節
訳語
翻訳
解説
第3章
純粋な献身奉仕:ハートの変化
節
śrī-śuka uvāca
evam etan nigaditaṁ
pṛṣṭavān yad bhavān mama
nṛṇāṁ yan mriyamāṇānāṁ
manuṣyeṣu manīṣiṇām
evam etan nigaditaṁ
pṛṣṭavān yad bhavān mama
nṛṇāṁ yan mriyamāṇānāṁ
manuṣyeṣu manīṣiṇām
訳語
śrī-śukaḥ uvāca — シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは言った; evam — そのように; etat — これら全て; nigaditam — 答えた; pṛṣṭavān — あなたが尋ねたので; yat — ~のこと; bhavān — あなた自身; mama — 私に; nṛṇām — 人間の; yat — 1; mriyamāṇānām — 死の入り口で; manuṣyeṣu — 人間の間で; manīṣiṇām — 知的な人間の
翻訳
シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは言った:マハーラージャ・パリークシットよ、あなたは私に死を目前にした知性ある者が為すべき義務について尋ねた。ゆえに私はあなたに答えた。
解説
世界中の人間社会には何百万何千万という男女がいますが、そのほとんどが知性を欠いていると言わざるをえません。なぜなら精神的な魂についての知識が非常に乏しいからです。実際はそうではないのに、粗雑な要素と微細な要素でできている物質の体と自分とを同一視し、ほぼ誰もが命について誤った考え方をしています。人々は人間社会において、社会的地位が高い、あるいは低いといった観点から判断されるかもしれませんが、体と心を超える自己というものについて問わないかぎり、人間生活で行ったいかなる活動も結局は失敗なのだということをはっきりと知っておかなくてはなりません。ですから精神的な自己について問い、ヴェーダーンタ・スートラや『バガヴァッド・ギーター』、『シュリーマド・バーガヴァタム』のような啓示経典に答えを求めようとする人は、何千万人の中でひとりなのかもしれないのです。しかしそのような経典を読み聞きしても悟りを得た精神の師と触れ合わないかぎり、自分の本当の性質などを実際に悟ることはできません。そしてその何千何万の人たちのなかでたった一人が、クリシュナのことを本当に理解することができるかもしれないのです。『チャイタニヤ・チャリタームリタ』(マデャ20-122~123)には、主クリシュナはそのいわれのない慈悲からヴィヤーサデーヴァという化身になって、クリシュナとの本来の関係をほぼ完全に忘れてしまった人間社会の知的階級の人々が読めるように、ヴェーダ文献を編集してくださったと書かれています。そのような知的階級にある人間さえ、主との関係を忘れてしまっているかもしれません。ですから失った関係を目覚めさせるというのがバクティ・ヨーガの全過程なのです。この復活は人間として生まれた人生において可能であり、それは840万種の進化のサイクルを経てやっと手に入る生です。知的な階級にある人間はこの機会を真剣に受け入れなくてはなりません。全ての人間が知性的なわけではないので、人間として生まれたことの重要性は常に理解されるとは言えません。ゆえにここで「思慮深い」という意味のマニーシナームという言葉が特に使われているのです。ですからマハーラージャ・パリークシットのようなマニーシナームと言われる人は主クリシュナの蓮華の御足を受け入れ、主の聖なる御名や遊戯を聞き唱えるという献身奉仕に、完全に従事しなくてはなりません。これらは全てハリ・カタームリタです。死の準備をする者には、特にこの行為が勧められています。
節
brahma-varcasa-kāmas tu
yajeta brahmaṇaḥ patim
indram indriya-kāmas tu
prajā-kāmaḥ prajāpatīn
yajeta brahmaṇaḥ patim
indram indriya-kāmas tu
prajā-kāmaḥ prajāpatīn
devīṁ māyāṁ tu śrī-kāmas
tejas-kāmo vibhāvasum
vasu-kāmo vasūn rudrān
vīrya-kāmo ’tha vīryavān
tejas-kāmo vibhāvasum
vasu-kāmo vasūn rudrān
vīrya-kāmo ’tha vīryavān
annādya-kāmas tv aditiṁ
svarga-kāmo ’diteḥ sutān
viśvān devān rājya-kāmaḥ
sādhyān saṁsādhako viśām
svarga-kāmo ’diteḥ sutān
viśvān devān rājya-kāmaḥ
sādhyān saṁsādhako viśām
āyuṣ-kāmo ’śvinau devau
puṣṭi-kāma ilāṁ yajet
pratiṣṭhā-kāmaḥ puruṣo
rodasī loka-mātarau
puṣṭi-kāma ilāṁ yajet
pratiṣṭhā-kāmaḥ puruṣo
rodasī loka-mātarau
rūpābhikāmo gandharvān
strī-kāmo ’psara urvaśīm
ādhipatya-kāmaḥ sarveṣāṁ
yajeta parameṣṭhinam
strī-kāmo ’psara urvaśīm
ādhipatya-kāmaḥ sarveṣāṁ
yajeta parameṣṭhinam
yajñaṁ yajed yaśas-kāmaḥ
kośa-kāmaḥ pracetasam
vidyā-kāmas tu giriśaṁ
dāmpatyārtha umāṁ satīm
kośa-kāmaḥ pracetasam
vidyā-kāmas tu giriśaṁ
dāmpatyārtha umāṁ satīm
訳語
brahma — 絶対者; varcasa — 光輝; kāmaḥ tu — しかしそのように望む者; yajeta — 崇拝する; brahmaṇaḥ — ヴェーダの; patim — 主人; indram — 天界の王; indriya-kāmaḥ tu — しかし強い感覚器官を望む者; prajā-kāmaḥ — たくさんの子孫を望む者; prajāpatīn — プラジャーパティたち; devīm — 女神; māyām — 物質世界の女性に; tu — しかし; śrī-kāmaḥ — 美を求める者; tejaḥ — 力; kāmaḥ — そのように望む者; vibhāvasum — 火の神; vasu-kāmaḥ — 富を求める者; vasūn — ヴァスの神々; rudrān — 主シヴァのルドラ拡張体; vīrya-kāmaḥ — 強健な体をもちたいと望む者; atha — ゆえに; vīryavān — 最も強力な者; anna-adya — 穀物; kāmaḥ — そのように望む者; tu — しかし; aditim — 神々の母アディティ; svarga — 天界; kāmaḥ — そのように望んで; aditeḥ sutān — アディティの息子たち; viśvān — ヴィシュヴァデーヴァ; devān — 神々; rājya-kāmaḥ — 王国を求める者; sādhyān — サーディヤの神々; saṁsādhakaḥ — 望みを満たす物; viśām — 商業社会の; āyuḥ-kāmaḥ — 長寿を望んで; aśvinau — アシュヴィニー兄弟として知られるふたりの神; devau — ふたりの神; puṣṭi-kāmaḥ — 強健な体を望む者; ilām — 地球; yajet — 崇拝しなくてはならない; pratiṣṭhā-kāmaḥ — 名声や安定した地位を望む者; puruṣaḥ — そのような者; rodasī — 地平線; loka-mātarau — そして大地; rūpa — 美; abhikāmaḥ — 明確に野心のある; gandharvān — 非常に美しく歌の上手いガンダルヴァ惑星の住人; strī-kāmaḥ — 良い妻を求める者; apsaraḥ urvaśīm — 天界の王国の社会に属する少女たち; ādhipatya-kāmaḥ — 他人を支配したいと望む者; sarveṣām — 誰もが; yajeta — 崇拝すべき; parameṣṭhinam — 宇宙の頭であるブラフマー; yajñam — 人格神; yajet — 崇拝すべき; yaśaḥ-kāmaḥ — 有名になりたいと望む者; kośa-kāmaḥ — 銀行口座にたくさんお金を残したい者; pracetasam — ヴァルナとして知られる天界の会計係; vidyā-kāmaḥ tu — しかし教育を求める者; giriśam — ヒマラヤ山脈の主である主シヴァ; dāmpatya-arthaḥ — そして夫婦間の愛; umām satīm — ウマーとして知られる主シヴァの貞節な妻
翻訳
非人格的なブラフマジョーティの光輝に溶け込みたいと望む者は、ヴェーダの主(主ブラフマーあるいは博学な僧侶であるブリハスパティ)を崇拝すべきであり、強い性的能力を求める者は天界の王インドラを、良い子孫を望む者はプラジャーパティと呼ばれる偉大な先祖を、幸運を願う者は物質界の監督者であるドゥルガーデーヴィーを崇拝しなくてはならない。また、権力を望む者は火を、お金だけを熱望する者はヴァスを、偉大な英雄になりたければ主シヴァのルドラ拡張体を、穀物を大量に蓄えたければアディティを崇拝せよ。そして天界の惑星に到達したければアディティの息子たちを、この世の王国を求めるならヴィシュヴァデーヴァを、一般大衆の人気を得たければサーディヤの神々を、長寿を願うならアシュヴィニー・クマーラとして知られる神々を、強健な体をもちたいなら大地を、安定した地位を求めるなら地平線と大地を一緒に崇拝すべきである。美しくなりたければガンダルヴァ惑星の美しい住民たちを崇拝し、良い妻がほしければアプサラーや天界の王国に住むウルヴァシー社会の少女たちを崇拝すればよい。他者を支配したいと望む者は宇宙の頭である主ブラフマーを、確実な名声を得たい者は人格神を、たくさんの預金を持ちたいものはヴァルナを崇拝し、非常に学識ある者になりたいなら主シヴァを、夫婦間の関係を良くしたければ主シヴァの妻である貞節なウマー女神を崇拝すべきである。
解説
人によって成功を望む対象が違い、それによって崇拝の様式もさまざまです。物質世界の範囲内に生きる束縛された魂は、物質的に楽しめる資源の全てに通じることはできませんが、上に述べられているように、特定の神を崇拝することによって、特定の物事に対してかなりの影響力を持つことができます。ラーヴァナは主シヴァを崇拝して非常に強力になりましたが、主シヴァを喜ばせるために切断した頭を捧げていました。主シヴァの恩寵によって大変な力を得た彼は神々からも恐れられ、ついに至高人格神シュリー・ラーマチャンドラに戦いを挑んで破滅しました。すなわち、あらゆる物質的な物や楽しみを手に入れたいと望む者や極めて物質的な人は、『バガヴァッド・ギーター』(7-20)で確証されているように、概して知性が欠けているのです。あらゆる良識を失くした者、すなわちマーヤーのエネルギーによって知性を奪われてしまった人は、様々な神を喜ばせたり、科学的進歩という名の下に物質文明を発達させることで、あらゆる物質的な喜びを得たいと望むと書かれています。物質世界における真の問題は、生老病死の問題を解決することです。生まれ持った権利を失いたいと望む人もいませんし、死に遭遇したい、年を取りたい、病弱でありたい、病気になりたいなどと望む人はいません。しかしこうした問題はどのような神々によっても、いわゆる物質的な科学の発達によっても決して解決されることはないのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』はもちろんのこと、『バガヴァッド・ギーター』の中でも、そのような知性乏しい者にはあらゆる良識が欠けていると述べられています。「840万種ある生命体のうち、人間として生まれることは稀であり貴重である。その稀な誕生を得た者の中でも物質的な問題に気付く者はなおさら稀であり、その中でも、主と主の純粋な献身者の言葉が満載された『シュリーマド・バーガヴァタム』の価値に気付く者は、さらに稀である」と、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは言いました。知性があろうと愚かであろうと、死を避けることは誰にもできません。しかしゴースヴァーミーはパリークシット・マハーラージャのことをマニーシー、すなわち高く向上した心をもつ者と呼びかけています。なぜなら死を目前とした彼は、全ての物質的喜びを放棄し、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーという正しい人の言葉に耳を傾けることによって主の蓮華の御足に完全に身を委ねたからです。物質的な楽しみを熱望して努力する人は強く非難されています。そのような熱望は、堕落した人間社会が使用する陶酔物のようなものです。知性ある人ならば、こうした熱望を避け、ふるさと、神のもとに戻って永遠の人生を求めるべきです。
