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第9章
献身奉仕の原則 (2)
侮辱
主や主の献身者に対する侮辱を許してはなりません。このことに関して、「親愛なる王よ、もし主に関する侮辱や主の献身者についての雑言を聞いてもその場から立ち去らない者は、蓄えてきた全ての敬虔な活動の結果を失ってしまう」とシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはマハーラージャ・パリークシットに『シュリーマド・バーガヴァタム』第10編74章40節で語っています。
主チャイタニヤの『シクシャーシュタカ』の祈りの中には、「献身者は木よりも忍耐強く、草よりも服従的でなければならない。人に対してあらゆる尊敬を捧げ、自分に対してはいかなる名誉も受け入れてはならない」という教えがあります。主チャイタニヤは献身者として、非常に謙虚で柔和な態度をお持ちでいらっしゃいましたが、シュリー・ニテャーナンダの御体が傷つけられたことをお知りになるやいなや、その場に駆けつけ、シュリー・ニチャーナンダを侮辱した男たち、ジャガーイとマーダーイを殺そうとされました。主チャイタニヤがこのような振る舞いをされたことは、非常に重要な意義があります。献身者は、自分自身の名誉については全く気にもせず、忍耐強く柔和な態度を持ち続けます。しかしクリシュナやクリシュナの献身者に対する名誉に関しては、献身者はどのような侮辱も全く許しません。主チャイタニヤのこの出来事はそのことを示しています。
そのような侮辱に対処するには3つの方法があります。侮辱を聞いたときには、献身者は、巧みに議論を進めて相手を論破すべきです。もしそれができないなら次に取るべき処置は、その場におとなしく立っているのではなく、自らの命を捨てることです。このふたつの対処ができない人にとっての第三の方法は、その場所を速やかに立ち去ることです。この3つの対処の方法に従わない献身者は、献身奉仕の段階から堕落します。
ティラカとトゥラシーのビーズ
「トゥラシーの数珠を首に掛け、自分の体をヴィシュヌ寺院とみなしてヴィシュヌを表す象徴(主ヴィシュヌが4本の腕にそれぞれ持つもの ― ほら貝、棍棒、チャクラ、蓮華の花)を体の12の場所に描き、額をヴィシュヌ・ティラカで飾る人は、この世界の中の主ヴィシュヌの献身者であるとされている。そのような人々が存在することにより世界は浄化され、そして彼らがいるところは全てヴァイクンタと同じである」と『パドマ・プラーナ』に記述されていて、ヴァイシュナヴァが数珠とティラカで体を飾るべきであることが示されています。
『スカンダ・プラーナ』でも、「ティラカすなわちゴーピーチャンダナ(ヴリンダーヴァナの特定の地域で産出される一種の粘土)で身体を飾り、全身に主の聖なる御名を書き、首と胸にトゥラシーの数珠を掛けている人に、ヤマドゥータたちは決して近づかない」とされています。ヤマドゥータとはヤマ王(死の支配者)のもとで働く治安官のことで、彼らは全ての罪人を罰します。ヴァイシュナヴァがそのような治安官に呼ばれることはありません。『シュリーマド・バーガヴァタム』の中のアジャーミラ救済の場面では、ヤマラージャが自分の手下の者たちにヴァイシュナヴァには決して近づかないようにはっきりと指示していることが記述されています。ヴァイシュナヴァは、ヤマラージャの刑罰の管轄外にいるのです。
また『パドマ・プラーナ』には、「白檀で身体を飾り、体に主の聖なる御名を書く人は、全ての罪の報いから救われる。そして死後そのような人は直接クリシュナローカに行き、バガヴァーンとの交際の中で生活する」という記述が見られます。
花輪を受け取る
