Default ViewAdvanced
Dual Language
訳語
翻訳
解説

第15章

至高者のヨーガ

śrī-bhagavān uvāca
ūrdhva-mūlam adhaḥ-śākham
aśvatthaṁ prāhur avyayam
chandāṁsi yasya parṇāni
yas taṁ veda sa veda-vit

訳語

翻訳

至高人格神は言った。
決して朽ちることのない1本のバニヤン樹がある。
その根は上に向かい、枝は下向きに伸び
葉はヴェーダのマントラである。
この木を知る者こそヴェーダを知る者である。

解説

 バクティ・ヨーガの重要性についての論議を読み進めてきた読者の中には、ヴェーダについて問う人もいるであろう。この章ではヴェーダを学習する目的はクリシュナを理解することであると説明されている。したがってクリシュナ意識で献身的に仕えている人は、すでにヴェーダを知っているのである。
 ここではこの物質界のもつれをバニヤン樹にたとえている。結果を求めて行動する人にとってはこのバニヤン樹は際限なく広がっていて、枝から枝へと彷徨さまよい歩くこととなる。物質世界という木には終わりがなく、この木に執着する人には解放される可能性がない。また自己を高めるヴェーダ賛歌はその葉であると言われる。この木の根は上向きに伸びているが、これは宇宙の最頂点であるブラフマーの住むところから生えているからである。この朽ちることのない幻想の木を理解できれば、人はそこから抜け出すことができるのだ。
 だからこの脱出法を理解しなくてはならない。これまでの章では、物質的な束縛から抜け出すさまざまな方法が説明され、第13章までに、至高主への献身奉仕こそその最上の方法であることを学んできた。この献身奉仕の基本原則は、物質的な活動から心を離して主への超越的奉仕に愛着することである。物質世界への執着を断ち切る方法については、この章の最初で語られている。物質存在の根は上向きに伸びているのだが、これはこの木の根が総物質実体から、すなわち宇宙の最高惑星から始まっているという意味である。そこから宇宙全体がたくさんの枝を伸ばして広がり、この枝はさまざまな惑星系を表している。またそこになる果実は生命体の活動の結果であり、宗教、経済発展、感覚の満足、そして解放を象徴している。
 枝が下に向かい根が上に伸びている木など、この世界ではお目にかかれないが、実は確かに存在するのだ。その木は水のほとりで見ることができる。岸辺から眺める水面に映った木は、枝を下に根を上に伸ばしている。つまりこの物質界の木は、精神界にある本物の木の反映なのである。木の映像が水の上に映っているように、精神界の反映は欲望が基盤となっている。欲望は、この反映された物質界の光の中に物事が存在している原因である。この物質存在から抜け出たいと望むなら、この木を分析研究して徹底的に学ぶ必要がある。それによりこの木の関係を断ち切ることができるのだ。
 本物の木の反映であるこの木は、実に正確な模写である。精神界にはすべてが存在する。非人格主義者たちはブラフマンこそがこの物質的な木の根であると考え、サーンキャ哲学ではそこからプラクリティ、プルシャが現れ、3つのグナが現れ、そして5つの粗雑な要素(パンチャ・マハー・ブータ)が現れ、そのあとで10の感覚(ダシェーンドリヤ)や心などが現れたと説明する。このように彼らは全物質世界を24に分類するのである。

 ブラフマンを全顕現の中心とすると、この物質界はその180度分の顕現であり、残りの180度分は精神世界で構成されている。物質界は精神界のひずんだ反映である。つまり精神世界には、物質世界にある多様性とまったく同じものが真実のものとして存在しているのだ。『バガヴァッド・ギーター』の中で説明されているように、プラクリティは至高主の外的エネルギーであり、プルシャは至高主御自身である。この顕現すなわち反映は物質的であるため、見えるときもあれば見えないときもあり、一時的である。しかし反映の基となっている源は永遠に実在するのであり、私たちは本当の木を映し出している物質的反映のほうを切り倒さなくてはならない。ヴェーダを知っている人とは、この物質世界への執着を断つ方法も知っている人のことである。その方法を知る人こそ、本当にヴェーダを理解していると言える。ヴェーダの宗教儀式に魅了される人は木の青葉の美しさに魅せられているにすぎず、ヴェーダの真の目的を理解していない。水に映し出された木を切り倒し、精神界にある本物の木を手に入れることが、至高人格神自らが明言なさるヴェーダの目的である。
adhaś cordhvaṁ prasṛtās tasya śākhā
guṇa-pravṛddhā viṣaya-pravālāḥ
adhaś ca mūlāny anusantatāni
karmānubandhīni manuṣya-loke

訳語

翻訳

上下に広がる枝々は物質自然の三様式から養分を得る。
無数の小枝は感覚の対象である。
この木には下方に伸びる根もあり
その根は人間社会の果報的活動に結びついている。

