シュリーマド・バーガヴァタム 2.9.36

etāvad eva jijñāsyaṁ
tattva-jijñāsunātmanaḥ
anvaya-vyatirekābhyāṁ
yat syāt sarvatra sarvadā

訳語

翻訳

至高なる絶対真理、人格神を探し求める者は、あらゆる状況、そしてあらゆる時空において、直接的にも間接的にも、その目的に達するまで探究し続けなければならない。

解説

 前節で説明されているバクティ・ヨーガの謎を紐解くことは、あらゆる問いの究極の段階、つまり探求者にとっての最高の目的です。誰もがカルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ディヤーナ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガなど、様々な方法で自己の悟りを探し求めています。自己の悟りに従事することは、発達した意識を持つ各生命体の義務です。意識の発達した人は、必ずや自己、宇宙の様相、人生の問題についての謎を、社会、政治、経済、文化、宗教、道徳、またはその他ありとあらゆる領域や分野において探究します。しかしここでは、そうした全ての問いの目的が説明されています。
 『ヴェーダーンタ・スートラ』の哲学は、この人生に関する問いから始まっており、『バーガヴァタム』はこの要点、つまり、全ての問いの神秘に至るまで、あらゆる問いに答えています。主ブラフマーは、人格神から完璧な教えを授かりたいと望み、それに対する主の答えが、aham evaから始まり、この節のetāvad evaで終わる、中核的な4つの節のなかで提示されているのです。これこそがあらゆる自己実現の道の目的です。人々は暗闇でまぶしい光の反射に惑わされているため、人生の究極の目的がヴィシュヌ、すなわち至高人格神であるとは知らず、結果として制御されていない感覚につき動かされ、皆、物質存在の最も暗い領域へと入っていきます。この物質存在は全て感覚満足、特に性欲を元にした欲望から湧き出たのであり、その結果、知識が非常に進歩したにもかかわらず、生命体の全活動の最終目的は感覚を満足させることにしかありません。しかしこの節で、人生の真の目的が示されており、誰もが、バクティ・ヨーガの科学に通じている真正な精神指導者、つまり、バーガヴァタムを実践する人物に問いかけることで、そのことを知るべきです。人々は皆、経典に関するあらゆる種類の探求に従事していますが、『シュリーマド・バーガヴァタム』は自己の悟りを求める様々な生徒たち全てに、答えを提供します。大変な労力や忍耐なくして、人生の究極の目的を探し求めることはできません。そのような誠実な探究心を持つ人は、ブラフマージーから伝わる師弟継承上の真正な精神指導者に問いかけるべきであり、同じような指示がここで述べられています。この神秘は至高人格神からブラフマーに明かされたため、自己の悟りにまつわるそのような問いは全て、主の直接の代表であり、師弟継承に認められている精神指導者に提示されるべきです。そのような真正な精神指導者は啓示経典からの直接的な、そして間接的な証拠を通して全てを解き明かすことができます。自己の悟りに関して、誰でも自由に啓示経典を参考にすることができますが、それでも真正な精神指導者の導きが必要であり、それこそがこの節に述べられている指示なのです。真正な精神指導者は主の最も親密な代表者であり、ブラフマージーが人格神、主クリシュナから指示を直接受けたのと同じ精神で、人々は精神指導者から指示を受け取るべきです。真正な師弟継承上の真正な精神指導者は、個人的に悟った経験を通して主を人々に届けることができるという点において、主よりも偉大なのですが、決して自分が主であると主張することはありません。単に教育や創造性に富んだ脳によって主を見つけることはできませんが、誠実な生徒は、真正な精神指導者という透明な媒体を通して、必ず主を見出すことができます。
