シュリーマド・バーガヴァタム 1.12.11

vidhūya tad ameyātmā
bhagavān dharma-gub vibhuḥ
miṣato daśamāsasya
tatraivāntardadhe hariḥ

訳語

翻訳

その子が見つめるなか、至高人格神、万人の至高の魂、正しき者の保護者、遍在する方、そして時と空間を完全に超越したその方が、突然姿を消した。

解説

赤ん坊のパリークシットが見つめていたその相手は、時や空間に縛られた生命体ではありませんでした。主と個々の生命体には大きな違いがあります。主はこの節で、時や空間に制約されない至高の生命体、と表現されています。生命体は誰であっても時や空間に束縛されています。生命体は主と質的には同じであっても、量的には大きな違いがあるのです。『バガヴァッド・ギーター』では、生命体も至高の生命体も遍在する(yena sarvam idaṃ tatam)と述べられていますが、双方の遍在の在り方には違いがあります。普通の生命体、すなわち魂は限られた自分の肉体の中に遍在しているのですが、至高の生命体はあらゆる空間と時のなかに遍在しています。普通の生命体は、たとえ遍在性を備えていても、自分の影響力を別の普通の生命体に及ぼすことはできません。それでも至高の魂、人格神は、自らの影響力をあらゆる場所、あらゆる時、あらゆる生命体に及ぼすことができます。そして、主は遍在し、時や空間に縛られないお方ですから、赤ん坊のパリークシットがいる母親の子宮の中にさえ現れることができます。主はこの節で、正しき者の保護者、と述べられています。至高主に身を委ねている人は誰でも正しい人物であり、どのような状況にあっても、特別に守られています。主は、正しくない人でも間接的に守っています。自らの外的エネルギーを使って彼らの罪を正しているからです。また主はこの節で、10の方角によって包まれている者、と描写されています。これは、上下含めて10の方角という衣服によって包まれている、ということです。主はどこにでも存在し、どこにでもどこからでも、自分のご意志で現れたり消えたりすることができます。パリークシットの前から姿を消したということは、主がどこか別の場所からそこに現れた、ということではありません。そこに存在し、そこから消えたあとでも、その子の目には見えなくなっただけで主はそこに存在していたのです。光輝く空という物質の覆いは「母なる自然の子宮」とも言え、全生命体の父である主によって皆、その子宮の内に入れられました。主はどこにでも存在し、母なるドゥルガーという物質の子宮の内にさえも存在しており、その姿は、見る資格を持つ者が見ることができるのです。