解説

 ここでは、バニヤン樹についてのさらなる説明がされている。この木の枝はあらゆる方向に広がっていて、低い枝には人間、動物、馬、牛、犬、猫などさまざまな生命体が、高いところには神々やガンダルヴァなど高い生命体がいる。木が水から養分を得るように、この木は物質自然の三様式から養分を得ている。水不足で不毛になっている土地もあれば緑が生い茂る土地もあるのと同じように、物質自然のある特定の様式がほかより豊かな場所には、そこに適した種類の生命体が現れる。
 この木の小枝は感覚の対象としてとらえられている。自然のそれぞれの様式を育むことによってさまざまな感覚器官が発達し、その感覚によって私たちは対象となるものを味わっている。枝の先端は耳、鼻、目などの感覚器官であり、さまざまな対象物を楽しもうとしている。小枝は音、姿、触感というような感覚の対象である。細かく分かれて伸びた根は執着や嫌悪感で、これはさまざまな苦しみや快楽から生まれた副産物である。敬虔さや不敬虔さといった傾向は、あらゆる方向に伸び広がった細かい根から生じると考えられている。本物の根はブラフマローカから伸びていて、それ以外の根は人間の惑星系から伸びている。高位惑星で徳の高い活動の結果を楽しんだのち、人はこの地上に下りて来て、また新しいカルマすなわち昇進するための果報的な活動をする。この人間の住む惑星が活動の場であるとされている。
na rūpam asyeha tathopalabhyate
nānto na cādir na ca sampratiṣṭhā
aśvattham enaṁ su-virūḍha-mūlam
asaṅga-śastreṇa dṛḍhena chittvā
tataḥ padaṁ tat parimārgitavyaṁ
yasmin gatā na nivartanti bhūyaḥ
tam eva cādyaṁ puruṣaṁ prapadye
yataḥ pravṛttiḥ prasṛtā purāṇī

訳語

翻訳

この世界ではこの木の本当の姿は見えない。
どこから始まりどこで終わるのか
どこが基なのか、誰も知らない。
だが人は決意を持って
無執着という剣で
この強力な根をもつ木を切り倒さなくてはならない。
そしてひとたび到達すれば戻る必要のない場所を捜し
太古の昔から万物の源であり
すべてのものをその体から発散させたお方である至高人格神に
身を委ねよ。

解説

 物質世界ではこのバニヤン樹の本当の姿を理解することはできないと、ここで明確に述べられている。根が上向きに伸びているため、実際の木は反対方向に伸びている。この木が物質的に拡張する中に巻き込まれてしまった人には、どこまでその木が伸びているのか、どこからその木が生えているのかわからない。それでもなんとか原因追及をしなくてはならず、「私は父の息子であり、父は〇〇の息子であり・・・」と調べていくとガルボーダカ・シャーイ ー・ヴィシュヌから生まれたブラフマーに行き着く。そして最終的に至高人格神に達し、そこでこの探究は終了となるのだ。至高人格神のことを知る人と交際して、この木の起源を調べなくてはならない。そしてそれが理解できたなら、真実が歪んで映し出されているにすぎないものからしだいに執着をなくし、知識の剣でその木との関係を断ち、真実の木に実際に住むことができるようになるのである。
 この関係において、アサンガというサンスクリット語は非常に意味が深い。感覚を楽しませようとする思いと、物質自然への支配に対する執着はたいへん強いからである。ゆえに私たちは権威ある経典に基づいて精神科学に関する議論を交わし、無執着であることを学んで、真に知識ある人の言葉に耳を傾けなくてはならない。献身者との交際の中でそのような議論を交わすことで、結果的に至高人格神に到達するのだ。そのためにまずすべきことは、主に身を委ねることである。ひとたび到達すれば、二度とこの偽りが反映された木に戻ることはない。その場所についてここに記されている。至高人格神クリシュナは根源の根であり、万物はその根から生じている。私たちは至高人格神に好意を持っていただくために、身を委ねなくてはならない。聴く、唱えるなどの献身奉仕を行うことがその結果につながるのだ。クリシュナは物質世界が広がる原因であり、そのことは主御自身がこのように説明なさっている。Ahaṁ sarvasya prabhavaḥ「私は万物の根源である」と。したがって、この強力な物質生活というバニヤン樹の束縛から逃れるためには、クリシュナに身を委ねなくてはならない。クリシュナに自らを明け渡したとたん、人は自動的にこの果てしなく広がる物質世界への執着が、自然と失われていくのである。
nirmāna-mohā jita-saṅga-doṣā
adhyātma-nityā vinivṛtta-kāmāḥ
dvandvair vimuktāḥ sukha-duḥkha-saṁjñair
gacchanty amūḍhāḥ padam avyayaṁ tat

訳語

翻訳

偽りの名声を求めず、幻想や偽りの交際に見向きもせず
永遠性を理解し、物欲から離れ
苦楽の二元性から解放され、惑わされることなく
至高人格神に服従する術を知る者は
永遠の王国に到達する。

解説

 ここでは至高主に身を委ねる方法がたいへんわかり易く書かれている。その第一条件は、自尊心に惑わされてはならないという点である。まるで自分が物質自然の支配者であるかのように思い上がっている制約された魂にとって、至高人格神に身を委ねるのは並大抵のことではない。真の知識を育んで「自分が物質自然を支配しているのではない。至高人格神こそが支配者なのだ」と理解すべきである。自尊心のもたらす幻想から解き放たれたとき、人は身を委ねるというプロセスを始めることができる。この物質世界で何らかの名誉をいつも期待している人は、至高主に従うことなどできない。自尊心は幻想の産物である。人はこの世界にやって来て、ほんのわずかな間とどまり、やがては去って行くこの世界を自分が支配しているなどという、愚かな考えを持ってしまう。そして物事を複雑にしては常に問題を抱える。世界はこうした影響を受けて動かされているのだ。人間は土地を、この地球を人間社会のものであると考え、自分たちが所有者なのだという誤った考えのもとでこれを分割している。この世界の所有権が人間社会にあるという虚偽の概念から抜け出さなくてはならない。家庭、社会、国家などへの執着が基盤となっている虚偽の交際から解放されるのは、それができた人だけである。こうした幻想の交際こそが、人を物質世界に縛り付けているのだ。人はこの段階を経て、精神的知識を養わなくてはならない。本当は何が自分のものであり、何が自分のものでないのかという知識を育むことである。そして物事の本質を理解できるようになれば、幸や不幸、喜びや苦しみといったあらゆる二元性の概念から解放され、完全な知識を得るようになる。そうして至高人格神に身を委ねることが可能となるのである。
na tad bhāsayate sūryo
na śaśāṅko na pāvakaḥ
yad gatvā na nivartante
tad dhāma paramaṁ mama

