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解説

シュリー・イーシャ・ウパニシャッド

人を至高人格神クリシュナに近づける知識

序章

oṁ pūrṇam adaḥ pūrṇam idaṁ
pūrṇāt pūrṇam udacyate
pūrṇasya pūrṇam ādāya
pūrṇam evāvaśiṣyate

訳語

翻訳

人格主神はすべてにおいて完璧であり、また完全無欠な方であるからこそ、この物質現象界のように人格主神から発出されたものは、すべて完璧な全体として機能をそなえている。完全全体者である人格主神が作ったものはすべて、それ自体完璧である。人格主神は完全な全体者であるため、人格主神から無数の完璧な単一体が発出されても、人格主神は完璧な調和を保っている。

解説

完全全体者、すなわち至高絶対真理者は完全無欠の人格主神です。非人格的ブラフマン(Brahman)やパラマートマー(Paramātmā・超霊魂)の悟りは、絶対真理者を不完全に理解した境地です。至高人格主神はsac-cid-ānanda-vigraha.(サッチドゥ アーナンダ ヴィグラハ)(『ブラフマ・サムヒター』第5章・第1節)です。非人格的ブラフマンの悟りは、主のサット(sat)の悟り、つまり主の永遠性を理解した境地です。パラマートマーの悟りはサット(sat)とチット(cit)の悟り、つまり主の永遠性と知識を理解した境地です。しかし人格主神の悟りは、すべての超越的な様相、つまりsatとcitとānanda(アーナンダ・至福)を知りつくした境地です。至高者を悟った人は、この3つの状態を完璧にそなえた絶対真理者を悟ります。Vigrahaは「姿」という意味です。ですから、完全な全体者は無形ではありません。もし神が姿を持たないとしたら、言いかえれば、神が自分で創造したものより劣っているのであれば、神は完全とは言えなくなります。完全なる全体者は、私たちが体験してきたもの、または体験を超えたものすべてをそなえているはずです。そうでなくては、神は完全ではあり得ません。
完全な全体者である至高人格主神は無限の力を持っており、その力もまた主と同じように完全です。ですから、この現象世界もそれ自体完璧に作られています。物質宇宙は、24の主要元素で構成されている一時的な現象ですが、この宇宙を維持し、存続させるために必要な一切のものを作りだすよう24元素が配列されています。宇宙内の他の何者かが、この宇宙を維持していくために余計な努力をする必要はありません。宇宙は、完全全体者のエネルギーによって定められた独自の時間単位に則って動いていますが、その期限がくると、一時的な現象世界は完全体の完全な取り決めによって破壊されます。
小さな完全固体(生命体)が完全全体者(神)を悟ることができるように、あらゆる便宜が用意されています。完全全体者について不完全な知識を持つと、不完全な物事を体験しなくてはなりません。生命体が人間の体に入るのは、その生命体の意識が完全な状態で現われたということであり、生と死を繰りかえす中で、840万種の生物体の中を出たり入ったりする進化の最後に得られるものです。人間として生きているのに「完全全体者と関連する自分の完全さ」を悟らなければ、自分本来の完全さを悟る機会を見逃し、物質自然の法則によってふたたび進化の循環に縛りつけられます。
生命を維持するために必要なものが自然界に完備されていることを知らないために、私たちは、感覚満足といういわゆる万全の生活を営むために自然界の資源を利用しようとします。しかし個々の生命は、完全全体者と調和していなければ本当の感覚を楽しむことができないため、自分だけの感覚を満足させようという生活は誤った生き方であり、幻想です。手は体全体とつながっていてこそ完全な固体ですが、体から離れれば、「手」と呼べても手としての機能は果たせません。同じように、個々の生命体は完全全体者の部分です。部分が全体から離れてしまうと、見かけは完全でも、それは生命体に満足は与えてくれません。
人間生活の完成は、完全全体者に奉仕をするときだけに達成できます。この世界のすべての奉仕――社会的、政治的、共同体的、国際的、あるいは宇宙的な奉仕――でも、完全全体者と関係がなければ、完全な奉仕とは言えません。すべてが完全全体者と調和するとき、全体の部分体も完全になります。
īśāvāsyam idaḿ sarvaṁ
yat kiñca jagatyāṁ jagat
tena tyaktena bhuñjīthā
mā gṛdhaḥ kasya svid dhanam

訳語

翻訳

宇宙に存在する一切の生物・無生物は、主によって支配され、所有されている。ゆえに、自分に必要なものとして割り当てられたものだけを受けとるべきであり、それ以外は、それがだれのものかをよく承知したうえで、受けとってはならない。

解説

ヴェーダの知識は、主自身から始まる完璧な精神指導者の師弟継承をとおして伝えられるため、間違いがありません。ヴェーダ知識の最初の言葉は主自身が語ったものであり、今なお超越世界から発せられています。主によって語られた言葉をアパウルシェーヤ(apauruṣeya)といいますが、俗界の人間によって語られたものではないということを示しています。物質界の人間は次のような4つの欠点があります。(1) 必ず間違いを犯す、(2) 幻惑される、(3)他人を欺こうとする、(4) 不完全な感覚を持っている。人間は必ずこの4つの基本的な欠点を持っているので、普遍的知識を他人に完璧に伝えることはできません。しかしヴェーダは、そのような不完全な生物によって作られたものではありません。ヴェーダの知識は、最初に創造された生物・ブラフマーの心に伝えられ、ブラフマーは次に自分の子どもや弟子に伝え、さらに彼らが後世に伝え、こうして継承の歴史が作られました。
主はプールナン(pūrṇam)「すべてにおいて完璧」ですから、自ら支配している物質自然の法則に縛られることはありません。しかし、生物・無生物どちらも自然の法則に、究極的には主の勢力に支配されています。『イーシャ・ウパニシャッド』はヤジュル・ヴェーダの1つであり、宇宙の全存在物を所有する者(神)に関する情報を含んでいます。
このことは『バガヴァッド・ギーター』の第7章(第4-5節)でパラー(parā)とアパラー(aparā)プラクリティについて述べられている箇所でわかります。自然の構成要素、土・水・火・空気・エーテル・心・知性・自我は、すべて主の劣性の物質エネルギー(aparā prakṛti・アパラー・プラクリティ)に属しますが、生命体(有機体)のほうは主の優性エネルギー(parā prakṛti・パラー・プラクリティ)に属します。しかし、どちらのエネルギーも主から出てくるものですから、究極的に主は一切万物の支配者です。宇宙に存在するもので、優性・劣性どちらかのエネルギーに属さないものはありません。ゆえに、一切万物は至高の生命(神)の所有物だということです。
至高の生命、すなわち絶対人格主神は完全な人物であり、その所有するさまざまな力によってすべてを調整する完全無欠の知性を持っています。至高の生命はよく火にたとえられ、有機物と無機物はその火の熱と光にたとえられます。火が熱と光という形でエネルギーを出すように、主は、エネルギーをさまざまな形で発出します。このように主は、一切万物の究極の支配者であり、維持者であり、かつ命令者でありつづけます。主はすべてを知り、全生命に恩恵を施される方です。また主は、人知を超えたあらゆる財富(力・富・名声、美・知識・無執着心)を持っています。
ですから、「すべてを所有しているのは主以外にはない」ということを、はっきり悟らなくてはなりません。そして主が自分に割り当てたものだけを受けとるべきです。たとえば牛はミルクを出しますが、自分ではそれを飲みません。牛は草や穀物を食べ、ミルクは人間の食糧になります。これが主の配慮です。主は優しい心で私たちにそれを与えているのですから、私たちは与えられたもので満足すべきであり、自分の所有物のほんとうの所有者をいつも意識していなくてはなりません。
もう1つ例を挙げてみましょう。私たちの住んでいる家は、土・木・石・鉄・セメントなどいろいろな材料で作られています。しかし、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の言葉から判断すると、これら建築材料のどれ1つをとっても私たち人間には作りだせないことがわかるはずです。人間は単にそれらを集め、手を加え、そしてさまざまな形に作りかえているだけです。労働者は「自分が一生懸命働いてこれを作ったのだから、これは自分のものになって当然だ」とは言えません。
現代社会では、労働者と資本家がつねに争っています。その争いは今や国際的規模に拡大し、世界はひじょうに危険な状態になっています。人間と人間が敵意をむきだしにして、犬や猫のように罵りあっています。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は犬や猫に助言することはできかねますが、正しいアーチャーリャ(神聖な教師)をとおして神の言葉を世に伝えることはできます。ですから人類は、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のヴェーダの知識を取りいれ、物欲のために争うべきではありません。たとえどんなものであろうと、神の恩恵によって与えられた基本的権利以上のものを望んではなりません。共産主義者、資本主義者、その他さまざまな考えの人々が、じっさいは神が完全に所有している天然資源の所有権を主張するならば、世界は平和になれません。資本主義者は、政治的策略だけを使って共産主義者を抑えることはできませんし、また共産主義者のほうも「盗まれたパン」をめぐっていたずらに争うだけで資本主義者に勝つことはできません。至高人格主神の所有権を両者が認めなければ、主から盗んだものを自分のものだと主張しているということになります。したがって、両者とも自然の法則によって処罰されるはずです。今では共産国も資本主義国も原子爆弾を保有しており、互いに至高主の所有権を無視しつづけるならば、必ず原子爆弾はやがて両者を破滅させることでしょう。したがって、自らを救い、世界に平和をもたらすためには、両者ともに『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の教えに従わなくてはなりません。
人間生活は、犬や猫のように喧嘩をするために用意されているのではありません。人間生活の大切さや目的を理解できるほどの知性を私たちは持つべきです。ヴェーダ経典は人間のために編纂されたのであって、犬や猫を相手にして作られたものではありません。犬や猫は自分の食べ物を得るために他の動物を殺しても罪をかぶることはありませんが、人間が自分の押さえ切れない味覚の欲望を満たすために動物を殺すならば、自然の法則を破った責任をとらされ、処罰されなくてはなりません。
人間の基本的な生活水準を動物のそれに当てはめることはできません。虎は米や麦を食べませんし、牛乳も飲みません。彼らには「動物の肉」が食糧として与えられているからです。また、菜食や肉食の動物・鳥類がたくさんいますが、そのどれ一つをとっても自然の法則を破っているものはありません。なぜなら、その法則は神の意志によって定められたものだからです。動物・鳥類・派虫類・その他の下等生物は、自然の法則に忠実に従っています。ですから、罪は犯しようもなく、ヴェーダの戒めもかれらには必要ありません。人間だけが「責任」を負う立場にある生物なのです。
しかし、菜食主義者になりさえすれば自然の法則を破らずにすむ、と考えるのはまちがいです。野菜にも生命があるからです。ある生物が他の生物の食糧になるのは自然の法則です。ですから、菜食主義者であることを自慢するべきではありません。大切なことは、至高主の存在を認めているかどうかという点にあります。動物は、神を認識するほど発達した意識を持っていません。しかし人間は、ヴェーダ経典から教えを学ぶほど充分な知性を持ち、自然の法則が作用していることを知って、そうした知識からさまざまな益を得ています。もし人間がヴェーダ経典の教えを無視するならば、その生活はひじょうに危険なものになります。だからこそ私たちは至高主の権威を認め、主の献愛者にならなくてはなりません。そしてすべてを主への奉仕に捧げ、主に捧げられた食べ物の残りにあずかるようにしなくてはなりません。こうした行為により、人間として為すべき義務を正しく遂行できるようになります。主は『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第26節)で、純粋な献愛者の手で捧げられた菜食の料理を受けいれる、と明言しています。ですから、ただ厳格な菜食主義者になるだけではなく、主の献愛者となって自分が食べる物をすべて主に捧げ、その純粋になった捧げもの(プラサーダ・神の慈悲)をいただくようにすべきです。このような意識で活動できる人は、人間生活の義務を正しく遂行することができます。自分が食べる物を最初に主に捧げない人々は、『バガヴァッド・ギーター』(第3章・第13節)に示されているように、罪を口に入れ、その結果として生じる数々の苦しみに直面しなくてはなりません。
罪の根源は、主の所有権を認めず、自然の法則に意図的に従わないことにあります。自然の法則、すなわち主の命令への不服従は、人間に滅亡をもたらします。いっぽう、冷静で、自然の法則を知り、不必要な執着心や嫌悪心を持っていない人は必ず主に認められ、神のもとへ、永遠のふるさとに帰っていく資格が与えられます。
kurvann eveha karmāṇi
jijīviṣec chataḿ samāḥ
evaṁ tvayi nānyatheto ’sti
na karma lipyate nare

訳語

翻訳

そのように活動しつづける人は、何百年ものあいだ生きたいと望むことだろう。なぜなら、そのような活動は、その行為者をカルマの法則に縛りつけることはないからである。人間にとって、これに代わる生き方はありえない。

解説

だれも死にたいとは思いません。それどころか、できるだけ長生きしたいと思っています。このような傾向は個人だけではなく、地域や社会や国の中にも見られます。どのような生物も生存競争をしていますが、ヴェーダはそれを自然なことであると言っています。生命体はもともと永遠ですが、物質存在の中で束縛されているために、次から次へと肉体を変えていかなくてはなりません。これが魂の輪廻転生、すなわちkarma bandhana(カルマ バンダナ)「自分の活動による束縛」です。生物は生きるために働かなくてはなりません。それが物質自然の法則です。そして自分に定められた義務に従って行動しなければ、自然の法則を破ることになり、数多くの生物種に生まれ変わりながら生と死のサイクルにさらに縛りつけられていきます。
他の生物も生と死の繰りかえしに縛られていますが、人間になったとき、その生物はカルマの法則から解放される絶好の機会に恵まれます。『バガヴァッド・ギーター』は、カルマ(karma)、アカルマ(akarma)、ヴィカルマ(vikarma)について明確に説いています。経典はカルマを「自分に定められた義務としておこなう活動」と定義しています。「生と死の繰りかえしから解放させる活動」をアカルマといいます。そして、「自由を誤って使い、自分を下等な生物形態に導く活動」をヴィカルマといいます。この3種類のうち、カルマの束縛から人を自由にする活動が、知的な人々に好まれます。ふつうの人は、世に認められるために、またこの世や天国での地位を欲しがって、いわゆる善行をしようとします。しかしより高尚な人は、活動や活動の反動から完全に自由になろうとします。知性の高い人は、良い活動も悪い活動も、結局は物質的な苦しみに人を縛りつけることをよく心得ています。したがってそのような人は、そうはならない、つまり善悪両方の反動から自分を解き放ってくれる活動を求めます。
『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の教えは、『バガヴァッド・ギーター』にさらに詳しく説かれています。『バガヴァッド・ギーター』は、すべてのウパニシャッドの真髄であり、ときには『ギートーパニシャッド』とも呼ばれています。その『バガヴァッド・ギーター』(第3章・第9~16節)で人格主神は、ヴェーダ経典が述べる規定の義務を実行しなければ、ナイシュカルマ、あるいはアカルマの境地に達することはできないと言っています。これらの経典は、私たちが最高生命の権威を徐々に悟れるように、人間としての活動エネルギーを制御することができます。また人格主神――ヴァースデーヴァあるいはクリシュナ――の権威を悟った人は、絶対的知識の境地に達したということになります。この純粋な境地では、徳性、激性、無知という自然界の三性質の影響を受けることはなく、ナイシュカルマにもとづいて活動することができます。そのような活動は、私たちを生と死の繰りかえしに縛りつけることはありません。
実際問題として、主への献愛奉仕以外のことをする必要はありません。しかし、そのような高い次元の生活をしたことのない人には、献愛奉仕をすぐに始めるのは難しいことでしょうし、果報的活動を完全にやめることもできないでしょう。条件づけられている魂は、肉体感覚の喜びや自分の利益――個人的あるいは利他的な利益――を求めて活動するのが習慣になっています。ふつうの人が自分の感覚を満足させるために働き、その同じ気持ちが個人から社会・国家・人類に拡大された場合、それは愛他主義・社会主義・共産主義・国家主義・人道主義という耳ざわりのいい言葉で呼ばれます。このような「主義」はカルマ・バンダナ(「カルマの束縛」の意味)という魅力的な活動に見えますが、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、「その『主義』のために生きたければ、それを神中心としたものにすべきである」と説いています。世帯者になろうと、愛他主義者・社会主義者・共産主義者・国家主義者・人道主義者になろうと、それは問題ではありません。その活動をéçäväsya(イーシャーヴァーッシャ)・神を中心とした意識でおこなえばいいのです。
『バガヴァッド・ギーター』(第2章・第40節)で主クリシュナは、神を中心とした活動はひじょうに価値があり、わずかに実践するだけでも人生の最大の危険から救ってくれる、と言っています。最大の危険とは、840万種類の生物の中で生と死を繰りかえす進化にふたたび転落することを指します。人間生活をとおして与えられる精神的成長の機会を、どのような理由にしろ、見逃してしまう人は、もっとも不運な人と言わざるを得ません。愚かな人は、不完全な感覚を持っているために、それがじっさいに起こっていることが理解できません。だからこそ『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、イーシャーヴァーッシャの精神で自分のエネルギーを使うよう私たちに助言しています。そのような意識を持てば、私たちは何百年も生き長らえたいと望んでもいいのです。さもなければ、いくら長く生きても何の意味もありません。木は何千年も生きます。しかし木と同じように長く生きたり、まるで「鍛冶屋のふいご」と同じように息をしたり、豚や犬のように子どもをもうけたり、ラクダのように食べたりしても、何の価値があるというのでしょう。神を中心として毎日を過ごす謙虚な生活は、神と何の関係もないいわゆる愛他主義とか社会主義などという大げさな欺瞞の生活よりもはるかに価値があります。
利他的活動が『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の精神で実行されると、カルマ・ヨーガ(karma yoga)になります。そのような活動が『バガヴァッド・ギーター』(第18章・第5-9節)で勧められていますが、それは、その実践者を生と死の繰りかえしに転落する危険から守ってくれるからです。そのような神中心の活動が途中で終わっても、実践者には有益な結果として残ります。来世でふたたび人間として生まれることが保証されているからです。
神を中心とした活動の実践法については、シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーが著わした『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』で詳しく説明されています。私は、この本をThe Nectar of Devotion(『献身奉仕の甘露』)という英文タイトルで出版しました。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の精神で行動することに興味を持つ人々に、この価値ある本をお勧めします。
asuryā nāma te lokā
andhena tamasāvṛtāḥ
tāḿs te pretyābhigacchanti
ye ke cātma-hano janāḥ