次に、神像に捧げられた花輪を身につけるべきであるという項目が挙げられています。これに関して、「親愛なるクリシュナよ、花輪、衣装や装飾品や神聖な物など、私は御身がお楽しみになった後の残りをいつも受け入れて参りました。私は御身の永遠の召使ですので、私は御身の食べ残しだけしか食べません。ですので、私が外的エネルギーの魔力に襲われることはないと確信しております」とウッダヴァはクリシュナに『シュリーマド・バーガヴァタム』第11編6章46節で語っています。ゴーピーチャンダナのティラカや白檀で体を飾るという規定原則に従い、クリシュナに捧げられた花輪を身に着ける人にとって、物質エネルギーの魔力に征服されるということはありません。この節はそのことを語っています。そのような人が、死のときにヤマラージャの手下の者たちに呼び出されることは決してありません。たとえヴァイシュナヴァの原則を全て受け入れることができなくても、クリシュナに捧げた後の食物つまりクリシュナ・プラサーダを食べるなら、徐々にヴァイシュナヴァの段階に昇っていく資格を得ることができます。
また「親愛なるナーラダよ、クリシュナがすでにお使いになった花輪を首に掛ける人は全ての病を癒し、あらゆる罪の報いから自由になる。そしてしだいに物質の汚れから解放されるようになるのだ」と『スカンダ・プラーナ』でも主ブラフマーがナーラダに語っています。
神像の前で踊る
主クリシュナは、「喜びに満ちて私の前で踊り、深い献身的な恍惚を感じ、その恍惚を身体で表現する人は、何千年もの間蓄えてきた罪の報いを全て焼き尽くすことができる」と『ドヴァーラカー・マーハートミャ』で神像の前で踊ることの重要性をお説きになっていらっしゃいます。また『ドヴァーラカー・マーハートミャ』の中では、ナーラダ・ムニが「神像の前で恍惚の兆候を現し、手を叩きながら踊る人の体からは、罪の報いの烏は全て飛び立つ」と語っています。手を叩くと、多くの烏が飛び去ります。それと同じように、ただクリシュナの神像の前で踊り、手を叩くだけで、体に止まっている全ての罪の鳥を追い払うことができるのです。
神像に敬意を表して礼を捧げる
神像に尊敬の礼を捧げることに関して、「主に尊敬の礼を捧げて敬意を示した人が大きな供犠を行った人と同等の立場にあると考えてはならない」という記述が『ナーラディーヤ・プラーナ』に見られます。偉大な供犠を数多く行ってきた人は、その敬虔な活動の結果を手に入れることができます。しかしそのような結果が全て費やされたとき、大きな供犠を行った人は再び地球に降りて来なければなりません。一方、神像の前で一度でも尊敬の礼を捧げた人は直接クリシュナの住居に行くので、この世界に戻ってくることは決してありません。
主を迎えるために起立する
「主のラタヤートラーの山車の祭を見たとき、主を迎えるために起立する人は、罪の報いを自分の体から完全に追い払うことができる」と『ブラフマーンダ・プラーナ』に記されています。
神像のあとに従って歩く
『バヴィシュヤ・プラーナ』にも、「低い家系に生まれた者であっても、ラタヤートラーの祭りで神像が通るとき、その後ろに従って歩けば、疑いなくヴィシュヌと同じ富を達成する地位に昇る」という記述が見られます。
ヴィシュヌの寺院に参拝する、巡礼の地を訪れる
「栄あれ。ヴリンダーヴァナ、マトゥラー、ドヴァーラカーなどの聖地を巡る旅人は讃えられる。そのような巡礼によって、彼らは物質存在の砂漠を越えて行く」という記述がプラーナの中に見られます。
『ハリ・バクティ・スドーダヤ』には主クリシュナの寺院を訪れることの恩恵が記されています。以前に述べたようにヴリンダーヴァナ、マトゥラー、ドヴァーラカーなどの聖地では、全ての献身者がさまざまな寺院を訪れることになっています。「クリシュナ意識の純粋な献身奉仕として、寺院の中のヴィシュヌの神像を見に行く人は、再び胎内に閉じ込められることは決してない」と『ハリ・バクティ・スドーダヤ』に述べられています。束縛された魂は誕生するときに、胎児として胎内でどのように苦しんだかを忘れてしまいます。忘れてしまったとしても、それは苦痛に満ちた恐ろしい体験なのです。献身的な意識を持ってヴィシュヌ寺院を訪れることが、そのような物質の束縛から逃れる方法としてここで薦められています。このようにすれば物質界に再び誕生するという悲惨な状態からたやすく解放されるのです。
ヴィシュヌ寺院の周囲を回る
「ヴィシュヌの神像の周りを回ることによって、人は物質界の中での生と死の繰り返しを回り続けることから解放される」と『ハリ・バクティ・スドーダヤ』に記されています。束縛された魂は、物質界の中で生きているために、生と死の繰り返しの輪を何度も巡り続けなければなりません。しかし寺院の中で神像の周りをただ回ることによって、私たちは生と死の繰り返しを打ち消すことができるのです。