訳語

翻訳

私の住むその至高の王国は
太陽や月、火、電気などに照らされているのではない。
そこに到達した者は二度と再び物質界に戻ることはない。

解説

 ここでは、至高人格神クリシュナがお住まいになるクリシュナローカ、すなわちゴーローカ・ヴリンダーヴァナとして知られている精神世界について書かれている。精神世界では太陽光も月光も火も電気も必要ない。なぜならその惑星はすべて自ら発光しているからである。私たちの住むこの宇宙で自ら発光している惑星は太陽だけであるが、精神界ではすべての惑星が自ら輝きを放っている。これらヴァイクンタと呼ばれる惑星から放たれる光輝が、ブラフマ・ジョーティルとして知られるまぶしい空間を構成しているのだが、実際にはこの光はクリシュナの惑星であるゴーローカ・ヴリンダーヴァナから発している。光輝の一部はマハット・タットヴァすなわち物質世界で覆われているが、その輝く空間の大部分はヴァイクンタと呼ばれる精神惑星で満たされており、その中の主要な惑星がゴーローカ・ヴリンダーヴァナである。
 生命体はこの暗い物質界にいるかぎり制約された生活を送っているが、物質界という偽りの歪んだ木を切り倒して精神空間に達すればすぐに解放され、二度とこの物質界に戻ることはない。制約された生活を送っている間は自分がこの物質界を支配しているような気になっているが、解放された状態になると精神王国へ入って至高主の交際者となり、永遠の喜び、永遠の命、そして知識に満ちた日々を送るのである。
 私たちはこうした情報にしっかりと注目し、現実が虚偽に反映されているこの世界から抜け出して、永遠の世界に行きたいと望まなくてはならない。この物質界にあまりにも魅了されている人にとって、その執着を切り捨てることは非常に難しい。しかしクリシュナ意識を修練すれば、そうした執着もしだいに薄れていくものである。そのためにはクリシュナ意識の献身者と交際することが大切である。クリシュナ意識に専心している団体を探して、どうすれば献身奉仕できるのかを学べば、物質界への執着をなくすことができるのだ。ただサフラン色の布を身にまとっただけでは、物質界の魅力を追い払うことなどできない。主への献身奉仕に愛着する必要がある。ゆえに第12章で述べられているように、真実の木の歪んだ反映から抜け出す唯一の方法は献身奉仕しかないのだということを、真剣に受け入れるべきである。第14章ではいかに物質自然に汚されていくかという、ありとあらゆる過程が説明され、純粋に超越的と呼べるのは献身奉仕以外にはないと書かれている。
 ここで paramaṁ mama というサンスクリット語は非常に重要である。事実、何から何まですべてが至高主のものであり、精神界は paramam であり、6つの富に満ちている。精神界では全精神空間が至高主の内的エネルギーで輝いているため、太陽光も月光も星も必要ない(na tatra sūryo bhāti na candra-tārakam)と『カタ・ウパニシャッド』(2-2-15)は明確に述べている。至高主にただ身を委ねるだけで至高の王国に達することができ、それ以外に方法はないのだ。
mamaivāṁśo jīva-loke
jīva-bhūtaḥ sanātanaḥ
manaḥ-ṣaṣṭhānīndriyāṇi
prakṛti-sthāni karṣati