訳語

翻訳

魂の殺害者は、だれであっても、闇と無知に包まれた無信心者の世界として知られる惑星に入らなくてはならない。

解説

重大な責任という観点から、人間生活と動物の生活ははっきり区別されます。この責任をよく心得、そのような意識で生活している人々をsura(スラ・信心深い人)といいます。いっぽう、その責任を無視したり、あるいは知らない人々は、asura(アスラ・邪悪な者)と呼ばれます。どちらのタイプの人間も、全宇宙の至るところに見かけられます。リグ・ヴェーダでは、スラはいつも至高主ヴィシュヌの蓮華の御足に到達することを願い、それに応じた行動をする、と述べられています。そして彼らの道は、太陽の進む道のように光り輝いています。
知的な人なら、人間の体は、何百万年ものあいだ輪廻を繰りかえした果てに得たものであることを自覚すべきです。物質界はときに海にたとえられ、人間の体はその海を渡るように作られた頑丈な船にたとえられます。さらにヴェーダ経典やアーチャーリャ(神聖な教師)は熟練した船長に、人間の体のいろいろな機能は、船が無事に目的地に着くのを助ける順風にたとえられます。このようなすばらしい便宜が与えられているのに、自己の悟りのために人生を充分に利用しない人は、ātma-hā(アートマ・ハー・魂の殺害者)と見なされます。「魂の殺害者は、無知の闇のもっとも深い部分に落とされ、永遠の苦しみを嘗める」と『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』ははっきり警告しています。
経済的必需品は、私たち人間と同様に、豚や犬やラクダやロバにとっても必要です。しかし、このような動物の暮らしの問題は、人間と比べてひじょうに汚らわしい状態で満たされます。いっぽう人間には、自然の法則によって、居心地のいい優れた生活ができるようあらゆる便宜が与えられています。なぜなら、人間生活は動物生活よりも重要な意味があり、また価値が高いからです。「どうして人間は、豚やその他の動物よりもいい生活をするのでしょうか」、「どうして高い地位にある重役は一般社員ではなく、あらゆる便宜を与えられた高級社員なのでしょうか」――それは、高い地位にいる人はそれだけ高等な仕事をしなくてはならないからです。つまり人間は、飢えた胃袋に食べ物を詰めこんでいるだけの動物たちよりも、優れた仕事をするということです。ところが、魂を殺害する現代文化は、「飢えた胃袋」に関係した問題をふやしているにすぎません。一見文化人のように見える「現代人」という上品な動物に自己の悟りについて尋ねると、「おなかを満たすために働きたいと思っています。飢えた人間に自己の悟りなど必要ありません」という答しか返ってきません。しかし、自然の法則は冷酷です。胃袋のために一生懸命に働きたいと思っていても、いつか仕事がなくなってしまうのでは、とびくびくしていなくてはなりません。
人間の姿が与えられたのは、ロバや豚や犬のように働くのではなく、最高かつ完成された生活に到達するためです。自己の悟りについてまったく無頓着ならば、自然の法則は、私たちが望もうが望むまいが、懸命に働くことを強います。現代人は、荷車を引くロバや牡牛のように重労働を強いられています。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のマントラ3で、アスラたちが送られる世界についてある程度明らかにされています。人としての義務を果たさない人は、無知と暗闇の中であくせく働くためにアスラの惑星に生まれ、堕落した生物となって生まれなくてはなりません。
『バガヴァッド・ギーター』(第6章・第41-43節)には、自己を悟ろうとして真剣に努力はしたものの、その過程を完成させられなかった人は、シュチ(śuci)あるいはシュリーマトゥ(śrīmat)の家庭に生まれると述べられています。シュチは精神的に発達したブラーフマナを、シュリーマトゥは、商業社会の一員(vaiśya・ヴァイシャ)を指します。つまり、自己の悟りを達成できなかった人でも、前世で真剣に努力していたからこそ、来世でさらに優れたチャンスが与えられるということです。失敗した人でさえ高貴な家庭に生まれる機会が与えられるのですから、成功者がどれほどすばらしい状態に達するかは、私たちには想像さえつきません。神を悟ろうと試みただけで、富裕な貴族の家庭に生まれることが保証されます。ところが、その努力もせず、幻想に包まれていたいと思っている人や、あまりにも物質主義的で、物質的な喜びに執着している人は、すべてのヴェーダが断言しているように、地獄というもっとも深い暗黒の世界に転落しなくてはなりません。そのような物質主義のアスラたちは、あたかも宗教をやっているふりをすることがありますが、じつのところ、彼らが求めているのは物質的富だけです。『バガヴァッド・ギーター』(第16章・第17-18節)は、そのような輩の正体をātma-sambhāvita(アートゥマ サンバーヴィタ)と呼んで非難しています。この言葉には「人を騙す力ゆえに偉人とされ、また膨大な財産ゆえに無知な大衆に選ばれた権力者」という意味があります。自己の悟りや、イーシャーヴァーッシャの知識や、主についてまったく知らないそのようなアスラたちは、必ず暗黒の世界へ落ちていきます。
結論として言えるのは、人間になった私たちは、不安定な基盤に立って暮らしの問題を解決させるだけではなく、自然の法則によって押しつけられた物質生活の問題をすべて解決させなくてはならない、ということです。
anejad ekaṁ manaso javīyo
nainad devā āpnuvan pūrvam arṣat
tad dhāvato ’nyān atyeti tiṣṭhat
tasminn apo mātariśvā dadhāti

訳語

翻訳

人格主神は、自らの住居にいながら、心よりも速く走り、疾走するいかなる者たちをも抜きさることができる。強大な半神さえ主に近づくことができない。主は1カ所にいながら、風や雨を供給する半神たちを支配する。主はあらゆる優秀な者を凌ぐ。

解説

絶対人格主神・至高主は、どれほど偉大な哲学者でも推論では理解できません。主の慈悲を得た献愛者だけが主を知ることができます。『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第34節)では、献愛者でない哲学者が心の速さで何百年間宇宙を飛びつづけても、絶対真理者は遥か遠くにいることを思い知らされるだけである、と述べられています。さらに『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第37節)は、「絶対人格主神はゴーローカ(Goloka)という名の超越的な住居を持ち、そこで崇高な娯楽を楽しんでいるが、自らの創造エネルギーで作りだした世界の隅々に同時に存在することもできる」と述べています。『ヴィシュヌ・プラーナ』では、主のこの力を、火から出る熱と光にたとえられています。火は1カ所に灯っていても、光と熱をその1点から周辺に放ちます。これと同様に、絶対なる至高人格主神は、自分の住居にいながらも、自らのさまざまなエネルギーをあらゆる場所に遍在させています。
そのエネルギーは無数にありますが、基本的に内的エネルギー、中間エネルギー、外的エネルギーという3つに分けられます。そしてこの一つ一つがさらに何百何千と分類されます。空気・光・雨といった自然現象を統轄する力が与えられている半神たちは、至高人格主神の中間エネルギーに分類されます。人間を含む生物もまた主の中間エネルギーが生みだしたものです。物質界は、主の外的エネルギーによって作られたもので、神の王国、すなわち精神界は主の内的エネルギーが現わされたものです。
このようにして至高主のさまざまなエネルギーは、さまざまな力をとおして遍在しています。主自身と主のエネルギーとは異なるものではありませんが、だからといって主は姿のない状態ですべての場所に散在しているとか、人格を持った存在ではなくなってしまうと誤解してはいけません。自分の限られた理解力に頼って結論を下す人たちがいますが、主はそのような浅薄な理解力で知ることはできません。だからこそウパニシャッドは、「限られた能力で主に近づくことはできない」と警告しているのです。
主は『バガヴァッド・ギーター』(第10章・第2節)で、「偉大なリシ(聖者)やスラでさえわたしを知ることはできない」と言っています。まして、主のすることを理解できないアスラたちに主が理解できるわけがありません。このマントラ4は、絶対真理とは、最終的に絶対的人物であると明言しています。さもなければ、主が人格の様相を持っていることを示すためにあれこれ述べる必要もないはずです。
主の力の個々の部分(生命体)は、主自身と同じ特質をそなえていますが、その活動の範囲は限られており、したがってあらゆる面で限定されています。部分体は決して全体と同等にはなれませんから、主の全能力を充分に認識することはできません。主の部分体であり、物質に影響された愚かで無知な生命体は、主の超越的な立場を憶測しようとします。「心の憶測で主を知ろうとしても無駄なことである」と『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は警告しています。私たちは、ヴェーダの至高の源である主その方から、超越的知識を学ばなくてはなりません。主だけが、その超越知識を完璧にそなえた方だからです。
完全全体者の部分体には、それぞれ独自の活動エネルギーが与えられています。しかしその部分体が独自の活動を忘れた場合は、マーヤー(幻想)の中にいるとみなされます。だからこそ、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、「主が各自に与えた、部分体としての役割を果たすことに注意深くあれ」と冒頭から説いています。とは言っても、これはそれぞれの魂には主導性がないということではありません。各生命体は主の一部ですから、当然、主と同じ主導性を持っているはずです。ですから、その主導性、つまり自ら率先して行動する気質を、知性と共に、そしてすべては主の力によるものであることを理解して発揮すれば、マーヤー(幻想)との接触のために忘れさらていた本来の意識を甦らせることができます。
あらゆる力は主から授けられます。したがって、与えられた各自固有の力を勝手気ままに使うのではなく、主の意志を遂行するために使わなくてはなりません。主の意志に従う態度をとる者だけが主を理解します。完璧な知識とは、主のあらゆる姿や勢力を理解し、その力が主の意志に従ってどのように作用しているかを知りつくすことを指します。これらは主によって、全ウパニシャッドの真髄である『バガヴァッド・ギーター』という聖典の中にだけ説かれています。
tad ejati tan naijati
tad dūre tad v antike
tad antar asya sarvasya
tad u sarvasyāsya bāhyataḥ

訳語

翻訳

至高主は歩くが、また歩きもしない。主ははるか遠くにいるが、またすぐ近くにもいる。主は、すべての内にもいれば、すべての外にもいる。

解説

これは、至高主が想像を絶する力を使っておこなう超越的な活動の説明です。想像力を絶するその力の証明として、この節には「主は歩くが、また歩かない」という相反する2つの言葉が使われています。このような矛盾した表現は、人智をはるかに超えた主の力を明確に示すのに役立ちます。私たちの浅薄な知識ではそうした矛盾には納得できませんから、自分の理解の程度に応じて、主の正体を想像するしかありません。たとえば、マーヤーヴァーダ派の非人格論哲学者は、主の姿のない状態の活動だけを受けいれ、人格性を否定します。しかしバーガヴァタ派は、主が、人格的・非人格的両面の様相をそなえていることを認めます。彼らはまた、神が想像を絶する力をもっていると信じています。なぜなら、そうした力がなければ「至高主」という言葉が使われる意味はないからです。
神は見えないのだから人格を持つ存在ではない、と単純に思いこんではなりません。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、この考えが誤りであると警告し、「主は、はるかかなたにいるが、すぐそこにもいる」と説きます。主の住居は物質界を超えたところにあり、私たちには物質界の広さを測ることさえできません。それほどこの物質界が途方もなく広大ならば、そのはるかかなたにある精神界のことなど、なおさらわかるはずがありません。精神界が物質界のはるかかなたにあることは『バガヴァッド・ギーター』(第15章・第6節)で確証されています。ところが、主はそれほど遠くにいるにもかかわらず、必要とあらば、心や風の速さとは比べものにならないほどの速さで、またたくまに私たちのまえに現われることができます。前節で述べられたとおり、主はだれにも追いつけないほどの速さで歩くことができます。
しかし、至高人格主神がせっかく私たちのまえに姿を見せるのに、私たちはそれを無視してしまいます。愚かな人間が見せるこの態度は、『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第11節)で、「愚か者は主をふつうの人間と考えてあざ笑う」と表現されています。主はふつうの生物ではありませんし、ましてや物質自然から生みだされた肉体をまとって私たちのまえに現われるのでもありません。神は、ふつうの生物と同じような物質の肉体をまとって降誕する、と主張するいわゆる通俗学者がたくさんいますが、彼らは人智を絶した主の力を知らないために、主をふつうの人間と同じレベルに置いてしまっているのです。
主は私たちの想像も及ばない力を持っているので、私たちの奉仕をどのような媒体をとおしてでも受けいれることができますし、自分の力を望みどおりに多様に転換させることができます。不信心な者たちは、「神自身が降誕するはずがない。するのであれば物質エネルギーの形で降りてくるはずだ」と主張します。しかしもし私たちが、人智を絶する神の力を真実として認めるなら、そうした主張の根拠はなくなります。また、仮に主が物質エネルギーの形で私たちのまえに現われるとしても、その物質エネルギーを精神エネルギーに転換させることなど、主にはたやすいことなのです。どちらのエネルギーも同じ源から出ており、その源である主は、自分の思いどおりにそのエネルギーを使い分けられます。たとえば、主は、見かけは土や石や木から出来ている神像(arcä vigrah・アルチャー・ヴィグラハ)の形で現われることができます。これらの神像は、木や石やその他の材料で彫刻されてはいますが、偶像破壊主義者が非難するような「偶像」ではありません。
不完全な物質的存在にいる私たちは、不完全な視力のために至高主をじかに見られない状態にあります。しかし、そうした物質的な目をとおしてでも、なんとかして主を見たいと献愛者が願えば、主はその望みをかなえ、そしていわゆる物質化した形をとって現われ、献愛者の真心のこもった奉仕を受けいれてくれます。たとえある献愛者が低い奉仕の段階にいたとしても、その人が単なる偶像を拝んでいると考えてはなりません。彼は、自分にわかるような形で現われてくれた主をじっさいに拝んでいるのですから。そして、このアルチャー(神像)の姿は、崇拝する人の気まぐれから作られたのではありません。そのことはしょせん無神論者にはわからないでしょうが、真剣な献愛者には感じられることです。
主は『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第11節)で、献愛者の服従の度合いに応じて接すると言っています。つまり、だれかれというのではなく、主は自分に完全に身をゆだねる者に対してのみ自らを現わすのです。ですから、服従的な魂に対して、主はいつもそばにいますが、服従しない魂に対しては、主ははるか遠くにいて近づくことさえできません。
このことに関して、経典にしばしば出てくる2つの言葉、サグナ・saguṇa(質を持つ)とニルグナ・nirguëa(質を持たない)はひじょうに重要です。サグナという言葉の中には、「主は、知覚できる質で降誕したときには物質的な姿で現われ、物質自然の法則に縛られる」という意味はありません。主は、一切のエネルギーの根源の方ですから、物質エネルギーも精神エネルギーも主にとっては同じです。主はすべてのエネルギーの支配者ですから、私たちとは違い、そのエネルギーには支配されません。物質エネルギーは、主の管理下で働いています。ゆえに主は、どのエネルギーにも影響されずに、自らの目的のためにエネルギーを駆使することができます。主はまた、いつなんどきでも姿のない存在になることはありません。なぜなら、主は永遠の姿を持つ根源の主だからです。主の非人格的姿、すなわちブラフマンの光は、太陽光線が太陽神の光であるように、主自身から発する光です。
主のエネルギーについて、次のような話があります。

昔、プラフラーダ・マハーラージャという神聖な気質を持つ子が、無神論の父親に尋ねられました。「おまえの神はどこにいるのか」。プラフラーダが「神はどこにでもいます」と答えると、父は怒り、「この宮殿のこの柱の中にもいるのか」と聞きました。プラフラーダが「います」と答えると、父は剣を抜いて柱を叩き壊しました。その瞬間、主は半人半獅子の姿・ナラシンハという化身で現われ、無神論者の王を殺しました。このように、主は一切万物の中にいます。そしてさまざまなエネルギーを駆使して万物を創造します。また、真剣な献愛者に恩恵を授けるため、想像を絶する力でどのような場所にでも現われることができます。化身ナラシンハは柱の中から現われましたが、無神論者の命令ではなく、献愛者プラフラーダの願いに応じたものです。無神論者が主に姿を見せるよう命令することはできませんが、主は献愛者に慈悲を示すために、どのような場所であっても姿を現わします。主は『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第8節)でも、無神論者を打ち倒し、献愛者を守るために降誕する、と言っています。もちろん主は、不信心な者を自分で倒すエネルギーも、また自分に代わって倒させる代行者もたくさん持っていますが、献愛者に個人的に寵愛を示すことのほうに喜びを感じます。だからこそ現われるのです。じっさい、主が権化するのは献愛者に寵愛を示すためだけであって、それ以外の目的はありません。
『ブラフマ・サムヒター』(第5章・35節)には、「根源の主ゴーヴィンダは完全分身として一切万物の内に入る」と述べられています。主は宇宙の中に、また宇宙のすべての原子の中にも入ります。主は、ヴィラータ(virāṭ)の姿で万物の外に、アンタリャーミー(antaryāmī)の姿で万物の内に存在しています。そしてアンタリャーミーとしてすべての出来事を目撃し、私たちの行為の結果をカルマパラ(karma-phala)として与えます。私たちは前世の行為をはっきりと覚えていませんが、主がすべての行為を見ているために結果が絶えず現われ、自分の行為の反動や報いを受けなくてはなりません。
内にも外にも神だけがいる――これが真実です。火から熱と光が出ているように、すべては神のさまざまなエネルギーによって現われています。つまり、主の多様なエネルギーのあいだには「同一性」があるということです。しかし同一性はあっても、微細な部分体である私たち生命体がささやかに味わう喜びすべてを、主は自分の姿をとおして無限に楽しんでいるのです。
yas tu sarvāṇi bhūtāny
ātmany evānupaśyati
sarva-bhūteṣu cātmānaṁ
tato na vijugupsate

訳語

翻訳

すべてを秩序正しく至高主と関連づけて見、全生命体を至高主の部分体として見、一切万物の内に至高主を見る人物は、何をも、そしてどのような生物をも嫌悪することはない。

解説

これが、一切を至高人格主神との関係の中でみる偉大な人物・マハー・バーガヴァタ(mahā-bhāgavata)に関する説明です。至高主の存在をどれほど理解しているかによって、献愛者は3段階に分けられます。カニシュタ・アディカーリー(kaniṣṭha-adhikārī)は、一番低い段階の信者で、自分の宗教的信念に従って、寺院や教会やモスクなどへ礼拝に行き、神を拝みます。このような信者は、神は礼拝所にいて、ほかにはいないものと信じています。そして、だれが至高主を悟っているか、だれがどの段階で神に奉仕をしているかもわかりません。彼らは、形式的な礼拝をしながら、自分たちの方法がほかの方法よりも優れていると考え、他の宗教とのあいだで争いを起こします。カニシュタ・アディカーリーは、まだ物質界にとどまっており、物質と精神との境を越えて精神界に到達しようとしている信者のことをいいます。
さらに高い第2段階にいる献愛者をマッデャマ・アディカーリー(madhyama-adhikārī)といいます。この段階の人は、次のような4つの原則的視野を持っています。(1) まず至高主を見る、(2) 次に主の献愛者を見る、(3) 神を知らない無知な人を見る、(4) 最後に、神を信じず、神に奉仕をしている人を嫌悪する無神論者を見る。マッデャマ・アディカーリーは状況に応じ、相手によって自分の態度を変えます。つまり、至高主を崇拝し、愛の対象と考え、主に献愛奉仕をする人々を友人として持つということです。そして、神は知らないけれども純心な人には、その人の心の中に眠っている神への愛をなんとかして目覚めさせようとします。しかし、主の御名そのものをあざ笑う無神論者には近づこうとしません。
マッデャマ・アディカーリーの上に、すべてを至高主と関連づけて見るウッタマ・アディカーリー(uttama adhikārī)がいます。彼は、「生命体は主の部分体」という悟りを持っているので、無神論者、有神論者という区別した見方はしません。また、博学なブラーフマナも道ばたの野良犬も、同じように神の一部ではあるけれども、物質自然の質に応じてそれぞれ異なる姿で現われているにすぎないことも知っています。また、ブラーフマナとして現われている魂は、主から与えられたささやかな自主性を誤って使わなかったこと、犬として現われている魂は、与えられた独自性を誤用したために自然の法則によって罰せられ、無知の肉体の中に閉じこめられたことを知っています。しかし、ブラーフマナと犬の行動にかかわりなく、ウッタマ・アディカーリーはその両者の善のためにふるまいます。このような博学な献愛者は、肉体には惑わされず、その中にある精神的火花に魅力を感じています。
ウッタマ・アディカーリーを真似て、さも一体感や同胞意識を持っているかのように装っても、肉体次元で行動をする者は偽物の博愛主義者です。「万人共通の兄弟愛」という概念は、ウッタマ・アディカーリーから学びとらなくてはなりません。個々の魂についても、また一切万物の中に遍在している至高主の超霊魂について知らないような愚か者からは、なにも学びとることができません。
このマントラ6では、「注視する」、あるいは秩序だてて見なくてはならない、と明言されています。これは、先代のアーチャーリャ、すなわち完璧な教師に従わなくてはならない、ということです。この節で使われている正確なサンスクリット語は、アヌパッシャティ(anupaśyati)という単語です。Anu(アヌ)には「従う」、paśyati(パッシャティ)は「注視する」という意味があります。しかしこれは、事物を自分の肉眼をとおして「見る」という意味ではありません。肉眼には物質的な欠陥がありますから、物事をありのままに見ることはできませんし、より優れた権威者から教えを聞かなければ物事を正しく見ることはできません。至上の権威とは、主自らが語った「ヴェーダの知恵」です。ヴェーダの真理は、まず主からブラフマーへ伝えられ、さらにブラフマーからナーラダへ、ナーラダからヴャーサへ、そしてヴャーサから次の弟子へと受けつがれました。昔は、ヴェーダの言葉を記録する必要はまったくありませんでした。なぜなら、当時の人々はすばらしい知性と鋭い記憶力をそなえていたからです。真正な精神指導者が言った言葉を一度聞くだけで理解し、その教えに従うことができたのです。
現在、啓示経典の注釈書がたくさんありますが、そのほとんどは、最初にヴェーダの知恵を語った当の人物シュリーラ・ヴャーサデーヴァから「師弟継承」されてきたものではありません。シュリーラ・ヴャーサデーヴァが最終的に著わした完全で最高の書物は『ヴェーダンタ・スートラ』の権威ある解説書『シュリーマド・バーガヴァタム』です。また、主自身が語り、ヴャーサデーヴァが記録した『バガヴァッド・ギーター』も権威のある書物です。この2冊の本は、もっとも重要な啓示経典であり、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の原則に反するような注釈は、それがいかなるものであろうとも権威はありません。各ウパニシャッド、『ヴェーダンタ・スートラ』、ヴェーダ、『バガヴァッド・ギーター』、『シュリーマド・バーガヴァタム』の内容は完全に一致しています。ヴャーサデーヴァからつづく師弟継承上の人物は人格主神を信じ、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』が説く主のさまざまなエネルギーの存在を信じており、そのような人物から教えを授かることなく、ヴェーダについて結論を下してはなりません。
『バガヴァッド・ギーター』(第6章・第9節)によれば、すでに解脱の境地(brahma-bhūtaブラフマ・ブータ)にいる人物だけが、ウッタマ・アディカーリーになることができ、すべての生物を自分の兄弟として見ることができます。このような見方は、いつも物質的利益ばかりを追い求めているような政治家にはできません。ウッタマ・アディカーリーの特質を真似ようとする者は、名誉とか物質的報酬のために、他人のうわべの肉体に仕えているかもしれませんが、内なる魂に仕えているのではありません。このような模倣者は、精神界について何も知りません。ウッタマ・アディカーリーは、生命体の内に魂を見、その生命体に精神的存在として仕えます。このようにして、物質的な恩恵も自動的に達成されます。
yasmin sarvāṇi bhūtāny
ātmaivābhūd vijānataḥ
tatra ko mohaḥ kaḥ śoka
ekatvam anupaśyataḥ

訳語

翻訳

すべての生物を主と同じ質を持つ精神的粒子として見ている人物は、物事を正しく知っている。ならば、その人物に幻想や不安が起こりえるだろうか?

