シュリーマド・バーガヴァタム 1.15.49
節
viduro ’pi parityajya
prabhāse deham ātmanaḥ
kṛṣṇāveśena tac-cittaḥ
pitṛbhiḥ sva-kṣayaṁ yayau
prabhāse deham ātmanaḥ
kṛṣṇāveśena tac-cittaḥ
pitṛbhiḥ sva-kṣayaṁ yayau
訳語
viduraḥ—ヴィドゥラ(マハーラージャ・ユディシュティラの叔父); api—もまた; parityajya—肉体を終えた後; prabhāse—プラバーサの巡礼地で; deham ātmanaḥ—彼の体; kṛṣṇa—人格神; āveśena—その思いに没頭して; tat—彼の; cittaḥ—思考と活動; pitṛbhiḥ—ピトゥリローカの住人たちと; sva-kṣayam—彼の住居; yayau—去った。
翻訳
ヴィドゥラは巡礼の途中、プラバーサで肉体を去った。主クリシュナに思いを没頭させていたため、ピトゥリローカ惑星の住人たちに迎えられ、自分本来の立場に戻った。
解説
パーンダヴァ兄弟とヴィドゥラの違いは、パーンダヴァ兄弟たちは主、人格神の永遠の交流者であり、ヴィドゥラはピトゥリローカ惑星を管理する神々の一人、すなわちヤマラージャだったということです。人間はヤマラージャを恐れています。物質界にいる邪悪な者たちを処罰する唯一の人物だからです。しかし主の献身者は、ヤマラージャを恐れません。献身者にとって、ヤマラージャは心からの献身者ですが、非献身者にとっては恐れの権化です。すでに説明した通り、ヤマラージャはマンドゥーカ・ムニによってシュードラに堕落するよう呪われたため、ヴィドゥラがヤマラージャの化身として誕生したと理解されています。主の永遠の召使いとして献身奉仕を熱心に実行しながら敬虔な人間として生き、その結果、ドリタラーシュトラのような物質的な人間も、彼の教えによって救われました。主への献身奉仕を通して敬虔な行いをすることで、主の蓮華の御足をいつも思い出し、シュードラに誕生したことの汚れた生涯を全て洗い清めることができました。最期に、ピトゥリローカの住人たちに迎えられ、本来の立場に戻りました。神々は主とじかに接することのない交流者ですが、主の直接の献身者は主と個人的にいつも交流しています。主とその交流者たちは、化身となって無数の宇宙のなかに現れ続けます。主はそれを全て覚えていらっしゃいますが、交流者は、主の非常に小さな部分体という立場にいるため忘れてしまいます。あまりにも極小の境地だからこそ、さまざまな出来事を忘れてしまうのです。これは『バガヴァッド・ギーター』(4-5)の言葉と一致しています。