チャートゥルマースャの儀式はシュラーヴァナに始まるインドの雨期の4ヶ月間(およそ7月、8月、9月、10月)に行われます。クリシュナ意識を広めるためにさまざまな地を旅する聖者たちは、数ある巡礼の聖地のいずれか1つにこの4ヶ月の間留まります。この期間には、厳格に守るべきさまざまな規定原則が定められています。『スカンダ・プラーナ』には、この期間中にヴィシュヌ寺院の周囲を少なくとも4周回る人は全宇宙を旅したことになる、と記述されています。そのようにしてヴィシュヌの寺院の周囲を回ることによってガンジス川の水が流れている全ての聖地を訪れたことになるとされています。またチャートゥルマースャの規定原則に従うことによって献身奉仕の段階に速やかに昇ることができるようになります。
アルチャナー
アルチャナーとは寺院中の神像を崇拝することです。このアルチャナーを行うことによって、自分が体ではなく魂であることを確信できるようになります。『シュリーマド・バーガヴァタム』第10編81章19節で、クリシュナの親友スダーマーがブラーフマナの家に行く途中、「天界の富、解放、宇宙中の全惑星の中で最も素晴らしい位置、この物質界にある全ての富や、ヨーガを行って得られる神秘力も、ただクリシュナを崇拝するだけで手に入るのです」と独り言を言ったことが記述されています。
シュリー・クリシュナは、親友のスダーマーに、大きな供犠を行っているブラーフマナの家に行って何か食べ物をもらってくるようにおっしゃいました。クリシュナとバララーマがとてもお腹が減っているので食物を下さい、とブラーフマナたちにお願いしてくるようにシュリー・クリシュナはスダーマーに言われたのでした。スダーマーがブラーフマナたちのところに行くと、ブラーフマナたちは食物を施すことを拒否しました。しかし彼らの妻たちは、クリシュナが食べ物を欲しがっていらっしゃるのを知ると、すぐに御馳走をたくさん盛って、クリシュナのところに行きました。このような背景のもとで、スダーマーは、その独り言を語ったのでした。「この世界でヴィシュヌの崇拝を行う全ての人は、ヴァイクンタと呼ばれる常に至福に満ちた神の王国にいともたやすく達することができる」と『ヴィシュヌ・ラハスャ』の中に記述されています。
主に奉仕を捧げる
「侍従が王に捧げるような豪華な奉仕を、人々が主に捧げられるように配慮する人は、死後疑いなくクリシュナの王国に昇ることができる」と『ヴィシュヌ・ラハスャ』に記されています。インドの寺院には、まるで宮殿のように豪華なものもあります。宮殿の中で王が崇拝されるのと同じように、クリシュナは寺院の中で豪華に崇拝されています。ですから、寺院は普通の建物ではありません。ヴリンダーヴァナには何百もの寺院があり、神像がまるで王のように崇拝されています。「わずか一瞬でも主の寺院に入る人は、神の超越的な王国に疑いなく達することができる」と『ナーラディーヤ・プラーナ』に記述されています。
人々が寺院に魅きつけられて、寺院を訪ね、主の前で踊り、主の聖なる御名を唱え、そして主について聞く機会を得ることができるように、社会の中の裕福な人は美しい寺院を建立し、そこでヴィシュヌの崇拝が行われるように配慮すべきです。このようにして、全ての人が神の王国に昇る機会を得ることができるのです。つまり、完全なクリシュナ意識で常に主への奉仕を行っている献身者はいうまでもなく、一般の人々でさえもそのような寺院にただ訪れるだけで、最高の恩恵が得られるのです。
このことに関して、「臣民の皆さん、バガヴァーン、ハリが、堕落し束縛された魂を救うお方であることを知ってください。どんな神々も束縛された魂を救うことはできません。神々自身が束縛されているからです。束縛された魂が、ほかの束縛された魂を救うことはできません。ただクリシュナやクリシュナを正しく代表している人だけが、束縛された魂を救うことができるのです。主ヴィシュヌの爪先から流れ出したガンジス川は、地球やほかの惑星に落ち、束縛された全ての罪深い魂を救います。ですから、いつも主の奉仕を行っている人が救われることは言うまでもありません。そのような人たちが何度も生まれ変わる中で罪を犯してきたとしても、彼らが救われることに全く疑いはありません」というプリトゥ王の臣民に対する言葉が『シュリーマド・バーガヴァタム』第4編21章31節に収められています。つまり神像に奉仕している人は、これまでに何度も生まれ変わってきた中で蓄積した罪の報いを最小限にすることができるのです。神像崇拝の過程についてはすでに説明してあります。私たちは真剣にその規定原則に従うべきです。