解説

マッデャマ・アディカーリーとウッタマ・アディカーリーを除けば、生命体の精神的な面を正しく見られる人は一人もいません。火花と火が「質」的には同じであるように、生命も「質」的には至高主と同じです。しかし「量」について言うならば、火花は火と同じではありません。なぜなら、火花の持つ「熱と光」の量は、火そのものから出る「熱と光」の量において格段の差があるからです。偉大な献愛者マハー・バーガヴァタ(mahā bhāgavata)は、すべてを至高主のエネルギーとする「一体性」をとおして見ています。エネルギーとエネルギー源のあいだに違いはありませんから、一体性があります。熱と光は、分析して見れば確かに火とは異なりますが、しかし熱と光を持たない「火」というものは存在しません。したがって総合的に言えば、熱と光と火は皆同じものと考えられます。
このマントラのekatvam anupaśyataḥ(エーカトゥヴァン アヌパッシャタハ)には、啓示経典の見解に従って全生命の統一性を見なくてはならない、という意味が含まれています。全体者(主)から出る個々の火花(生命体)は、全体者が持つ質の約80%をそなえています。しかし、これらの火花は、量的には決して至高主と同じではありません。完全体の有するさまざまな質は、個々の火花の中にはほんのわずかな量しか入っていません。なぜなら、生命体は至高完全体の微小な一部分にすぎないからです。別のたとえを使って言いますと、海水の1滴に含まれている塩分の量は、海全体に含まれる塩分の量とはもちろん比較にもなりませんが、1滴の海水に含まれている塩分は、化学組成から見れば大海に含まれる塩分と質的に同じです。もしも、個々の生命体が質的にも量的にも至高主と同じだとしたら、その生命体が物質エネルギーに影響される可能性はないはずです。前節のマントラでも言われていたように、どのような生命体(たとえ強大な半神でさえ)も、あらゆる点で最高生命を凌ぐことはできません。ですから、ekatvam(エーカトゥヴァン)は、「生物はあらゆる面で至高主とまったく同じである」という意味ではありません。しかし、広い意味で、両者のあいだに共通点が存在する、ということを意味しています。それはちょうど、ある家族の中では全員が同じ利害関係を持ち、またある国では、さまざまな市民はいるけれども、国民として1つの共通した利害関係を持っているようなものです。すべての生命体は、至高主の同じ家族の一員であり、主の関心と各部分の関心に違いはありません。あらゆる生命体が最高生命体の子どもなのです。『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第5節)で言われているように、宇宙のすべての生命体――鳥類・爬虫類・アリ・水中生物・木・その他――は、至高主の中間エネルギーが現われたものですから、これらはすべて至高主の家族の構成員であって、精神生活をするうえで、互いの利害関係が衝突することはありません。
精神的生命は、『ヴェーダンタ・スートラ』(第1編・第1章・12節)がānanda mayo 'bhyāsāt(アーナンダ マヨー ビャーサートゥ)と述べているように、楽しむために存在しています。どの生命体(至高主とその部分を含む)も、性質と構造上、永遠な楽しみを味わうために生きています。物質の肉体の中に閉じこめられている生命体は、いつも楽しみを求めているのですが、あいにくそれを求める場をまちがえています。というのは、この物質界のほかに、至高主が数知れない仲間たちと楽しんでいる精神界があるからです。その世界にはまったく物質的なものがないために、ニルグナ(nirguṇa)と言われています。そしてこのニグルナの境地では、楽しむ対象や目的において個々の生命のあいだに衝突はありません。ここ物質界では、さまざまな個々の生命体のあいだに衝突が起こっていますが、それは、真の楽しみの中心点が見失われているからです。ほんとうの楽しみの中心点は、崇高で精神的なラーサ・ダンスの中心的存在である至高主です。誰もが主に加わり、1つの超越的な関心を持ちつつ、他人との衝突もなく人生を楽しむようにできています。そして、それこそが精神的関心の頂点であり、私たちがこの完璧な一体感をそこで悟ると同時に、あらゆる幻想(moha・モーハ)や悲嘆(śoka・ショーカ)は姿を消していきます。
無神論的文化はマーヤー・幻想によって作りだされ、その文化からは、必然的に「嘆き」が生じます。現代の政治家たちに支えられている無神論的文化は、つねに不安に満ちています。これが自然の法則であり、『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第14節)に述べられているように、至高主の蓮華の御足に身をゆだねている人だけが、厳格な自然の法則を超えることができます。ですから、あらゆる幻想や不安を取りのぞき、それぞれに異なった関心の中で統一性を築きたいと願うのであれば、すべての活動を神と調和させなくてはなりません。
私たちの活動の結果は、主の関心のために使われなくてはならず、ほかの目的のために使うべきではありません。そうすることによってのみ私たちは、このマントラが言っているātma-bhūta(アート マブータ)「すべての生命体が同質の精神的粒子で構成されている」という見方ができるようになります。このマントラで述べられているātma-bhūta『バガヴァッド・ギーター』(第18章・第54節)で述べられているbrahma-bhūta(ブラフマ ブータ)は同じ意味を持っています。至高の魂(アートマー)は主自身であり、微細な魂は個々の生命体です。そして至高のアートマー(パラマートマー)はすべての微細な魂を養っています。彼らの愛情奉仕を受けて喜びを感じたいからです。父親は子どもを儲けて自分自身を拡張させ、喜びを味わうために子どもたちを養います。子どもが父親の気持ちに従順ならば、家族全員が同じ関心を持って円満な家庭生活を営み、楽しい雰囲気を作りだします。これとまったく同じ状態が至高の魂・パラブラフマン(Parabrahman)の絶対的家族の中で維持されています。
パラブラフマンは、個々の生命体と同じように人物です。主も生命体も姿を持たない「非人格存在」ではありません。そのような超越的人格は、超越的至福と知識と永遠なる命に満ちています。それが精神的存在の真の姿であり、この姿を完全に理解した人は、至高生命体・シュリー・クリシュナの蓮華の御足にただちに身をゆだねます。しかし、こうしたマハートマー(偉大な魂)は、ひじょうに稀にしか見られません。なぜなら、そのような超越的な悟りは、何度も誕生を繰りかえしたあとに辿りつくものだからです。しかし、ひとたび辿りつけば、私たちが現在の生活で体験している幻想や悲しみ、物質的存在の苦悩、生と死の繰りかえしはすべてなくなります。これが、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのマントラから学ぶべきことです。
sa paryagāc chukram akāyam avraṇam
asnāviraḿ śuddham apāpa-viddham
kavir manīṣī paribhūḥ svayambhūr
yāthātathyato ’rthān vyadadhāc chāśvatībhyaḥ samābhyaḥ

訳語

翻訳

そのような人物はありのままに知っているに違いない――すべてに優る偉大な方を、物質的肉体を持たず、全知で、非難を超越し、血管を持たず、純粋無垢、そして太古の昔からだれもの望みを叶え、自ら何一つ不足していない哲学者である人格主神を。

解説

絶対人格主神の持つ超越的で永遠な姿について述べたこのマントラは、至高主が無形ではないことを示しています。主は、俗界では決して見ることのできない荘厳な姿をしています。物質界の生命体の姿は物質自然の中で肉体に包まれており、機械のように動きます。物質的肉体は、必ず血管やその他の機械的組織でできあがっていますが、至高主の荘厳な体にそのようなものはありません。このマントラで、「主は肉体をまとっていない」とはっきり言われていますが、それは、主の体と魂とがまったく同じであることを意味します。私たちは自然の法則によって作られた体を持っていますが、主の体はその法則とは一切無縁です。物質に束縛されている状態にいる魂は、濃厚な肉体と希薄な肉体とは別次元の存在です。しかし至高主はそのような区分による考え方では捉えられず、「身体」とか「心」とかの区別はありません。主は完全体であって、その「心」も「身体」も主自身とまったく同じものなのです。
『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第1節)の中にも至高主に関する同じような記述がありますが、そこでは「主は、超越的な存在、知識、至福を完全に表現した永遠の姿としてのsac-cid-ānanda-vigraha(サッチドゥ アーナンダ ヴィグラハ)である」と述べられています。ヴェーダ経典の中にも「主はふつうの肉体とはまったく異なる種類の体を持つ」と明言されているため、主は姿を持っていない、とときおり言われることもあります。しかしこの「姿を持っていない」というのは、いわゆる私たち人間のような姿を持っていない、ということであり、かつまた私たちの目に見えるような姿ではないという意味です。さらに『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第32節)には、「主は、自分の体のどの部分でもすべてのことができる」とか「自分の体のどの部分を使っても、他の部分の感覚の働きをさせることができる」という説明があります。主は手で歩き、足で物を受けとり、手や足で見、目で食べることができるということです。シュルティ・マントラでも同じことが言われています。「主は、我々人間のような手や足は持っておられないが、しかし我々からの捧げ物を受けいれたり、だれよりも速く走ったりすることのできる、まったく異なる種類の手足を持っておられる」と。私たちの想像も及ばないこのような事実が、この8番目のマントラで確証され、śukram(シュクラム)、すなわち「全能」という言葉で表現されています。
マントラ7で述べられているような神を悟った権威ある師(アーチャーリャ)は、主の神像(アルチャー・ヴィグラハ)を寺院の中に設置して祭りますが、その神像は主の本来の姿とまったく同じです。神の根源の姿は主クリシュナであり、主クリシュナはまた、バラデーヴァ(Baladeva)、ラーマ(Rāma)、ヌリシンハ(Nṛsiṁha)、ヴァラーハ(Varāha)のような無数の姿に自分の体を拡張させています。これらの姿のどれもが同じ人格主神です。同じように、寺院の中で拝まれる神像もまた主の拡張体です。神像を崇拝することでただちに主に近づくことができ、主は全能のエネルギーによって献愛者の礼拝を受けいれます。主の神像は真正な師(アーチャーリャ)の願いによって現われ、主の全能のエネルギーの力によってじっさいの主とまったく同じように行動します。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』やその他のシュルティ・マントラをまったく知らない愚かな人々は、純粋な献愛者が崇拝している神像を物質的な材料で作られていると考えます。そのような愚か者・カニシュタ・アディカーリーの不完全な目には、その姿が物質として映るかもしれません。しかしそうした人々は、主が全知全能であるがゆえに物質を精神に、精神を物質に望みのまま自由に変えられるということを知りません。
『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第11-12節)で主は、この世界にふつうの人間のように降誕する主をあざ笑う知識のない人々の堕落した状態を嘆いています。そのような貧弱な知識しか持たない人々には全能の主が理解できません。ですから主は、推論に頼る人間たちに自分を完全に見せることはありません。身をゆだねる程度に応じて主の真価を理解できます。生命体は、神との絆を忘れてしまったために堕落した状態に陥ったのです。
このマントラや他の多くのヴェーダのマントラは、主が太古の昔から生命体に必要な品物を与えつづけてきたことをはっきり述べています。生命体が何かを欲しがると、主はその生命体の資格に応じて欲しい物を与えます。高等裁判所の裁判官になりたい人はそれなりの資格が必要ですし、同時に裁判官の称号を授与できる権威筋からその認定を受けとらなくてはなりません。ある地位につくには資格を取るだけでは不充分です。高い権限を持つ人から授けられるものなのです。同じように、主は生命体のそれぞれの資格に応じて楽しみを与えます。言い換えると、生命体にはそれぞれのカルマにふさわしい報酬が与えられるということですが、しかし資格だけではその報酬を受けることはできません。主の慈悲を得ることもまた必要です。
ふつう、生命体は主に何を望んだらいいのか、またどんな地位を求めたらいいのかを知りません。しかしひとたび自分のいるべき立場を知ると、主に対して崇高な愛情を捧げるために、主との精神的な交流に迎え入れられることを望みます。しかし不運なことに、物質自然の影響下にある生命体はそれとは関係のないことばかりを望んでいます。そうした心理状態を『バガヴァッド・ギーター』(第2章・第41節)は「分裂している知性」とか「歪められている知性」と述べています。精神的知性は一つですが、俗的知性は多種多様に分裂しています。『シュリーマド・バーガヴァタム』(第7編・第5章・第30-31節)は「外的エネルギーが織りなすはかない美しさに囚われている者は、至高主のもとへ帰るという人生の真の目的を忘れる」と言っています。その目的を忘れた人は、さまざまな計画を作って望みを達成しようとしますが、それはすでに噛み味わったものをもう一度噛みなおしているようなものです。しかし優しい心を持つ主は、干渉することなく、人生の意義を忘れてしまった生命体の望みどおりにさせています。そのため、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのマントラはyāthātathyataḥ(ヤータハータテャタハ)という適切な言葉を使い、主は生命体の望みに応じて報酬を与えることを表現しています。地獄へ行きたければそれを止めず、またふるさと、至高主のもとへ帰りたければそれを助けます。
主は、このマントラの中でparibhūḥ(パリブーフ)「すべての生命体の中で最高の存在」と述べられています。主よりも偉大な、また主に匹敵する者はいません。そして主以外の生命体は、ここでは主に何かを求めている「物もらい」と言われています。主は、生命体が望むものを与えます。もし生命体が神と匹敵するほどの力を持っているならば、また全知全能だったとしたら、主から物を乞うとか、いわゆる解脱をさせてほしいなどと願うはずがありません。真の解脱――自由になるということは、至高主のもとに帰るということです。非人格論者によって考えられているような解脱は作り話にすぎません。物を乞うている生命体が精神的に目覚め、本来の自分の立場を悟らないかぎり、いつまでも肉体の喜びだけを求めるという癖は永遠につづいていきます。
完全に満ち足りている人は至高主しかいません。クリシュナは5,000年前地上に現われたとき、さまざまな活動をとおして至高人格主神としての自分を完全に現わしました。たとえば子どものとき主は多くの強大な悪魔(アガースラ、バカースラ、シャカタースラなど)を倒しましたが、何か特別の努力をしてそうした力を獲得したわけではありません。またゴーヴァルダンの丘を手で持ち上げましたが、これも特に重量上げの訓練をしたわけでもありません。ゴーピー(牛飼いの乙女)たちと踊り戯れましたが、社会の決まりに邪魔されたり非難されたりはしませんでした。ゴーピーたちは恋愛感情を持って主に近づきましたが、厳格なサンニャーシー(放棄階級者)であり、また戒律を厳格に守っていた主チャイタンニャでさえも、そのような主クリシュナとゴーピーたちの関係を崇めています。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』も、主がいつでも純粋で穢れないことをśuddham(シュッダン・清浄)とかapāpa viddham(アパーパ ヴィッダン・無垢)という言葉で表現しています。主に触れるだけで不潔なものが浄化されるという意味で主は「浄化剤」でもあり、また主と共にいることでつねに穢れることがないという意味で「防腐剤」という言葉が使われます。『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第30-31節)でも言われていることですが、献愛者は初めのうちはsu-durācāra(ス ドゥラーチャーラ・不作法者)のように見えるかもしれませんが、正しい信仰の道を歩いているかぎり純粋であるとみなされてしかるべきです。これは、献愛者が主と交わっているために、主の力によってつねに清浄であるからです。主はまたapāpa viddhamであるため、罪が主に触れるということもありません。たとえ主が一見罪深いような行為をしても、じつはそれはすべて正しい行為なのです。主はどのような状態においてもシュッダン(もっとも純粋)であるため、よく太陽にたとえられます。太陽は地上の至るところの不潔な場所から湿気を吸いとりますが、なおかつ太陽自身は純粋でありつづけます。事実、太陽は滅菌作用の力によって汚らわしいものを浄化します。物質である太陽でさえそれほどの力を持っているのであれば、あらゆる力を持つ主の純粋さと強力さがどれほどのものなのか、私たちには想像することさえできません。
andhaṁ tamaḥ praviśanti
ye ’vidyām upāsate
tato bhūya iva te tamo
ya u vidyāyāḿ ratāḥ