節
dharmārtha uttama-ślokaṁ
tantuḥ tanvan pitṝn yajet
rakṣā-kāmaḥ puṇya-janān
ojas-kāmo marud-gaṇān
tantuḥ tanvan pitṝn yajet
rakṣā-kāmaḥ puṇya-janān
ojas-kāmo marud-gaṇān
訳語
dharma-arthaḥ — 精神的な向上のために; uttama-ślokam — 至高主あるいは至高主に執着する者; tantuḥ — 子孫のために; tanvan — そして彼らを守るために; pitṝn — ピトリローカの住人たち; yajet — 崇拝しなくてはならない; rakṣā-kāmaḥ — 保護を求める者; puṇya-janān — 敬虔な者; ojaḥ-kāmaḥ — 強さを望む者は崇拝すべきである; marut-gaṇān — 神々
翻訳
精神的な知識を深めるためには、主ヴィシュヌあるいは主の献身者を崇拝すべきであり、子孫の保護と王朝の繁栄のためには、様々な神々を崇拝しなくてはならない。
解説
宗教の道を行くと必然的に精神的な道において向上し、非人格的な光輝として、局部的パラマートマーの姿として、そして精神的知識を深めることによって最終的には主の本来のお姿として、主ヴィシュヌとの永遠の関係を取り戻すことになります。また良い王朝を築いて一時的な血族の繁栄に幸せを求める人は、ピターやその他の敬虔な惑星の神々に保護を求めるべきです。そのようにあらゆる神々を崇拝するさまざまな階級の人々は、最終的にはこの宇宙にあるそれぞれの神の惑星に到達するかも知れませんが、ブラフマジョーティの中にある数々の精神的惑星に到達する人が、最も高い完成を達成するのです。
節
rājya-kāmo manūn devān
nirṛtiṁ tv abhicaran yajet
kāma-kāmo yajet somam
akāmaḥ puruṣaṁ param
nirṛtiṁ tv abhicaran yajet
kāma-kāmo yajet somam
akāmaḥ puruṣaṁ param
訳語
rājya-kāmaḥ — 帝国や王国を望む者は誰でも; manūn — 神の半化身であるマヌたち,; devān — 神々; nirṛtim — 悪魔; tu — しかし; abhicaran — 敵から勝利を勝ち取りたいと望んで; yajet — 崇拝すべき; kāma-kāmaḥ — 感覚を満たしたいと望む者; yajet — 崇拝すべき; somam — チャンドラという名の神々; akāmaḥ — 物質的な望みを満たしたいと思わない者; puruṣam — 至高人格神; param — 至高主
翻訳
王国や帝国を支配したいと望む者は、マヌを崇拝すべきである。敵から勝利を収めたい者は悪魔を崇拝し、感覚を満たしたいと望む者は月を崇拝すればよい。しかし物質的な喜びなど何も望まないという者は、至高人格神を崇拝すべきである。
解説
解放された人は、これまでに述べられた喜びのどれもが全く無益だと考えます。さまざまな種類の感覚的喜びに心奪われるのは、外的エネルギーの物質的様式に制約された人だけです。つまり、物質主義者はあらゆる種類の望みを満たしたいと望むのに対し、超越主義者には満たしたい物質的望みがないということです。上で述べられているように物質的喜びを求めて様々な神々の恩恵を求める物質主義者は、自分の感覚を制御できず愚かなことに身を投じてしまうと、主は断言しておられます。ゆえに至高人格神を崇拝するだけの分別を持ち、いかなる種類の物質的喜びをも求めるべきでありません。愚かな者たちを率いる分別のない指導者たちは、どの神々を崇拝しても結果は同じだという愚かな考え方を公然と説教するので、さらに無意味です。この種の説教は『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の教えに背いているだけではなく、どの切符を買っても同じ行き先に到着すると言い張るのと同じほど愚かです。バローダ行きの切符を買ってデリーからボンベイに行ける人はいません。さまざまな望みを抱える者はあれこれと崇拝するが、物質的な喜びを追い求めない人は至高人格神シュリー・クリシュナを崇拝すべきであると、ここではっきりと断言されています。この崇拝の過程を献身奉仕と呼びます。純粋な献身奉仕とは、結果を求める活動や経験的な思索も含め、物質的な望みをわずかにも持たない主への奉仕のことです。物質的な欲を満たそうと至高主を崇拝する人もいますが、そのような崇拝の結果は同じではありません。このことは次の節で説明されていきます。一般的に主は、誰かの感覚を喜ばせようとしてその人の物質欲を満たすのではなく、主を崇拝する者が究極的に物質的喜びを求めなくなるようにと恩恵を授けます。結論的に、人は物質の喜びに対する欲を最小化すべきであり、そのためにはここでパラム、すなわち物質を超えたお方と述べられている至高人格神を崇拝しなくてはならないのです。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャもnārāyaṇaḥ paro ’vyaktāt「至高主は物質の枠を超えたお方である」と述べています。
節
akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
訳語
akāmaḥ — あらゆる物質的な望みを超越した者; sarva-kāmaḥ — 物質的な望み全てを持つ者; vā — どちらかの一方の; mokṣa-kāmaḥ — 解放を望む者; udāra-dhīḥ — より広い知性を持ち; tīvreṇa — すごい力で; bhakti-yogena — 主への献身奉仕によって; yajeta — 崇拝すべき; puruṣam — 主; param — 至高の全体
翻訳
広い知性を備えた者は、あらゆる物質欲に満ちていようとなかろうと、あるいは解放を望んでいようと、あらゆる手段で至高なる全体を、すなわち至高人格神を崇拝しなくてはならない。
解説
至高人格神主シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中でプルショーッタマ、すなわち至高人格神として述べられています。主の体から放出される光線であるブラフマジョーティのなかに、非人格主義者たちを取り込むことで、彼らが望む解放を与えることができるのは、至高主以外にはいません。輝く太陽光線が太陽の表面から独立したものではないのと同じように、ブラフマジョーティは主から分離したものではありません。ですから『シュリーマド・バーガヴァタム』のこの箇所でも勧められているように、至高の非人格的なブラフマジョーティに溶け込みたいと望む者もまた、バクティ・ヨーガによって主を崇拝しなくてはならないのです。ここでは特にバクティ・ヨーガはあらゆる完成の手段であることが強調されています。これまでの章ではバクティ・ヨーガは、カルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガの両方の究極的目的であることが述べられ、そしてこの章でまた同じように様々な神の多種多様な崇拝の究極的なゴールはバクティ・ヨーガであることが強調されています。このように自己を悟る最高の手段であるバクティ・ヨーガが、ここで勧められているのです。ですから物質的享楽を熱望していようが、物質的束縛から解放されたいと望んでいようが、誰もがバクティ・ヨーガを真剣に行わなくてはなりません。
アカーマハとは物質欲のない人のことです。体の各部分や手足が自然に体全体に仕えているのと同様に、本来至高の全体としてのプルシャン・プールナンの一部分である生命体には、至高のお方に仕えるという機能が生まれつき備わっています。ゆえに、望みがないということは石のように活動をしないということではなく、自分の本当の立場を意識し、ただ至高主に満足していただきたいと望むことです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーはこの無欲のことを、自著のサンダルバの中でbhajanīya-parama-puruṣa-sukha-mātra-sva-sukhatvam と説明しています。これは、至高主の幸せを体験することによってのみ幸せを感じなさい、という意味です。生命体のこの直感は物質世界での制約された段階にある時にも現れることがあり、知性が乏しい人の未発達な心によって利他主義、博愛主義、社会主義、共産主義などという形で表されます。そのように世俗的な分野で、社会、組織、家族、国、人類という形をとった他者に対して何か良いことをするという態度は、純粋な生命体が至高主の幸福によって自分の幸福を感じるという本来の感情と同じものが、部分的に現れているのです。まさにそのすばらしい感情を表したのが、主の幸福を想うヴラジャブーミーの少女たちです。ゴーピーたちはいかなる見返りをも求めず主を愛しました。これこそがアカーマ精神の完璧な表れです。アカーマの精神が精神世界で完全に現れるのに対し、カーマ精神すなわち自分自身を満足させるための望みは物質世界の中で完全に現れます。
物質的な苦しみから解放されたいという自分自身を満足させる望みをもっている人にとっては、主とひとつになる、すなわちブラフマジョーティに溶け込むという思想もカーマ精神の現れである場合があります。純粋な献身者は人生の苦しみから逃れるために解放を望むことはありません。いわゆる解放を望むのではなく、主に満足していただくことを熱望します。アルジュナはカーマ精神に影響されてクルクシェートラの戦場で戦うことを拒みました。自分自身の満足のために親族を救いたかったからです。しかし純粋な献身者である彼は我に返り、自分の満足に代えても主に満足していただかなくてはならないと悟って、戦えという主の教えに同意しました。こうして彼はアカーマになったのです。これが完全な生命体の完成段階です。
ウダーラ・ディーとは広い視野を持った人のことです。物質的な喜びを求める人は取るに足らない神々を崇拝し、そのような知性は『バガヴァッド・ギーター』(7-20)の中でフリタ・ジュニャーナ、すなわち正気を失った者の知性であると非難されています。至高主が認可しなければ、いかなる神からの成果も得ることはできません。したがって広い視野を持つ人には、物質的な恩恵であっても至高の権威は主であることがわかるのです。こうしたことから、広い視野を持つ者は、たとえ物質的な喜びや解放に対する望みを持っていたとしても、主を直接崇拝しなくてはなりません。そしてアカーマであろうとサカーマであろうとモークシャ・カーマであろうと、誰もがすぐさま主を崇拝すべきです。このことは、バクティ・ヨーガが、カルマやジュニャーナの助けを借りなくても完全に機能するということを暗示しています。純粋な太陽光線はとても強力であるためティーヴラと呼ばれます。同様に、聴く、唱えるという混じり気のないバクティ・ヨーガは内なる動機がどのようなものであろうと、誰もが行うことができるのです。
節
etāvān eva yajatām
iha niḥśreyasodayaḥ
bhagavaty acalo bhāvo
yad bhāgavata-saṅgataḥ
iha niḥśreyasodayaḥ
bhagavaty acalo bhāvo
yad bhāgavata-saṅgataḥ
訳語
