シュリーマド・バーガヴァタム 1.10.19
節
aśrūyantāśiṣaḥ satyās
tatra tatra dvijeritāḥ
nānurūpānurūpāś ca
nirguṇasya guṇātmanaḥ
tatra tatra dvijeritāḥ
nānurūpānurūpāś ca
nirguṇasya guṇātmanaḥ
訳語
aśrūyanta — 聞かれて; āśiṣaḥ — 恩恵; satyāḥ — 全ての真実; tatra — ここ; tatra — そこ; dvija-īritāḥ — 博識なブラーフマナによって広められた; na — ではない; anurūpa — ふさわしい; anurūpāḥ — 適切で; ca — もまた; nirguṇasya — 絶対者の; guṇa-ātmanaḥ — ひとりの人間として行動している。
翻訳
クリシュナに向けられた恩恵の言葉は、主にふさわしくもあり、またふさわしくもないと、そこかしこから聞こえてきた。それらの恩恵は全て、今人間のひとりとして行動している絶対者のために向けられたものだからである。
解説
そこかしこで、ヴェーダの恩恵の響きが人格神シュリー・クリシュナに向けて発せられていました。その恩恵は主がマハーラージャ・ユディシュティラの人間のいとこ役を演じていたという意味ではふさわしいのですが、同時にふさわしくないとも言えます。なぜなら主は絶対的なお方であり、どんな物質的相対とも関わらないからです。主はニルグナ、つまり物質的な質と全く関わりなく、超越的な質を全て備えているお方です。超越的世界に矛盾するものは一切ありませんが、相対的世界では全てに反対のものが存在します。相対的世界では、白は黒の正反対ですが、超越的世界では白と黒の違いはありません。ですから、博学なブラーフマナたちが主の周りで唱えた恩恵の言葉は、絶対的な人物に関して矛盾があるように見えますが、絶対的な人物に向けられると、矛盾はなくなり、超越的になります。この考えを示す例があります。主シュリー・クリシュナは時に泥棒と表現されることがあります。純粋な献身者の間で、主はマーカナ・チョーラという名前でよく知られています。ヴリンダーヴァナで幼いころ、主は近所の家でバターをよく盗んでは食べていました。以来、主は泥棒として知られるようになりました。しかし、泥棒として知られつつも、泥棒として崇拝されています。一方、俗世界では泥棒は罰せられ、讃えられることもありません。主は絶対人格神ですから、全ては主に適応され、またどれほどの矛盾があっても、主はやはり至高人格神なのです。