 この目的へと私たちを直接導いてくれるのが啓示経典なのですが、迷える生命体は暗闇の眩い反射に目がくらんでしまっているため、啓示経典の真実を見つけ出すことができません。例えば『バガヴァッド・ギーター』では、その全体を通して人格神、主シュリー・クリシュナへと私たちを導いていますが、ブラフマージーや直接の聞き手アルジュナを継承する真正な精神指導者が不足しているため、自分たちの気まぐれを満足させたいだけの、権威者ではない多くの人たちによって、啓示された知識が様々に歪曲されます。『バガヴァッド・ギーター』が、精神界という地平線に燦然と輝く星のひとつとして存在するのは紛れもないことですが、この偉大な知識の書物は非常に歪められて解釈されたため、『バガヴァッド・ギーター』を学ぶ者は今もなお、光を放つ物質的反射の闇に残されたままなのです。こうした者たちが、『バガヴァッド・ギーター』を学ぶことによって、悟りを得ることはほとんどありません。ギーターには『バーガヴァタム』の4つの主要な節で授けられている教えと同じ教えが伝えられているのですが、権威のない人による間違った、流行りに追随した解釈のせいで、人々は究極の結論にたどり着くことができません。『バガヴァッド・ギーター』(18-61)で、このことがはっきりと述べられています。
īśvaraḥ sarva-bhūtānāṁ
hṛd-deśe ’rjuna tiṣṭhati
bhrāmayan sarva-bhūtāni
yantrārūḍhāni māyayā
 主は全ての生命体のハートの中に(パラマートマーとして)存在しており、御自身の外的エネルギーを通して物質世界にいる全ての者たちを支配しています。したがって主こそが至高なる支配者であり、生命体は主によって支配されていることが明記されています。同じ『バガヴァッド・ギーター』(18-65)で、主は次のように指示しています。
man-manā bhava mad-bhakto
mad-yājī māṁ namaskuru
mām evaiṣyasi satyaṁ te
pratijāne priyo ’si me
 『バガヴァッド・ギーター』のこの節から、主が、私たちが神に意識を集中させ、そして主の献身者、主の崇拝者になるべきであり、主クリシュナに全ての尊敬を捧げるべきだと指示していることがはっきりとわかります。そうすることによって、献身者は間違いなくふるさとへ、神の元へと帰ることができるのです。
 人間社会におけるヴェーダ式の社会構造は、全員が主の完全なる身体の一部として活動するように作られていると、示唆されています。知的階級、すなわちブラーフマナは主の顔に、軍人階級、クシャトリヤは主の腕に、生産者階級、ヴァイシャは主の腰周りに、そして労働者階級、シュードラは主の脚に位置しています。したがって、社会的構造の全体が主の体であり、体の各部分全て、つまりブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラたちは皆が協力して主の体に仕えるべきです。そうでなければ、各部分は一体性の至高なる意識と調和して動くことができなくなります。社会に属する人々と共に調和を保って至高人格神に奉仕することによって、普遍的な意識を実際に達成することができ、そしてそうすることによってのみ、社会全体の完成が確かなものとなるのです。 ですから偉大な科学者、偉大な哲学者、偉大な思索家、偉大な政治家、偉大な事業家、偉大な変革者たちでさえも、物質世界の不安な社会に何の救済をも、もたらす事はできません。なぜなら彼らは、この『バーガヴァタム』の節に述べられている成功の秘密を知らないからです。つまり誰もがバクティ・ヨーガの神秘を知らなくてはならないのです。『バガヴァッド・ギーター』(7-15)にも次のように述べられています:
na māṁ duṣkṛtino mūḍhāḥ
prapadyante narādhamāḥ
māyayāpahṛta-jñānā
āsuraṁ bhāvam āśritāḥ
人間社会のいわゆる偉大な指導者たちは、バクティ・ヨーガの素晴らしい知識について何も知らず、主の外的エネルギーに惑わされながら常に感覚満足を目的とする下品な行為を行っているため、至高人格神の優越性に対してかたくなに抗います。また彼らは愚かで不道徳、人間の最底の類いであるため、主に身を委ねることなど決してありません。そのような信念のない不信者は、物質的な観点からすると高学歴ではあるかもしれませんが、実際には世界最大の愚か者です。なぜなら外的な物質自然の影響によって、彼らのいわゆる知識の習得は何の効果も持たないからです。ですから現在では、学問の進歩が感覚満足のために争い合う猫や犬のような人間に誤用されており、科学、哲学、美術、国家主義、経済発展、宗教、その他偉大な活動におけるあらゆる知識の習得が、死体を飾る衣服として利用されることで、台無しになっているのです。死体が入った棺桶を覆うために使われる布には、無知な大衆から偽りの歓声をもらう他に何の役にも立ちません。ですから、バクティ・ヨーガの段階に達しない限り、人間社会のあらゆる活動は完全なる失敗でしかないのだと、『シュリーマド・バーガヴァタム』は繰り返し述べています。