etāvān — これら全ての多種多様な崇拝をする者; eva — 確かに; yajatām — 崇拝している間; iha — この人生で; niḥśreyasa — 最高の恩恵; udayaḥ — 発展; bhagavati — 至高人格神に; acalaḥ — 断固たる; bhāvaḥ — 自然に生じる魅力; yat — その; bhāgavata — 主の純粋な献身者; saṅgataḥ — 交際
翻訳
八百万の神を崇拝する様々な人たちは、主の純粋な献身者との交際によってのみ、至高人格神に対する強い執着を自然に抱くという、最高で完璧な恩恵を得ることができる。
解説
第一級の半神であるブラフマーから小さな蟻に至るまで、物質世界の中で様々な地位を占めている生命体は皆、物質自然界の法則、すなわち至高主の外的エネルギーの下で制約を受けています。純粋な状態にある生命体は自分が主の一部分であるという事実に目覚めていますが、物質エネルギーを支配したいと望んだために物質世界に投げ込まれてしまうと物質自然の三様式に制約され、最高の恩恵を求めて存在のために苦しむことになるのです。存在のためのこの苦しみは、物質的な喜びの魅力にとりつかれた人を惑わせる鬼火のようなものです。この章の前の節で述べられているような様々な神を崇拝するという方法であろうと、至高主や神々の助けを借りずに科学的な知識という現代的な発達に頼ろうと、物質的な楽しみを求めて立てる計画は全て幻想にすぎません。なぜなら、物質創造という範囲の中で制約されて生きている者が幸せを求めてどれほどそのような計画を立てても、生老病死という人生の問題を解決することは決してできないからです。宇宙の歴史上、このような計画を立てる者たちは多数見られ、これまで多くの王や皇帝が現れては、自らの後に計画した物語だけを残して去っていきました。しかし彼らの努力にもかからわず、人生の主要な問題は解決されずに残ったままです。
実際は、人間生活とは人生の問題を解決するためにあります。いろいろな神を満足させても、様々な形の崇拝をしても、主や神々の助けを借りることなくいわゆる科学的に発達した知識に頼っても、人は決してそのような問題を解決することはできません。至高主にも神々にも関心を持つことなどほとんどない粗野な物質主義者は別として、ヴェーダは様々な恩恵を求めるなら様々な神々を崇拝せよと勧めています。ですから神々というのは偽りでも架空のものでもないのです。私たちが現実に存在するのと同じように神々も現実に存在します。ただ神々は様々な分野で宇宙を統轄するという主への直接の奉仕に就いているため、私たちよりずっと大きな力を有しているのです。『バガヴァッド・ギーター』はこのことを断言し、様々な惑星を主宰する神々のことを述べています。そこには至高の神のひとりである主ブラフマーも含まれます。粗野な物質主義者は至高主や神々の存在を信じませんし、数ある惑星は様々な神々によって主宰されているということも信じません。彼らは最も近い天体であるチャンドラローカ、すなわち月に行くことで大騒ぎをしていますが、機械を使って困難な研究を重ねた末に月に関して得た情報は非常に乏しいものでしかありません。そして月の土地を売るなどと偽りの宣伝をしていますが、思い上がった科学者や粗野な物質主義者がそこに住むことはできませんし、数えることさえできない他の惑星に関しては言うまでもありません。しかしヴェーダに従う者は違った方法で知識を得ます。第1篇ですでに述べたように、彼らはヴェーダ文献を全体の権威として受け入れるため、至高主や神々についての完全かつ正当な知識、また物質世界の領域内や物質的空間の限界を超えたところにある神々の住む様々な惑星についての完全なる知識を持っているのです。シャンカラ、ラーマーヌジャ、マダヴァ、ヴィシュヌスヴァーミー、ニンバールカ、チャイタニヤのようなインドの偉大なアーチャーリャが受け入れ、世界中のあらゆる重要人物たちが学んでいる最も典拠あるヴェーダ文献は『バガヴァッド・ギーター』です。その中には神々の崇拝についてや、神々がそれぞれ住んでいる惑星について書かれています。『バガヴァッド・ギーター』(9-25)は断言しています。
yānti deva-vratā devān
pitṝn yānti pitṛ-vratāḥ
bhūtāni yānti bhūtejyā
yānti mad-yājino ’pi mām
pitṝn yānti pitṛ-vratāḥ
bhūtāni yānti bhūtejyā
yānti mad-yājino ’pi mām
「神々を拝む者は神々のもとに生まれ、祖先を拝む者は祖先のところへ行き、粗野な物質主義者は物質世界の様々な惑星に残るが、主の献身者は、神の王国に達する」
また、ブラフマローカを含む、物質世界にある全ての惑星は一時的に存在しているのであり、ある一定期間が過ぎると全て破壊されてしまうという情報も、『バガヴァッド・ギーター』から得ることができます。したがって神々もそれに従う者たちも破壊の時には全て絶滅しますが、神のもとに達する者は永遠の命を手に入れることになるのです。これがヴェーダ文献の見解です。神々を崇拝する者はヴェーダの見解に信念があるため、信じない者よりも有利な立場にあります。ヴェーダ文献によって主の献身者との交際の中で至高主を崇拝するとどのような益があるのかという知識を得ることができるからです。しかしヴェーダの見解に信念のない粗野な物質主義者は、超越的な知識の領域には決して到達することのない、不完全な経験的知識を基本とした偽りの確信や、いわゆる物質的な科学に振り回されて、永遠に暗闇の中に居続けることになります。
ゆえに、粗野な物質主義者や一時的な神々を崇拝する者は、主の純粋な献身者のような超越主義者との関わりを持たないかぎり、いかなる企てもエネルギーの浪費にすぎません。人間生活の最高完成である純粋な献身に到達する唯一の方法は、主の純粋な献身者である神聖な人物の慈悲を得ることです。優れた人生への正しい道を教えてくれるのは、主の純粋な献身者だけなのです。至高主や神々に関する情報のない物質的な生き方も、はかない物質的喜びを追い求めて神々を崇拝する生き方も、幻影のさまざまな移り変わりにすぎません。このことは『バガヴァッド・ギーター』の中でもきちんと説明されていますが、『バガヴァッド・ギーター』は純粋な献身者との交際の中でのみ理解できるのであり、政治家や無味乾燥な思索家たちの解説によって理解できるものではありません。
節
jñānaṁ yad āpratinivṛtta-guṇormi-cakram
ātma-prasāda uta yatra guṇeṣv asaṅgaḥ
kaivalya-sammata-pathas tv atha bhakti-yogaḥ
ko nirvṛto hari-kathāsu ratiṁ na kuryāt
ātma-prasāda uta yatra guṇeṣv asaṅgaḥ
kaivalya-sammata-pathas tv atha bhakti-yogaḥ
ko nirvṛto hari-kathāsu ratiṁ na kuryāt
訳語
jñānam — 知識; yat — その; ā — ~の限界まで; pratinivṛtta — 完全にひっこめた; guṇa-ūrmi — 物質的様式の波; cakram — 渦; ātma-prasādaḥ — 自己満足; uta — そのうえ; yatra —~のあるところ; guṇeṣu — 自然の様式の中で; asaṅgaḥ — 執着のない; kaivalya — 超越的な; sammata — 承認された; pathaḥ — 道; tu — しかし; atha — ゆえに; bhakti-yogaḥ — 献身奉仕; kaḥ — 誰; nirvṛtaḥ — ~に没頭して; hari-kathāsu — 主の超越的な話題; ratim — 魅力; na — ~ないであろう; kuryāt — する
翻訳
至高主ハリに関連する超越的な知識は、物質様式の波と渦を完全に静めるという結果をもたらす。そのような知識は物質的執着から自由であるため自己を満たしてくれ、そして超越的であるために権威者たちに認められている。ならばそれに惹きつけられない者などいるだろうか?
解説
『バガヴァッド・ギーター』(10-9)には純粋な献身者のすばらしい特質について書かれています。純粋な献身者が行っている全ての活動は、常に主に奉仕することであり、そうすることで、彼らの間で恍惚な感情を交換し合って超越的な喜びを味わっているのです。この超越的な喜びは、真正な精神の師に指導を受けながら適切に行えば献身的な修練(サーダナ・アヴァスター)の段階でも経験できます。そして成熟した段階になると、発達した超越的な感情は、生命体が本来備えていた神との特定の関係を(最高の超越的至福であると考えられている主との夫婦間の愛情関係に至るまで)実際に体験させてくれます。このように、神を悟る唯一の手段であるバクティ・ヨーガは、カイヴァリャと呼ばれます。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーはこのことに関してヴェーダの見解 (eko nārāyaṇo devaḥ, parāvarāṇāṁ parama āste kaivalya-saṁjñitaḥ) を引用し、至高人格神ナーラーヤナはカイヴァリャとして知られていること、そして主に近づくことを可能にする方法はカイヴァリャ・パンター、すなわち神に到達する唯一の手段であることを確証しています。このカイヴァリャ・パンターはシュラヴァナ、すなわち至高人格神に関する話題に耳を傾けることから始まり、そのようなハリ・カターを聴くことで自然と超越的な知識を得て、その結果、献身者にとっては何の味気も感じられないあらゆる世俗的な話題に執着しなくなります。献身者は社会的、政治的な世俗的活動には関心がなくなり、さらに成熟した段階にある献身者は自分の体にさえ興味がないのですから、肉親などへの関心は言うまでもありません。そのような状態になると、物質様式の波に心を乱されることはなくなります。物質自然にはいろいろな様式があり、一般の人がとても興味をもったり参加したりするような世俗的な事柄に、献身者は魅力を感じられないのです。この状態をここではプラティニヴリッタ・グノールミであると述べていて、これはアートマ・プラサーダ、すなわちいかなる物質的なものとも関わらずに自己の内に完全に満足している場合にのみ可能な状態です。主の第一級の献身者は献身奉仕によってこの段階に達します。そして主の満足のためにその高い立場にもかかわらず自ら進んで主の栄光を称える説教徒の役割を果たします。世俗的な興味を超越的な至福に変える機会を初心者に与えるためならば、全てのことを、世俗的な興味さえも献身奉仕と結びつけます。シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは、純粋な献身者のこの行動をnirbandhaḥ kṛṣṇa-sambandhe yuktaṁ vairāgyam ucyateと述べています。主への奉仕と結びつければ世俗的な活動さえも超越的、すなわちカイヴァリャの活動であると認められるのです。
節
śaunaka uvāca
ity abhivyāhṛtaṁ rājā
niśamya bharatarṣabhaḥ
kim anyat pṛṣṭavān bhūyo
vaiyāsakim ṛṣiṁ kavim
ity abhivyāhṛtaṁ rājā
niśamya bharatarṣabhaḥ
kim anyat pṛṣṭavān bhūyo
vaiyāsakim ṛṣiṁ kavim
訳語
śaunakaḥ uvāca — シャウナカは言った; iti — このように; abhivyāhṛtam — 話されたこと全て; rājā — 王; niśamya — 聴くことによって; bharata-ṛṣabhaḥ — マハーラージャ・パリークシット; kim — 何; anyat — もっと; pṛṣṭavān — 彼に尋ねた; bhūyaḥ — 再び; vaiyāsakim — ヴィヤーサデーヴァの息子に; ṛṣim — 精通している者; kavim — 詩的
翻訳
シャウナカは言った:ヴィヤーサデーヴァの息子であるシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはとても博学な聖者で、物事を詩的に述べることができました。彼が語ったことを全て聞いた後、マハーラージャ・パリークシットは再び彼に何を尋ねたのですか?