訳語

翻訳

無知な活動に没頭している者たちは、無知の暗闇に陥る。しかしそれ以上に悪質なのは、いわゆる知識を高めようとしている者たちである。

解説

このマントラはヴィデャー(vidyā)とアヴィデャー(avidyā)を比較分析しています。アヴィデャー(無知)はもちろん危険ですが、しかしヴィデャー(知識)のほうがまちがって使われたり教えられたりすればもっと危険です。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのマントラは、今までのどの時代よりも現代にあてはまると言えます。現代文明は大衆教育の分野でかなり進歩していますが、しかしその結果として人々は昔よりもかえって不幸になっています。その原因は、人生でもっとも重要な部分である精神的な面を無視してまでも、物質的な発達にだけ力点を置いてきたためです。
ヴィデャーに関して言えば、最初のマントラが「至高主が万物の所有者であり、それを忘れることを無知という」とはっきり説明しています。この事実を忘れれば忘れるほど、人々は深い闇の中に入っていくものです。こうした見地からすると、いわゆる教育の発達を目指している現在の無神論文明は、大衆がそれほど「教化」されていない文明よりもさらに危険だといえます。
人間は、カルミー(karmī)、ギャーニー(jñānī)、ヨーギー(yogī)などに分類できますが、カルミーはただ感覚を満足させる行為だけをしている者を指します。現代文明のほとんど99.9パーセントの人たちは工業主義、経済発展、利他主義、政治実践主義などの旗のもとで感覚を満足させる行為をしています。このような活動は、最初のマントラに述べられているように、多かれ少なかれ、神の意識を除外してまで感覚を満足させようという考えに立っています。
『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第15節)の言葉によると、感覚満足をあまりにも強く求めている人はmūḍhas (ムーダ)と呼ばれます。ロバは愚かさのシンボルです。また『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』によると、「感覚満足をむやみに追及する者はアヴィデャーを崇めている」ということになります。教育の発展という名のもとにこのような文明を支えている人々は、じつを言えば、ただ感覚を満足させているだけの人よりも有害なことをしています。無神論者による学問の発展は、コブラの頭についている高価な宝石のように危険ですし、宝石をつけたコブラは、宝石をつけないふつうのコブラよりもはるかに危険です。『ハリ・バクティ・スドーダヤ』(第3編・第11章・第13節)は、無神論者による教育の発展を、ただ死体につけた装飾品にすぎないとたとえています。世界のほかの国々でも見られるように、インドでは、悲しみに沈んでいる家族を慰めるために、飾りたてた死体を担いで行列をつくって練り歩く慣習があります。それとまったく同じ意味で、物質・肉体的生存にはいつも苦痛が伴いますが、現代文明とはそれを隠そうとする活動の寄せあつめにすぎません。そうした活動は感覚満足を目的にしていますが、感覚よりも高いところには心があり、心の上には知性があり、そして知性の上には魂があります。ですから、真の教育の目的は自己の悟り、つまり魂が持つ精神的価値を悟ることでなくてはなりません。そうした悟りの境地に導かない教育もアヴィデャー(無知)と考えなくてはなりません。そのような無知をエスカレートさせるのは、最悪の暗黒の世界に落ちていくということです。
『バガヴァッド・ギーター』(第2章・第42節、第7章・第15節)によると、誤った俗世教育者はヴェーダ・ヴァーダ・ラタ(veda-vāda-rata)とマーヤヤーパフリタ・ギャーナ(māyayāpahṛta-jñāna)と呼ばれています。無神論的で邪悪、そして最下等の人間とも言えます。ヴェーダ・ヴァーダ・ラタたちは、ヴェーダ経典に精通しているように見せかけますが、じつはヴェーダの意義からは完全に逸れています。『バガヴァッド・ギーター』(第15章・第15節)は、ヴェーダの目的は人格主神を知ることであると述べていますが、彼らは人格主神にまったく関心がありません。逆に、天国に行けるという結果に目が眩んでいます。
マントラ1で言われているように、人格主神が万物の所有者であり、私たちは生活必需品として与えられたものだけで満足しなくてはなりません。あらゆるヴェーダ経典の目的は、忘れやすい生物の心の中にこの神意識を目覚めさせることにあり、これとまったく同じ目的が、世界のさまざまな聖典にさまざまな方法で、愚かな人類の理解を助けるために述べられています。ですから、すべての宗教の究極的目的は、私たちを神のもとへ導くことにあります。
しかしヴェーダ・ヴァーダ・ラタたちはヴェーダの目的を悟るかわりに、天上的快楽を達成して感覚を満足させるという枝葉末節の問題のほうがヴェーダの最終目的であるかのように考えています。しかし感覚を満足させるための欲望は、人を物質に縛りつけるだけだということを知りません。彼らは、ヴェーダ経典に偽りの解釈をつけて人々を誤った方向に導いています。またときには、大衆に用意されたプラーナというヴェーダの権威ある説明さえも非難します。偉大な師(アーチャーリャ)による権威ある説明を無視し、ヴェーダについて彼らなりの勝手な説明もします。また、彼らの中からある無節操な者を担ぎあげ、その者をヴェーダ知識の指導的説明者として見せびらかそうとします。このような者たちはこのマントラでvidyāyāṁ ratāḥ(ヴィデャーヤーン ラターハ)という適切なサンスクリット語で特に非難されています。Vidyāyām(ヴィデャーヤーン)は、ヴェーダがすべての知識(vidyā・ヴィデャー)の根源であることから「ヴェーダの研究」を指し、またratāḥ(ラターハ)は「する者」という意味です。結局、vidyāyāṁ ratāḥは「ヴェーダの研究をする者たち」という意味になります。しかしいわゆるヴィデャー・ラタたちはここで非難されています。なぜなら、アーチャーリャ(師)の言葉を無視するためにヴェーダの真の異議がわからないからです。さらに彼らはヴェーダの一つ一つの言葉の意味を、自分たちに都合のいいように解釈しようとしています。ヴェーダ経典は俗世界を超越した書物を集成したものであり、師弟継承をとおしてはじめて理解できるということを彼らは知りません。
ヴェーダの超越的な教えを理解するには、真正な精神指導者から学ばなくてはなりません。それが『ムンダカ・ウパニシャッド』第1編・第2章・第12節)の命令です。ところがヴェーダ・ヴァーダ・ラタたちは精神的継承を受けていない自分たちが勝手にまつりあげたアーチャーリャを持っています。このようにして彼らはヴェーダ経典を誤って解釈することにより、もっとも暗い無知の世界へと進んでいきます。そしてヴェーダについて何も知らない人よりもさらに無知な世界へと落ちこんでいくのです。
マーヤヤーパフリタ・ギャーナ(māyayāpahṛta-jñāna)たちは、いわば自家製の「神」で、自分が神なのだからほかの神は崇拝する必要はないと考えています。彼らは、ふつうの人がたまたま大金持ちであればその人を崇拝するにやぶさかではありませんが、至高人格主神は絶対に崇拝しようとしません。このような人々は自分たちの愚かさに気づくことができず、神がマーヤー・幻想という神自身の力に囚われているという矛盾に気づきません。神が幻想に囚われるのなら、幻想は神よりも強いということになります。「神は強大である」と彼らは言いますが、自家製の神たちは「それほど強いのなら、神であるあなたが幻想に圧倒される可能性などどこにもないはずだ」と問われてもはっきり答えられません。マーヤヤーパフリタ・ギャーナたちは、自分が神になったと思いこむことで満足しているにすぎないのです。
anyad evāhur vidyayā-
nyad āhur avidyayā
iti śuśruma dhīrāṇāṁ
ye nas tad vicacakṣire

訳語

翻訳

賢者は「知識の修養からある結果が得られ、無知の修養から別の結果が得られる」と説いている。

解説

『バガヴァッド・ギーター』(第13章・第8-12節)で忠告されているように、私たちは、次のような方法で知識を修養すべきです。
(1) 完璧な紳士となって他人に適切な敬意を払うことを学ばなくてはならない。
(2) 名声と名誉を得るために自分を宗教家であると見せかけてはならない。
(3) 自分の行動や思想や言葉によって、他人を不安に陥れてはならない。
(4) 他人の挑発を耐え忍ぶことを学ばなくてはならない。
(5) 他人に対する不誠実な態度を避けることを学ばなくてはならない。
(6) 自分を徐々に精神的悟りに導くことのできる正しい精神指導者を求め、そのような精神指導者に身をゆだね、仕え、適切な質問をしなくてはならない。
(7) 自己を悟る境地に近づくため、啓示経典が命じる規定原則に従わなくてはならない。
(8) 啓示経典の教義に忠実でなくてはならない。
(9) 自己の悟りに有害な行為をすべて避けなくてはならない。
(10) 体の維持に必要以上のものを受けとってはならない。
(11) 肉体を自分と誤解してはならず、体に関係した人々を肉親と考えてはならない。
(12) 肉体を持っているかぎり、生死病死の繰りかえしという苦しみに直面することをつねに心得ていなくてはならない。そのような肉体の苦しみから逃れようと画策しても無意味である。最善の道は、自分の精神的な正体を取りもどせる方法を探すことである。
(13) 精神的発達に必要ではない物事に執着してはならない。
(14) 啓示経典が定めている以上に妻や子どもや家庭に執着してはならない。
(15) 望ましいものも望ましくないものも心の産物であることを自覚したうえで、それらについて喜んだり悲しんだりしてはならない。
(16) 人格主神シュリー・クリシュナの純粋な献愛者となり、主への奉仕に没頭しなくてはならない。
(17) 精神修養にとって望ましい静かで平安な雰囲気をもった人里離れた住居を好み、不信心な者たちが集まるような混雑した場所を避けなくてはならない。
(18) 科学者、または哲学者となって精神的知識を追求し、精神的知識は永遠であるけれども物質的知識は肉体の死とともに終わることをよく心得なくてはならない。
この18の項目が組み合わさって、真の知識が徐々に高められる過程が作りだされます。他の方法はどれも無知の範囲に含まれます。偉大な精神指導者(アーチャーリャ)であるシュリーラ・バクティヴィノーダ・タークラは「どのような物質的知識でも幻想エネルギーの単なる外的な様相にすぎず、そのような無知の知識を高めても、人間はロバ同様になるだけである」と宣言しています。これと同じ原則は『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の中にも見出されます。物質的に高められたあげく、現代人はロバに変身してしまいました。精神的な現代人であるかのようにふるまう物質主義者でもある政治家たちは、現在の文化形態を邪悪なものとして非難しますが、あいにく彼らは『バガヴァッド・ギーター』に記述されている真の知識を養うことには関心を示しません。したがって彼らにはそうした悪魔的状態を変えることはできません。
現代社会では、少年少女でさえ自分を完璧だと考え、年長者に敬意を払おうとしません。大学で教えられている誤った教育のために世界中の青年が、年長の人々の頭痛の種になっています。それため、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、無知の修養は真の知識の修養とは異なることを強く警告しています。大学は、言わば無知の中心となっています。したがって、科学者たちは他の国を滅ぼす凶器を開発するのに狂奔しています。大学生は、ブラフマチャリャ(学習者)の原則についても、人生の精神的生き方についてもまったく教わっていません。また彼ら自身、どんな経典も信じていません。このため、敵対心は社会的、政治的分野だけでなく、宗教の分野にも見られます。
一般大衆が無知に陥っているために、世界各地に国家主義や盲目的な愛国主義が起こっています。ちっぽけな地球は塵の塊にすぎず、他の無数の塵のような星々といっしょに無限の宇宙空間を漂っているということを、だれも考えません。宇宙の広大さに比べれば、このような物質の塊は空気中の埃にすぎません。その塊は宇宙に浮かぶために必要な一切の装置を完備していますが、それは、神が親切にもそれ自体完全なものとして作ったからです。宇宙船の操縦士たちは彼らの業績を誇りにしていますが、惑星というさらに巨大な宇宙船を動かしている最高の操縦士のことは考えられません。
宇宙には無数の太陽や惑星系がありますが、至高主の極小の部分である私たち生物は、その無数の惑星を支配しようとしています。こうして私たちは生死を繰りかえすのですが、たいていは老年と病気で挫折してしまいます。人間の寿命は本来約100年間とされているのですが、やがて2~30年ほどに短くなっていきます。無知を修養した結果、惑わされた現代人はもっと効果的に肉体的快楽を味わうために、わずかな寿命を使って地球上に自分たちの国家を作りあげました。愚かな人々は、国の境界を完璧な状態にするさまざまな計画を練っています。できるわけがないのに。結局その目的が原因で、各国が疑心暗鬼に陥っているのです。国の50パーセント以上のエネルギーが国防のために使われ、無駄になっています。だれも知識の修養を重要視せず、それでいて物質的にも精神的にも知識を高めていると自慢しています。
『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、このまちがった教育方法に注意を喚起し、『バガヴァッド・ギーター』は正しい知識の高め方を教えてくれます。このマントラは、ヴィデャー(知識)に関する教えはディーラ(dhīra)から得なくてはならないことを説いています。ディーラは物質的幻想に惑わされない人のことをいいます。完全に精神的に悟った人でなければ不惑ではいられませんし、そうした境地に達したとき、何ものに対しても欲望することも嘆き悲しむこともなくなります。ディーラは、自分の物質的肉体と心は、魂が物質と接触した結果偶然生じたものであり、もともと自分自身とは異なる要素であることを知っています。ですから彼は、そうした不利な条件を少しでも良い方向へと活用します。
精神的な生命体にとって、物質の肉体や心は損な買い物と言えましょう。生命体は、物質界という死んだ世界ではなく命ある精神界で暮らすようにできています。生きている精神的火花が死んでいる物質の魂を操っているからこそ、死んだ世界でも生きているかのように見えます。ディーラとは高い権威からこのような事実を聞いて知った人々のことをいうのですが、彼らはこうした知識を経典に示された規定原則に忠実に従うことで獲得しました。
規定原則に従うには、真正な精神指導者に身をゆだねなくてはなりません。超越的な教えや規定原則は、精神指導者から弟子へ伝えられるものであり、危険きわまりない無知の教育から得られるものではありません。人格主神の教訓を心から服従して聞くことでディーラになれます。完全な弟子になるにはアルジュナのようでなければならず、精神指導者は主クリシュナと同じようでなければなりません。これが、ディーラ・乱されない人物から知識(ヴィデャー)を学ぶ方法です。
アディーラ(adhīra・ディーラになる訓練を受けなかった者)は、教えを授ける指導者にはなれません。自らをディーラのように見せかけている現代の政治家たちはじっさいにはアディーラにすぎず、彼らからは完璧な知識など望みようがありません。彼らは自分の報酬の金勘定だけをしています。そのような政治家が、大衆を自己の悟りという正しい道に導くことができるでしょうか。真の教育を成し遂げるにはディーラの教えを素直に聞かなくてはなりません。
vidyāṁ cāvidyāṁ ca yas
tad vedobhayaḿ saha
avidyayā mṛtyuṁ tīrtvā
vidyayāmṛtam aśnute

訳語

翻訳

無知の本質と超越的知識の本質を並行して学べる者のみが、生と死の繰りかえしの影響を超絶し、不死の至福を満喫する。

解説

 物質界が創造されたときから、だれもが永遠の命を探し求めてきました。しかし自然の法則は冷酷で、誰一人死の手を逃れた者はありません。だれも死にたくないし、老人にも病気にもなりたくないと思っています。しかし厳格な自然の法則は、だれであっても老年、病気、死を免除することはありません。物質的知識がどれほど進歩しても、これらの問題を解決することはできません。物質科学は死の過程を早めるために核兵器を発明することはできましたが、病気、老年、死という冷酷な手から人類を守れるようなものはなに一つ作りだしていません。
 プラーナの中にヒラニャカシプ(Hiraṇyakaśipu)という、物質的にひじょうに進歩していた王の話があります。ヒラニャカシプ王は物質的に獲得した物や無知の力によって死を克服しようと望み、恐ろしいほどの厳しい苦行をしました。その結果、王の体から放出される不可思議な力のために宇宙の全惑星の人々が混乱させられました。また王は、宇宙を創造したブラフマーが自分のところに降りてくることを余儀なくさせ、アマラ(amara)という不死身の体をくれるよう乞いました。しかしブラフマーは「すべての惑星を支配する物質界の創造者たる自分自身でさえアマラ(不死身)ではないのだから、おまえにアマラの恩寵を授けることはできない」と答えました。『バガヴァッド・ギーター』(第8章・第17節)でも言われているように、ブラフマーは相当長い寿命を持っていますが、死なないわけではありません。
 ヒラニャ(hiraaṇya)は「黄金」、カシプ(kaśipu)は「柔らかいベッド」という意味です。この王は2つのもの――金と女――に興味があり、それを不死身になることで楽しみたいと思いました。そこで王はブラフマーに自分の望みがかなえられるように、遠まわしにいろいろなことを尋ねました。しかしブラフマーが不死の恩寵を授けられないことを知った彼は、どのような人、どのような動物、どのような神、また840万種類の中のどのような生物によっても殺されないことを頼みました。また、陸上でも、空中でも、水中でも、どんな武器によっても殺されないようにと頼みました。それがブラフマーによって保証されれば、自分は不死身になるはずだと愚かにも考えたのです。ブラフマーはそれらの願いを聞きとどけてはくれましたが、しかし、結局ヒラニャカシプは半人半獅子のナラシンハという姿の至高人格主神によって殺されました。しかも彼を殺すためには何も武器は使われませんでした。というのは、主の爪によって裂き殺されたからです。さらにヒラニャカシプは陸上でも空中でも水中でも殺されませんでした。なぜなら彼の想像を絶する不思議な生物の「膝」の上で殺されたのですから。
この話の要点は、ヒラニャカシプほどの最強の物質主義者でさえも、どんな計画を企てようと不死身にはなれなかったということです。ならば――さまざまな計画を立てはするけれども、次から次へとことごとくつぶされてしまうような現代のちっぽけなヒラニャカシプにいったいなにができましょうか。
『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、生存競争に打ち勝つための片手落ちの計画は立てないよう私たちに教えています。だれもが生き抜くために悪戦苦闘していますが、物質自然の法則はじつに厳格であって、だれであろうとその自然の法則を超えることは許されません。永遠の命を手にいれるためには、神のもとへ帰る準備をしなくてはならないのです。
神のもとに帰る過程は別次元の知識であり、ウパニシャッド、『ヴェーダンタ・スートラ』、『バガヴァッド・ギーター』、『シュリーマド・バーガヴァタム』などのような啓示経典から学ばなくてはなりません。この世で幸福に暮らし、肉体を去ったのちも永遠に幸せな生活ができるようになるためには、神聖な文献になじみ、超越的な知識を獲得しなくてはなりません。条件づけられた魂は神との永遠の絆を忘れ、自分が生まれたかりそめの場所をすべてであると誤解しています。主は、真実を忘れている人々に、ほんとうの家はこの物質界にはないことを思い起こさせるため、このようなさまざまな経典をインドに伝え、また他の国々に同様の経典を伝えました。生物は精神的な存在であって、自分のほんとうの崇高なふるさとに戻っていくことによってのみ幸福になれます。
人格主神は、自分の王国から真実のしもべを遣わし、人々が神のもとへ戻ることのできるメッセージを広めさせたり、ときには人格主神自ら降誕してその使命を果たしたりします。あらゆる生物が主の愛しい子どもであり、主自身の部分体なので、主は私たちがこの物質的状態のなかで苦しみつづけているのを見て私たち以上に心を痛めています。こうした物質界での苦しみは、私たちが本来死んだ物体とは共存できないということを間接的に思い知らせてくれます。知性のある生命体は、ふつうこれをきっかけにしてヴィデャー(超越的知識)を学びはじめます。人間生活は精神的知識を養うのに絶好の機会なのですが、この機会を活かさない人はナラーダマ(narādhama・最低の人間)と呼ばれます。
アヴィデャーの道、つまり感覚を満たすだけの物質的知識を開発させる道は、生と死の繰りかえしの道につながっています。生物は本来精神的な存在ですから、生まれも死にもしません。生と死という現象は精神的魂を包んでいるもの、すなわち肉体にだけ起こります。「誕生」は服を着ることに、「死」は着ていた服を脱ぐことにたとえられます。アヴィデャー(無知)の中に没頭しきっている愚かな人間は、この生と死という冷酷な過程をあまり気にしません。幻想エネルギーの美しさに惑わされ、生と死を何度も繰りかえし、冷酷な自然の法則からなんの教訓もつかもうとしないのです。
ですから、ヴィデャー(超越的知識)は人類に欠かせません。病的ともいえる物質的状態の中での快楽は、できるだけ制限されるべきです。肉体の感覚を無制限に満足させることは、無知と死の道にほかなりません。生命体に精神的感覚はない、ということではありません。すべての生命体は、本来の精神的姿においてすべての感覚を持っていますが、今は肉体と心によって包まれているために、物質的な状態で表われています。物質的感覚の働きは、本来の精神的感覚の働きが歪められて表われたものです。こうした誤った病的状態において、精神的魂は物質に包まれた物質的活動をしています。ほんとうの感覚の楽しみは、物質主義という病気が治ったときに味わうことができます。穢れのない本来の精神的な姿にもどるとき、ほんとうの感覚の楽しみを満喫できるのです。患者は、ふたたび感覚を楽しむために健康を取り戻さなくてはなりません。ですから、人間生活の目標は、歪められた感覚の喜びを味わうのではなく、まず病気を治すことに向けられるべきです。物質的病気の進行は知識の表われではなく、アヴィデャー(無知)の表われです。健康になるためには、体温を40度から42度に上げるのではなく、36.5度の平熱に下げなくてはなりません。それが人間生活の目的です。しかし、現代の物質文化は、原子エネルギーによって42度まで達した高熱状態をさらに悪化させる傾向にあります。そのいっぽうで愚かな政治家たちは、今にでも世界が地獄に変わるかもしれないと叫んでいます。これが、物質的知識の発達に気をとられ、精神的知識の修養という人生でもっとも大切なことをおろそかにした結果です。したがって、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』はこのような死につながる危険な道を歩いてはいけないと私たちに警告します。私たちは、それとは反対に、死という残酷な手から完全に逃れるために精神的知識を学ばなくてはなりません。
しかしこのことは、肉体の維持に大切な活動までもすべてやめるということではありません。病気を治そうとするとき、高熱を下げて体温を0度にまでする必要がないように、すべての活動を止めてしまう必要はありません。ここでは「逆境に善処する」ということばが適切な表現です。精神的知識を育てるには肉体と心の助けも必要です。目標に到達するには、肉体と心を健全に維持することが大切です。体温はいつも36.5度に保たれるべきですし、インドの偉大な聖者たちは精神的知識と物質的知識を巧みに均衡させた計画を立て、健全な心身を維持してきました。人間の知性を、歪んだ快楽のために誤って使うことは決してありませんでした。
感覚満足によって堕落した人間の活動は、ヴェーダが説く救済の原則で制限される必要があります。この規制には、宗教、経済発展、感覚満足、罪からの解放などが含まれていますが、現代人は宗教にも罪からの解放にも関心がありません。現代人の人生唯一の目的は「感覚満足」であり、これを充分に満たすため、人々は経済発展に必要なさまざまな計画を立てます。そして誤って導かれた人々は、感覚を充分に満たすには経済発展が必要で、経済発展のために宗教が役に立つから維持されるべきだと考えます。したがって、死んだあとも天国で感覚満足が充分に得られる保証を得るために、宗教行事が用意されています。しかし、これは正しい救済の目標ではありません。正しい宗教の道は必ず自己の悟りに結びつくものであり、経済発展は肉体を健全な状態に保つために必要です。人生の目的であるヴィデャー(真の知識)を得るためにも、私たちは心身共に健康な生活を送らなくてはなりません。人生はロバのようにがむしゃらに働くためだけではなく、また感覚満足だけが目的のアヴィデャー(無知)を高めるために用意されているわけでもありません。
ヴィデャーの道は『シュリーマド・バーガヴァタム』に完璧に説かれ、その教えは私たちを絶対真理者について尋ねる生活に導きます。絶対真理者は、ブラフマン、パラマートマー、人格主神として徐々に悟られます。絶対真理者は、マントラ10の要旨解説で挙げた『バガヴァッド・ギーター』の18の原則に従って知識と無執着心を得た心の広い人物によって悟られます。この原則の目的は、主への超越的な献愛奉仕に辿りつくことにあります。ですから、どんな人でも、献愛奉仕の仕方を学ぶよう奨励されなくてはなりません。
ヴィデャーの獲得が保証された道は、シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーが著わした『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』で述べられていますが、私はこの本をThe Nectar of Devotion(『献身奉仕の甘露』)という英語版で発行しています。ヴィデャーを育てる方法は『シュリーマド・バーガヴァタム』(第1編・第2章・第14節)で次のような言葉に要約されています。
tasmād ekena manasā
bhagavān sātvatāṁ patiḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
dhyeyaḥ pūjyaś ca nityadā
「ゆえに私たちは、献愛者の保護者である人格主神について一心不乱に聞き、主を讃え、思い、崇拝しなくてはならない」
宗教、経済発展、感覚満足は、主への献愛奉仕に向けられなければ、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の次のマントラが言うように、さまざまな形の無知にすぎません。
andhaṁ tamaḥ praviśanti
ye ’sambhūtim upāsate
tato bhūya iva te tamo
ya u sambhūtyāḿ ratāḥ

