シュリーマド・バーガヴァタム 2.5.24

so ’haṅkāra iti prokto
vikurvan samabhūt tridhā
vaikārikas taijasaś ca
tāmasaś ceti yad-bhidā
dravya-śaktiḥ kriyā-śaktir
jñāna-śaktir iti prabho

訳語

翻訳

自己中心的な物質的自我はこのように3つの特質に変換され、徳の様式、激情の様式、無知の様式として知られるようになる。すなわち、これらは物質を発展させる力、物質的な創造の知識、そうした物質的活動を導く知性である。ナーラダよ、あなたにはこのことを理解する能力が備わっている。

解説

 唯物論的自我、すなわち物質と自己を同一化する感覚は、神の存在についての明確な知識が欠けていて、ひどく自己中心的です。物質的な生命体が身の回りのことに制約されて物質存在に束縛され続けるのは、この身勝手な利己主義が原因です。『バガヴァッド・ギーター』の第7章(第24節~27節)では、この利己的な自我についてとてもよく説明されています。至高人格神に関する明確な概念を持っていない自己中心的な非人格主義者たちは、至高人格神は原初の人格のない精神的存在からある特定の使命のために物質的な姿を取るのだと、勝手に結論づけています。自己中心の非人格主義者は、ブラフマ・スートラのようなヴェーダ文典やその他高度な知識の源に非常に関心を持っているように見えますが、至高主に対して誤った概念を持ち続けます。主の人格的様相についてのこの無知は、ただ様々な様式が混在していることを知らないことが原因です。ですから非人格主義の人々は、永遠性と知識と至福とを備えた主の果てしない精神的お姿を思い描くことができません。その理由は『バガヴァッド・ギーター』のような文献を学んでもなお頑固な姿勢を持ち続ける非献身者に対し、主は決してご自身をお見せにはならないからです。彼らが頑固であり続けるのは、主のご自身のエネルギーであるヨーガ・マーヤーが頑固な非人格主義者の視野を覆って副官のようにふるまっているからです。こうして心の迷った人間はムーダ、すなわちひどく無知な者であると述べれています。なぜなら誕生することも変化することもない主の超越的なお姿を理解できないからです。もし主が原初の非人格的な姿から物質的な姿を取るというなら、主は誕生し、人格のない者から人格ある者に変化したということになります。しかし主は変化なさることはありませんし、束縛された魂のように新しい誕生を受け入れることもありません。束縛された魂は、物質世界での制約を伴う存在であるために、何度も誕生を繰り返すのですが、利己的な非人格主義者たちは深い無知のために、ヴェダーンタでいわゆる知識を積んだ後でも、主がそうした利己的な自我の魂のひとつであると受け入れるのです。生きとし生ける者全てのハートに宿る主は、そのような束縛された魂が過去、現在、未来においてどのような傾向を持つのか熟知しておられますが、心の迷った束縛された魂は、まず主の永遠のお姿を知ることができません。そのため、主のご意志によって、非人格主義者は主のブラフマンやパラマートマーの姿を知っても、あらゆる物質創造を超越している不変のナーラーヤナとしての永遠のお姿については知らないままでいるのです。
 そのような深い無知は、物質的な人が不自然に物質的要求を増やし続けていることが原因です。至高人格神を悟るためには、献身奉仕を通して物質的な感覚を浄化しなくてはなりません。徳の様式、すなわちヴェーダで勧められているブラフマーナ文化はそのような精神的な悟りを得る助けとなり、束縛された魂のジュニャーナ・シャクティの段階は他の二つの段階、すなわちドラヴャ・シャクティやクリヤー・シャクティより比較的優れています。物質文明全体は物質の膨大な蓄積、言い換えれば産業目的の原材料によって創造され、産業活動(クリヤー・シャクティ)はどれも、精神的な生活に関して何も知らないがゆえに生じるのです。ドラヴャ・シャクティとクリヤー・シャクティの原則が基盤となっている物質文明の大きな異常を是正するためには、『バガヴァッド・ギーター』(9-27)で以下のように述べられているカルマ・ヨーガの原則を受け入れ、主への献身奉仕の過程を取り入れなければなりません。
yat karoṣi yad aśnāsi
yaj juhoṣi dadāsi yat
yat tapasyasi kaunteya
tat kuruṣva mad-arpaṇam
「クンティーの子よ、何を為し何を食べても、何を捧げ何を手放しても、またいかなる苦行をしても、全ては私への捧げ物とせよ」