解説
主の純粋な献身者は自ずとあらゆる神聖な質を育んでいますが、なかでも顕著に特徴が表れているのは次のような質です。親切、穏やか、正直、公平、欠点がない、寛大、温厚、清潔、所有欲がない、万物の幸福を願う、満足している、クリシュナに身を委ねている、渇望しない、素朴、安定、自制、バランスのとれた食生活、良識がある、穏健、うぬぼれがない、厳粛さ、同情心、友好的、詩的、何事にも長けた能力、そして無口。クリシュナダーサ・カヴィラージャが著した『チャイタニヤ・チャリタームリタ』には献身者が備えている26の顕著な性質が述べられていますが、それらの特徴の中でも特に詩的であるという特質は、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに対して特に述べられているものです。彼が朗唱することによって披露されたシュリーマド・バーガヴァタムこそ、最高の詩的寄与なのです。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは自己を悟った博学な聖者です。つまり彼は聖者の中の詩人であったのです。
節
etac chuśrūṣatāṁ vidvan
sūta no ’rhasi bhāṣitum
kathā hari-kathodarkāḥ
satāṁ syuḥ sadasi dhruvam
sūta no ’rhasi bhāṣitum
kathā hari-kathodarkāḥ
satāṁ syuḥ sadasi dhruvam
訳語
etat — この; śuśrūṣatām — 聴きたいと熱望する者の; vidvan — 学識ある者よ; sūta — スータ・ゴースヴァーミー; naḥ — 私たちに; arhasi — あなたがそれをできますように; bhāṣitum — ただそれを説明するために; kathāḥ — 話題; hari-kathā-udarkāḥ — 主の話題の成果; satām — 献身者の; syuḥ — かもしれない; sadasi — ~の集まる中で; dhruvam — 確かに
翻訳
博学なるスータ・ゴースヴァーミーよ!どうかそのような話を続けてください。私たちは皆、聴きたくてたまらないのです。さらに、主ハリについて語ることとなる話題は、必ず献身者の間で語り合われるべきなのです。
解説
既にルーパ・ゴースヴァーミーの『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』から引用したように、主シュリー・クリシュナへの奉仕と結びつけるならば、世俗的なことでも超越的であると受け入れられます。例えば特に知性の乏しい階級の者たち(女性、シュードラ、上位カーストから生まれた位の低い息子)のために勧められている『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』も、主の活動と関連して編纂されているため、ヴェーダ文献として認められています。『マハーバーラタ』はサーマ、ヤジュル、リグ、アタルヴァという最初の四部に続くヴェーダの第五部であると認められています。知性の乏しい者は『マハーバーラタ』をヴェーダの一部だと認めませんが、偉大な聖人や権威者たちはそれをヴェーダの第五部として認めています。『バガヴァッド・ギーター』も『マハーバーラタ』の一部であり、知性の乏しい階級の人々のための主の教えが豊富に詰まっています。『バガヴァッド・ギーター』は世帯者向けではないと言う知性乏しき者がいますが、そのような愚かな者は、『バガヴァッド・ギーター』はアルジュナというグリハスタ(家庭を持つ者)に向けて語られたのであり、それを語った主もまた、グリハスタとしての役割を果たしておられたということを忘れてしまっています。ですから『バガヴァッド・ギーター』はヴェーダ知識の高尚な哲学を含んではいますが、超越的科学において初心者である人たちに向けられたものであり、『シュリーマド・バーガヴァタム』は超越的科学における学士取得者あるいは大学院生のためのものなのです。したがって『マハーバーラタ』やプラーナのような文献および主の遊戯が溢れている同類の文献は全て超越的であり、完全なる信念をもって偉大な献身者たちとの交際の中で語り合わなくてはなりません。
不本意なのは、こうした文献がそれらを語るのを職業としている者によって語られるとき、多くの歴史的事実や人物が描写されているために、俗的な歴史書や長編作品のように思われてしまうということです。ですからここで、こうした文献は献身者の集まりの中で語られなければならないと述べられているのです。献身者によって語られない限り、高尚な段階にいる人たちはそれらの文献を味わうことができません。結論として、主は人格を備えたお方であるということです。主は至高なるお方であり、さまざまな活動をなさいます。生きとし生ける者を導くお方であり、堕落した魂を呼び戻すために御自身の意思で御自身のエネルギーによって降誕されます。こうして主はまるで社会的、政治的、宗教的な指導者のように振る舞われますが、そのような主の役割が、主について語り合うことへと繋がるため、こうした予備的な話題もまた、超越的なのです。これが、人間社会の市民的活動を精神化させる方法です。人は歴史や、物語、小説、ドラマ、雑誌、新聞などたくさんの俗的な読み物を学ぶ習慣があります。ですからそのような読み物を主の超越的な奉仕に結び付けるのです。そうすることでそれらは献身者たちが味わう話題へと変化するのです。主は人格を持たず、活動することもなく、名前も姿もない口のきけない石であるという宣伝にそそのかされて人々は神を信じなくなり、信念をなくした悪質な人間となって、主の超越的な活動から離れれば離れるほどに、俗的な活動に馴染むようになります。この俗的な活動が、神のもとに戻る道ではなく地獄に続く道を切り開くことになるのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』はパーンダヴァの歴史(必然なる政治的および社会的活動)から始まりますが、それでもなお、それはパーラマハンサ・サンヒター、つまり、最高の超越主義者たちのために用意されたヴェーダ文献であり、そしてパラム・ジュニャーナム、すなわち最高の超越的知識を述べるものだと言われています。主の純粋な献身者は全てパラマハンサであり、水と混じったミルクからミルクだけを吸い分ける技を備えた白鳥のような人たちなのです。
節
sa vai bhāgavato rājā
pāṇḍaveyo mahā-rathaḥ
bāla-krīḍanakaiḥ krīḍan
kṛṣṇa-kṛīḍāṁ ya ādade
pāṇḍaveyo mahā-rathaḥ
bāla-krīḍanakaiḥ krīḍan
kṛṣṇa-kṛīḍāṁ ya ādade
訳語
saḥ — 彼; vai — 確かに; bhāgavataḥ — 主の偉大な献身者; rājā — マハーラージャ・パリークシット; pāṇḍaveyaḥ — パーンダヴァの孫; mahā-rathaḥ — 偉大な戦士; bāla — 子供の間; krīḍanakaiḥ — 人形遊びで; krīḍan — 遊んでplaying; kṛṣṇa — 主クリシュナ krīḍām — 活動; yaḥ — 誰; ādade — 受け入れた
翻訳
パーンダヴァの孫であるマハーラージャ・パリークシットは幼少の時から主の偉大な献身者でした。人形で遊ぶ時でさえ、家庭での神像崇拝を真似てクリシュナを崇拝していました。
解説
『バガヴァッド・ギーター』(6-41)には、ヨーガの修練を正しく行えなかった人でも、信心深いブラーフマナの家庭に生まれたり、クシャトリヤの王や富裕な商人のような恵まれた家庭に誕生する機会が与えられると書かれています。しかしマハーラージャ・パリークシットの場合は前世から主の偉大な献身者であったために、さらに恵まれた境遇にあり、だからこそクルという皇室、とりわけパーンダヴァたちの家系に誕生しました。そのため幼少期の初めから自分の家で主クリシュナへの献身奉仕のことを深く学ぶ機会を得ました。家族全員が主の献身者であったパーンダヴァたちは、崇拝用の宮殿で家族の神像を崇拝していたのです。幸運にもそのような家庭に誕生した子どもたちは、幼少期の遊びのなかでもそのような神像崇拝を真似るというのが一般的です。主シュリー・クリシュナの恩寵によって私たちはヴァイシュナヴァの家庭に生まれる機会に恵まれ、子どもの頃から父を真似て主クリシュナの崇拝をしていたものです。父はラタ・ヤートラーやドーラ・ヤートラー儀式のようなあらゆる祭典を私たちが祝うことを奨励し、子供や友人たちにプラサーダを配ることに気前よくお金を使っていました。同様にヴァイシュナヴァの家庭に誕生した私たちの精神指導者は、偉大なるヴァイシュナヴァの父であるタークラ・バクティヴィノーダからあらゆる刺激を受けました。これがヴァイシュナヴァの家庭に生まれる幸運のゆえんです。名高いミーラー・バーイーは、ゴーヴァルダナの丘を持ち上げた主クリシュナの確固たる献身者です。
このような多くの献身者の伝記には、どれもほとんど違いがなく、それというのも、主の偉大な献身者たちの幼少期はみな類似しているからです。ジーヴァ・ゴースヴァーミーによれば、マハーラージャ・パリークシットは幼い遊び友達と一緒によくヴリンダーヴァナでの主クリシュナの幼少期の遊戯の真似をしていたようなので、そのような遊戯を聴いて育ったにちがいありません。シュリーダラ・スヴァーミーによると、マハーラージャ・パリークシットは目上の家族が行っていた神像崇拝をよく真似ていたようです。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラもジーヴァ・ゴ-スヴァーミーの見解を認めています。ですからどの見解を受け入れたとしても、マハーラージャ・パリークシットの心は幼い頃から自然と主クリシュナに向けられていたということです。彼は前述のような活動を真似し、そのこと全てがマハー・バーガヴァタの兆候である、偉大な献身的態度を幼い時から確立させていったのです。そのようなマハー・バーガヴァタは、ニテャ・シッダ、すなわち生まれた時から解放された魂と呼ばれます。しかしその他にも、生まれた時は解放されていなかったものの、交際のおかげで献身奉仕への傾向を育んだ人々が存在し、そのような人々はサーダナ・シッダと呼ばれます。両者は根本的には違いがなく、つまり純粋な献身者との交際によって誰でもサーダナ・シッダ、つまり主の献身者になることができると結論づけることができます。その明らかな例が、私たちの偉大な精神の師であるシュリー・ナーラダ・ムニです。彼の前世は女中の息子にすぎませんでしたが、偉大な献身者との交際を経て、彼の主の献身者としての規範は歴史上比類なく素晴らしいものとなりました。
節
vaiyāsakiś ca bhagavān
vāsudeva-parāyaṇaḥ
urugāya-guṇodārāḥ
satāṁ syur hi samāgame
vāsudeva-parāyaṇaḥ
urugāya-guṇodārāḥ
satāṁ syur hi samāgame
訳語
vaiyāsakiḥ — ヴィヤーサデーヴァの息子; ca — ~もまた; bhagavān — 超越的知識に満ちた; vāsudeva — 主クリシュナ; parāyaṇaḥ — ~に執着して; urugāya — 偉大な哲学者たちが栄光を称える至高人格神シュリー・クリシュナの; guṇa-udārāḥ —偉大な質; satām — 献身者の; syuḥ —であったにちがいない; hi — 正直なところ; samāgame — ~の存在によって
翻訳
ヴィヤーサデーヴァの息子であるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは超越的知識に満ち、ヴァスデーヴァの息子である主クリシュナの偉大な献身者でした。ですから偉大な献身者の集うところや、偉大な哲学者たちによって賛美される主クリシュナの話が二人の間で語られたに違いありません。
解説