parābhavas tāvad abodha-jāto
yāvan na jijñāsata ātma-tattvam
yāvat kriyās tāvad idaṁ mano vai
karmātmakaṁ yena śarīra-bandhaḥ
(バーガヴァタム 5.5.5)
自己の悟りを探求することに対して盲目である限り、物質的な活動がどれほど素晴らしいものであっても、それは様々な種類の失敗に過ぎません。なぜなら人間生活の目的は、そのような必要のない、無利益な活動によって、達成されることはないからです。人間の体がもつ役割は、物質的な束縛からの自由を達成することにあるのですが、物質的な活動に完全に没頭している限り、人の心は物質の渦に巻き込まれ、何度も何度も物質的な肉体に囚われ続けます。
evaṁ manaḥ karma-vaśaṁ prayuṅkte
avidyayātmany upadhīyamāne
prītir na yāvan mayi vāsudeve
na mucyate deha-yogena tāvat
(バーガヴァタム 5-5-6)
苦しむことが避けられない、あらゆる種類の体を作り出すのはその人の心です。そのため心が果報的な活動に没頭している限り、心は無知に没頭していると理解することができ、神であり至高なるお方、ヴァースデーヴァへの超越的な愛を育むまで、その人は異なる体で何度も何度も物質的な束縛にさらされることになるのです。至高なるお方、ヴァースデーヴァの超越的な御名、質、姿、活動に没頭するという事は、心の傾向を物質から絶対的な知識に変えることを意味します。絶対的な知識は、人を絶対的な悟りの道へと導き、それによって、人は物質的な接触から、また様々な肉体における囚われの身から自由になることができるのです。
ですからシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブパーダは、sarvatra sarvadāという言葉を、バクティ・ヨーガ、すなわち主への献身奉仕の原則はあらゆる状況において相応しいという意味で解説しています。すなわちバクティ・ヨーガは全ての啓示経典で勧められており、あらゆる権威によって実践され、あらゆる場所で重要であり、あらゆる原因と結果において有益であると言えます。あらゆる啓示経典という点に関して、彼は『スカンダ・プラーナ』からブラフマーとナーラダについての主題を、次のように引用しています。
saṁsāre ’smin mahā-ghore
janma-mṛtyu-samākule
pūjanaṁ vāsudevasya
tārakaṁ vādibhiḥ smṛtam
闇と危険に満ち溢れ、生と死が伴い、様々な苦悩で溢れているこの物質世界において、この強力な束縛から抜け出す唯一の方法は、主ヴァースデーヴァへの愛情ある超越的な献身奉仕を受け入れることです。これはあらゆる分野の哲学者によって認められています。
シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは、『パドマ・プラーナ』、『スカンダ・プラーナ』、『リンガ・プラーナ』の三つのプラーナに挙げられている、別の有名な以下の一節も引用しています。
āloḍya sarva-śāstrāni
vicārya ca punaḥ punaḥ
idam ekaṁ suniṣpannaṁ
dhyeyo nārāyaṇaḥ sadā
「全ての啓示経典を綿密に調べ、何度も精査した結果、主ナーラーヤナが至高なる絶対真理であるという結論に至った。ゆえに、主のみが崇拝されるべきである。」
同様の真実が『ガルダ・プラーナ』でも間接的に述べられています。
parāṁ gato ’pi vedānāṁ
sarva-śāstrārtha-vedy api
yo na sarveśvare bhaktas
taṁ vidyāt puruṣādhamam
「たとえ全ヴェーダの隅々まで学んだとしても、あらゆる啓示経典に精通していたとしても、至高主の献身者でなければ、その人は人類のなかでも最低の者だと考えられるべきである」そして 同様に、『シュリーマド・バーガヴァタム』(5-18-12)でも間接的にこう述べられています。
yasyāsti bhaktir bhagavaty akiñcanā
sarvair guṇais tatra samāsate surāḥ