訳語

翻訳

この束縛された世界にいる生命体は
私の永遠なる微小部分である。
彼らは制約されて生きているために
心を含む6つの感覚と苦闘している。

解説

 この節では生命体の本質について明確に説明されている。生命体は至高主の微小な一部分であり、それは永遠に変わらない。制約された状態では個別であるが、解放されれば至高主と一体になるという理論は事実ではない。生命体は永遠に微小な一部分であり、そのことはサナータナという言葉で明言されている。ヴェーダの見解によれば、至高主は御自身を無数に拡張し、第1番目の拡張体がヴィシュヌ・タットヴァと呼ばれ、第2番目の拡張体が生命体と呼ばれている。つまりヴィシュヌ・タットヴァは直接の拡張体であり、生命体は分かれた拡張体だということである。主は、直接の拡張体としては主ラーマ、ヌリシンハ・デーヴァ、ヴィシュヌムールティ、その他ヴァイクンタ惑星の主宰神の姿で現れ、分かれた拡張体である生命体は永遠に隔てた関係であり続ける。至高人格神の直接の拡張体はそれぞれ独自の本質を備えて常に存在しておられ、分かれた拡張体である生命体も同様に、それぞれ独自の本質を備えている。生命体は至高主の微小な一部分として主の特質のごく微量を備えていて、独立性もそのひとつである。生きとし生ける者はすべて個別の魂であり、わずかではあるが独立性を備えている。その独立性を誤用すると制約された魂となってしまうが、正しく用いるなら常に解放された状態でいられるのだ。そしてどちらの状態であっても生命体は至高主と同様、質的には永遠である。ただ、解放された状態では物質的環境の影響を受けることなく主への超越的奉仕に従事しているが、制約された状態では物質自然の様式に支配されて、主に超越的愛情奉仕することを忘れてしまい、その結果、物質界に存在し続けるため苦闘しなくてはならない。
 人間や犬猫のみならず、ブラフマー、主シヴァ、ヴィシュヌのように物質世界を支配する偉大な魂に至るまで、生命体は皆、至高主の一部分である。彼らは皆永遠であり、一時的な顕現ではない。カルシャティ(苦闘)というサンスクリット語は非常に重要である。制約された魂はまるで鉄の鎖で縛りつけられているような状態にある。誤った自我意識に縛られ、心によってこの物質存在の中へと駆り立てられている。心が徳の様式にあるときは良い行動をし、激情の様式にあるときは問題を引き起こす行動をとり、無知の様式にあるときは低級な種類に次々と生まれ変わる。制約された魂は心と感覚を含む肉体に覆われてはいるが、解放されればその物質的な覆いが消滅し、個々の能力に応じて精神的な体を現すことがこの節から明らかである。『マーディヤンディナーヤナ・シュルティ』には、sa vā eṣa brahma-niṣṭha idaṁ śarīraṁ martyam atisṛjya brahmābhisampadya brahmaṇā paśyati brahmaṇā śṛṇoti brahmaṇaivedaṁ sarvam anubhavati という情報が載せられている。そこには、生命体はその物質の覆いを脱ぎ去って精神界に入り、そこで甦らせた精神的な体で至高人格神のお顔をじかに仰ぐことができるようになると書かれている。顔と顔を合わせて至高主の声に耳を傾け、話しかけ、主をあるがままに理解することができるのだ。またスムリティからは vasanti yatra puruṣāḥ sarve vaikuṇṭha-mūrtayaḥ 精神惑星では誰もが至高人格神のような姿をしていることがうかがえる。体の造りに関しては、一部分である生命体もヴィシュヌ・ムールティの拡張体も同じである。つまり、生命体は解放される時に至高人格神の慈悲で精神的な体を与えられるということである。
 ママイヴァームシャハ(至高主の微小部分)というサンスクリット語もたいへん重要である。至高主の微小部分というのは、物が壊れたかけらのようなものではない。魂を粉々にすることなどできないことは、すでに第2章で学んだ。この微小部分を物質的なものであると考えてはならない。小さく切り分けてまたつなぎ合わせられるような物質ではない。ここではサナータナ(永遠)というサンスクリット語が使われているため、そのような受け取り方はできないのである。この微小部分は永遠である。個々の体の中に至高主の微小部分が宿っていることは、第2章の初めにも書かれている(dehino ’smin yathā dehe)。この微小部分は体という束縛から解き放たれたときに、精神惑星の精神空間の中で本来の精神的な体を甦らせ、至高主との交際を味わう。しかしここでわかることは、いかに小さなかけらであろうと金は金であるのと同様に、至高主の微小部分である生命体は質的には主と同一だということである。
śarīraṁ yad avāpnoti
yac cāpy utkrāmatīśvaraḥ
gṛhītvaitāni saṁyāti
vāyur gandhān ivāśayāt

訳語

翻訳

物質界にいる生命体は
風が芳香を運ぶように
それぞれの生命観を次の体に運ぶ。
そうして何かの体に入ってはまたそれを捨て
次の体へと移っていくのである。

解説

 ここでは生命体のことをイーシュヴァラ、すなわち自分の体を支配する者と呼んでいる。自分の望み次第で今より高級な体に替えることもできるし、低級な体に替えることもできる。生命体はささやかな独立性を備えていて、どのような体に移っていくかは自分次第である。死を迎えた時の意識が次の体を決めるのだ。犬や猫のような意識でいれば犬や猫の体に入ることになるし、神々の質を備えた意識でいれば神々の姿に生まれ変わることになる。そしてもしクリシュナ意識でいれば精神界にあるクリシュナローカに行き、クリシュナとの交際を得ることができるのである。この体がなくなるとすべてが終わるというのは誤った理論だ。個々の魂は体から体へと移り変わり、今の体で取った行動が次の体を決定する。人はカルマによってそれぞれの体を得て、その体もいつの日か手放さなくてはならない。次の体の想いを運んでいく目に見えない体が、その新しい体を育てていくということがここに書かれている。次々と体を変えて転生し、その体の中で苦闘していくこの過程をカルシャティすなわち存在のための苦闘と呼ぶのである。
śrotraṁ cakṣuḥ sparśanaṁ ca
rasanaṁ ghrāṇam eva ca
adhiṣṭhāya manaś cāyaṁ
viṣayān upasevate

訳語

翻訳

このようにして別の体を得た生命体には
その心に付随して
特定の耳、目、舌、鼻、触感が形成される。
そして生命体はそれらの感覚に応じた対象物を楽しむ。

解説

 つまり犬や猫のような意識に質を落とすなら、次の生では存分に楽しめるように犬や猫の体を与えられるということである。意識というのは本来、水のように純粋である。しかしその水にある種の色を混ぜれば変色する。同様に、精神的な魂は純粋なので意識そのものは純粋なのだが、物質的な質と関わることによって意識は変化してしまう。真の意識はクリシュナ意識である。ゆえに、クリシュナ意識であるということは純粋な生活を送っているということなのだ。しかし何らかの物質的な考え方によって質を落としてしまえば、次の生でそれに似合った体が与えられることとなり、再び人間の体になるとは限らない。生命体の種類は840万もあり、犬になるか、猫になるか、それとも豚か、神々か、また別のものになるかは、わからないのである。
utkrāmantaṁ sthitaṁ vāpi
bhuñjānaṁ vā guṇānvitam
vimūḍhā nānupaśyanti
paśyanti jñāna-cakṣuṣaḥ

訳語

翻訳

生命体がどのように体を離れるのか
物質自然に魅せられてどのような体を楽しむことになるのか
知性乏しき者には理解できない。
しかし知識の目を持つ者は
そのすべてを見ることができる。