サタームという言葉はこの節の中でとても重要です。サタームとは、主に仕えること以外には何も求めない純粋な献身者のことです。そのような献身者との交際においてのみ、主クリシュナの超越的な栄光は正しく語られます。主の話題は精神的な意義に満ちていて、サタームの交際の中で主について正しく聴いた者は間違いなく偉大な力を感じ、自ずと人生の献身的段階に達成すると、主がおっしゃっています。マハーラージャ・パリークシットが誕生の時から主の偉大な献身者であったことは既に述べましたが、シュカデーヴァ・ゴースワミも同じでした。マハーラージャ・パリークシットが王室での暮らしに慣れた偉大な王であったのに対し、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは身体に布一枚さえまとわないほどの典型的な世捨て人のように見えましたが、二人とも同じ段階にいました。表面上は、マハーラージャ・パリークシットとシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは正反対であるかのように思われますが、実は両者とも主の真の純粋な献身者でした。そのような献身者が集まって話題にするのは、主の栄光を称えることに関する話題のみ、すなわちバクティ・ヨーガについてです。『バガヴァッド・ギーター』でも主と主の献身者アルジュナの間では、バクティ・ヨーガ以外の話題が語られることはありませんでした。それでも世俗的な学者たちは自分勝手に憶測をめぐらせます。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーによると、このヴァイヤーサキーのあとにチャという言葉が使われていることが、一方が師で他方が弟子という役割を演じてはいても、ずっと以前からふたりは同じ範疇(ルビ:はんちゅう)に置かれているということを表わしていると言います。主クリシュナが話題の中心なので、ヴァースデーヴァ・パラーヤナハ、つまり「ヴァースデーヴァの献身者」という言葉が、その話題の共通の目的である主クリシュナの献身者であることを表しているのです。マハーラージャ・パリークシットが断食をしていた場所には他にもたくさんの人が集まっていたのですが、主な話者がシュカデーヴァ・ゴースヴァーミー、主な聴者がマハーラージャ・パリークシットであったことから、主クリシュナの栄光を讃える以外の話題はなかったであろうという結論に達するのが自然です。したがって『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主の主要なる二人の献身者の間で語られ、そして聴かれたために、それは至高主、すなわち至高人格神シュリー・クリシュナの栄光を讃えることだけを目的としているのです。
節
āyur harati vai puṁsām
udyann astaṁ ca yann asau
tasyarte yat-kṣaṇo nīta
uttama-śloka-vārtayā
udyann astaṁ ca yann asau
tasyarte yat-kṣaṇo nīta
uttama-śloka-vārtayā
訳語
āyuḥ — 寿命; harati — 減少する; vai — 確かに; puṁsām — 人々の; udyan — 上って; astam — 沈んで; ca — ~もまた; yan — 動き; asau — 太陽; tasya — 主の栄光を称える者の; ṛte — ~を除いては; yat — 誰によって; kṣaṇaḥ — 時間; nītaḥ — 利用した; uttama-śloka — 全能なる至高人格神; vārtayā — ~の話題で
翻訳
太陽は昇り沈むごとに皆の寿命を縮めるが、全能なる至高人格神についての話題を語ることに時間を使う者にはあてはまらない。
解説
この節は、献身奉仕を促進することで、人として生まれた命を役立たせることが、失ってしまった至高主との関係を悟るために、非常に重要であることを間接的に証明しています。歳月人を待たず。日の出と日没で示される時間が精神的価値の実体を悟るために正しく使われなければ、何の役にもたたず無駄になってしまいます。寿命のうちのほんのわずかでも無駄にすれば、どれほどの金を積んでも埋め合わせはできません。人間のとしての生が生命体(ジーヴァ)に与えられているのは、精神的な本性及び永遠なる幸福の源を悟るためです。生命体、とりわけ人間は幸せを捜し求めていますが、その理由は、幸せこそが生命体の自然な状態だからです。しかし生命体は物質的な環境の中でいたずらに幸せを捜しているのです。生命体の本来の姿は、完全なる全体に属する精神的な火の粉であるがために、精神的活動の中でこそ、幸せを完全に知覚することができます。主は完全なる精神的全体であり、その御名、姿、質、遊戯、側近、人格など全てが主と同一です。ひとたび正しい献身奉仕を通じて上に挙げた主のエネルギーのどれか一つにでも接することのできた人には、完成の扉がすぐに開かれます。そのような繋がりについて、主は『バガヴァッド・ギーター』(2-40)で次のような言葉で説明しています。「献身奉仕に努める者には決して無駄もなければ、失敗もない。そのような活動をわずかに始めただけでも、物質的な恐れの大海から救い出されるのに十分である」 よく効く薬を静脈に注射すると直ちに体全体に働くのと同様に、主の純粋な献身者を通して主の超越的な話題を聴くことは、非常に効果的です。木の一部に果物が実っていることで、他の全ての部分にもそれらが実っていることを示しているように、超越的なメッセージを耳で聞いて理解したということは、完全に理解したことを示唆しているのです。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような純粋な献身者との交際の中で一瞬でもこの悟りを得るということは、人生を永遠に完全なものとするということです。このように、純粋な献身者は絶えず主への献身奉仕に勤しみ、それによって自分の存在を浄化しているので、太陽は献身者の寿命を削ることができません。死というのは、永遠なる生命体が患う物質的な病気の症状のひとつであり、この物質的な感染症のために、永遠である生命体が生老病死という法則に従属させられているのです。
寄付のような、敬虔な活動である物質的行為は、シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラが引用しているように、スムリティ・シャーストラの中で勧められています。ふさわしい人物に金銭を施すことは、来世への貯金となることが保証されています。そのような寄付はブラーフマナにすることが奨励されており、もしブラーフマナでない(ブラーフマナとしての資格がない)者にお金を与えると、そのお金は来世に同じ割合で戻ってきます。しかし半ば教育を受けたブラーフマナに施した場合でも、そのお金は2倍になって戻ります。そして学識があり完全に資格のあるブラーフマナに施された場合、そのお金は百倍千倍にもなり、さらにもしヴェーダ・パーラガ(ヴェーダの道を真に悟った者)に与えられたなら、無限の倍数となって戻ってくることになるのです。『バガヴァッド・ギーター』でvedaiś ca sarvair aham eva vedyaḥと述べられているように、ヴェーダ知識の最終目的は至高人格神主クリシュナを悟ることです。寄付をすれば比率に関わらずそのお金が戻ってくることが保証されています。同様に、主の超越的なメッセージを聞いたり唱えたりして純粋な献身者とわずかでも交際を得たなら、それは永遠なる命、すなわちふるさと、神のもとに戻ることを完全に保証してくれるのです。Mad-dhāma gatvā punar janma na vidyate. つまり、主の献身者には永遠の命が保証されているということです。献身者の現世における老齢や病気などは、保証された永遠の命を求める気持ちを刺激する理由となるにすぎないのです。
節
taravaḥ kiṁ na jīvanti
bhastrāḥ kiṁ na śvasanty uta
na khādanti na mehanti
kiṁ grāme paśavo ’pare
bhastrāḥ kiṁ na śvasanty uta
na khādanti na mehanti
kiṁ grāme paśavo ’pare
訳語
taravaḥ — 木々; kim — ~かどうか; na — ~しない; jīvanti — 住む; bhastrāḥ — うめく; kim — ~かどうか; na — ~しない; śvasanti — 呼吸する; uta — ~もまた; na — ~しない; khādanti — 食べる; na — ~しない; mehanti — 精液を排出する; kim — ~かどうか; grāme — その現場で; paśavaḥ — 獣のような生命体; apare — 他の者
翻訳
木は生きてはいないだろうか?鍛冶屋のふいごは息をしていないのか?私たちのまわりにいる全ての動物たちは食べたり、精液を放出したりしないだろうか?
解説
この人生あるいは人生の一部は神知学や神学的な議論を交わすためにあるのではないと、近代の物質的な人間は主張することでしょう。人生は食べ、酒を飲み、性を営み、陽気にはしゃいで人生を楽しむために、最大限延長させることに意義があるのだと。近代人は物質科学の発達によって永遠に生きたいと望み、最大限にまで寿命を延ばすための愚かな理論が山ほど存在します。しかし人生は、食べたり、性を営んだり、酒を飲んだり、お祭り騒ぎするといった快楽主義的哲学のために物質科学を発展させたり、経済発展のためにあるのではないと、『シュリーマド・バーガヴァタム』は断言しています。人生は、タパシャ、つまり人間の一生を終えたあとに永遠の生活へと入っていけるように、存在を浄化するためだけにあるのです。
物質主義者は次の生についての情報を持ち合わせていないため、できる限り長生きしたいと望みます。死後に生はないと思い込んでいるので、今生きているうちに最大限の快適を得ようとするのです。生命体は永遠であり、物質世界においてはただ覆いを変えているという事実に無知であることが近代の人間社会の構造を荒廃させてしまいました。その結果、近代人の立てる様々な計画によって増殖した問題が山積みになっています。社会の問題を解決しようとして立てる計画は問題をさらに悪化させるだけです。たとえ寿命を100年以上に延ばせたとしても、人間文明の発達が必然的に伴うわけではありません。「何百年生きる木もあれば、何千年生きる木もある」とバーガヴァタムは言っています。ヴリンダーヴァナにある一本のタマリンドの木は(その場所はイムリタラとして知られている)、主クリシュナの時代から存在していると言われています。カルカッタ植物園には樹齢500年以上の菩提樹がありますし、そのような木は世界中に数多く存在します。スヴァーミー・シャンカラーチャーリャはわずか32年間生きただけですし、主チャイタニヤは48年間生きました。だからといって上記の木のような長い生がシャンカラやチャイタニヤの人生より重要だということでしょうか?精神的価値を持たない長い寿命は、さほど重要ではありません。木は呼吸しないため、生きているということを疑わしく思う人がいるかもしれません。しかしボースのような近代の科学者たちは植物の中に命があることをすでに証明していて、呼吸していることが本当に生きていることの兆候だとは言えません。鍛冶屋のふいごが大きな音を立てて空気を出し入れするからといって、ふいごに命があるわけではないとバーガヴァタムは言います。木はおいしい料理を食べたり性行為を楽しむことができないのだから、木の命と人間の命を比較することなどできないと、物質主義者は主張することでしょう。それに対する答えとしてバーガヴァタムは、人間と同じ村に住む犬や豚のような他の動物は、食べたり性生活を楽しんだりしませんか、と問いかけています。この「他の動物」について『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で使われている特定の言葉は、食べたり呼吸したり性を営むだけの動物の生活を良くする計画を立てることだけに従事している人は、人間の姿をした動物にすぎないことを意味しています。そのような洗練された動物は苦しむ人々の役に立つことはできません。なぜなら動物は簡単に他者に危害を加えてしまい、良いことをすることはめったにないからです。
節
śva-viḍ-varāhoṣṭra-kharaiḥ
saṁstutaḥ puruṣaḥ paśuḥ
na yat-karṇa-pathopeto
jātu nāma gadāgrajaḥ
saṁstutaḥ puruṣaḥ paśuḥ
na yat-karṇa-pathopeto
jātu nāma gadāgrajaḥ
訳語