harāv abhaktasya kuto mahad-guṇā
mano-rathenāsati dhāvato bahiḥ
至高人格神に揺るぎない信念を持っている者は、神々の良い質を全て備えているに違いありません。一方で、主の献身者でない人は思索の暗闇を彷徨い、物質的な無常性に従事しているに違いありません。『シュリーマド・バーガヴァタム』(11-11-18)は次のように述べています。
śabda-brahmaṇi niṣṇāto
na niṣṇāyāt pare yadi
śramas tasya śrama-phalo
hy adhenum iva rakṣataḥ
「ヴェーダのあらゆる超越的な文献に精通していても、至高なるお方を知ることができなければ、その人の教育は全て、動物が背負う積み荷、また乳の出ない牛を飼っているのと同じだと結論づけられるべきである」
同様に、主への超越的な愛情奉仕を行う自由は、女性、シュードラ、森の部族、また罪深い状況に生まれたその他の生命体を含む、全ての者に与えられています。
te vai vidanty atitaranti ca deva-māyāṁ
strī-śūdra-hūṇa-śabarā api pāpa-jīvāḥ
yady adbhuta-krama-parāyaṇa-śīlaśikṣās
tiryag-janā api kimu śruta-dhāraṇā ye
(バーガヴァタム 2-7-46)
最も低級な人間であっても、主への超越的な愛情奉仕に精通している神聖な精神指導者のもとで修練すれば、献身生活の最も高い段階まで向上することができます。最も低級な者がそれほど向上できるのであれば、ヴェーダの知識に精通している人はいうまでもありません。結論として言えることは、誰であろうと、全ての人が主への献身奉仕に従事できるということです。それが、どんな人達であっても奉仕を行うことができるということを証明するものなのです。
 このように、真正な精神指導者のもとでの修練を通して得た、完璧な知識を伴う主への献身奉仕は、たとえ人間でなくても、全ての生き物に勧められています。このことは『ガルダ・プラーナ』で次のように証明されています。
kīṭa-pakṣi-mṛgāṇāṁ ca
harau sannyasta-cetasām
ūrdhvām eva gatiṁ manye
kiṁ punar jñānināṁ nṛṇām
 「虫も、鳥も、獣も、主への超越的な愛情奉仕に完全に身を委ねていれば、その一生を最高の完成へと向上できることが保証されている。ならば人類のなかでも哲学者たちについては、疑いようのないことであろう」
 ですから、主への献身奉仕を行う資格のある候補者を見つけ出す必要はありません。行犠が良かろうが悪かろうが、学識があろうが愚か者であろうが、非常な執着を持っていようが人生の放棄階級にいようが、解放された魂であろうが救いを求める者であろうが、献身奉仕において未熟であろうが熟達していようが、全員が正しい導きのもとで献身奉仕を行うことで、至高なる立場へと高められるのです。このことは『バガヴァッド・ギーター』(9.30、32)でも次のように明言されています。
api cet sudurācāro
bhajate mām ananya-bhāk
sādhur eva sa mantavyaḥ
samyag vyavasito hi saḥ
māṁ hi pārtha vyapāśritya
ye ’pi syuḥ pāpa-yonayaḥ
striyo vaiśyās tathā śūdrās
te ’pi yānti parāṁ gatim
 たとえあらゆる罪悪に耽っていたとしても、正しい導きのもと、主への超越的な愛情奉仕に従事しているなら、その人は最も完璧な聖者だと見なされるべきです。ですから、たとえ堕落した女性であろうと、知識の乏しい労働者であろうと、凡庸な商人であろうと、またこの人たちよりもさらに低級な者であろうと、つまりどのような人であったとしても、真剣に主の蓮華の御足に保護を求めれば、ふるさとへ、神のもとへと戻り、人生の最高の完成を達成することができるのです。この誠実な熱意こそ、人を人生における最高の完成の段階へと導くことができる唯一の資格なのです。そしてそのような真の熱意が目覚めない限りは、物質的な観念である、浄と不浄、あるいは博識と無知の間の違いが存在し続けるのです。火は常に火であり、その事を認識していようがしていまいが、ある人が火に触れると、火は同じように作用します。