歌
主を讃え、主の歌を歌うことに関して、「主の栄光をいつも歌うブラーフマナは、バガヴァーンの住む惑星に疑いなく昇ることができる。主クリシュナは、そのような歌を主シヴァが捧げる祈りよりもお喜びになる」と『リンガ・プラーナ』に記述されています。
サンキールタナ
主の活動、性質、姿などの栄光を大きな声で唱えることをサンキールタナといいます。またサンキールタナは、主の聖なる御名を集団で唱えることも意味します。
『ヴィシュヌ・ダルマ』には、「親愛なる王よ、このクリシュナという言葉は非常に吉兆なので、この聖なる御名を唱える全ての人は、何度も生まれ変わる中で蓄えてきた罪の報いをただちに追い払うことができる」と、集団で唱名することのプロセスを讃える記述が見られます。これは事実です。『チャイタニヤ・チャリタームリタ』の中に、「クリシュナの聖なる御名を一度でも唱える人は、犯すことができないほどの多くの罪の報いでさえも打ち消すことができる」と記述されています。罪深い人がどれほど多くの罪を犯したとしても、ただ一度クリシュナと口にすることによって打ち消すことができないほどの罪を犯すことはできないのです。
「親愛なる主ナラシンハよ、私がもし御身の召使の立場に昇ることができれば、御身の活動について聞くことができるようになるでしょう。御身が最高の友、そして崇拝すべき最高の神でいらっしゃいます。御身の遊戯は超越的で、ただそれらを聞くだけで、全ての罪が打ち消されます。ですから私はこれらの罪深い活動のことは気にしていません。御身の遊戯を聞くだけで、物質的な執着の汚れから全く自由になれるのですから」とマハラージ・プラフラーダは、『シュリーマド・バーガヴァタム』第7編9章18節で主に祈りを捧げています。
主の活動に関する歌は数多くあります。例えば、主ブラフマーによる『ブラフマ・サンヒター』、ナーラダ・ムニによる『ナーラダ・パンチャラートラ』、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによる『シュリーマド・バーガヴァタム』などが挙げられます。どのような人もこれらの歌を聞けば、物質の汚れの束縛から自由になれます。これらの神の歌を聞くことは難しいことではありません。これらの歌は、何百万年もの歴史の中で伝わってきたもので、人々は今もその恩恵に浴しています。ですから私たちも今このときに、それらの歌の恩恵に浴して、解放を達成すべきです。
「親愛なるヴィヤーサよ、苦行、謹厳生活を行い、ヴェーダを学び、大きな供犠を行い、ヴェーダの讃歌を唱え、超越的知識について思索し、施し物を行っている人々は、ただ献身者の交際を得て、主の聖なる御名を唱えることができるようにそれらの活動を行っているのである。この事実を知りなさい」とナーラダ・ムニは弟子のヴィヤーサデーヴァに『シュリーマド・バーガヴァタム』第1編5章22節で語っています。「生命体が到達すべき究極的な活動は、主について唱え、主の栄光を讃えることである」と、この節は示しています。
ジャパ
マントラや讃歌を静かにゆっくり唱えることをジャパと言います。またマントラを大きな声で唱えることは、キールタナと呼ばれています。例えば、マハー・マントラ(ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー/ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー)を自分だけに聞こえるように静かに唱えることはジャパであり、マハー・マントラをほかの全ての人々も聞こえるように大きな声で唱えることはキールタナです。このマハー・マントラはジャパにもキールタナにも用いることができます。ジャパは唱える人に恩恵を与え、キールタナはそれを耳にする全ての人に恩恵があります。