śva — 犬; viṭ-varāha — 糞を食べる村の豚; uṣṭra — らくだ; kharaiḥ — そしてロバによって; saṁstutaḥ — 徹底的に称賛して; puruṣaḥ — 人; paśuḥ — 動物; na —決して~ない; yat — 彼の; karṇa — 耳; patha — 道; upetaḥ — 到達した; jātu — どんな時でも; nāma — 聖なる御名; gadāgrajaḥ — あらゆる悪から救い出してくださる主クリシュナ
翻訳
犬や豚、ラクダやロバと同等の人間は、悪からの救世主である主シュリー・クリシュナの超越的な遊戯に決して耳を傾けない者たちを褒め称える。
解説
精神的価値を高めるために秩序立てた教育を受けていない限り、大半の人間は動物と変わりありません。この節では、そのような人のことを特に犬、豚、ラクダ、ロバの段階にあると言っています。実際のところ近代の大学教育は、自分より強い主人に仕えるという犬並みの考え方を受け入れる心構えを教えています。世間で言うところの教育を受けたあと、いわゆる教養ある人間が、仕事を求めて犬のように一軒一軒回りますが、空きがないと追い払われてしまうのが関の山です。わずかな餌をもらうために忠実に主人に仕える犬のように、人は十分な報酬を得ることもなく主人に忠実に仕えます。
食べ物に見境なく、どんなものでも口にする人は豚に例えられます。豚は糞を食すことにとても執着しています。つまりある特定の動物にとっては、糞も一種の食糧なのです。またある特定の動物や鳥にとっては、石さえも食糧なのです。しかし人間は、何でも食べられるようにはできていません。穀物、野菜、果物、ミルク、砂糖などを食べるようにできているのです。動物の食糧は人間のためのものではありません。固い食べ物を噛めるようにと、人間には果物や野菜を砕くための特定の歯が与えられています。どうしても動物の食べ物を食べたいという人のために、人間には2本の犬歯も与えられています。「甲の薬は乙の毒」というのは広く知られていること。人間は主シュリー・クリシュナに捧げた食べ物の残り物をいただくようにできており、主がお受け取りになるのは葉物、花、果物などの種類です(『バガヴァッド・ギーター』(9-26))。ヴェーダ経典で定められているように、動物の食糧は主に捧げられません。すなわち人間は特定の食べ物を食べるようにできているのであり、いわゆるビタミンを摂るために動物を真似てはならないのです。ゆえに、分別なく食べる人は豚に例えられています。
ラクダはとげを食べることで喜びを得る種類の動物です。同様に、家庭生活やいわゆる楽しい俗的生活を楽しみたいと望む人は、ラクダに例えられます。物質的な生活はとげだらけであり、不利な状況を最大限利用するには、ヴェーダの定められた規則に従って生きなくてはなりません。物質世界とは自身の血を吸って生き永らえる場所であり、物質的快楽を享受するために最も魅力的なのが、性生活です。性生活を楽しむということは自分の血を吸うということであって、このことに関してはこれ以上説明することもないでしょう。ラクダもまたとげのある枝を食べながら、自分の血を吸っているのです。とげのある枝はラクダの舌を切り、ラクダの口には血がほとばしります。愚かなラクダには新鮮な血にまみれたとげが味わいを生み、とげを食べるという偽りの喜びを楽しむのです。同様に、さまざまな方法やいかがわしい手段でお金をもうけようと懸命に働く有力者や実業家は、自分たちの血の混じった行為のとげを食べています。ゆえに『バーガヴァタム』はこうした病に侵された人たちのことを、ラクダと同じものとみなしているのです。
ロバは動物の中でも最も愚かであると知られている動物です。何の得にもならないのに最大限の重荷を背負って必死に働きます。一般的にロバは、社会的にあまり敬意を払われない階級の洗濯屋に使われています。そしてまた、雌のロバに蹴飛ばされることにとても慣れていることもロバの特質です。性行為を求めれば雌のロバに蹴飛ばされ、それでもロバは性の喜びを求めて雌のロバの後を追います。ですから妻の尻に敷かれた男性は、ロバに例えられるのです。特にカリ時代では、大半の人が必死に働いています。この時代の人間は、重い荷物を運んだり荷台や人力車を引くようなロバの仕事に就いているのが現実です。俗に言う人間文明の発達が、人間をロバのように働かせているのです。大きな工場や作業場の労働者もやっかいな仕事に就かされ、一日中へとへとになるまで働いたあとで、再びこの哀れな労働者は、性的快楽のためだけでなく、様々な家庭事情のために伴侶に蹴飛ばされる目に合うのです。
ですから『シュリーマド・バーガヴァタム』が精神的な悟りを得ていない一般の人たちを犬、豚、ラクダ、ロバの社会に分類していることは、決して誇張ではないのです。そのような無知な大衆の指導者たちは、大勢のそうした犬や豚から崇められることを大いに誇りに感じているかもしれませんが、あまり喜ばしいことではありません。そのように人間の皮を着た犬や豚にとっては偉大な指導者であったとしても、クリシュナの科学に啓発されることに味わいを覚えないなら、その人もやはり動物に優る者ではないと、『バーガヴァタム』は公言しています。力がある、強い、または大きな動物、などと呼ばれるかもしれませんが、その無神論的気質がゆえに『シュリーマド・バーガヴァタム』の評価ではそのような人を人間としては分類していません。つまり、そのような神を信じない犬や豚のような指導者は、動物の質をより多く備えた大きな動物なのです。
節
bile batorukrama-vikramān ye
na śṛṇvataḥ karṇa-puṭe narasya
jihvāsatī dārdurikeva sūta
na copagāyaty urugāya-gāthāḥ
na śṛṇvataḥ karṇa-puṭe narasya
jihvāsatī dārdurikeva sūta
na copagāyaty urugāya-gāthāḥ
訳語
bile — 蛇の穴; bata — ~のように; urukrama — 驚くべき活動をなさる主; vikramān — 剛勇; ye — これらの; na — 決して~ない; śṛṇvataḥ — 聞いた; karṇa-puṭe — 耳の穴; narasya — 人間の; jihvā — 舌; asatī — 役にたたない; dārdurikā — 蛙の; iva — ちょうどそのような; sūta — スータ・ゴースヴァーミーよ; na — 決して~ない; ca — ~もまた; upagāyati — 大声で唱える; urugāya — 歌う価値があり; gāthāḥ — 歌
翻訳
至高人格神の剛勇かつ驚くべき活動についての話に耳を傾けず、主についての素晴らしい歌を声高らかに歌わない者は、ヘビの耳のような耳穴とカエルの舌のような舌を持つ者とみなされる。
解説
主への献身奉仕は体のあらゆる部分を使ってなされます。それが精神的な魂の超越的な動力ですから、献身者は100%主への奉仕に努めます。人は主との関係において体の感覚が浄化された時に献身奉仕に就くことができ、あらゆる感覚器官を使って主に仕えることができるのです。感覚器官およびその働きが自分の感覚を満足させるためだけに使われるかぎり、それは不純あるいは物質的であると考えられます。純粋な感覚は自分の感覚を満足させるためではなく、完全に主に仕えるために使われます。主は全ての感覚を備えた至高なるお方であり、主の一部分である仕え人も同じ感覚を備えているのです。『バガヴァッド・ギーター』に書かれているように、主への奉仕は完全に浄化された感覚の使い方です。主は五感で教えを授け、アルジュナはその教えを五感で受け止めました。そのようにして師と弟子の間に、賢明かつ論理的な理解の完璧なやりとりがあったのです。精神的な理解というのは、どこかの宣伝屋が愚かに主張するように師から弟子に電気を送り込む類のものではありません。全ては、知性と論理に満ちているのであり、従順に心から受け入れる場合にのみ、師と弟子の間で意見の交換というものが可能になるのです。この偉大な使命を論理的に理解できるよう、全ての感覚と知性を傾けて主チャイタニヤの教えを受け止めなくてはならないと、『チャイタニヤ・チャリタームリタ』は教えています。
生命体の不純な段階では、どの感覚も俗的なことにどっぷり浸かっています。『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』に書かれている主の話を聴くという奉仕に耳を使わないなら、そのような耳の穴はごみ溜めとなるに違いありません。ですから『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』のメッセージは、声高に世界中に説かれるべきなのです。それが実際そうしたメッセージを完全な源から聞いた純粋な献身者の務めです。人に何かを伝えたいと思う人は山ほどいますが、ヴェーダの知恵に関する題材を語るための教育を受けていないために、無意味なことを語り、人々もそれを意味なく受け止めます。世の中の俗的なニュースを配る情報源は何百も何千もあり、また世界中の人がそれを受け入れています。同様に世界中の人が主の超越的な話題に耳を貸すことを教えられるべきであり、主の献身者は人々が聴けるように声を高くして語らなくてはなりません。カエルは大声で鳴き、その結果、ヘビを招くことになって、食べられてしまいます。人間の舌はヴェーダの聖歌を唱えるために特別に与えられたのであり、カエルのように鳴くためではありません。この節で使われているアサティーという言葉も非常に重要で、これは娼婦になった女性という意味です。娼婦は良い質を備えた女性という評判を得ることはありません。同様に、ヴェーダの聖歌を唱えるために与えられた人間の舌を俗的な無意味なことを語ることに使うなら、その舌は娼婦であるとみなされるのです。
節
bhāraḥ paraṁ paṭṭa-kirīṭa-juṣṭam
apy uttamāṅgaṁ na namen mukundam
śāvau karau no kurute saparyāṁ
harer lasat-kāñcana-kaṅkaṇau vā
apy uttamāṅgaṁ na namen mukundam
śāvau karau no kurute saparyāṁ
harer lasat-kāñcana-kaṅkaṇau vā
訳語
bhāraḥ — たいへんな重荷; param — 重い; paṭṭa — 絹; kirīṭa — ターバン; juṣṭam — ~を身に着けて; api — ~でさえ; uttama — 上の; aṅgam — 体の部分; na — 決して~ない; namet — お辞儀する; mukundam — 救うお方、主クリシュナ; śāvau — 死体; karau — 手; no — ~しない; kurute — する; saparyām — 崇拝して; hareḥ — 至高人格神の; lasat — 光り輝く; kāñcana — 金製の; kaṅkaṇau — 腕輪; vā — ~であるけれども
翻訳
たとえ絹のターバンで頭を飾っていても、ムクティ(解放)を与えてくださる至高人格神の前にひれ伏さないような上体は、ただの重荷にすぎず、きらめく腕輪で飾られた腕も、至高人格神ハリへの奉仕に使われないなら、死体についた腕のようなものである。
解説