解説

 ジュニャーナ・チャクシュシャハというサンスクリット語は非常に重要である。人は知識がなければ今の体をどのように離れるのか、次の生でどのような体を得るのか、なぜその特定の体に入っているのかさえわからない。こうしたことを理解するためには、『バガヴァッド・ギーター』や同様の文献を真正な精神の師から聴いて、かなりの知識を身に付ける必要がある。そうした知識が理解できるように教育された者は幸運である。生きとし生ける者は皆、物質自然に魅せられて特定の状況で体を離れ、特定の状況で生き、特定の状況で楽しむ。その結果、感覚を楽しませるという幻想の中で、ありとあらゆる種類の幸不幸を味わっている。情欲や欲望に絶えず振り回されている者は、自分が輪廻転生して特定の体の中にいるということを理解する力をなくしてしまう。彼らにはそのことが理解できないのだ。しかし精神的知識を培った者は、魂は体とは別のものであって次々と体を変えてはさまざまに楽しんでいることがわかる。そのような知識を身に着けている者は、制約された魂がこの物質存在の中でどれほど苦しんでいるのか理解できるのだ。ゆえにクリシュナ意識を高めた者は、制約された生活に苦闘している一般の人々にこの知識を与えようと最善を尽くす。人は皆その状況を脱してクリシュナ意識になり、解放されて精神界に戻るべきなのである。
yatanto yoginaś cainaṁ
paśyanty ātmany avasthitam
yatanto ’py akṛtātmāno
nainaṁ paśyanty acetasaḥ

訳語

翻訳

修行に励み自己を悟った超越主義者たちは
この事実を明らかに知っている。
だが心が未熟で自己の悟りに至らぬ者たちは
努力しても実際に何が起こっているのか理解できない。

解説

 自己を悟ろうと精神修行をする超越主義者は大勢いるが、実際に悟った段階にない者には、生命体の体の中でどのような変化が起こっているのか理解できない。これに関して、ヨーギナというサンスクリット語が重要な意味をもつ。現代ではいわゆるヨーギーやヨーガ団体がたくさん存在しているが、実際には彼らは自己の悟りに関してまったくわかっていない。ただある種の体操に酔いしれて、美容と健康の結果を得られれば満足する。それ以外の知識は持ち合わせていない。彼らは yatanto ’py akṛtātmānaḥ と呼ばれ、いわゆるヨーガのシステムに力を注いではいるが自己を悟ってはいない。そのような人は、魂が転生していく過程を理解できないのだ。物事がどのように起こっているのか理解できるのは、ヨーガ修練の中で自己と世界と至高主を悟った者、つまりクリシュナ意識で純粋な献身奉仕をするバクティ・ヨーギーだけなのである。
yad āditya-gataṁ tejo
jagad bhāsayate ’khilam
yac candramasi yac cāgnau
tat tejo viddhi māmakam

訳語

翻訳

全世界の闇を追い払う太陽の光は
私から発している。
また月の輝きも火の光も
私から発しているのである。

解説

 知性乏しき者は物事の仕組みがわかっていないが、主がここで説明なさっていることを理解することによって、知識を積み上げていくことができる。誰でも太陽や月、火、電気を目にしているが、その太陽や月の輝き、電気や火の明るさが至高人格神から発せられていることを、ただ理解しようとすればよいのだ。クリシュナ意識の初歩的段階であるこの考え方には、物質界に住む制約された魂を大きく向上させる力が潜んでいる。生命体は本来至高主の一部分である。そして主はここでその生命体のために、どうすれば故郷である主のもとへ帰ることができるのか、ヒントを与えてくださっている。
 この節から太陽が太陽系全体を照らしているということがわかる。さまざまな宇宙や太陽系が存在し、太陽も月も惑星もたくさん存在するが、それぞれの宇宙に太陽はひとつしかない。『バガヴァッド・ギーター』(10-21)に書かれているように、月は星のひとつである(nakṣatrāṇām ahaṁ śaśī)。 太陽光線は、至高主のおられる精神的な空間の精神的光輝に起因するものなのだ。人は日の出とともに活動を開始する。料理のために火をつけたり、工場を稼働させるために火を入れたり、火の力を借りてさまざまなことをする。このように日の出、火、月光は生命体に大きな喜びを与え、これなくして生命体は生きられない。こうした輝きがすべて至高人格神から発せられていることが理解できたとき、その人のクリシュナ意識が始まるのである。野菜はどれも月光によって滋養を得る。月明かりは何とも心地のよいもので、命あるものは皆至高人格神クリシュナの慈悲によって生きているのだと容易に理解できる。クリシュナの恵みがなければ太陽は存在せず、月も火もない。こうしたものの助けがなければ、誰も生きてはいけない。このような考え方が、制約された魂の中に眠るクリシュナ意識を目覚めさせるのである。
gām āviśya ca bhūtāni
dhārayāmy aham ojasā
puṣṇāmi cauṣadhīḥ sarvāḥ
somo bhūtvā rasātmakaḥ

訳語

翻訳

私はそれぞれの惑星に入り
私のエネルギーで惑星は軌道を回る。
わたしは月となって
すべての野菜に生命の活力を与える。

解説

 すべての惑星が空中に浮かんでいるのは、主のエネルギーによるものだということがわかる。主はすべての原子、惑星、生命体の中にお入りになる。このことに関して『ブラフマ・サンヒター』には、至高人格神の完全拡張体であるパラマートマーが、惑星、宇宙、生命体、さらに原子の中にも入ると記述されている。つまり主が入ることによって、すべてが適切な形をとって現れるのである。生きている人間も魂が存在している間は水に浮いていられるが、命の炎が体から消え去ればそれは死体となり沈んでしまう。もちろん死体は腐敗すれば藁わらなどと同じように浮かぶが、死んだ直後は沈んでいく。同様にこうしたすべての惑星が空間に浮かんでいるのは、至高人格神の至高なるエネルギーが入っているからである。主のエネルギーは、惑星をまるでひと握りの埃であるかのように支えている。手に握られた埃は、握られているうちは落ちることもないが、空中に投げ出されたとたんに落下してしまう。同じように空中に浮かんでいる惑星は、実は至高主の宇宙体の手の中に握られているのだ。あらゆる動くもの、また動かぬものは、主の力とエネルギーによってあるべき場所にとどまっている。ヴェーダ賛歌には「太陽を輝かせ、惑星を着実に動かしているのは至高人格神なり」とある。主の力がなければ惑星はバラバラになり、空中に投げ出された埃のごとく消滅してしまうであろう。同様に、月があらゆる野菜に栄養を与えているのも、至高人格神の力によるものである。野菜は月の影響を受けて味わいを増す。月の光を浴びなければ野菜は育たないし、みずみずしい味わいも出ない。至高主の恵みあればこそ、人間社会は活動し、快適に暮らし、食べ物を味わうことができるのだ。主の恵みなくして人は生きてはいけない。ラサートマカというサンスクリット語は非常に重要である。至高主の力で月が影響を与えるからこそ、何もかもが味わい豊かに育つのである。
ahaṁ vaiśvānaro bhūtvā
prāṇināṁ deham āśritaḥ
prāṇāpāna-samāyuktaḥ
pacāmy annaṁ catur-vidham

