シュリーマド・バーガヴァタム 2.4.17
節
tapasvino dāna-parā yaśasvino
manasvino mantra-vidaḥ sumaṅgalāḥ
kṣemaṁ na vindanti vinā yad-arpaṇaṁ
tasmai subhadra-śravase namo namaḥ
manasvino mantra-vidaḥ sumaṅgalāḥ
kṣemaṁ na vindanti vinā yad-arpaṇaṁ
tasmai subhadra-śravase namo namaḥ
訳語
tapasvinaḥ — 学識ある偉大な聖者; dāna-parāḥ — 盛大に慈善を施す者; yaśasvinaḥ — 栄誉ある偉大な働き手; manasvinaḥ — 偉大な哲学者や神秘家; mantra-vidaḥ — 偉大なヴェーダ賛歌の朗唱家; su-maṅgalāḥ — ヴェーダの原則に厳格に従う者; kṣemam — 実りある結果; na — 決して~ない; vindanti — 達成する; vinā — ~なしで; yat-arpaṇam — 献身; tasmai — 主に; subhadra — 吉兆な; śravase — 主について聴く; namaḥ — 私の礼; namaḥ — 幾度も.
翻訳
吉兆なる主シュリー・クリシュナに、何度も尊敬の礼を捧げます。偉大な学ある聖者も、盛大に慈善を行う者も、栄誉ある偉大な働き手も、偉大な哲学者や神秘家も、ヴェーダ賛歌の偉大な朗唱家も、ヴェーダの原則に厳格に従う者であっても、 このような偉大な質を使って主への献身奉仕に従事しなければ、実りある結果に到達することはできません。
解説
学問の発達、慈悲深い気質、人間社会における政治的、社会的、宗教的指導力、哲学的思索、ヨーガ体系の実践、ヴェーダ儀式の専門的知識といった人間のもつ高い質はどれも、それが主への奉仕に使われたときにはじめて、完成に到達する助けとなります。献身奉仕に結びつけなければ、これらの特質は人々の災いの元となるのが常です。全ての物事は、自身の感覚を満足させるためか、あるいは自分以外の誰かへ奉仕することに利用することができます。利己心には、個人的な利己心と拡大した利己心の2種類があります。しかし個人的な利己心と、拡張した利己心には質的な違いがありません。自分の利害のためにする盗みも、家族の利害のためにする盗みも質的には同じ、すなわち犯罪です。盗人が自分の利害のために盗んだのではなく、組織のため、国のためにやったのだと無罪を主張しても、どの国の法律でも決して許されることはありません。生命体の利己心はそれが主の望みと一致した時にしか完成に到達しないということを、一般の人々は知りません。例えば、体と魂をともに維持することの重要性とは何でしょうか。人は体(個人または社会)を維持するためにお金を稼ぎますが、神の意識がないかぎり、神との関係を悟るためにきちんと体が維持されていないかぎり、体と魂を共に維持するためにあらゆる良い努力を重ねても、それは動物の試みと変わりません。人間の体を維持する目的は、動物の目的とは違います。同様に、学問を進めること、経済発展、哲学的研究、ヴェーダ文献の学習、あるいは敬虔な行い(慈善事業、病院の開設、穀物の配給など)は、主との関係において行われるべきなのです。そのようなあらゆる行動や努力は主を喜ばすために行われるべきであり、いかなる個人や共同体の満足(サンシッディル・ハリ・トーシャナム)のためであってはなりません。『バガヴァッド・ギーター』(9-27)で同じ原則が確証されており、いかなる慈善も苦行も主に差し出すか、あるいは主のために行わなくてはならない、と書かれています。神を信じない人間文明を巧みに操る指導者たちは神の意識にないかぎり、教育促進や経済発展のために行われた種々全ての試みの結果を得るこなどできません。そして神の意識になるためには、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』のような文献の中で述べられている、全てにおいて吉兆な主について耳を傾けなくてはならないのです。