前述したように、主の献身者には3種類あります。第1級の献身者は主への奉仕に携わっていない人をも分け隔てなく見ていますが、第2級の献身者は献身者と非献身者を区別します。ですから第2級の献身者は布教の仕事に就くべきなのです。そして前の節に書かれているように、声を大きくして主の栄光を説かなくてはなりません。第2級の献身者は第3級の献身者あるいは非献身者からの弟子を受け入れます。時には第1級の献身者も布教のために第2級の献身者の段階にまで下りてくることもあります。しかし、少なくとも第3級の献身者になることを求められる一般の人は、どれほどお金待ちでも、また絹のターバンや冠を着ける王であったとしても、主の寺院を訪れて神像の前に頭を下げなさいと、ここで勧められています。主は、偉大なる王や皇帝も含めた万人の主であり、ゆえに俗人から裕福と評価されるお金持ちも主シュリー・クリシュナの寺院を訪れ、定期的に神像の前に頭を下げなくてはなりません。崇拝できる姿で寺院にいてくださる主のことを、石でできているとか木でできているとは決して考えてはなりません。なぜなら、寺院で神像としてアルチャー化身をなさっている主は、その吉兆な存在で堕落した魂に計り知れない恩恵を示してくださっているからです。前述したように聴くという方法によって、寺院におられる主の存在を悟ることが可能となります。ですから、献身奉仕の日課の中でも「聴くこと」というのが最も大切なことなのです。どの階級の献身者も『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』のように信頼すべき源から聴くことが重要です。物質的な立場を鼻にかけ、寺院にいらっしゃる主の神像の前にひれ伏すこともなく、科学的な知識も持たずに寺院の崇拝を否定するような一般人は、いわゆるターバンや冠というものは物質存在の海のさらなる深みへと自らを溺れさせるものに他ならないということを知らなくてはなりません。頭に重い重しを乗せて溺れる者は、重しのない者よりも速く沈んでいくことは間違いありません。愚かで高慢な人間は神の科学を否定し、神など自分には意味がないと言います。しかし神の法則に捕らえられ、脳血栓のような病気に襲われた時、神を信じないような人間は自らが得た物質的な重量のせいで、無知の海にどんどん沈んでいくのです。神の意識のない物質科学の発展は、人間社会の頭に載せた重い荷物です。ですから人は、この大いなる警告を心に留めておかなくてはなりません。
主を崇拝する時間のない一般人は少なくとも、例え数秒でも主の寺院を掃いたり洗ったりすることに携わるべきです。オリッサでたいへん有力なマハーラージャ・プラターパルドラは国の重要な責務をかかえる非常に多忙な王でしたが、一年に一度主のお祭が行われる際、プリーにある主ジャガンナータの寺院を必ず掃除しました。これは、いかに重要な人間であろうと、人は至高主の優位性を受け入れなくてはならないということです。この神の意識は、物質的な繁栄という面でも助けとなります。主ジャガンナータの前では自分は従属する立場であるという姿勢が、マハーラージャ・プラターパルドラを有力な王にしました。マハーラージャ・プラターパルドラはたいへん強力で、その時代の偉大なパタンでさえ彼の力のためにオリッサに入ることができませんでした。そして宇宙の主に従属することを受け入れたために、彼は遂に主シュリー・チャイタニヤの栄誉を得ることができました。ですから裕福な夫を持ち、きらびやかな金の腕輪で着飾る妻でさえも、主への奉仕に就かなくてはならないのです。
節
barhāyite te nayane narāṇāṁ
liṅgāni viṣṇor na nirīkṣato ye
pādau nṛṇāṁ tau druma-janma-bhājau
kṣetrāṇi nānuvrajato harer yau
liṅgāni viṣṇor na nirīkṣato ye
pādau nṛṇāṁ tau druma-janma-bhājau
kṣetrāṇi nānuvrajato harer yau
訳語
barhāyite — 孔雀の羽根のように; te — それらの; nayane — 目; narāṇām — 人間の; liṅgāni — 姿; viṣṇoḥ — 至高人格神の; na — ~しない; nirīkṣataḥ — 見上げる; ye — そのような全ての; pādau —脚; nṛṇām —人間の; tau — それらの; druma-janma — 木に生まれて; bhājau —そのように; kṣetrāṇi —聖地; na —決して~ない; anuvrajataḥ — 後を追う; hareḥ — 主の; yau — ~するもの
翻訳
至高人格神ヴィシュヌの象徴的な表れ(主のお姿、御名、質など)を見つめない目は孔雀の羽根についた模様のようであり、聖地(主を想い出す場所)に向かない足は樹の幹のようなものだとみなされる。
解説
特に家庭を持つ献身者には、神像を崇拝することが強く勧められています。可能な限り全ての世帯者は精神指導者の指導のもとで、ラーダー・クリシュナや、ラクシュミー・ナーラーヤナや、特にシーター・ラーマなどのお姿のヴィシュヌの神像を設置すべきです。あるいは、ナラシンハ、ヴァラーハ、ゴウラ・ニターイ、マツヤ、クールマ、シャーラグラーマ・シラーのようなお姿でもかまいませんし、他にもヴァイシュナヴァ・タントラやプラーナで勧められているように、トリヴィクラマ、ケーシャヴァ、アチュタ、ヴァースデーヴァ、ナーラーヤナ、ダーモーダラなどもあります。家族はアルチャナー・ヴィディの指示や規則に厳格に従って崇拝しなくてはなりません。家族の誰であっても12才以上の者は真正な精神の師から入門を受け、家族全員で、主への献身奉仕の日課に従事すべきです。朝(4時)から始めて夜(10時)まで、マンガラ・アーラートリカ、ニランジャナ、アルチャナ、プージャー、キールタナ、シュリンガーラ、ボーガ・ヴァイカーリ、サンデャー・アーラートリカ、パータ、ボーガ(夜)、シャヤナ・アーラートリカなど行います。真正なる精神指導者の指図に従ってそのような神像崇拝をすることで、家庭を持つ者の存在そのものが浄化され、精神的な知識が急速に深まります。初心の献身者には、机上の空論だけでは十分ではありません。本の知識は理論的なのに対し、アルチャナの過程は実践的です。精神的な知識は理論と実践という両方の知識の組み合わせで育んでいかなければならず、それが精神的完成に到達するために保証された方法なのです。初心者の献身者にとって、献身奉仕の修練は、弟子を少しずつ神のもとに戻る道を歩ませる方法をわきまえている熟練した精神指導者に完全に依存しています。自分の家族の生計を立てることを目的にいかさまの精神指導者になってはなりません。差し迫る死という罠から弟子を解放するために、熟練した精神の師にならなくてはならないのです。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラは精神指導者の真正な質について定義し、その中の節には次のような記述があります:
śrī-vigrahārādhana-nitya-nānā-
śṛṅgāra-tan-mandira-mārjanādau
yuktasya bhaktāṁś ca niyuñjato ’pi
vande guroḥ śrī-caraṇāravindam
śṛṅgāra-tan-mandira-mārjanādau
yuktasya bhaktāṁś ca niyuñjato ’pi
vande guroḥ śrī-caraṇāravindam
シュリー・ヴィグラハはアルチャー、すなわち崇拝するのにふさわしい主のお姿のことであり、弟子はシュリンガーラ、すなわち神像を適切な方法で着飾り、また、マンディラ・マールジャナ、寺院を掃除することによって定期的に神像を崇拝しなくてはなりません。精神の師はこれら全てを思いやりをもって直接教えることにより、弟子が主の超越的御名、質、姿などを少しずつ悟ることができるように助けてくれます。
主に仕えることに、特にキールタナを歌ったり経典から精神的な教えを学んだりしながら寺院を飾ったりすることに大衆の心を向けることで、彼らを悪質な映画への誘惑や、いたるところでラジオから流れてくるみだらな歌から救うことができます。家に礼拝所を設けることができない人は、上記のことが規則的に行われている別の寺院に行くべきです。献身者の寺院を訪れて、きれいに飾られた神聖な寺院で豪華に祀(ルビ:まつ)られている主のお姿を見ると、俗的な心が自然と精神的な思いで満たされます。そのような寺院があり、神像崇拝がきちんと行われているヴリンダーヴァナのような聖地を、誰もが訪れるべきです。かつては、王や裕福な商人のような金持ちは6人のゴースヴァーミーのような主の熟達した献身者の指示のもと、そのような寺院を建立したものでした。偉大な献身者の足跡に従って、このような寺院や、聖地巡礼の地で催される祭事を利用することが大衆の義務なのです(アヌヴラジャ)。このような聖地や寺院は、観光気分で訪れてはなりません。科学を熟知している適切な人の導きのもとで、主の超越的な遊戯によって、永遠のものとなったこうした寺院や聖地を訪れるべきなのです。これをアヌヴラジャと呼びます。アヌとは従うという意味です。ですから寺院や巡礼地を訪れる際でも、真正なる精神指導者の教えに従うことが最高の方法です。そのような行動をしない人は、主から動くことを禁じられて立ち続けている木と何ら変わりはありません。人間に備わった動くという傾向が、観光目的であちらこちらを訪れることに間違って使われています。偉大なアーチャーリャが確立したこれらの聖地を訪れることが、人間の旅をするという傾向を満たす最高の方法です。そうすれば、精神的なことについての知識も持たずにお金儲けを主義とする無神論的な主張に誤って導かれることはないのです。
節
jīvañ chavo bhāgavatāṅghri-reṇuṁ
na jātu martyo ’bhilabheta yas tu
śrī-viṣṇu-padyā manujas tulasyāḥ
śvasañ chavo yas tu na veda gandham
na jātu martyo ’bhilabheta yas tu
śrī-viṣṇu-padyā manujas tulasyāḥ
śvasañ chavo yas tu na veda gandham
訳語
jīvan — 生きている間; śavaḥ — 死体; bhāgavata-aṅghri-reṇum — 純粋な献身者の足のほこり; na — 決して~ない; jātu — どんな時でも; martyaḥ — 死ぬべき運命の; abhilabheta — 特に受けた; yaḥ — 人; tu — しかし; śrī — 富で; viṣṇu-padyāḥ — ヴィシュヌの蓮華の御足の; manu-jaḥ — マヌの子孫(人間); tulasyāḥ — トゥラシーの木の葉; śvasan — 呼吸している間; śavaḥ — 動かない死体; yaḥ — 誰; tu — しかし; na veda — 決して経験したことのない; gandham — 香り
翻訳
主の純粋な献身者の足のほこりを自分の頭に受けたことがないような者は、全く死体のようなものである。また、主の蓮華の御足についたトゥラシーの葉の香りを嗅いだことのない者も、息はしていてもやはり死体のようなものである。
解説
シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラによると、呼吸している死体は幽霊です。人は死ぬと死体と呼ばれますが、私たちの現在の目では見えない微細な姿で再び現れて活動する時、その死体は幽霊と呼ばれます。幽霊というのは、絶えず他人を恐ろしい状況へ陥れる、非常に厄介な要素です。同様に、純粋な献身者にも寺院に設置されたヴィシュヌの神像にも敬意を持たない幽霊のような非献身者は常に、献身者にとって不愉快な状況を作り出します。そのような不純な幽霊からの捧げ物を、主は決してお受け取りにはなりません。愛する人に愛情を示したければ、まずその人の犬を愛せよということわざはよく知られています。純粋な献身の段階は、主の純粋な献身者に誠実に仕えることによって達成することができるのです。したがって、主への献身奉仕の第一条件は純粋な献身者の召使いであることであり、そしてその条件は「純粋な献身者に仕えている純粋な献身者の蓮華の御足のほこりをいただく」という言葉によって実際に履行されるのです。これが純粋な師弟継承すなわち献身のパランパラーなのです。
マハーラージャ・ラフーガナは偉大な聖者ジャダ・バラタに、どうやってそのようなパラマハンサの解放段階に達したのか尋ねました。そしてその偉大な聖者は、次のように答えました(『シュリーマド・バーガヴァタム』5-12-12):
rahūgaṇaitat tapasā na yāti
na cejyayā nirvapaṇād gṛhād vā
na cchandasā naiva jalāgni-sūryair
vinā mahat-pāda-rajo-’bhiṣekam
na cejyayā nirvapaṇād gṛhād vā
na cchandasā naiva jalāgni-sūryair
vinā mahat-pāda-rajo-’bhiṣekam
「ラフーガナ王よ、献身奉仕の完成段階すなわち人生のパラマハンサの段階に到達するには、偉大な献身者の足のほこりによって祝福されなければならない。その段階には、タパシャ(禁欲生活)や、ヴェーダの崇拝過程、放棄階級の受け入れ、家庭生活の義務の履行、ヴェーダ讃歌の詠唱によっても達成されず、灼熱の太陽の下、冷水の中、燃え盛る火の前などで行う苦行によっても、決して到達されることはない」