つまり原則は harir harati pāpāni duṣṭa-cittair api smṛtaḥ 太陽がその強力な光線で、あらゆる汚れを殺菌できるのと同じように、全能の主は、献身者のあらゆる罪悪の反動を浄化することができます。「物質的な快楽への魅力は、主への純粋な献身者に働きかけることはできない」。啓示経典には数百ないし数千もの格言が存在します。 Ātmārāmāś ca munayaḥ 「自己を悟った魂でさえも、主への超越的な愛情奉仕に魅了される」。Kecit kevalayā bhaktyā vāsudeva-parāyaṇāḥ 「ただ聞いて唱えるだけで、主ヴァースデーヴァの偉大な献身者になることができる」。 Na calati bhagavat-padāravindāl lavanimiṣārdham api sa vaiṣṇavāgryaḥ 「一瞬たりとも主の蓮華の御足から離れることのない者は、全てのヴァイシュナヴァの中で最も偉大な者と見なされる」。 Bhagavat-pārṣadatāṁ prāpte mat-sevayā pratītaṁ te 「純粋な献身者は人格神と交際できることを確信しているため、常に主への超越的な愛情奉仕を行っている」。ですから全ての大陸、全ての惑星、全ての宇宙において、主への献身奉仕、すなわちバクティ・ヨーガが受け入れられており、それこそが『シュリーマド・バーガヴァタム』や同類の経典が述べるところなのです。「どこでも」とは、主の創造の全体を意味します。全ての感覚を使って、または心だけでも主に仕えることができます。南インドのあるブラーフマナは、心の力だけで主に仕えましたが、彼もまた主を実際に悟ることができました。感覚のいずれか一つでも献身奉仕に完全に従事させた献身者には、成功が保証されています。宇宙のどこにでもあり、そしてお金のかからない、花、葉、果物や少しの水という最もありふれたものでさえ、それらを捧げることで主に仕えることができます。そのため主は宇宙のどこでも、そこに住む生命体の奉仕を受けていらっしゃいます。ただ聞くだけでも、あるいは主の活動を唱えたり読んだりするだけでも、また主を愛したり、主を受け入れるだけでも、主に仕えることができます。
 『バガヴァッド・ギーター』では、何に従事しているかは関係なく、自身の労働の結果を捧げることで主に仕えることができると述べられています。人々はよく、自分たちのしていることは神がひらめきを与えてくれたものだと言いますが、それだけでは十分ではありません。実際に神の召使いとして神のために活動しなくてはならないのです。『バガヴァッド・ギーター』(9-27)で主はこう述べていらっしゃいます。
yat karoṣi yad aśnāsi
yaj juhoṣi dadāsi yat
yat tapasyasi kaunteya
tat kuruṣva mad-arpaṇam
 自分の好きなこと、あるいは容易にできることを行い、食べたい物を食べ、捧げられる物は何でも捧げ、寄付できる物を寄付し、どんな苦行を行ってもいいのですが、全ては主のためだけに行われるべきです。商売をしたり、何らかの仕事を受け入れるのも、主のために行ってください。何を食べるにしても、それを主に捧げてください。そして主は御自身が召し上がった後にその食べ物を返してくださることを確信してください。主は完全な存在であるため、献身者によって捧げられた食事を彼の愛情が込められているがゆえに受け入れて召し上がりますが、献身者が食べて幸せになれるようにと、それは再び彼にプラサーダとして戻ってくるのです。すなわち神の召使いになり、その意識をもって平和に暮らし、最終的にふるさと、神の元に帰ればいいのです。
 『スカンダ・プラーナ』では次のように述べられています。
yasya smṛtyā ca nāmoktyā
tapo-yajña-kriyādiṣu
nūnaṁ sampūrṇatām eti
sadyo vande tam acyutam
 「私は完全無欠なお方である主に尊敬の礼を捧げる。なぜなら主を思い出したり、主の聖なる御名を発するだけで、あらゆる苦行、供犠、または果報的な活動における完成を達成することができるからである。そしてこの方法は誰でも従うことができる。」次のようにも命じられています。(『バーガヴァタム』2-3-10)
akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