訳語

翻訳

半神を崇拝する者は、無知という暗闇の世界に入る。そして絶対者の非人格的な様相を崇拝する者は、さらに深い暗闇へ入っていく。

解説

ここで使われているasambhūti(アサンブーティ)は、「自由な立場にいない者」という意味です。サンブーティは、なにごとにも縛られない絶対人格主神です。『バガヴァッド・ギーター』(第10章・第2節)で、絶対人格主神・シュリー・クリシュナが述べています。
na me viduḥ sura-gaṇāḥ
prabhavaṁ na maharṣayaḥ
aham ādir hi devānāṁ
maharṣīṇāṁ ca sarvaśaḥ
「半神たちや偉大な聖者たちでさえ、わたしの根源や富について知らない。あらゆる面でわたしが半神や賢者の源だからである」。このように、半神や偉大な賢者や神秘主義者たちが持っている力の根源はほかならぬクリシュナです。たしかに彼らにはすばらしい力が与えられていますが、クリシュナ自身がどうやって自分の内的エネルギーを使って人間の姿で現われるかとなると彼らにも理解できません。
どのような哲学者や偉大なリシ(ṛṣis)・神秘家も、貧弱な能力で相対的な知識に頼って絶対者を判断しようとしています。そのような姿勢では、絶対者の否定的な面は理解できても、絶対者について明確な結論は得られません。否定による絶対者の定義は不完全です。そのような否定的な定義は、いたずらにその人なりの観念を作りあげてしまう結果に終わり、絶対者には姿も質もないと想像するようになります。そのような否定的な質は、相対的な質、つまり物質的な質を否定するだけですから、結局は相対的な質ということになります。絶対者をこのように想像しても、せいぜいブラフマンとして知られる神の非人格的な光に到達するぐらいで、バガヴァーン・人格主神にまで進むことはできません。
そのような推論者たちは、クリシュナが絶対人格主神であること、非人格的なブラフマンはクリシュナの超越的体から出ている鮮やかな光であること、そしてパラマートマー・超霊魂がクリシュナの遍在する姿であることを知りません。また、クリシュナが永遠の至福と知識という崇高な質の体を持っていることも知りません。従属的な半神や大賢者でも、主を強大な半神の一人として考え、ブラフマンの光こそが絶対真理であると勘違いすることがあります。これに対して、クリシュナに身をゆだねながら純粋な愛を捧げる献愛者は、クリシュナこそが絶対者であり、すべてはクリシュナから発出されていることが理解できます。そのような献愛者は、一切万物の源・クリシュナにいつも献愛奉仕をしています。
『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第20、23節)でも言われていますが、感覚満足への強い衝動に引きずられ、惑わされている者だけが、その場しのぎの解決のために、またはかない満足を得るために半神を崇拝します。物質に束縛されている生命体は、永遠の喜び・生活・知識がある精神的境地での悠久の自由を得るためにも、その束縛から解放されなくてはなりません。ゆえに『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、一時的な恩恵しか与えられず、自らも自由ではない半神を崇拝して困難を一時的に解決させようとすべきではない、と諭しています。すべてを魅了し、完璧な自由を授け、私たちをふるさと・神のもとへ導いて物質界から解放してくれる絶対人格主神、クリシュナを崇拝しなくてはなりません。
『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第23節)では、半神を崇拝する者は半神の惑星へ、月を崇拝する者は月へ、太陽を崇拝する者は太陽へ行く、と説かれています。現代の科学者はロケットで月へ行くことを計画していますが、それは新しい試みではありません。人間は意識が進むにつれ、宇宙船や神秘的な力、あるいは半神崇拝という方法を使って宇宙空間を旅行し、他の惑星に到達したいと考える傾向を持っています。ヴェーダ経典でも、「その3つの方法のどれを使っても他の惑星に行けるが、一番よく知られた方法は、特定の星に住む半神を崇拝するという方法である」と言われています。その方法に従えば、月や太陽、またこの宇宙の頂点にあるブラフマローカにでさえ行くことができます。しかし、このような物質宇宙の中にあるすべての惑星はいずれも一時的な住居にすぎず、永遠の住居としての惑星はただ一つ、ヴァイクンタローカです。それは精神界の中にあり、人格主神自らが支配しています。主シュリー・クリシュナが『バガヴァッド・ギーター』(第8章・第16節)で説明しています。
ā-brahma-bhuvanāl lokāḥ
punar āvartino ’rjuna
mām upetya tu kaunteya
punar janma na vidyate
「物質界にある最高惑星から最低の惑星に至るまで、すべて生と死の繰りかえしがある苦しみの場所である。しかしクンティーの子よ。わたしの住居に達した者は、決してふたたび誕生することはない」
『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、半神を崇拝してその惑星に行っても、宇宙のもっとも暗い世界にとどまっているにすぎないと指摘します。全宇宙は巨大な物質要素体で覆われています。それはまさに、ココナッツが殻に包まれ、内部に水が半分満たされている状態と同じです。宇宙の殻は気密状態となっているため内側は暗黒で、その照明のために太陽や月が必要です。宇宙の外側には広大無限のブラフマジョーティが広がり、その空間はヴァイクンタローカで満たされています。ブラフマジョーティの中で最大・最上にある惑星がクリシュナローカ、すなわちゴーローカ・ヴリンダーヴァンであり、ここに至高人格主神シュリー・クリシュナが住んでいます。主クリシュナは、この星から絶対に離れません。主は永遠なる仲間たちとそこに住んでいますが、同時に物質界や精神界の全宇宙にも遍在しています。この事実は、すでにマントラ4で説明されたとおりです。主は太陽のようにどこにでもいますが、なおかつ太陽がその起動から外れることなく1つの場所にいるように、主は一カ所に存在しています。
人生の諸問題は、月に行くだけでかんたんに解決されるものではありません。ただ称号や名声を得るために宗教家になるような偽物宗教家がたくさんいますが、彼らは、この宇宙を出て精神界に行くことは望みません。ただ主を崇拝しているように見せかけ、物質界での現在の地位を維持しようとしているだけです。無神論者や非人格論者は、そんな愚かな偽物宗教家たちを、無神論を説くことで深い闇へと陥れています。無神論者は、至高人格主神の存在を頭から否定し、また非人格論者は至高主の非人格的な面を強調することで無神論者を支持しています。しかし、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』をこれまで学んできたかぎり、至高人格主神を否定しているマントラはありません。主はだれよりも速く走るといわれています。さまざまな星を追い求めているのは確かに人であり、そして主がそれらよりも速く走るというのなら、どうして主が姿のない存在になりえるでしょうか。至高主が姿を持っていないと考えるのは、絶対真理者を不完全に理解しているためで、それは無知にほかなりません。
無知な偽物宗教家やヴェーダの指示に従わないいわゆる自称神の化身を捏造している者たちは、宇宙の中でもっとも深い闇の底に落ちていきます。なぜなら、自分たちも、彼らに従っている人々も誤って導いてしまうからです。このような非人格論者は、たいていヴェーダ知識についてなにも知らない愚かな人々に対して、自分は神の化身であるかのようにふるまいます。そしてもしそんな愚かな人々がなにか知識を持つと、それはその人々が無知であるよりもさらに危険な状態になるでしょう。このような非人格論者は、経典が勧める半神の崇拝もしません。経典には、ある状況下では半神を崇拝することが勧められています。しかし同時に経典は、ふつうこれらを崇拝する必要はないとも説いています。『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第23節)には、半神を崇拝しても結果は永遠ではないと明言されています。物質宇宙は永遠ではありませんから、物質宇宙の闇の中で何かを達成したとしてもそれは永遠なものではありません。問題は、どうやって真実の、永遠の命を手にいれるかにあります。
人格主神に近づける唯一の方法――すなわち献愛奉仕――によって主に辿りつくとき、生と死の束縛から自由になる、と主は言っています。言いかえれば、物質の支配から救われる道は、主に仕えることで得られる知識と無執着によって決定されるということです。偽物宗教家たちは知識を持っておらず、無執着なわけでもありません。なぜなら、彼らのほとんどは、利他主義、博愛主義的活動や見せかけの宗教原則のような、物質的束縛といういわば黄金の足かせの中で生きたいと望んでいるからです。宗教的感情をもっているかのようにふるまい、陰ではあらゆる不道徳な行為にふけり、いっぽうでは献愛奉仕をしているふりをします。このようにして彼らは精神指導者や神の献愛者としてまかりとおっています。そんな宗教原則の冒涜者は、師弟継承に厳格に従っている神聖で権威的な師(アーチャーリャ)に敬意を払うこともしません。彼らは、ヴェーダのācāryopāsana(アーチャーリョーパーサナ)「アーチャーリャを崇拝しなくてはならない」という教えも、クリシュナが『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第2節)で説く「神に関するこの至高の科学は、師弟継承をとおして受け継がれる」という言葉も無視しています。自分たちがアーチャーリャになって人々を欺き、また自分たちもアーチャーリャの原則に従っていません。
このような邪悪な人間たちは、人間社会の中でもっとも危険な存在です。なぜなら、現在、正しい宗教政府がないために、彼らは国の法律の裁きから免れるからです。しかし、至高主の法からは逃げられません。主は『バガヴァッド・ギーター』(第16章・第19-20節)で、宗教を布教しているふりをする嫉妬深い悪魔らを暗黒の地獄に落とすと言っています。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』も、自分の感覚をただ満足させるためだけに宗教の指導者になった者たちは、それを終えたあと、宇宙の中でもっとも不快な場所へまっさかさまに落ちていくと断言しています。
anyad evāhuḥ sambhavād
anyad āhur asambhavāt
iti śuśruma dhīrāṇāṁ
ye nas tad vicacakṣire

訳語

翻訳

すべての原因の最高原因者を崇拝することで1つの結果が得られ、また最高ではないものを崇拝すれば別の結果が得られる、と言われている。これらすべては、そのことをはっきりと説明した不惑の権威者たちから聞きつがれたものである。