言い換えれば、主シュリー・クリシュナは純粋で制約されていない献身者のものであり、そのような献身者だけがクリシュナを別の献身者に手渡すことができるということです。クリシュナを直接手に入れることは決してできません。ですから主チャイタニヤは御自身のことをgopī-bhartuḥ pada-kamalayor dāsa-dāsānudāsaḥ、すなわち「ヴリンダーヴァナのゴーピー少女たちを守る主の召使いの最も従順な召使い」とお呼びになったのです。ゆえに、純粋な献身者は決して直に主に近づかず、主の召使いの召使いを喜ばせようとします。そして主がお喜びになった時に初めて、献身者は主の蓮華の御足についたトゥラシーの葉の味を噛みしめることができるのです。主は、たとえヴェーダ文献の偉大な学者になったとしても決して見い出すことはできませんが、純粋な献身者を通せば簡単に近づくことのできるお方であると、『ブラフマ・サンヒター』では述べられています。ヴリンダーヴァナでは純粋な献身者は皆、主クリシュナの喜びの力であるシュリーマティー・ラーダーラーニーの慈悲を求めて祈ります。シュリーマティー・ラーダーラーニーは至高主全体の心優しい女性部分であり、この世界の女性の本質の完成段階とも言えるお方です。ですから誠実な献身者はラーダーラーニーの慈悲を速やかに手に入れることができ、主クリシュナはラーダーラーニーから勧められた献身者を直ちに受け入れ、御自身の交際の中に入れてくださいます。ゆえに結論として、私たちは、直接に主の慈悲を求めることよりも献身者の慈悲を求めることに、より専念しなくてはならないということです。そうすることによって(献身者の善意によって)主への奉仕に対する本来の関心がよみがえるのです。
節
tad aśma-sāraṁ hṛdayaṁ batedaṁ
yad gṛhyamāṇair hari-nāma-dheyaiḥ
na vikriyetātha yadā vikāro
netre jalaṁ gātra-ruheṣu harṣaḥ
yad gṛhyamāṇair hari-nāma-dheyaiḥ
na vikriyetātha yadā vikāro
netre jalaṁ gātra-ruheṣu harṣaḥ
訳語
tat — ~のこと; aśma-sāram — 鋼で縁取られて; hṛdayam — ハート; bata idam — 確かに; yat — ~であるもの; gṛhyamāṇaiḥ — 唱えているにもかかわらず; hari-nāma — 主の聖なる御名; dheyaiḥ — 心を集中することによって; na — ~しない; vikriyeta — 変化; atha — このように; yadā — ~の時; vikāraḥ — 反動; netre — 目の中に; jalam — 涙; gātra-ruheṣu — 毛穴で; harṣaḥ — 恍惚の現れ
翻訳
主の聖なる御名を集中して唱えているにもかかわらず、エクスタシーが沸き起こっても、涙があふれ髪が逆立っても変化しないハートは、明らかに鉄のハートである。
解説
第2編の最初の3つの章では献身奉仕が次第に進展していく過程が示されている、ということについて留意する必要があります。最初の章では神の意識のための献身奉仕の最初の段階である、聞くことと唱えることが強調され、初心者には至高人格神を宇宙体という全体的な概念で受け止めることが勧められています。そのように神のエネルギーの物質的出現を通して神を全体としてとらえることにより、心と感覚を精神化することができるようになります。そして次第に、全てのハートに、全ての場所に、物質宇宙に存在する全ての原子の中に至高の魂として宿っておられる至高主、主ヴィシュヌに心を集中させることができるようになるのです。一般大衆に勧められている5つの精神的姿勢、つまりパンチャ・ウパーサナ体系も、同じように段階的な進展を目的として制定されたものです。火や電気、太陽、生命体の集まり、そしてシヴァ神という形をとった崇高なるものを崇拝する段階を経たあと、最終的に主ヴィシュヌの部分的表れである非人格的な至高の魂を崇拝するようになるのです。これらのことは全て第2章で丁寧に述べられていますが、第3章ではヴィシュヌ崇拝、すなわち純粋な献身奉仕の段階に実際に到達した後の完成段階のヴィシュヌ崇拝について、ハートの変化と関連して述べています。
精神文化の全過程は生命体のハートを、至高主に従属する召使いという永遠なる本来の立場に変えることを目的としています。ですから献身奉仕の深まりと共にハートに変化が表れ、世界を支配するという偽りの感覚によって生じる物質的な快楽の思いが次第に薄れると同時に、主への献身奉仕の気持ちが高まっていくようになります。ヴィディ・バクティ、すなわち体の部分(目、耳、鼻、手、足など既に説明済み)を使って規則正しくする献身奉仕と、体の部分のあらゆる行動に刺激を与える心との関連性がここで強調されています。規則正しい献身奉仕をすることで、必ずハートに変化が生じるのです。もしそのような変化が起こらないなら、そのハートは鉄でできたハートだと考えられます。主の聖なる御名を唱えていても溶けないのですから。聴くこと唱えることは献身者が為すべき義務の基本原則であることを、常に覚えていなくてはなりません。そして、もしきちんと聴き唱えているならば、目から涙がこぼれ、体中の毛が逆立つような恍惚の兆候が伴うことでしょう。こうしたことは自然な成り行きであり、神の愛であるプレーマという完成段階に到達する前に起こるバーヴァの段階に先立つ兆候です。
主の聖なる御名を聴き唱え続けてもそのような反応が起こらないなら、それは侮辱のみがその理由であると考えられます。それがサンダルバの意見です。主の聖なる御名を唱え始める時に、聖なる御名の御足に対して避けるべき10種類の侮辱について細心の注意を払っていなければ、目に涙があふれたり髪が逆立つというような惜別の情への反応は表れません。
バーヴァの段階では、動けなくなる、発汗する、髪が逆立つ、声が出なくなる、震える、体が青ざめる、目に涙があふれる、最終的に気絶するという8つの超越的兆候が表れます。シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーの『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』の要約である『献身奉仕ー喜びの海』は、こうした兆候について説明し、着実で、かつ加速する他の超越的な進展についても明確に述べています。
シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラは、初心者が安っぽい評価を得るために上記のような兆候を真似することを非常に厳しく非難しながら、これらのバーヴァの表れについて語りました。ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティだけではありません。シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーもそのような人々に対してとても厳しい姿勢をとっています。俗的な献身者(プラークリタ・サハジヤーたち)が上記の8つの恍惚の兆候を真似ることがありますが、さまざまな禁制事項に溺れているにせ献身者を見れば、それがまがいの兆候であることはすぐに見破られます。たとえ献身者のしるしで体を飾っていたとしても、タバコ、酒、女性との不正な性行為に耽っている者が先に述べたような恍惚の兆候を表すことはできません。それでもこうした兆候を故意に真似る者を見受けることがあり、この理由からシュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティはこのような模倣者たちを石の心を持つ者だと非難しているのです。時に、こうした超越的兆候の反映が、彼らに影響を及ぼすことがありますが、それでもまだ禁じられた習慣をやめないなら、超越的な悟りを得ることは望めません。
主チャイタニヤはゴーダーヴァリーのほとりでカヴァウルのシュリーラ・ラーマーナンダ・ラーヤに会った時、これらの兆候を表し始めましたが、非献身者のブラーフマナがラーヤに付き添っていたため、その兆候を抑え隠しました。このように、時には第一級の献身者であっても、状況次第でそういう兆候を見せないこともあります。したがって、本物の、そして堅実なバーヴァは、物質欲が消滅すること(クシャーンティ)、毎瞬間を主への超越的愛情奉仕に役立たせること(アヴャールタ・カーラートヴァム)、絶え間なく主の栄光を称えたいと熱望すること(ナーマ・ガーネー・サダー・ルチ)、主の土地に住むことに惹かれること(プリーティス・タド・ヴァサティ・スタレー)、物質的幸せに対して完全に無執着であること(ヴィラクティ)、そして傲慢でないこと(マーナ・シューニャター)という性質にはっきりと見ることができるのです。これらの超越的な質を育んだ人は本当にバーヴァの段階に達成した人であり、石の心を持つ模倣者や俗的な献身者とははっきりと区別されます。
全過程は次のように要約されます。主の聖なる御名を完全に侮辱のない状態で唱え、誰に対しても親しみをもって接する上級の献身者は、主の栄光を称えるという超越的味わいを真に噛みしめることができます。そしてそのような悟りの結果が、先に述べたような、物質欲の消滅やその他のこととして表れるのです。初心者は献身奉仕の低い段階にいるため常に妬み深く、アーチャーリャに従わずに、自分勝手な献身奉仕のやり方や規則を作り出します。そのような人は例え主の聖なる御名を常に唱えているように見せかけたとしても、聖なる御名の超越的味わいを噛みしめることはできません。ですから目に涙をためてみたり、震えたり、発汗したり、気絶するようなことは、強く非難されています。しかしそんな彼らも主の純粋な献身者に触れて悪い習慣を直すことはできます。そうでなければ、彼らの心は石のままで、どんな治療も効くことはないでしょう。神のもとに戻る道を完璧に進むには、悟りを開いた献身者が勧める啓示経典の教えにかかっているのです。
節
athābhidhehy aṅga mano-’nukūlaṁ
prabhāṣase bhāgavata-pradhānaḥ
yad āha vaiyāsakir ātma-vidyā-
viśārado nṛpatiṁ sādhu pṛṣṭaḥ
prabhāṣase bhāgavata-pradhānaḥ
yad āha vaiyāsakir ātma-vidyā-
viśārado nṛpatiṁ sādhu pṛṣṭaḥ
訳語
atha — ゆえに; abhidhehi — 説明してください; aṅga — スータ・ゴースヴァーミーよ; manaḥ — 心; anukūlam — 私たちの精神性に好ましい; prabhāṣase — あなたが語ってください; bhāgavata — 偉大な献身者; pradhānaḥ — 長; yat āha — 彼が語ったこと; vaiyāsakiḥ — シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー; ātma-vidyā — 超越的な知識; viśāradaḥ — 卓越した; nṛpatim — 王に; sādhu — 非常に良い; pṛṣṭaḥ — 尋ねられて
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーよ、あなたの言葉は私たちの心を喜ばせてくれます。ですからどうか超越的知識に長けた偉大な献身者シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがマハーラージャ・パリークシットから尋ねられて語ったことを、私たちに説明してください。
解説
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような先代のアチャーリャーに説明され、そしてスータ・ゴースヴァーミーのような次に続くアーチャーリャによって受け継がれた知識は、常に強力な超越的知識であるため、謙虚な学徒全ての心を貫き、そして有益であるのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』第2編・第3章「純粋な献身奉仕:ハートの変化」の要旨解説を終了します。