 「欲望に満ちていようと、あるいは欲望がなくとも、誰もが完全なる完成のための完璧なバクティ・ヨガの道に従え」。神々と女神の源は人格神であるため、わざわざ一人一人をなだめようとする必要はありません。木の根に水をあげることで全ての枝と葉に仕え、生気を与えるように、至高主に仕えることで、余計な努力をしなくても全ての神々と女神に仕えることになるのです。主は遍く満ちているため、主への奉仕も遍く満ちています。この事実は『スカンダ・プラーナ』で次のように記されています。
arcite deva-deveśe
śaṅkha-cakra-gadā-dhare
arcitāḥ sarva-devāḥ syur
yataḥ sarva-gato hariḥ
 ほら貝、円盤、棍棒、蓮華の花を手に持つ人格神、至高主が崇拝されると、他の全ての神々も自ずと崇拝されることとなります。なぜなら人格神ハリは遍く満ちていらっしゃるからです。ですから、主格、対格、具格、与格、奪格、所有格、処格という全ての場合において、誰もが主への超越的な愛の奉仕を行うことによって、恩恵を受けるのです。主を崇拝する者、崇拝を受けている主御自身、主が崇拝されている理由、崇拝をするために必要なものの源、そのような崇拝が行われている場所など、全てがこうした活動によって恩恵を得るのです。
 物質世界が破壊される時にも、バクティ・ヨーガの過程を適用することができます。Kālena naṣṭā pralaye vāṇīyam「主は、破壊の時でさえ、ヴェーダを破壊から守ってくださることから、破壊の時においても主は崇拝されるべきお方なのである」。主は各創造期、ユガで崇拝されています。『シュリーマド・バーガヴァタム』(12-3-52)ではこのように述べられています。
kṛte yad dhyāyato viṣṇuṁ
tretāyāṁ yajato makhaiḥ
dvāpare paricaryāyāṁ
kalau tad dhari-kīrtanāt
『ヴィシュヌ・プラーナ』には、次のように書かれています:
sa hānis tan mahac chidraṁ
sa mohaḥ sa ca vibhramaḥ
yan-muhūrtaṁ kṣaṇaṁ vāpi
vāsudevaṁ na cintayet
 「至高人格神、ヴァースデーヴァについての記憶が一瞬でも失われれば、それは最大の損失であり、最大の幻想であり、そしてまた最大の逸脱である」。主を崇拝することは、人生のどの段階においても可能です。例えば、マハーラージャ・プラフラーダとマハーラージャ・パリークシットは母親の胎内で主を崇拝し、ドゥルヴァ・マハーラージャはわずか5歳という幼少の頃に主を崇拝し、またマハーラージャ・アンバリーシャは若い頃に、そしてマハーラージャ・ドリタラーシュトラは、失望と老いの最期の時に主を崇拝しました。アジャミーラは死ぬ間際にも主を崇拝し、チトラケトゥは天国でも地獄でも主を崇拝しました。『ナラシンハ・プラーナ』には、地獄の住人たちが主の聖なる御名を唱え始めると、彼らは地獄から天国に向かって昇り始めた、とあります。ドゥルヴァーサー・ムニもこの見解に賛同しています。mucyeta yan-nāmny udite nārako ’pi. 「ただ主の聖なる御名を唱えるだけで、地獄の住人たちは地獄の迫害から解放された」。したがって、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがマハーラージャ・パリークシットに与えた『シュリーマド・バーガヴァタム』の結論は、次のようなものです。
etan nirvidyamānānām
icchatām akuto-bhayam
yogināṁ nṛpa nirṇītaṁ
harer nāmānukīrtanam
 「王よ、全ての人々、すなわち放棄階級の人たち、神秘主義者、果報的な活動を楽しむ者は皆、自らの活動において望ましい成功を達成するため、恐れを持たずに主の聖なる御名を唱えるべきだというのが、最終的な決定なのです。」(バーガヴァタム 2-1-11)
同様に、啓示経典の様々な箇所で、次のことが示唆されています。
1. たとえあらゆるヴェーダや経典に精通していたとしても、人格神、至高主の献身者でなければ、人間の最下級の者であるとみなされる。
2. 『ガルダ・プラーナ』、『ブリハン・ナーラディーヤ・プラーナ』、『パドマ・プラーナ』には同じことが繰り返されています:主への献身奉仕を行わない者にとって、ヴェーダの知識や苦行に何の意味があるだろうか?