解説

「不惑の(他のなにものにも影響されない)権威者から聞く」という方法がこのマントラで認められています。物質界の変化に惑わされない正しいアーチャーリャの教えを聞かなければ、超越的知識を得る鍵は手にいれられません。自らの不惑のアーチャーリャからシュルティ・マントラ、すなわちヴェーダの知識を聞いた正しい精神指導者は、ヴェーダ経典の中にないことを自分勝手に捏造したり提示したりはしません。『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第25節)の中でピトゥリ(pitṛs・先祖)を崇拝する者は先祖の惑星に行くとはっきり言われています。同じように、この世界にとどまりたいと思う愚鈍な物質主義者はふたたびこの世界に戻り、一切の原因の最高原因である主クリシュナだけを崇拝する献愛者は精神界にいる主の住居に帰っていきます。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのマントラでも、どんな型の崇拝をするかによって得られる結果は異なるということが確証されています。至高主を崇拝する人は、主の永遠な住居の中で必ず主にめぐりあえるし、太陽神や月の神を崇拝すれば必ずその星に達することができます。また、さまざまな計画を立て、一時しのぎの政治的調整をしてこのみじめな惑星にとどまりたいと思うならばそれもまた可能です。
何をしてもだれを崇拝しても最終ゴールは同じ、という教えは、権威のある経典には説かれてはいません。このようなばかげた論理は、正しい師弟継承となんの関係もない自称の師によって説かれます。どんな道でも同じ目的地に行きつくとか、半神を崇拝しても至高者を崇拝しても、また他のどんなものを崇拝しても同じゴールに行きつく――などということは、正しい精神指導者であれば決して口にすることはできません。ある目的地までの切符を買えばその目的地に行くのは当たり前の話です。カルカッタ行きの切符を買った人はカルカッタまで行けますが、ムンバイには行けません。ところが今はやりの師たちは、どんな切符を買っても最高の目的地に行ける、と言います。このような俗的で迎合的な話は、勝手に作りあげた精神的悟りの方法を吹聴する愚か者たちを引きつけていますが、ヴェーダはそういう者たちを相手にしません。師弟継承というはっきりしたつながりの中にいる正しい精神指導者から知識を学ばなければ、真実をありのままに知ることはできません。『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第2節)の中でクリシュナはアルジュナに次のように語っています。
evaṁ paramparā-prāptam
imaṁ rājarṣayo viduḥ
sa kāleneha mahatā
yogo naṣṭaḥ parantapa
「この至高の科学は、このようにして師弟継承の鎖をとおして受けつがれ、聖なる王たちも、そのようにしてこの科学を理解した。しかし、時の流れとともにその継承は途絶え、本来の科学は失われたように思われる」
主クリシュナが地上に現われた当時、『バガヴァッド・ギーター』に述べられているバクティ・ヨーガ(bhakti yoga)の原則は歪められていました。したがって主は自分のもっとも信頼のおける友人で献愛者でもあるアルジュナを選んで弟子とし、正しい師弟継承のシステムをふたたび確立させなければなりませんでした。主はアルジュナに、「あなたはわたしの友であり、また献愛者だから『バガヴァッド・ギーター』を理解できる」(第4章・第3節)と明言しています。言いかえると、『バガヴァッド・ギーター』は、主クリシュナの友でもなく献愛者でもない者は理解できず、また逆に、アルジュナに従う者だけが理解できるということです。
現在、この崇高な会話を解説したり翻訳したりする人々がたくさんいますが、その誰一人として主クリシュナとアルジュナのことを真に理解している人はいません。そのような解説者は、『バガヴァッド・ギーター』の節を自分なりに解釈し、『バガヴァッド・ギーター』の名のもとにろくでもない話を作りあげます。書いている本人たちはシュリー・クリシュナも、クリシュナの永遠の住居の存在も信じているわけではありません。そのような者たちが、どうして『バガヴァッド・ギーター』を説明できるでしょうか。
『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第20、23節)は「分別をなくした者だけが半神を崇拝する」と言っています。クリシュナが究極的に忠告しているのは、他の宗教崇拝をすべて捨ててクリシュナだけに完全に身をゆだねることです(『バガヴァッド・ギーター』第18章・第66節)。あらゆる罪の報いから清められた人だけが、至高主に対してゆるぎない信念を持つことができます。そうでない者たちは、取るにたらない崇拝をしながら物質的な境地をさまよいつづけ、「どんな道も同じ目的地に辿りつく」というまちがった考えのもとに正しい道から離れていきます。
このマントラの中のsambhavāt(サンバヴァートゥ)「最高の原因を崇拝することによって」ということばはひじょうに重要です。主クリシュナが根源の人格主神で、存在する一切万物は主から発出されました。主は『バガヴァッド・ギーター』(第10章・第8節)で言います。
ahaṁ sarvasya prabhavo
mattaḥ sarvaṁ pravartate
iti matvā bhajante māṁ
budhā bhāva-samanvitāḥ
「わたしは精神界・物質界すべての源である。すべてはわたしから発出される。このことを完璧に知る賢者は、わたしへの献愛奉仕に励み、全霊をこめてわたしを崇拝する」
これが主自ら語っている至高主の正しい説明です。この節のsarvasya prabhavaḥ(サルヴァッシャ プラバヴァハ)は、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァを含む生命体すべての創造者であることを指しています。物質界を支配するこの3人の神々を主クリシュナが創造したのですから、主は、物質界と精神界に存在する一切万物の創造主です。同様に、アタルヴァ・ヴェーダ(『ゴーパーラ・ターパニー・ウパニシャッド 第1章・第24節』)でも、「ブラフマーが創造される以前に存在し、ヴェーダ知識をブラフマーに授けたのは主クリシュナである」と説かれています。さらに、『ナーラーヤナ・ウパニシャッド』(第1節)でも「次に至高者・ナーラーヤナは生命の創造を望んだ。こうしてナーラーヤナからブラフマーが誕生した。ナーラーヤナはすべてのプラジャーパティ(Prajāpati)を作った。ナーラーヤナはインドラ(Indra)を作った。ナーラーヤナは8人のヴァス(Vasu)を作った。ナーラーヤナは11人のルドラ(Rudra)を作った。ナーラーヤナは12人のアーディテャ(Āditya)を作った」と言われています。ナーラーヤナは主クリシュナの完全拡張体ですから、ナーラーヤナとクリシュナは同じです。『ナーラーヤナ・ウパニシャッド』(第4節)は、「デーヴァキーの子・クリシュナは至高主である」と述べています。ナーラーヤナが至高の原因であることは、ヴァイシュナヴァでも人格論者でもなかったシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャによって受けいれられ、そして確証されています。アタルヴァ・ヴェーダ(『マハー・ウパニシャッド(第1節)』)も「宇宙創造の初め、まだブラフマー、シヴァ、火、水、星、太陽、月も存在しなかったとき、ただナーラーヤナだけが存在していた。主は一人でいつづけるのではなく、望むとおりに創造する」と書かれています。また主は『モークシャ・ダルマ』で、「わたしはプラジャーパティとルドラを創造した。彼らはわたしの幻想エネルギーに包まれているために、わたしのすべてを知りつくすことはできない」と述べています。また『ヴァラーハ・プラーナ』では「ナーラーヤナは至高人格主神であり、ナーラーヤナから4つの頭を持つブラフマーが創造され、のちに全知になったルドラもナーラーヤナから創造された」と述べられています。
このように、あらゆるヴェーダ経典がナーラーヤナ、またはクリシュナこそがすべての原因の原因であると確証しています。『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第1節)でも、至高主はシュリー・クリシュナ、ゴーヴィンダであり、すべての生きとし生けるものの喜びの源、すべての原因の最初の原因であることが述べられています。真に博識な人は、偉大な聖者やヴェーダが述べる証拠を学んでこのことを知り、主クリシュナをすべてとして崇拝することを決意します。そのような人々は、クリシュナだけを崇拝しているためブダ(budha)と呼ばれます。
このような堅い信念は、不惑のアーチャーリャからの超越的メッセージを信念と愛とともに聞けば確立されます。主クリシュナに対する信仰心も愛も持たない人々にはこのかんたんな真理がわかりません。『バガヴァッド・ギーター』(第9章・11節)はこのような無信仰の者をムーダ(mūḍha)(愚か者、またはロバ)と呼んでいます。ムーダたちは、不惑のアーチャーリャから完全な知識を学んでいないので、至高人格主神をあざ笑います。物質エネルギーの渦巻に惑わされる者はアーチャーリャになる資格はありません。
『バガヴァッド・ギーター』を聞くまえ、アルジュナは自分の家族や社会への愛情という物質の渦に巻き込まれていました。その結果アルジュナは博愛主義者になって、だれにも暴力をふるいたくないと考えました。しかし、至高主クリシュナから『バガヴァッド・ギーター』の知識を聞いてbudha(ブダ)になったとき、それまでの決意を翻し、クルクシェートラの戦いを計画した主シュリー・クリシュナの崇拝者になりました。アルジュナはクリシュナを崇拝し、自分のいわゆる親族と戦いました。このようにして彼は、主の真の献愛者となったのです。アルジュナが見せたこのような行為はほんとうのクリシュナを崇拝するときだけ可能となり、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の中に述べられているような、クリシュナに関する科学の複雑さを知らない愚か者が作りあげた「クリシュナ」を崇拝したところで、アルジュナのような決意と遂行ができるものではありません。
『ヴェーダンタ・スートラ』によれば、sambhūta(サンブータ)は「誕生と維持の源」とか「破壊の後に残っている貯蔵源」を意味します(janmādy asya yataḥ・ジャンマーディ アッシャ ヤタハ 『シュリーマド・バーガヴァタム』第1編・第1章・第1節)。同じ著者による『ヴェーダンタ・スートラ』の注釈書『シュリーマド・バーガヴァタム』は、すべての現象物の源は命のない石ころではなく、abhijña(アビギャ)「完璧に意識している存在」と述べています。根源の主シュリー・クリシュナも『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第26節)の中で「わたしは、過去、現在、未来の一切を知っているが、シヴァやブラフマーのような半神でさえもわたしを完全には知らない」と言っています。物質存在の激流に惑わされ、充分な教育を受けていないいわゆる「精神的な指導者」は、主を知りつくすことはできません。彼らは、大衆を崇拝の相手にしてご機嫌を伺うようなことをしますが、そのような崇拝は、大衆そのものが不完全であるためただの作り事にすぎません。彼らの行為は、水を木の根ではなく葉にかけているようなものです。水は根にかけるべきものですが、現代の困惑しきっている指導者たちは根よりも葉のほうに気をとられています。葉に水をかけつづけても、結局は栄養不足で木全体が枯れてしまいます。
根、すなわちすべての発芽の根源に水をそそぐように助言しているのが『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』です。肉体への奉仕をして大衆を崇拝しても完璧にはなれませんし、魂に奉仕をすることよりも劣っています。物質的反動(カルマの法則)に応じてさまざまな形の肉体が作られますが、その源は魂です。医療援助、社会的援助、教育の便宜提供など八方手をつくして人間には奉仕しているいっぽうで、屠殺場で哀れな動物の首を次々に切り落としている――そんな奉仕は生命に対する正しい有効的な奉仕とはもちろん言えるはずがありません。
生命はさまざまな肉体に中に入り、誕生・老年・病気・死という苦悩を絶えず味わっています。人としての生涯は、生命体と至高主のあいだにある切っても切れない絆をとりもどすことによって、生死病死のもつれから抜けだすチャンスを与えてくれます。主は、サンブータ(至高主)に帰依するという哲学を私たちに教えるため自ら降誕します。「人類への真の奉仕」は、強い愛とともに懸命に至高主に身をゆだね、崇拝するよう人々に教えることです。それこそが『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』がこのマントラで教えようとしていることです。
この困惑の時代において、至高主を崇拝するもっともかんたんな方法は、主の偉大な活動を聞き、讃えることです。しかし残念ながら、空論家は主の活動を想像されたものとして考え、聞こうともせず、それどころかありもしないあやふやな言葉の綾で何も知らない大衆の注意を逸らせています。偽精神指導者たちは主クリシュナの活動について聞くかわりに、信奉者たちのまえで自画自賛し、自分たちを讃える歌をうたわせています。現代では、このような多くの偽善者が増えつづけているため、主の純粋な献愛者にとっては、偽善者と偽物化身の邪悪な教義から一般大衆を救うことが課題になっています。
ウパニシャッドは間接的に私たちの注意を根源の主シュリー・クリシュナに向けますが、すべてのウパニシャッドの要約である『バガヴァッド・ギーター』は、直接にシュリー・クリシュナを指しています。ですから私たちは、クリシュナのことを『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の記述から学ばなくてはなりません。そうすることで、心は穢れた物事からしだいに清められていきます。『シュリーマド・バーガヴァタム』(第1編・第2章・第17節)は、「主の活動について聞くことで、献愛者は主の関心を引きつける。こうしてあらゆる生命体の心の中にいる主は、正しい指示を与えて献愛者を助ける」と言います。『バガヴァッド・ギーター』も第10章・第10節でこのことをdadāmi buddhi-yogaṁ taṁ yena mām upayānti te(ダダーミ ブッディ ヨーガンム タンム イェーナ マーンム ウパヤーンティ テー)と確証しています。
主の内側からの指示は、激性や無知によって作られた献愛者の心の穢れをすべて清めます。だから献愛者でない人はいつも激性と無知に惑わされています。激性の中にいる人は物質的欲望を断つことができず、無知の中にいる人は自分のことはおろか、主がだれなのかを知ることもできません。ですから、宗教家のふりをしても、激性や無知の中にいる人が自己を悟る可能性はありません。しかし献愛者の場合、主の恩寵によって激性と無知は取りはらわれます。こうして献愛者は、完全なブラーフマナの証である徳性の中に置かれます。正しい精神指導者に導かれて献愛奉仕をしている人はブラーフマナの資格を持つことができます。『シュリーマド・バーガヴァタム』(第2編・第4章・第18節)も言っています。
kirāta-hūṇāndhra-pulinda-pulkaśā
ābhīra-śumbhā yavanāḥ khasādayaḥ
ye ’nye ca pāpā yad-apāśrayāśrayāḥ
śudhyanti tasmai prabhaviṣṇave namaḥ
どれほど身分が低くても、主の純粋な献愛者の導きを受けいれさえすれば純粋な人間になれます。主がそれほど驚異的な力を持っているからです。
ブラーフマナの資質をそなえた人は幸福になり、熱心に主に献愛奉仕をするようになります。同時に神の科学は自動的に彼のまえに明らかにされます。神の科学を知ることによって徐々に物質的執着から離れていき、疑り深かった心も、神の恩寵によってやがて水晶のように透きとおっていきます。この境地に達したとき彼は解放された魂となり、人生のあらゆる段階でいつも主を見るようになります。この境地がこのマントラに説かれているsambhava(サンバヴァ)の完成です。
sambhūtiṁ ca vināśaṁ ca
yas tad vedobhayaḿ saha
vināśena mṛtyuṁ tīrtvā
sambhūtyāmṛtam aśnute

訳語

翻訳

生命体は、人格主神シュリー・クリシュナとその超越的な名前・姿・気質・崇高な娯楽を、さらに一定期間存在する物質創造界、そこに住む限りある半神・人間・動物を完全に理解しなくてはならない。理解した者は、死を、そして死を伴うはかない宇宙現象界を出たあと、永遠な神の国で、至福と知識にあふれたとこしえの生活を楽しむことができる。

解説

いわゆる知識の発達によって、人類は宇宙船や原子エネルギーといった物質的なものを数多く作りだしました。しかし、それで私たちが生死病死の苦しみから自由になったわけではありません。賢い人が、科学者と呼ばれる人々にこの人間の苦しみについて尋ねると、彼らは「今科学はひじょうに進歩しつつあります。いつかきっと不老長寿、病気のない時代を作り出します」と言葉巧みに答えることでしょう。その答は科学者が物質的自然について無知であることをさらけだしているようなものです。物質自然の中では、すべてのものが厳格な法則に縛られ、誕生・成長・維持・変化・減少・そして最後に死、という変異の6段階を必ず通過しなくてはなりません。物質自然とかかわっている物のうちで、これら6つの変異法則から逃れられるものはありません。ですから、だれであろうとなんであろうと――半神・人類・動物・木のいずれも、物質界で永遠に生きることはできません。
寿命は生物の種類によって違います。たとえば物質宇宙の長である主ブラフマーは何百万年間も生きますが、ある微生物はほんの数時間しか生きられません。しかしいずれにしても、物質界ではだれも永久に生きつづけることはできません。ある条件下でなにかが生まれ、作られ、一定期間存在し、そのまま生きつづけるならば成長しつづけ、何かを作りだし、徐々に縮小していき、そして最後に消滅します。この法則によって、さまざまな宇宙の中に何百万人と存在するブラフマーたちでさえも、今日か明日かにでも死ぬ運命にあります。このため、物質宇宙全体はMartyaloka・マルテャローカ(死の場所)と言われます。
物質科学者や政治家は、不死の精神自然界があることを知らないため、物質界を不死の世界にしようとしています。これは、円熟した超越的体験によって理解される知識を満載したヴェーダ経典を知らないためによるものです。不運なことに、現代人はヴェーダ、プラーナ、その他の経典から知識を学ぶことを嫌います。
『ヴィシュヌ・プラーナ』(第6編・第7章・第61節)から次のような情報が得られます。
viṣṇu-śaktiḥ parā proktā
kṣetrajñākhyā tathā parā
avidyā-karma-saṁjñānyā
tṛtīyā śaktir iṣyate
人格主神、主ヴィシュヌはparā(パラー・優性)のエネルギーとaparā(アパラー・劣性)という異なるエネルギーを持っています。生命体はこの優性のエネルギーに属しています。今私たちを束縛している物質エネルギーは劣性エネルギーで、生命体を無知(アヴィデャー)で包みこみ、結果に囚われる活動に仕向けます。しかしもう一つの世界があり、そこには劣性のエネルギーや生物たちとは異なる主の優性の別の世界があります。このことは『バガヴァッド・ギーター』(第8章・第20節)で確証されています。
paras tasmāt tu bhāvo ’nyo
’vyakto ’vyaktāt sanātanaḥ
yaḥ sa sarveṣu bhūteṣu
naśyatsu na vinaśyati
太陽、月、金星などを含む高位、下位、中間のあらゆる物質惑星が全宇宙に散らばっていますが、これはブラフマーの寿命のあいだだけ存在します。しかし、このうちの下位の惑星は、ブラフマーの1日が終わると消滅し、次の日が始まると同時に創造されます。高位の惑星では、別の時間の計算がなされます。私たちの1年はそこでの24時間、すなわち一昼夜だけに相当します。高位の惑星上での時間と比べると、地球の4つの時代(サテャ・Satya、トゥレター・Tretā、ドゥヴァーパラ・Dvāpara、カリ・Kali)は、12,000年しかありません。その時間を1,000倍した長さがブラフマーの1日の昼に相当し、夜も同じ長さです。そのような昼と夜が1ヶ月、1年とつづき、このようにしてブラフマーは100年間生きます。ブラフマーが死ぬと宇宙現象界そのものが消滅します。
太陽や月に住んでいる生命体もMartyaloka(マルテャローカ 地球やその下の惑星)に住む生命体も、すべてブラフマーの夜のあいだ破壊の洪水の中に沈んでいます。この期間、どのような生命体も(たとえ生命は精神的に存続するにしても)姿のない状態でいますが、この状態をavyakta(アヴャクタ)といいます。またブラフマーの一生が終わり、全宇宙が消滅すると、別のアヴャクタの状態になります。しかし、この2つのアヴャクタ(非顕現)の状態を超えたところに精神界(精神的自然)があります。この空間には無数の精神的惑星がただよい、物質宇宙のすべての惑星が破壊されるときでも、これらの惑星は永遠に存在しつづけます。無数のブラフマーが無数の宇宙を支配していますが、この宇宙(物質界)も主のエネルギーの4分の1(ekapād-vibhūti・エーカパードゥ ヴィブーティ)の表われにすぎず、劣性エネルギーにほかなりません。ブラフマーの支配力を超えたところに精神自然界(tripād-vibhūti・トゥリパーダ ヴィブーティ)があり、主のエネルギーの4分の3を占めています。この世界がパラー・プラクリティ(優性エネルギー)です。
精神自然界の中に住む筆頭の至高主は主シュリー・クリシュナです。『バガヴァッド・ギーター』(第8章・第22節)が確証するように、主に近づける方法は純粋な献愛奉仕だけであり、ギャーナ(哲学)やヨーガ(神秘主義)やカルマ(果報的活動)ではありません。カルミー(果報的活動者)はSvargaloka(スヴァルガローカ・太陽や月などを含む)まで高められます。ギャーニーとヨーギーはマハルローカ、タポーローカ、ブラフマローカのようなさらに高い惑星まで昇ることができますが、献愛奉仕をしてさらに高められると、それぞれの資格に応じて精神的空間(ブラフマン)の光の中や、ヴァイクンタの星の1つに入ることが許されます。しかし、断言できることは、献愛奉仕の訓練を受けない者はだれであろうとヴァイクンタの星には入れないということです。
物質界の惑星では、ブラフマーからアリにいたるまで、だれもが物質自然を支配しようとしています。これは物質的病であり、この病気がつづくかぎり、生命体は次から次へと肉体を変えなくてはなりません。人間の姿でも半神や動物の姿でも、その生命体は、ブラフマーの夜とブラフマーの一生の終わりに起こる2種類の破壊のときに、水の中で姿のない状態でとどまらなくてはなりません。生と死の繰りかえしや、それに伴う老年・病気の苦しみを終わらせようと望むのであれば、主クリシュナやその完全分身ナーラーヤナの姿と永遠に暮らすことのできる精神的惑星に入る努力をしなくてはなりません。主クリシュナや主の完全拡張体は、これら無数の惑星すべてを支配しており、それはシュルティ・マントラで、eko vaśī sarva-gaḥ kṛṣṇa īḍyaḥ/ eko ’pi san bahudhā yo ’vabhāti(エーコー ヴァシー サルヴァ ガハ クリシュナ イーデャハ/エーコー ピ サン バフダハー ヨー ヴァバハーティ)(『ゴーパーラ・ターパニー・ウパニシャッド』 第1章・第21節)と確証されています。
だれもクリシュナを支配することはできません。物質自然界を支配しようとし、逆に自然界の法則と生と死の繰りかえしの苦しみに支配されている――それが条件づけられた魂たちです。主は宗教原則を確立しなおすためにこの世界に降誕しますが、その基本的な原則は「主に身をゆだねようとする態度を育てること」です。これが『バガヴァッド・ギーター』(第18章・第66節)での主の最後の教えです。sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja(サルヴァ ダハルマーン パリテャジャ マーンム エーカン シャラナン ヴラジャ)「ほかのすべての方法を捨て、わたしだけに身をゆだねなさい」。ところが愚か者たちはこのもっとも大切な教えを巧みに誤訳し、大衆を誤って導いています。人々は病院を建てるようにとせかされはしましたが、献愛奉仕によって精神界に入ることを学ぶようには言われませんでした。一時的な救済活動に関心をもつよう教えられても、私たち魂に真の幸福がもたらされるはずがありません。彼らは、すべてを破壊する自然の力に対抗するために、民間や法人団体を作りましたが、絶対に征服できない自然力を鎮める方法を知りません。多くの人々が『バガヴァッド・ギーター』を知る偉大な学者としてPRされていますが、当の彼らは物質自然を鎮める『バガヴァッド・ギーター』のメッセージを見落としています。その『バガヴァッド・ギーター』は第7章・第14節で「強大な自然力は、神への意識を甦らせることで鎮められる」とはっきり指摘しています。
『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのマントラは、sambhūti(サンブーティ・人格主神)とvināśa(ヴィナーシャ・一時的物質現象)との両者を同時に知らなくてはならない、と教えています。物質現象界を知るだけでは救われません。なぜなら、自然の法則によっていつでも破壊が起こりうるからです(ahany ahani bhūtāni gacchantīha yamā-layam アハニ アハニ ブーターニ ガッチャンティーハ ヤマー ラヤン)。病院を建ててもこの破壊からは救われません。至福に満ちあふれ、いつも目ざめている永遠なる生き方を完全に知ることによってはじめて人は救われます。ヴェーダの全計画は、永遠な生き方をつかむ方法を人々に教えるためにあります。人々は感覚を満足させるはかない魅力的な物事によく惑わされますが、感覚満足のための奉仕は、私たちを惑わせ、堕落させます。
だからこそ私たちは、仲間を正しい方法で救わなくてはなりません。真理が好きか嫌いかの問題ではありません。真理は存在しています。「生と死の繰りかえしから救われたい」と心から望むなら、今こそ私たちは主への献愛奉仕を始めなくてはなりません。妥協案はありません。献愛奉仕こそが絶対に必要なことなのです。
hiraṇmayena pātreṇa
satyasyāpihitaṁ mukham
tat tvaṁ pūṣann apāvṛṇu
satya-dharmāya dṛṣṭaye

訳語

翻訳

主よ。生きとし生けるものすべてを維持される方よ。あなた様のほんとうのお顔はまばゆい光に覆われています。どうか、その覆いを取りのぞき、純粋な献愛者にご自身をお見せください。

