇高な境地において、自身の内的エネルギーを使って原因と結果のエネルギーを創造した。
解説
主の立場は常に超越的です。なぜなら物質界の創造に必要な原因と結果のエネルギーも主によって作られているからです。主は物質界の質に影響されることはありません。主の存在、姿、活動、主にまつわる品々全ては物質界が創造される前から存在していました※。主は完全に精神的であり、主の崇高な特質とは異なる物質界の特質とは全く関わりがありません。
(※脚注)マーヤーヴァーダ流派の筆頭者であるシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、自らの『バガヴァッド・ギーター』の注釈書で主クリシュナのこの超越的な立場を認めています。
(※脚注)マーヤーヴァーダ流派の筆頭者であるシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、自らの『バガヴァッド・ギーター』の注釈書で主クリシュナのこの超越的な立場を認めています。
節
tayā vilasiteṣv eṣu
guṇeṣu guṇavān iva
antaḥ-praviṣṭa ābhāti
vijñānena vijṛmbhitaḥ
guṇeṣu guṇavān iva
antaḥ-praviṣṭa ābhāti
vijñānena vijṛmbhitaḥ
訳語
tayā—それらによって; vilasiteṣu—その機能の中にあっても; eṣu—これら; guṇeṣu—物質自然の様相; guṇavān—それらの様相に影響されて; iva—~であるかのように; antaḥ—~の中で; praviṣṭaḥ—~の中に入った; ābhāti—そのように見える; vijñānena—超越的な意識によって; vijṛmbhitaḥ—完全に知り尽くして。
翻訳
主 [ヴァースデーヴァ] は、物質の要素を作った後、自らを拡張させてその中に入って行った。主は自然の物質様式の中に存在し、創造された生物のひとりのように見えても、実は常に超絶した境地にあり、完全な知識に満たされていらっしゃる。
解説
生命体は主の分離した部分体であり、精神界に入る資格を持たない束縛された生命体たちは、物質を存分に楽しむために物質界のそこかしこへ送り出されました。主は完全部分体のひとつであるパラマートマーとして、さらに生命体の永遠の友として生命体の心の中に入り、彼らが物質を楽しめるよう導き、そしてその行動の一部始終を見ながら一緒に生きていらっしゃいます。生命体が物質界の生活を楽しんでいる間、主は物質の環境に影響されずに、自らの崇高な境地を保たれています。ヴェーダ経典(シュルティ)は、両者を一本の木に住んでいる二羽の鳥として説明しています※。一方は木に実った果物を食べ、もう一方はその様子を見つめています。見ている方が主で、果物を食べている方が生命体です。食べている鳥(生命体)は本来の自分をすっかり忘れ、物質の環境の中で果報を求める活動に夢中になっていますが、主(パラマートマー)はいつでも崇高な知識に満たされています。それが至高の魂と束縛された魂の違いです。束縛された魂たちは自然界の法則に支配されていますが、パラマートマー、すなわち至高の魂は、物質エネルギーの支配者です。
(※脚注)dvā suparṇā sayujā sakhāyā samānaṃ vṛkṣaṃ pariṣasvajāte
tayor anyaḥ pippalaṃ svādv atty anaśnann anyo 'bhicākaśīti
(『ムンダカ・ウパニシャッド』 3−1−1)
(※脚注)dvā suparṇā sayujā sakhāyā samānaṃ vṛkṣaṃ pariṣasvajāte
tayor anyaḥ pippalaṃ svādv atty anaśnann anyo 'bhicākaśīti
(『ムンダカ・ウパニシャッド』 3−1−1)
節
yathā hy avahito vahnir
dāruṣv ekaḥ sva-yoniṣu
nāneva bhāti viśvātmā
bhūteṣu ca tathā pumān
dāruṣv ekaḥ sva-yoniṣu
nāneva bhāti viśvātmā
bhūteṣu ca tathā pumān
訳語
yathā—同じ程度に; hi—まさしくそのように; avahitaḥ—~で充満している; vahniḥ—火; dāruṣu—木の中の; ekaḥ—ひとつ; sva-yoniṣu—現象の源; nānā iva—さまざまな生物のように; bhāti—照らす; viśva-ātmā—パラマートマーとしての主; bhūteṣu—生物の中の; ca—そして; tathā—同じように; pumān—絶対者。
翻訳
「火が木の中に入っているように、主はパラマートマーとして、一切万物の内に浸透している。そして、彼は多様性を持つように見えるが、唯一無二の絶対者である。」
解説