訳語

翻訳

私は全生命体の体内にある消化の火であり
出入りする生命の気と融合して
4種類の食物を消化する。

解説

 アーユル・ヴェーダの経典を読むと、胃の中には運び込まれた食べ物を消化する火があることがわかる。その火が燃えていなければ空腹感はなく、正常に燃えていれば空腹を感じる。順調に燃焼していなくて治療が必要なときもある。いずれにしてもこの火は至高人格神の代役である。ヴェーダのマントラ(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』5-9-1)も、至高主すなわちブラフマンは火という姿で胃の中に宿り、あらゆる種類の食べ物を消化させていると確証している(ayam agnir vaiśvānaro yo ’yam antaḥ puruṣe yenedam annaṁ pacyate)。すなわち、食べ物が消化するのも主の助力によるものであり、生命体は食べるという過程においても独立していないのである。至高主が消化を助けないかぎり食べることもできない。このように主が食べ物を生産し消化させて下さり、私たちはその恵みを受けて人生を楽しんでいるのだ。『ヴェーダーンタ・スートラ』(1-2-27)でもこのことが確証されている。Śabdādibhyo ’ntaḥ pratiṣṭhānāc ca 「主は音の中にも体内にも、空中にも、また消化力として胃の中にも宿っておられる」。食べ物には、飲むもの、噛むもの、なめるもの、吸うものという4種類があり、主はそのすべての消化力なのである。
sarvasya cāhaṁ hṛdi sanniviṣṭo
mattaḥ smṛtir jñānam apohanaṁ ca
vedaiś ca sarvair aham eva vedyo
vedānta-kṛd veda-vid eva cāham

訳語

翻訳

私はすべての者のハートに宿り
記憶と知識と忘却を与えている。
全ヴェーダは私を知るためにあり
私こそヴェーダンタの編纂者であり
全ヴェーダを知る者である。

解説

 至高主はパラマートマーとしてすべての者のハートに宿り、いかなる活動もすべて主から始まる。生命体は自分の過去世について何も覚えてはいないが、その行動のすべてを目撃してこられた至高主の指図に従って行動しなくてはならない。つまり過去の行為に応じて与えられた環境の中で活動し始めるのだ。それに際して必要な知識や記憶が与えられ、また過去世のことは忘れさせられる。このように主はあまねく遍満しているだけでなく個々のハートの中にも宿り、それぞれの活動に応じてさまざまな結果をお与えになる。主は無機質なブラフマン、至高人格神、局所的なパラマートマーとして崇拝されるだけでなく、ヴェーダという形で化身されたそのお姿も崇拝されている。人々が正しい生き方を選んで神のもとへ帰っていけるよう、ヴェーダは人に歩むべき正しい道を示し、至高人格神クリシュナについての知識を提供している。また主は『ヴェーダーンタ・スートラ』の編纂者であるヴィヤーサデーヴァとして姿を現しておられる。ヴィヤーサデーヴァが『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で著した『ヴェーダーンタ・スートラ』の注釈を読むと、この経典を真に理解することができる。至高主は完全に満ち足りたお方なので、制約された魂を解放するために食べ物を供給し、それを消化させ、活動を見守り、ヴェーダという形で知識を与え、至高人格神シュリー・クリシュナの姿で『バガヴァッド・ギーター』を教えてくださる。この至高主こそ制約された魂が崇拝すべきお方である。完全に善なるお方、完全に慈悲に満ち溢れたお方、これが神である。
 Antaḥ-praviṣṭaḥ śāstā janānām. 生命体は現在の体から離れたとたんにすべてを忘れてしまうが、主の導きによってまた活動を始める。本人が忘れてしまっても至高主が知性を与え、前世で終えたところからまた始められるようにしてくださる。生命体はハートに宿る至高主の指示によってこの世界を楽しんだり苦しんだりするだけでなく、ヴェーダを理解する機会まで与えられるのだ。ヴェーダの知識を理解したいと真剣に望む者にクリシュナは必要な知識を与えてくださる。主はなぜヴェーダ知識を提示して理解させようとなさるのか?なぜなら命ある者は皆、クリシュナを理解すべきだからである。ヴェーダ文献はこのことを yo ’sau sarvair vedair gīyate という言葉で確証している。4つのヴェーダをはじめ『ヴェーダーンタ・スートラ』、諸ウパニシャッド、プラーナは、至高主の栄光を讃えている。ヴェーダ儀式を行ったり、ヴェーダ哲学を語り合ったり、献身奉仕をして主を崇拝することで主に到達することができる。つまりヴェーダはクリシュナを理解させることがその目的であり、クリシュナを理解し悟る方法を私たちに教えてくれるのだ。究極の目標は至高人格神である。このことは『ヴェーダーンタ・スートラ』(1-1-4)にある tat tu samanvayāt という言葉からも確認することができる。完成を達成するには3つの段階がある。まずヴェーダ文献を理解することによって至高人格神と自分との関係を理解できるようになり、次にさまざまな方法を実行することによって主に近づけるようになり、最終的にほかならぬ至高人格神という至高の目的に到達することとなる。この節はヴェーダの意図、ヴェーダの理解、ヴェーダの目標について明確に述べているのである。
dvāv imau puruṣau loke
kṣaraś cākṣara eva ca
kṣaraḥ sarvāṇi bhūtāni
kūṭa-stho ’kṣara ucyate