解説

『バガヴァッド・ギーター』(第14章・第27節)で、主は自分の体から発する光(brahmajyoti・ブラフマジョーティ)について次のように説明しています。
brahmaṇo hi pratiṣṭhāham
amṛtasyāvyayasya ca
śāśvatasya ca dharmasya
sukhasyaikāntikasya ca
「わたしは非人格的なブラフマンの源である。ブラフマンは不死、不滅、永遠で、究極かつ本来の幸福の源である」。絶対真理者の悟りには、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンという3つの段階があります。ブラフマンは初心者がかんたんに知覚できる様相で、パラマートマー・超霊魂はさらに高められた意識を持つ人々が悟ることができます。そしてバガヴァーンの悟りは絶対真理者の究極的な悟りです。これは『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第7節)でもmattaḥ parataraṁ nānyat(マッタハ パラタランム ナーニャトゥ)と確証されています。ですからクリシュナは、絶対真理者の究極的概念であり、遍在するパラマートマーやブラフマジョーティの根源です。またクリシュナは『バガヴァッド・ギーター』(第10章・第42節)でさらに説明します。
atha vā bahunaitena
kiṁ jñātena tavārjuna
viṣṭabhyāham idaṁ kṛtsnam
ekāṁśena sthito jagat
「しかしアルジュナよ。このような詳細な知識がはたして必要だろうか。わたしは自分の力のほんの一部を使って全宇宙に遍在し、全宇宙を支えているのだ」。このように主は、自らの完全拡張体である遍在するパラマートマーによって、完全な物質宇宙の被創造物を維持しています。主はまた精神界のあらゆる現象物をも維持しています。したがって、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のこのシュルティ・マントラで、主はプーシャン(pūṣan)「究極の維持者」と呼ばれています。
人格主神シュリー・クリシュナは、いつも超越的至福(ānanda-mayo ’bhyāsāt・アーナンダ マヨー ビャーサートゥ)で満たされています。5,000年前、主がインドのヴリンダーヴァンにいたとき、幼いころでさえ超越的至福の中にいました。主はたくさんの悪魔――アガースラ、バカースラ、プータナー、プラランバ――を殺害しましたが、主にとってそれはちょっとした遠足の楽しみのようなものでした。ヴリンダーヴァンの森で母親や兄弟や友人たちと住み、バターを盗むようないたずらをしても、周囲の人々はそのような主の行為に超越的な喜びを感じたものです。バターを盗んだ主の行為は非難の対象にはなりません。なぜなら、バターを盗むことで主は献愛者たちに喜びを与えたからです。ヴリンダーヴァンで主クリシュナがしたことは、すべて主の仲間を喜ばせるためでした。主は無味乾燥な思索家たちや絶対真理者を探しながらハタ・ヨーガを実践するアクロバット行者たちを魅了させるために、このような超越的な娯楽を見せたのです。
主の幼少期の遊び友達との娯楽について、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが『シュリーマド・バーガヴァタム』(第10編・第12章・第11節)で次のように言っています。
itthaṁ satāṁ brahma-sukhānubhūtyā
dāsyaṁ gatānāṁ para-daivatena
māyāśritānāṁ nara-dārakeṇa
sākaṁ vijahruḥ kṛta-puṇya-puñjāḥ
「姿のない存在、そして至福のブラフマンとしてギャーニーに崇拝され、至高主として献愛者に崇拝され、ふつうの人間として俗人に考えられている人格主神は、多くの敬虔な活動を積み重ねてきたあとに、主の遊び友だちとなった牛飼いの仲間たちと遊んだ」。
このように主は精神的な仲間と、シャーンタ(śānta)「中立」、ダーッシャ(dāsya)「奉仕」、サキャ(sakhya)「友人」、ヴァートゥサリャ(vātsalya)「親子」、マードゥリャ(mādhurya)「恋愛」というさまざまな関係をとおして、いつも超越的な愛情の交換を楽しんでいます。
主は絶対にヴリンダーヴァナ・ダーマを離れない、と聞いて、ある人は「では、主はどのようにして宇宙を創造するのか」と尋ねるかもしれません。この答は『バガヴァッド・ギーター』の第13章・第14-18節にあります。主はプルシャ化身という完全部分体として物質創造界全体に遍在しています。主は物質界の創造、維持、破壊に直接手をくだすことはしません。しかし、それは主の完全拡張体・パラマートマー(超霊魂)がおこないます。生命体をアートマー(魂)といいますが、すべてのアートマーを支配する最高アートマーをパラマートマー・超霊魂といいます。
神を悟るこのシステムは偉大な科学です。物質主義的なサーンキャ・ヨーギー(sāṅkhya-yogīs)は、物質創造界の24の要素をただ分析して考えるのが精一杯というところでしょう。なぜならプルシャ(主)についてほとんど何も知らないからです。非人格論者も、ブラフマジョーティ(brahmajyoti)のまばゆい光に惑わされています。絶対真理者を完全に見たいと思うのであれば、24の物質的要素ときらめく光を突きぬけなくてはなりません。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』もhiraṇmaya-pātra(ヒランマヤ パートゥラ・まばゆい覆い)を取り払うよう祈りつつ、この方向を指し示します。この覆いが取りのぞかれ、人格主神をありのままに見ることができないかぎり、絶対真理者は決して悟れません。
人格主神のパラマートマー・超霊魂の姿は、プルシャ・アヴァターラ(puruṣa-avatāra)と総称される3つの完全拡張体・ヴィシュヌ・タットヴァの1つでもあります。物質宇宙の中にいるヴィシュヌ・タットヴァの一人はクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌ(Kṣīrodaka-śāyī Viṣṇu)と呼ばれています。このクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌは3人の主要な主宰神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)のヴィシュヌで、全生物の内に住む遍在するパラマートマーです。宇宙の中の2番目のヴィシュヌ・タットヴァはガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌ(Garbhodaka-śāyī Viṣṇu)で、全生物の中の集合的な超霊魂です。この2人(クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌとガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌ)を超えているのが、原因の海に横たわるカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌ(Kāraṇodaka-śāyī Viṣṇu)で、このヴィシュヌがすべての宇宙を創造しました。ヨーガ体系では、宇宙創造の中の24の物質要素を超えたあとにヴィシュヌ・タットヴァに出会うことを真剣な探求者に教えています。経験的哲学を学ぶことは、主シュリー・クリシュナの超越的な体から出ている光(非人格的ブラフマジョーティ)を悟る助けになります。これは『バガヴァッド・ギーター』(第14章・第27節)や『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第40節)でも確証されています。
yasya prabhā prabhavato jagad-aṇḍa-koṭi-
koṭiṣv aśeṣa-vasudhādi vibhūti-bhinnam
tad brahma niṣkalam anantam aśeṣa-bhūtaṁ
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
「何億何兆もの宇宙の中に無数の惑星があり、その一つ一つの宇宙構成は異なっている。この惑星すべてはブラフマジョーティの片隅に位置している。ブラフマジョーティは、私が崇拝する至高人格主神ゴーヴィンダの体から出ている光である」。『ブラフマ・サムヒター』のこのマントラは絶対真理者をじっさいに悟った境地から語られているもので、この『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』のシュルティ・マントラも、このマントラを悟りの方法として確証しており、「主の顔が見られるように、ブラフマジョーティが取りのぞかれるように」という素直な祈りです。このブラフマジョーティの光輝について、『ムンダカ・ウパニシャッド』(第2編・第2章・第10-12節)のいくつかのマントラで詳しく説明されています。
hiraṇmaye pare kośe
virajaṁ brahma niṣkalam
tac chubhraṁ jyotiṣāṁ jyotis
tad yad ātma-vido viduḥ
na tatra sūryo bhāti na candra-tārakaṁ
nemā vidyuto bhānti kuto ’yam agniḥ
tam eva bhāntam anu bhāti sarvaṁ
tasya bhāsā sarvam idaṁ vibhāti
brahmaivedam amṛtaṁ purastād brahma
paścād brahma dakṣiṇataś cottareṇa
adhaś cordhvaṁ ca prasṛtaṁ brahmai-
vedaṁ viśvam idaṁ variṣṭham
「物質界の覆いを超えた領域にある精神界には、物質に穢されていない無限のブラフマンの光が広がっている。その輝く白い光は、超越主義者によってあらゆる光の源と理解されている。その領域は、太陽、月、電気の光で照らす必要のない世界である。じつに、物質界で見られる光はすべてその至高の光の反射にすぎない。そのブラフマンは、前、後ろ、北、南、東、西、頭上、下方に広がっている。すなわち、その至高のブラフマンの光輝は、物質界・精神界両方の空間に遍在している、ということである」
完璧な知識とは、クリシュナがブラフマンの根源であると知ることです。ブラフマンの根源は主クリシュナであり、『シュリーマド・バーガヴァタム』には、クリシュナに関する科学が完璧な形でくわしく述べられています。『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で著者シュリーラ・ヴャーサデーヴァは、「主に関する悟りの程度に応じて、絶対真理者をブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンと呼ぶ」と定義しました。シュリーラ・ヴャーサデーヴァは、至高の真理者がふつうの生命体・ジーヴァであるとは言っていません。まちがっても生命体のことを全能の力を持つ至高の真理者と考えてはいけません。もしそうだとするならば、生命体が主の真の姿を見ることができるよう光を取り払ってほしいと主に祈る必要があるでしょうか。
結論として、絶対真理者の勢力について知識のない人は非人格的ブラフマンを悟る、と言えます。同じように、主の物質的力を理解しても精神的な力について知らない人はパラマートマーの悟りを得ます。つまり、絶対真理者に関するブラフマンとパラマートマーの悟りは部分的な悟りだということです。しかし、hiraṇmaya-pātra(ヒランマヤ パートゥラ)を超えて至高人格主神・シュリー・クリシュナを完全に悟った人は、vāsudevaḥ sarvam iti(ヴァースデーヴァハ サルヴァン イティ)「ヴァースデーヴァとして知られる主シュリー・クリシュナがすべて、すなわちブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンである」(『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第19節)と悟ります。
『バガヴァッド・ギーター』(第6章・第46-47節)には、非人格的ブラフマンの崇拝者(ギャーニー)、パラマートマーの崇拝者(ヨーギー)、そして主クリシュナの崇拝者(バクタ)という3種類の超越主義者について比較分析がなされ、「すべての超越主義者のなかで、ヴェーダ知識を会得したギャーニーが最高である」と述べられています。しかし、ヨーギーはギャーニーより優れており、カルミー(果報を求める活動者)よりも遥かに優れています。そしてあらゆるヨーギーのうちでも全身全霊をこめていつも主に奉仕する人が最高のヨーギーです。これを要約すると、哲学者は労働者よりも優れ、神秘家はその哲学者よりもさらに優れていますが、あらゆる神秘的ヨーギーのうちでもバクティ・ヨーガ(bhakti yoga)を実行し、つねに主へ奉仕する人物がもっとも優れているということになります。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、私たちをこの完成の境地へ導いています。
pūṣann ekarṣe yama sūrya prājāpatya
vyūha raśmīn samūha tejo
yat te rūpaṁ kalyāṇa-tamaṁ tat te paśyāmi
yo ’sāv asau puruṣaḥ so ’ham asmi

訳語

翻訳

主よ。原初の哲学者、宇宙を維持する方よ。規定原則であり、純粋な献愛者たちが目指す方であり、人類の祖先の幸福を願う方よ。どうか、あなた様の至福の姿を私が見られますよう、その超越的光の輝きを取りのぞいてください。太陽とその光が同じ質を持つように、あなた様は太陽のような永遠なる至高人格主神であり、私は同じ精神的質を持つあなた様の部分体です。

解説

太陽と太陽光線は質的に同じです。同じように主と生命体も質的には同じです。太陽は一つしかありませんが、その太陽から出される光線の分子はおびただしい数にのぼります。光線は太陽の一部であって、太陽と太陽光線が合わさって完全な太陽となります。太陽の中には太陽神が住んでいるように、ブラフマジョーティの光輝が発出されている至高の精神惑星・ゴーローカ・ヴリンダーヴァンの中で、主クリシュナは永遠な娯楽を楽しんでいます。このことは『ブラフマ・サムヒター』(第5章・第29節)で次のように確証されています。
cintāmaṇi-prakara-sadmasu kalpa-vṛkṣa-
lakṣāvṛteṣu surabhīr abhipālayantam
lakṣmī-sahasra-śata-sambhrama-sevyamānaṁ
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
「私は根源の主、ゴーヴィンダを崇める。主は原初の先祖であり、牛を飼い、精神的な宝石と無数の望みの木に囲まれた住居に住み、すべての望みを叶えている。主は、数えきれない幸運の女神・ラクシュミー(Lakṣmī)たちの深い敬意と愛情がこめられた奉仕をいつも受けている」
『ブラフマ・サムヒター』では、ブラフマジョーティについて「太陽球体から太陽光線が出ているように、ブラフマジョーティは、最高の精神惑星ゴーローカ・ヴリンダーヴァンから出されている光輝である」とも述べられています。ブラフマジョーティの光を超えなければ、主の国を知ることはできません。ブラフマジョーティの光に目を眩まされた非人格論の哲学者は、主の住居も主の超越的な姿も悟れません。そのような非人格論者は知識が乏しいために、至福に満ちた主クリシュナの超越的姿を理解することができません。だからこそ『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、純粋な献愛者が至福に満ちた主の姿が見られるように、ブラフマジョーティのきらめく光を取りはらうようこの祈りの中で嘆願しているのです。
非人格的なブラフマジョーティを悟った人は、至高者の吉兆な様相を体験し、至高者の遍在する様相・パラマートマーを悟った人は、さらに吉兆な喜びを感じます。しかし、人格主神自身と対面した献愛者は、至高者のもっとも吉兆な姿を体験します。主は「根源の哲学者」や「維持者」、「宇宙の維持者」あるいは「宇宙の幸福を願う方」と呼ばれているのですから、至高真理者に姿がないはずがありません。これが『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の結論です。プーシャン(pūṣan)「維持する者」という言葉はとくに重要です。なぜなら、主はあらゆる存在物を維持しますが、献愛者を特に維持しているからです。非人格的ブラフマジョーティの光を超え、主に人格としての姿、すなわち主のもっとも吉兆で永遠な姿を自分の目で見るとき、献愛者は絶対真理者を完全に悟ります。
『バガヴァット・サンダルバ』で、シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーが述べています。「絶対真理者の完全な概念は人格主神において悟られる。なぜなら、主は全能で完全な超越的勢力を持っているからである。絶対真理者の完全な勢力は、ブラフマジョーティの境地で悟られるものではない。ゆえに、ブラフマンの悟りは人格主神の部分的悟りである。学識ある聖者たちよ、bhagavānの最初の(bha・バハ)には2つの意味がある。最初は『完全に維持する人物』、2番目が『保護者』である。2番目の音節(ga・ガ)には『導く』『指導者』『創造者』の意味がある。Vān(ヴァーン)という音節には『全生命体は主の内に住む、そして主も全生命体の内に住む』という意味が含まれている。言いかえれば、bhagavān(バガヴァーン)という超越的な音は、無限の知識・勢力・エネルギー・富・力・影響力を表わしており、その音の中に物質的な陶酔感情は微塵もない」
主は純粋な献愛者たちを完全に維持し、彼らが献愛奉仕を完成させられるよう道案内をします。献愛者たちを導く方として、主は自ら献愛者たちのまえに現われ、彼らの献愛奉仕に報います。献愛者たちは、主の純粋で絶対的な慈悲によって主と顔を合わせることができます。こうして主は、献愛者が最高の精神惑星ゴーローカ・ヴリンダーヴァンに辿りつけるよう助けます。主は創造者として、献愛者が自分のもとにたどり着けるよう、必要なすべての資質を授けます。主はすべての原因のその原因です。主の原因となったものはなにもなく、主こそが本来の原因です。したがって、主は自らの内なる勢力(精神界)を表わし、自分自身を楽しみます。外的勢力(物質界)は主自身が直接手をくだして表わされたのではありません。主は自分をプルシャ(puruṣa)として拡大させ、この姿をとおして物質現象界を維持しています。そうした拡張体によって主は宇宙現象界を創造し、維持し、消滅させています。
生命体も主自身の別の形の拡張体であり、支配者になって至高主の真似をしようとする生命体もいるため、主は彼らが宇宙創造界に入り、自然を支配しようとする傾向を充分に満たすことを許します。このように、主の部分体である生命体がひしめきあっているために、物質界全体が活動や反動であふれています。生命体には物質自然を支配するための充分な便宜が与えられているのですが、究極的な支配者は、主の完全な姿でプルシャの一つでもあるパラマートマー・超霊魂です。
このように、生命体(ātmā・アートマー)と支配する主(Paramātmā・パラマートマー)、すなわち魂と超霊魂とのあいだには大きな違いがあります。パラマートマーは支配する者、アートマーは支配される者であり、したがって互いに違った次元で存在しています。パラマートマーはアートマーと完全に協調するため、パラマートマーは生命体の永遠の伴侶としても知られています。
遍在する主の姿をブラフマン(Brahman)といいます。それは目ざめているときも眠っているときも、無意識のときも存在し、jīva-śakti(ジーヴァ・シャクティ・生命力)は条件づけられた魂や解放された魂としてもブラフマンから生じます。主はパラマートマーとブラフマン双方の根源ですから、主はすべての生命体の根源であり、それ以外のすべての存在体の根源といえます。このことをよく知っている人は主にただちに献愛奉仕をします。そのような純粋な心を持ち、主のことをよく知っている献愛者は、心の底から主に魅かれ、ほかの献愛者たちと集うときには、いつも主の超越的な活動を讃える話題に没頭します。しかしこうした純粋な献愛者ほど完璧ではなく、主のブラフマンやパラマートマーの姿だけを悟った人には、完璧な献愛者が見せるふるまいの意味は理解できません。主は純粋な献愛者の心の中に必要な知識を与え、特別の恩寵をもって彼らの無知の闇を取りのぞいてくれます。いつも推論にふけっている哲学者やヨーギーたちにはこうしたことは想像さえできません。なぜなら彼らは多かれ少なかれ自分自身の力に頼っているため、『カタ・ウパニシャッド』(第1編・第2章・第23節)で言われているように、主に好まれた者だけが主を知り、そうでない者にはわかりません。主のそうした特別な好意は純粋な献愛者だけに与えられます。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は私たちを、ブラフマジョーティの領域を超える主の恩寵に導いています。
vāyur anilam amṛtam
athedaṁ bhasmāntaṁ śarīram
oṁ krato smara kṛtaṁ smara
krato smara kṛtaṁ smara

訳語

翻訳

このはかない肉体が燃えて灰になりますように、そして気息(きそく)が空気全体に溶けこみますように。主よ、私のすべての苦行を思いおこしてください。あなた様は究極の受益者ですから、どうか、私があなた様のためにしたことすべてを思いおこしてください。