3. 数千人のプラジャーパティをもってしても、主の献身者一人とは比べものにもならない。
4. シュカデーヴァ・ゴースヴァミ は、苦行者であっても、どんなに気前が良くても、有名であっても、偉大な哲学者であっても、偉大な超自然主義者であっても、主への奉仕を行っていない者は誰も、望む結果を得ることはできないと述べている。(Bhāg. 2.4.17)
5. ある場所が天国よりすばらしくても、そこでヴァイクンタの主や主の純粋な献身者の栄光が称えられていないならば、すぐにその場を去るべきである。
6. 純粋な献身者は主への奉仕に就くため、解脱の5種類全てを拒絶する。
 したがって、最終的な結論は、主の栄光はいつも、そしてどこでも褒め称えられるべきだということです。人はいつも主の栄光について聞き、主の栄光を唱え、主の栄光を思い出すべきです。なぜならそれこそが人生の最高の完成段階だからです。果報的活動に関しては、快楽を得る肉体に限られ、ヨーガに関しては、神秘的な力の達成に限られ、推論哲学に関しては超越的な知識の達成に限られ、超越的な知識に関しては救いを得ることに限られています。これらの方法を取り入れたとしても、一定の修養を実践する際に矛盾が生じる可能性は常にあります。しかし主への超越的な献身奉仕の実践には何の限界もなく、堕落する恐れもありません。その過程は主の恩恵によって、必ず最終段階まで到達します。献身奉仕の初期の段階では知識が必要とされるのは確かですが、より高い段階ではそのような知識を必要とはしません。ですから、進歩における最高の、そして確実な道はバクティ・ヨーガ、純粋な献身奉仕なのです。
 非人格主義者たちは自分たちに有利な解釈のため、上記の4つのシュローカに込められたシュリーマド・バーガヴァタムの神髄を故意に利用することがあります。しかしここで注目したいのが、この4つのシュローカはまず、人格神ご自身によって説明されたという点です。非人格主義者は人格神の概念を持たないため、これらの節に足を踏み入れることなどできません。そのため、非人格主義者がこれらの節からどんな解説を引き出そうとも、続く節で明らかになるように、ブラフマーから続く師弟継承で教えを受けた者たちは決してそれらの解説を受け入れません。さらにシュルティでは、至高真理である絶対人格神は、自身の学術的な知識に誤って思い上がっている者に対して、決してご自身を明かさないと確証しています。シュルティ・マントラは、次のように明言しています(『カタ・ウパニシャッド』1-2-23):
nāyam ātmā pravacanena labhyo
na medhayā na bahudhā śrutena
yam evaiṣa vṛṇute tena labhyas
tasyaiṣa ātmā vivṛṇute tanuṁ svām
 これに関することは全て主ご自身によって説明され、人格的な様相の主に近づくことができない人が、師弟継承上のバーガヴァタたちから教えを授からずに『シュリーマド・バーガヴァタム』の解説を理解することは、皆無に等しいのです。