訳語

翻訳

過ちを犯しうる者と過ちを犯さない者という
2種類の生命体が存在する。
物質界の生命体はすべて過ちを犯す者であり
精神界の生命体はすべて過ちを犯さない者と呼ばれる。

解説

 すでに説明されているように主はヴィヤーサデーヴァとして化身し、『ヴェーダーンタ・スートラ』を編纂なさった。そしてここで『ヴェーダーンタ・スートラ』の内容を要約しておられる。無数に存在する生命体は「過ちを犯す者」と「過ちを犯さない者」のふたつに分類されると主はおっしゃる。命ある者は皆、永遠に至高人格神から分かれた部分体であり、物質界と接触するとジーヴァ・ブータと呼ばれる。ここでは kṣaraḥ sarvāṇi bhūtāni というサンスクリット語で表され、これは「過ちを犯す者」という意味である。一方、至高人格神とひとつである者は「決して過つことのない者」と呼ばれる。ひとつというのは個別性がないという意味ではなく、個性を保ちつつ調和しているということである。主と調和している者は皆、創造の目的に同意している。もちろん精神界においては創造というものは存在しないが、『ヴェーダーンタ・スートラ』に書かれているように至高人格神は現れているものすべての源なのである。
 至高人格神主クリシュナの言葉によれば生命体には2種類あり、このことは諸ヴェーダによっても証明され、疑いの余地がない。心と五感によってこの世界でもがいている生命体は、常に変化する物質の体を持っている。制約された状態にあるかぎり生命体の体は変化するが、それは関わる物質が変化するために生命体が変化しているように見えるのである。しかし精神世界に住む者の体は物質でできていないため、変化することがない。物質世界に住む生命体が経験しなくてはならない誕生、成長、持続、繁殖、衰退、消滅という6つの変化は、体に関する変化である。しかし精神世界には老いも誕生も死もなく、体は変化しない。すべてが調和して存在している。 Kṣaraḥ sarvāṇi bhūtāni 最初に創造されたブラフマーから小さな蟻に至るまで、物質と接触するすべての生命体の体は変化する。ゆえに過ちから免れることはできない。しかし精神界では、すべての生命体が調和して常に解放された状態にある。
uttamaḥ puruṣas tv anyaḥ
paramātmety udāhṛtaḥ
yo loka-trayam āviśya
bibharty avyaya īśvaraḥ

訳語

翻訳

これら2種類の者たちとは別に
最も偉大なる生命体が実在する。
それは至高の魂すなわち不滅の主自身であり
三界に入り、生きとし生ける者を支えている。

解説

 この節のポイントは『カタ・ウパニシャッド』(2-2-13)と『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(6-13)の中で実によく説明され、無数の生命体の中には制約された者も解放された者もあり、それらすべての上にパラマートマーである至高人格神がいらっしゃると述べられている。またウパニシャッドにある nityo nityānāṁ cetanaś cetanānām という一節も、制約されたあるいは解放されたすべての生命体の中に至高人格神という至高の存在があり、個々がさまざまな働きに応じて楽しめるようにあらゆる便宜を図って維持なさっていると説明している。この至高人格神が生きとし生ける者のハートの中にパラマートマーとして宿っているのだ。主を理解できる賢明な者だけが、完全な平和を手に入れることができる。
yasmāt kṣaram atīto ’ham
akṣarād api cottamaḥ
ato ’smi loke vede ca
prathitaḥ puruṣottamaḥ

訳語

翻訳

私は過ちを犯す者も犯さない者をも超越し
最も偉大な存在である。
ゆえに私は世界でもヴェーダの中でも
至高なる者として讃えられている。

解説

 制約された魂であろうと解放された魂であろうと、至高人格神クリシュナに優る者など存在しない。ゆえに主は最も偉大な存在なのである。そして生命体も至高人格神も個別の存在であることがここで明確にされている。生命体は制約されていようが解放されていようが、至高人格神の想像も及ばない力を量的に凌ぐことなどできない。いかなる点であろうと、至高主と生命体が同じ段階にあるなどと考えることは完全なる誤りであるのに、この両者の優劣性に関しては常に議論が交わされる。ウッタマというサンスクリット語は非常に重要であり、至高人格神に優る者など存在しないことを表しているのだ。
 また、ローケーというサンスクリット語が使われていることから「pauruṣa āgama(スムリティ経典)の中では」という意味だとわかる。ニルクティ辞書の中で確証されているように、「ヴェーダの目的はスムリティ経典の中で説明されている」のである。
 パラマートマーという至高主の局所的な様相についてはヴェーダそのものにも記されていて、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』(8-12-3)には次のような節がある。tāvad eṣa samprasādo ’smāc charīrāt samutthāya paraṁ jyoti-rūpaṁ sampadya svena rūpeṇābhiniṣpadyate sa uttamaḥ puruṣaḥ「至高の魂は体から出てきて無機質なブラフマ・ジョーティルに入り、精神的な独自性という姿で居続ける。この至高なるお方を至高人格神と称する」。これは至高人格神が究極的な光である精神的光輝を放っておられることを表している。また、至高人格神はパラマートマーとしての局所的様相もお持ちである。主はサッティヤヴァティーとパラーシャラの息子として化身され、 ヴィヤーサデーヴァとしてヴェーダ知識を説明なさっているのである。
yo mām evam asammūḍho
jānāti puruṣottamam
sa sarva-vid bhajati māṁ
sarva-bhāvena bhārata