解説

はかない物質的肉体は外側の衣服にほかなりません。『バガヴァッド・ギーター』(第2章・第20節)は、物質の体が破壊されたあとでも生命体は消滅せず、その正体は失われない、と明言しています。生命体の本質は、無形あるいは非人格の状態ではありません。逆に、姿がないのは物質の衣服、つまり体のほうであり、その体は、不滅の魂の意識に応じて変化します。知識の乏しい人がよく勘違いするように、「生命体はもともと姿を持っていない」という考え方はまちがっています。このマントラも、生命体は物質の肉体が消滅したあとにも存在しつづけることを確証しています。
物質自然はすばらしい手腕を発揮し、多様な感覚を満たそうとする生命体の気質に応じてさまざまな肉体を作りあげます。糞が食べたい生命体にはそれにふさわしい体、つまり豚の体が与えられます。同様に、肉を食べたい生命体にはそれにふさわしい体、つまり動物の血や肉を楽しんで食べる虎のような体が与えられます。しかし人間の体は、原始的な状態のときでも肉を食べるようにはできていませんし、人が糞を食べたいと思うこともありません。人間の歯はくだものや野菜を噛むようにできています。2本の犬歯もありますが、これは肉を食べたいと思う未開の人間のために用意されているものです。
いずれにしても、すべての動物や人間の物質の肉体は生命体にとっては異物です。それは、生命体が感覚を満足させようとする欲望に応じて変化します。進化の度合いによって次から次へと肉体を変えていくのです。世界が水中に没していたころ、生命体は水生体の肉体をとっていました。次に植物から虫、虫から鳥、鳥から動物、動物から人間へと変わっていきました。一番発達した形が人間の体であり、精神的知識もそなわっています。このマントラは、人間の精神的感覚がもっとも発達した状態について述べています。すなわち、私たちはやがて灰になるこの物質的肉体を捨て、気息を永遠な空気の貯蔵所に溶けこませなくてはならないということです。生命体の活動は、肉体の中でプラーナ・ヴァーユ(prāṇa-vāyu)と総称されるさまざまな空気の動きをとおしておこなわれます。ヨーギーはふつう体の空気を統制する方法を研究します。魂はある空気の層から次の空気の層へと次第に上昇し、ついにはブラフマ・ランドラ(brahma-randhra)という最上層に達します。完璧なヨーギーは、その状態から自分の望む惑星に行くことができます。これが、肉体を捨ててほかの肉体に入るという転生の過程です。しかしそうした変化の最高完成は、このマントラが示しているように、生命体が肉体を完全に捨てさるときに実現されます。そのとき初めて精神界に入ることが許され、精神界ではまったく異質の体、つまり決して死ぬことも変わることもない精神的体に変貌します。
物質界では、生命体は感覚満足の望みを持っているために物質自然によって体を変えさせられます。こうした欲望は、ばい菌からほぼ完成された物質的肉体――たとえばブラフマーや半神たち――にいたるまで、さまざまな種類の生命体の中に表われています。これらの生物は、さまざまな形をもった物質から成り立っていますが、知的な人は、そのような肉体の中にではなく、肉体の内に宿る精神的正体の中に一体性を見出します。至高主の部分体である精神的火花(魂)は、豚の中であろうと半神の中であろうとまったく同じです。ただし生命体は、敬虔な行動をとるか不道徳な行動をとるかに応じて異なる体を得ます。人間の体は、その中でもっとも発達した体であり、はっきりした意識もそなえています。『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第19節)によると、もっとも完璧な人物は、知識を修養する生涯を幾度となく経たあと主に身をゆだねるようになります。こうして知者が至高主ヴァースデーヴァに身をゆだねるとき、初めて知識の修養は完成します。しかしたとえ精神的正体に関する知識を獲得したあとでも、「生命体は全体者の永遠な部分体であり、決して全体者と一体にはなれない」という知識に到達しなければ、物質界にふたたび転落します。ブラフマジョーティと一体になったとしても、いつかは落ちていくのです。
先のマントラで学んだように、主の超越的な体から出ているブラフマジョーティは、存在意識を持つ個々の生命体である精神的火花(魂たち)で満たされています。生命体はときおり感覚を楽しみたいと考え、その結果物質界に落とされ、感覚の言うなりになって偽りの主人として生きます。支配したいという欲望は生命体の持つ物質的病です。感覚の楽しみというこの魔力に引きずられ、生命体は物質界に現われるさまざまな肉体の中を転生していきます。ブラフマジョーティと一体になることが最高の成熟した知識ではありません。至高主に完全に身をゆだね、精神的奉仕という感覚を発達させることによってのみ、人は最高かつ完璧な境地に達するのです。
このマントラで生命体は、物質の体と物質の気息とを捨てたあと神の精神王国に入ることができるよう祈っています。献愛者は、自分の体が灰になるまえに、今までしてきた自分のおこないや苦行を思いおこしてくれるよう主に祈ります。その魂は死ぬときに、過去のおこないと、そのおこないの究極目標を完全に意識しながらこの祈りを唱えます。物質自然の法則に完全に操られている人は、体を持っていたときの邪悪な行為を死ぬときに思いだすため、死んだあとほかの物質の体に入っていきます。『バガヴァッド・ギーター』(第8章・第6節)はこの真実を次のように述べています。
yaṁ yaṁ vāpi smaran bhāvaṁ
tyajaty ante kalevaram
taṁ tam evaiti kaunteya
sadā tad-bhāva-bhāvitaḥ
「クンティーの子よ。肉体を捨てるときに思い浮かべる状態がなんであろうと、その魂は、必ずその状態を手にいれる」。こうして心は、その生命体の気質を次の生にまで運びます。
心の発達していない単純な動物とは違って、人間は死ぬとき、夜夢を見るように、現世でした行為を思いだすことができます。ですから、人間の心は物質的欲望で満たされ、その結果、精神的体になって精神王国に入ることができません。しかし献愛者は主へ献愛奉仕をすることによって、至高神への愛という感情をはぐくんでいきます。そんな献愛者が、死ぬときに自分のしてきた神聖な奉仕が思いだせなかったとしても、主のほうでその献愛者を忘れることはありません。このマントラの祈りは、自分の苦行や犠牲を思いおこしてくれるように主にうながしたものですが、主は純粋な献愛者の献愛奉仕を忘れるようなことは決してありません。
主は自分と献愛者のとても親密なつながりを、『バガヴァッド・ギーター』(第9章・第30-34節)ではっきりと述べています。「献愛奉仕をしている者は、もっとも忌まわしいことをしても、正しい決意に支えられているために神聖な人物と考えられる。彼はすぐに有徳の人となり、悠久の平和を手にいれる。クンティーの子よ、わたしの献愛者は決して滅びないことを高らかに宣言せよ。プリターの子よ、わたしに身をゆだねる者は、たとえ女性やヴァイシャ(商業者階級)やシュードラ(労働者階級)のような低い階級の出身でも、最高の目的地に必ず辿りつくことができる。ならば、有徳のブラーフマナ、献愛者、神聖な王たちがどれほどの恩恵を授かるかは言うに及ばない。だからこそ、このはかない苦悩の世界に来たからには、わたしへの愛情奉仕に没頭しなさい。心にいつもわたしのことを思い浮かべ、わたしの献愛者になり、わたしに敬意を表わし、そしてわたしを崇拝しなさい。わたしへの思いに完全に没頭するとき、あなたはまちがいなくわたしの元に来ることができる」。
これらの節をシュリーラ・バクティヴィノーダ・タークラは次のように詳しく説明しています。「私たちは、クリシュナの献愛者がsu-durācāra(ス ドゥラーチャーラ)『不道徳な人物』に見えたとしても、正しい道を歩いている聖人として見なくてはならない。このsu-durācāraの意味を正しく理解すべきである。条件づけられた魂は肉体の維持と自己の悟りという2つの機能のために行動する。社会的地位、心の発達、清潔さ、苦行、栄養、生存競争は、すべて肉体の維持のためにある。自己の悟りとしての活動は、主の献愛者としてすべき仕事、そしてそれに関係のある仕事である。これら2つの機能は並行して実行しなくてはならない。条件づけられた魂は肉体の維持を放棄することができないからである。しかし献愛奉仕をとおした活動の割合が増えれば、肉体の維持のための活動は減る。献愛奉仕の割合が正しい状態に来なければ、ときには世俗的なものへの欲望が起こる可能性がある。しかしそのような俗な思いは長くはつづかない。なぜなら、その不完全さは主の恩寵によって短期間のうちに正されるからである。だから、献愛奉仕だけが正しい道なのである。正しい道にいれば、ときに起こる俗な思いによって自己の悟りへの努力が妨げられることはない」
非人格論者は、献愛奉仕の効能を否定します。なぜなら彼らは、主のブラフマジョーティの様相にあまりにも執着しているからです。前のマントラでも示されましたが、彼らは神の人格を信じないためブラフマジョーティを超えることができません。彼らがしていることは言葉のごまかしと推論です。したがって、このような非人格論者は『バガヴァッド・ギーター』(第12章・第5節)が言うように、無駄に労力を費やしているにすぎません。
このマントラが示しているすべての便宜は、絶対真理者の人格を持つ姿といつも接触していればかんたんに手に入ります。主への献愛奉仕は基本的には献愛者によってなされる9つの超越的活動から成りたっています。(1) 主について聞くこと、(2) 主を讃えること、(3) 主を思いうかべること、(4) 主の蓮華の御足に仕えること、(5) 主を崇拝すること、(6) 主に祈りを捧げること、(7) 主に仕えること、(8) 主と友人としての交流を楽しむこと、(9) 主にすべてをゆだねること。これら献愛の9つの原則を――全部、あるいは一つだけでも実行することで、献愛者はいつでも神とふれあうことができます。こうして献愛者は、生涯を閉じるときに主をたやすく思いだすことができます。(1) 『シュリーマド・バーガヴァタム』の主要人物であるマハーラージャ・パリークシットは、主について聞くことで望みを達成した。(2) 『シュリーマド・バーガヴァタム』の語り手であるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、ただ主を讃えるだけで完成に達した。(3) アクルーラは、主に祈りを捧げることで望みを達成した。(4) プラフラーダ・マハーラージャは、主を思いだすことで望みを達成した。(5) プリトゥ・マハーラージャは、主を崇拝することで望みを達成した。(6) 幸運の女神ラクシュミーは、主の蓮華の御足に仕えることで完成に達した。(7) ハヌマーンは、主に個人的に奉仕することで望みを達成した。(8) アルジュナは、主との友人関係をとおして望みを達成した。(9) マハーラージャ・バリは、自分の持っているものすべてを主に差し出すことで望みを達成した。
じっさい、このマントラやすべてのヴェーダ聖歌のマントラは、『ヴェーダンタ・スートラ』に要約されていますし、『シュリーマド・バーガヴァタム』の中にまた適切に説明されています。ヴェーダという知恵の木になる成熟した果実、それが『シュリーマド・バーガヴァタム』であり、その中でこのマントラは、マハーラージャ・パリークシットとシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが出会った最初の質問と解答の中で説かれています。神の科学について聞き、語ることは、献愛生活の基本的な原則です。完全な『シュリーマド・バーガヴァタム』がシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって唱えられ、マハーラージャ・パリークシットがそれを聞きました。マハーラージャ・パリークシットは、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが当時のヨーギーや超越主義者よりも優れた精神指導者であることを知っていたからこそ、さまざまな質問をしたのです。
パリークシット王の主要な質問は、「すべての人間の、特に死ぬ間際の人間の義務はなんでしょうか?」というものでした。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは次のように答えました。
tasmād bhārata sarvātmā
bhagavān īśvaro hariḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
smartavyaś cecchatābhayam
「一切の不安から解放されたいと願う人はだれでも、一切万物の最高の指揮者、すべての困難を取りのぞく方、全生命の超霊魂である人格主神についていつも聞き、讃え、思いださなくてはならない」(『シュリーマド・バーガヴァタム』第2編・第1章・第5節)
人間社会では、一般的に夜は睡眠とセックスのために、昼はできるだけ金を稼ぐために、あるいは家族の維持のための買い物に時間が使われます。人格主神について話し合ったり、主について尋ねたりする時間などはほとんどありません。人々はいろいろな理由をつけて神の存在を否定していますが、その中でも、神は姿・感覚・知覚力を持っていない、という考えが中心になっています。しかし数多くのヴェーダ経典――ウパニシャッド、『ヴェーダンタ・スートラ』、『バガヴァッド・ギーター』、『シュリーマド・バーガヴァタム』――は、主は感情を持ち、一切の生命の最高者であると主張しています。主の栄光あふれる活動は、主自身とまったく同じです。俗な政治家やいわゆる社会の実力者について聞いたり話したりすることに没頭するべきではありません。1秒も無駄にすることなく、神聖な活動ができるように自分の生活を設計すべきです。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、私たちをそのような神聖な生活に導いてくれます。
献愛奉仕をしなければ、体が機能を終える臨終のときになにを思い出せるでしょうか、そして自分がした犠牲について全能の主に思いおこしてくれるよう祈ることができるでしょうか。身の苦行とは、感覚の要求に応じないということです。私たちは生きているあいだに、感覚を主への奉仕に使うことによってこの技術を身につけなくてはなりません。その修練の結果が、死ぬときに利用されるのです。
agne naya supathā rāye asmān
viśvāni deva vayunāni vidvān
yuyodhy asmaj juhurāṇam eno
bhūyiṣṭhāṁ te nama-uktiṁ vidhema

訳語

翻訳

火のように力強く、そして全能なる主よ。今私は心からの敬意をこめてあなた様の御足にひれ伏します。主よ、どうか私をあなた様に辿りつける道にお導きください。そして私が過去にしてきたことをご存知でしょうから、私の進む道に障害物がないよう過去の罪から私を解放してください。

解説

主に身をゆだね、いわれのない慈悲を求めることで、献愛者は完全な自己の悟りの道を進むことができます。ここで主は「火」と呼ばれていますが、それは、主が服従した魂の罪やその他すべてを灰にすることができるからです。前のマントラでも言われたように、絶対者の真実のまたは究極の姿は人格主神としての姿です。主の姿も形もないブラフマジョーティの姿は、主の顔を覆っている光輝です。自己の悟りを目指すカルマ・カーンダ・karma-kāṇḍa(果報的活動)の道は、その努力におけるもっとも低い段階にあります。その活動がヴェーダの規定原則からすこしでもはずれると、その行為者の利益にはならない行為・ヴィカルマ(vikarma)になります。そのようなヴィカルマは、幻想の中にいる生命体の感覚満足のために起こり、自己の悟りの道での大きな障害になります。
自己の悟りは生命体が人間の体を得たときにできるものであり、他の肉体ではできません。生命体は総計840万種類あり、その中でも人間の姿でブラーフマナの資質を持っている者だけに超越的知識を手にいれるチャンスがあります。ブラーフマナの資質は、誠実さ、感覚を制御する力、寛容さ、純真なこと、完全な神の知識と信仰心として表わされます。高い家柄を自慢することではありません。ブラーフマナの家に生まれるのは、ブラーフマナになれる機会があるというだけのことです。ちょうど名士の子どもに生まれたら名士になれる機会がその子にも与えられるというように。しかし、そうした生得権がすべてではありません。なぜなら、ブラーフマナの家に生まれても、その子どもは自分自身でブラーフマナの資質を身につけなくてはならないからです。ブラーフマナの家に生まれたことを鼻にかけ、真のブラーフマナとしての資質を身につける努力を怠れば、その人はたちまち堕落し、自己を悟る道から逸れてしまいます。こうして、人間としての使命は未完成に終わります。
『バガヴァッド・ギーター』(第6章・第41-42節)で主は、自己の悟りの道から逸脱していった魂たち(yoga-bhraṣṭa・ヨーガ・ブラシュタ)は、優れたブラーフマナの家庭や、豪商の家庭に生まれ、自分を矯正する機会が与えられる、と保証しています。そのような誕生は、自己の悟りをふたたび目指すチャンスを私たちに与えます。しかしそうした機会が幻想のためにまちがって使われると、全能の主が与えてくれた人間生活という絶好の機会を見逃してしまうことになります。
規定原則に従う人は、果報を求める活動の段階から超越的知識の段階へと昇進されていきます。数多くの誕生を繰りかえし、超越的知識を身につけたのち、主に身をゆだねることで完全な人物になります。これがふつうの手順です。しかしこのマントラで勧められているように、始めから身をゆだねている人は、ただ献愛奉仕をするだけですべての段階を一気に飛び越えます。『バガヴァッド・ギーター』(第18章・第66節)にも述べられているように、主は身をゆだねた魂の面倒をすぐに見て、その献愛者が以前犯した罪なおこないの反動から救ってくれます。カルマ・カーンダ(karma-kāṇḍa)の活動にはたくさんの罪な反動が起こります。しかし、ギャーナ・カーンダ(jñāna-kāṇḍa・哲学的発達)の活動の反動は少なくなります。しかし、バクティ(bhakti)の道(主への献愛奉仕)で、罪な反動は一切ありません。主の献愛者でもあるブラーフマナの質はいうまでもなく、主が持っているあらゆる優れた質をそなえた人物になっていきます。主の献愛者は、たとえブラーフマナの家に生まれなかったとしても、供養祭を執行できる熟達したブラーフマナの資質を自動的に手にいれます。それが主の全能たるゆえんです。主は、ブラーフマナの家に生まれた者を「犬を食べるような卑しい者」に堕落させることもできるし、また献愛奉仕の力によって、「犬を食べる卑賤な者」を立派なブラーフマナよりもさらに優れた人物にすることもできるのです。
全能の主はすべての生物のハートにいるので、真面目な献愛者に対して正しい道を歩める指示を与えることができます。その指示は、たとえ献愛者がほかのものを望んでいても特に与えられます。しかし献愛者でない他の者たちについては、主は行為者が危険な目に会うことを承知で、彼らの行為を許します。いっぽう献愛者の場合は、決して誤った行為をしないよう導きます。『シュリーマド・バーガヴァタム』(第11編・第5章・第42節)では次のように説かれています。
sva-pāda-mūlaṁ bhajataḥ priyasya
tyaktānya-bhāvasya hariḥ pareśaḥ
vikarma yac cotpatitaṁ kathañcid
dhunoti sarvaṁ hṛdi sanniviṣṭaḥ
「主は、主の蓮華の御足に完全に身をゆだねている献愛者に対してはとても優しく、献愛者がときとしてヴィカルマ(ヴェーダの教えに逆らう行為)に陥っても、献愛者の心の中からその過ちをすぐに正してくれる。これは、献愛者が主にとってとても愛しい存在だからである」。
このマントラで献愛者は主に、心の内から自分を正してくれるように祈っています。「過つは人の性(さが)」。条件づけられた魂はどうしても過ちを犯しがちですが、無意識に犯してしまう罪を防ぐ唯一の方法は、そのような落とし穴に落ちないよう主が導いてくれるよう、主の蓮華の御足に身をゆだねることにあります。主は完全に服従した人の面倒を必ず見ます。その結果、主に身をゆだね、主が導くとおりに行動することで、すべての問題は解決されます。導きが真面目な献愛者に授けられる方法は2つあります。一つは聖者、経典、精神指導者から授けられる方法で、もう一つは、すべての生物の心の中にいる主自身から授けられる方法です。このように献愛者はあらゆる面で守られています。
ヴェーダの知識は超越的ですから、世俗的な教育で理解できるものではありません。主と精神指導者の恩寵を授かってこそヴェーダのマントラが理解できます(yasya deve parā bhaktir yathā deve tathā gurauヤッシャ デーヴェー パラー バクティル ヤター デーヴェー タター グラウ・『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』第6章・第38節)。正しい精神指導者に保護を求めた人は、主の恩寵をも手にいれたということです。主は献愛者のまえに精神指導者として現われます。こうして、精神指導者、ヴェーダ聖典の戒告、また一切万物の中にいる主自身が献愛者を全力で導いてくれます。ですからそのような献愛者は、ふたたび物質的幻想(マーヤー)に陥る危険性はまったくありません。このように全面的に守られている献愛者は、完全な究極目的地に確実に辿りつきます。そのすべての過程がこのマントラに示されており、『シュリーマド・バーガヴァタム』(第1編・第2章・第17-20節)はそれをさらに詳しく説明しています。
主の栄光について聞いて唱えることは、それ自体敬虔な行為です。主はすべての生命体の幸福を心から願う方ですから、だれもが主の栄光について聞いて唱えることを望んでいます。主の栄光について聞き、唱える人は、心の中にある望ましくないものをすべて洗い流し、主に不動の献愛奉仕ができるようになります。この境地に入った献愛者はブラーフマナの資質を手にいれ、低い自然の性質(激性と無知)の影響にいっさい惑わされなくなります。献愛奉仕の力によって充分な知識を授かり、主に辿りつく道を見いだすことができます。やがてすべての疑問が消え去っていくとき、私たちは純粋な献愛者に変貌するのです。
 これで、バクティヴェーダンタによる『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の「至高人格主神へ導く知識」に関する要旨解説を終わります。