主ヴァースデーヴァ、至高人格神は自らの完全部分体のひとつで物質界全体に広がり、その存在は原子エネルギーの中にさえ見ることができます。物質、反物質、陽子、中性子など、全ては主のパラマートマーの姿から生じています。木から火が発生するように、また牛乳をかき混ぜてバターを取り出すように、主のパラマートマーの存在は、ウパニシャッドやヴェーダーンタなどのヴェーダ経典が説く崇高な教えを正しく聞いて唱えれば理解することができます。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、これらのヴェーダ経典の正しい説明書です。人は超越的なメッセージを聞くことで主を悟ることができるのであり、これが崇高な主題を体験するただひとつの方法です。木の中の火が別の火によって燃え上がるように、私たちの神聖な意識は別の神聖な恩恵によってかき立てられます。主の恩恵である師は、受け入れようとする人の耳に適切な精神的メッセージを注ぎ込むことで、木になぞらえる生命体に精神的な火をかき立てることができます。ですから、受け入れようとする思いで正しい師に近づく必要があり、その条件が整えばやがて神聖な存在について理解できるようになります。動物と人間の違いは、この点で決まります。人は正しく聞くことができますが、動物にはできません。
節
asau guṇamayair bhāvair
bhūta-sūkṣmendriyātmabhiḥ
sva-nirmiteṣu nirviṣṭo
bhuṅkte bhūteṣu tad-guṇān
bhūta-sūkṣmendriyātmabhiḥ
sva-nirmiteṣu nirviṣṭo
bhuṅkte bhūteṣu tad-guṇān
訳語
asau—そのパラマートマー; guṇa-mayaiḥ—自然の様相によって影響されて; bhāvaiḥ—自然に; bhūta—創造された; sūkṣma—微細な; indriya—諸感覚; ātmabhiḥ—生物たちによって; sva-nirmiteṣu—主自身の創造によって; nirviṣṭaḥ—入っている; bhuṅkte—楽しませる; bhūteṣu—生物たちの中で; tat-guṇān—それらの自然の様相。
翻訳
至高の魂は、物質自然の様式に惑わされている創造生物の体内に入り、その様式が作り出す結果を生物たちが心で楽しめるようにしている。
解説
生物には、高等な知的生物ブラフマーから小さなアリを含めて840万種類あり、全ての生物が微細な心や肉体の望みに応じて物質界を楽しんでいます。物質の体は微細な体の状態に基づいて作られ、さまざまな感覚はその生物の望みに応じて作られます。生物は何かを手に入れようと望んでも、あらゆる面で無力であるために、主はパラマートマーとして、彼らが物欲を満たせるように助けます。魂が望み、主がその望みを満たすのです。ある意味で生物は主の部分体であるため主と生物はひとつ、とも言えます。『バガヴァッド・ギーター』で主は、さまざまな体を持つ生命体は我が子である、と断言しています。子どもの苦しみや楽しみは、間接的に父親の苦しみや楽しみになります。それでも父は子どもたちの苦楽に直接影響されることはありません。主は、パラマートマーとして私たちと共に生き、私たちが本当の幸せに目覚めるように導こうとしています。それほど主は親切なのです。
節
bhāvayaty eṣa sattvena
lokān vai loka-bhāvanaḥ
līlāvatārānurato
deva-tiryaṅ-narādiṣu
lokān vai loka-bhāvanaḥ
līlāvatārānurato
deva-tiryaṅ-narādiṣu
訳語
bhāvayati—維持する; eṣaḥ—これら全て; sattvena—徳性において; lokān—宇宙全体; vai—一般的に; loka-bhāvanaḥ—全宇宙の主人; līlā—娯楽; avatāra—化身; anurataḥ—役割を果たしている; deva—神々; tiryak—下等な動物; nara-ādiṣu—人類の中で。
翻訳
このように宇宙の主は、神々、人類、下等生物が住む全惑星を維持している。化身の役割を果たしながら、主は純粋な徳性にいる生命体を呼び戻すために、遊戯を繰り広げるのである。
解説
無数の物質宇宙があり、その中に、多様な性質を持つさまざまな段階の生物が住む惑星が無数に散在しています。主(ヴィシュヌ)は生物たちが主の元に戻るという望みを抱くことができるようにするためだけに、彼らの中に入って行き、崇高な遊戯を繰り広げます。主は自分本来の神聖な立場を変えることはありませんが、特定の時代や社会に応じてさまざまな姿となって降誕します。
主は自ら降誕したり、自分に代わって行動するにふさわしい生命体に力を授けて降誕させたりしますが、その目的はひとつです。苦しんでいる生命体を神の元に、ふるさとに帰してあげたいと考えています。生命体が探し求めている幸福は、無数の宇宙や物質的惑星のどこに行っても見つかりません。永遠な幸福は神の国にあるのですが、物質界の様式に惑わされて自分の正体を完全に忘れている魂は、神の国について何も知りません。だからこそ主は、主の国について知らせるために自ら化身として降誕し、あるいは神の優れた子である正しい代表者を私たちに送ります。そのような神の化身や子どもは、神に帰る教えを人間社会だけで広めているわけではありません。神々や人類を含めたあらゆる種類の社会で繰り広げられているのです。
これで『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第2章、表題「神性と神聖な奉仕」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。