訳語

翻訳

私が至高人格神であることを知る者は誰でも
疑いなく万事を知り尽くしている。
バラタの子よ
ゆえにそのような者は
私への完全なる献身奉仕を行う。

解説

 生命体と至高絶対真理の本質的な立場については多くの哲学的思索がなされているが、この節では主クリシュナが至高人格神であると知る者はすべてを知ると、至高人格神自らが明確に説明なさっている。知識が不完全な者は絶対真理についてただ思索を重ねるだけだが、完全に理解している者は貴重な時間を思索で浪費することなく、真っすぐにクリシュナ意識すなわち至高主への献身奉仕に就く。『バガヴァッド・ギーター』の全篇を通してこの事実がすべての段階で強調されているのだが、それでもまだ『バガヴァッド・ギーター』に耳を貸さない解説者があとを絶たず、至高絶対真理と生命体は同一のものだと言う。
 ヴェーダ知識はシュルティ、すなわち聴聞によって学ぶものと呼ばれ、本来クリシュナあるいはクリシュナの代表者のような権威者から、その主旨を学ぶべきものである。ここでクリシュナはすべてをとても鮮明に識別して述べておられ、私たちはこの源から学ばなくてはならない。豚のようにただ聞き過ごすだけでは十分でなく、理解できるように権威者の言葉にしっかりと耳を傾けるべきである。ただ学術的に思索するのではないのだ。生命体は常に至高人格神に従属する立場であると教える『バガヴァッド・ギーター』の言葉を、素直に受けとめることが大切である。このことを理解できる者こそヴェーダの目的を知る者であり、それ以外の者には知り得ないと至高人格神シュリー・クリシュナはおっしゃる。
 バジャティという言葉はとても重要であり、至高主への奉仕に関するさまざまな箇所で用いられている。完全なクリシュナ意識で主に献身奉仕をする人は、ヴェーダ知識のすべてを理解している者と言われる。ヴァイシュナヴァ・パランパラー※では「クリシュナに献身奉仕を捧げる者には至高絶対真理を理解するための精神修行など必要ない」と言われる。主への献身奉仕に就いているということは、すでにこの真理を理解する段階に達しているということであり、理解に必要な準備段階はもう終えてしまっているのだ。しかし反対に、何百回、何千回生まれ変わっても思索を繰り返し、クリシュナが至高人格神であって、人はこのお方に身を委ねなくてはならないという理解にまだ達することができないならば、その思索に費やされた膨大な年月と人生は、ただ時間の浪費にすぎないのである。

※パランパラーとは、何千年間にわたり、師から弟子へと教えの本質が伝授されている師弟継承のこと。
iti guhya-tamaṁ śāstram
idam uktaṁ mayānagha
etad buddhvā buddhimān syāt
kṛta-kṛtyaś ca bhārata

訳語

翻訳

罪なき者よ
これがヴェーダ経典の最も秘奥な部分であり
私は今それを明かした。
これを理解する者は誰でも賢者となり
その努力は完成をもたらすであろう。

解説

 これが全啓示経典の要旨であると、至高主はここではっきりと宣言なさっている。ゆえに私たちは至高人格神が教えてくださることをそのままに理解しなくてはならない。そうすれば人は知性を高め、超越的知識を完全に理解できるようになる。つまり至高人格神に関するこの哲学を理解して、主への超越的な奉仕をすれば、誰でもこの物質自然の様式によるすべての汚れから解放されるということである。献身奉仕は精神的理解に至る道である。献身奉仕のあるところに物質的汚れは存在し得ない。主への献身奉仕と主御自身には何の違いもなく同一なのだ。どちらも精神的であり、献身奉仕は至高主の内的エネルギーの中で行われる。至高主は太陽であり無知は闇であると言われる。太陽のあるところに闇は存在し得ない。したがって、真正な精神の師から指導を受けながら献身奉仕を行っているかぎり、無知など存在するはずがないのである。
 誰もがこのクリシュナ意識を受け入れて献身奉仕をし、知性を高めて浄化されなくてはならない。一般の人からは知性ある者という高い評価を受けていたとしても、クリシュナを理解する段階に達せず献身奉仕を行わないならば、その知性は完全とは言えない。
 アルジュナに対して使われているアナガというサンスクリット語は重要である。アナガすなわち「罪なき者よ」とは、あらゆる罪の反動から解放されていないかぎり、クリシュナを理解することはきわめて困難であるということを表している。人はすべての汚れすなわちあらゆる罪深い活動から解放されなくてはならない。その時初めて物事を真に理解できるようになるのだ。しかし献身奉仕は非常に純粋かつ強力なので、ひとたびこの道を歩めば罪なき段階は自動的に訪れる。
 完全なクリシュナ意識の段階にある純粋な献身者と交際しながら献身奉仕に励む上で、克服しなければならない点がいくつかある。中でも最も重要なことは、心の弱さに打ち勝つことである。物質自然を支配したいという望みが最初の堕落をもたらし、人は至高主に超越的な愛情奉仕をすることをやめてしまう。そしてその物質自然への支配欲をさらに増幅させ、物への執着と所有欲を増大させていく。これがハートの弱さがもたらす2番目の堕落である。物質存在の問題はこの心の弱さゆえに生じる。この章の最初の5つの節では自己の心の弱さから自由になる方法について、この章の残り、すなわち第6節から最後まではプルショーッタマ・ヨーガについて論じられている。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第15章「至高者のヨーガ」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。