「聖なる御名を静かに唱える人や声高に唱える人は、ただちに解放に至る道が与えられ、彼らには天界の幸福さえも待っている」と『パドマ・プラーナ』に記されています。
服従
『スカンダ・プラーナ』には、主の蓮華の御足に服従することについての記述があります。真剣な献身者はそこで、(1)サンプラールタナートミカー、感情を大いにこめて祈りを捧げること、(2)ダイニヤ・ボーディカー、謙虚で従順な態度、(3)ラーラサーマイー、完成段階の達成を望むこと、という3通りの方法でクリシュナに服従すると記述されています。精神生活の完成段階を達成しようと望むことは感覚満足ではありません。人がバガヴァーンとの本来の関係について悟ると、自分の本来の立場を知るようになり、クリシュナの友人、召使や両親もしくは恋人として、その本来の立場に再び入ることを望むようになります。主と自分の関係を知ることができる段階は専門的にはスヴァルーパ・シッディと呼ばれています。その完全な解放に到達することは、生命体が精神的完成を達成し、そして啓示を受けたときに可能となります。そしてその段階に達したとき、ラーラサーマイーの服従の段階に達することができるのです。
『パドマ・プラーナ』では、「我が主よ、若い男女が自然にお互いに魅きつけられることを私は存じております。私は自分の心がそのように自然に御身に魅きつけられますように、御身の御足にお祈り申し上げます」と、献身者が感情を大いにこめて祈りを捧げることによって主に服従している例が見られます。ここでは非常に適切な例が挙げられています。若い男女がお互いを見れば、教えられなくても自然に魅きつけられるようになります。お互いに魅きつけられるべきだと教えられたわけでもないのに、性の衝動のために自然に魅力が生まれるのです。これは物質的な例ですが、この祈りを捧げている献身者はそれと同じように、至高主に個人的恩恵を求めず、他に何の動機もない、主に対する自然な魅力が生まれてくることを祈っています。このように主に対して自然に魅力を感じるということは、自己の悟りの完成段階なのです。
『パドマ・プラーナ』には謙虚で従順な態度の例があり、そこでは「親愛なる主よ、私ほど罪深い者はいません。また私ほど侮辱的な者もいません。私はあまりに罪深く、あまりに侮辱的なため、御身の前に懴悔するとき、私は恥じらいを覚えてしまいます」と記述されています。これが献身者にとっての自然な心情です。束縛された魂が前世で何らかの罪深い活動を行っていたとしても、全く不思議なことではありません。私たちはそれを認めて主に懴悔すべきです。そのようにすれば主は真剣な献身者をただちにお許し下さるのです。しかし、かと言って、主はいわれのない慈悲を持っていらっしゃるので、同じ罪を何度犯しても許して下さるだろう、などと私たちは期待すべきではありません。そのような考えを持つのは厚顔無恥な人だけです。ここで「御身の前に懴悔するとき、私は恥じらいを覚えてしまいます」と明確に言われています。ですから、もし自分の罪を恥と思わず、同じ罪を何度犯しても主が許して下さるだろうと考えることは、最も無意味なことです。そのような無意味な考えは、ヴェーダのどこにも認められていません。主の聖なる御名を唱えれば、前世からの全ての罪を洗い落とすことができるというのは事実です。しかしそれは、罪を洗い落とした後で、主が罪をまた浄化して下さるだろうと期待しながら同じ罪を再び犯すことを薦めているのではありません。それは全く無意味なことであり、献身奉仕の中では許されるべきことではありません。「一週間罪を犯し続けて、一日だけ寺院や教会に行き、懴悔して罪を洗い浄めてから、また罪を犯そう」と考える人がいるなら、それは、最も無意味で侮辱的なことです。『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』の著者は、そのようなことを認めていません。
『ナーラダ・パンチャラートラ』の中に、完成の達成を望みながら主に服従している記述が見られます。その節では献身者が、「御身が私に扇で扇ぐように命じられ、『このように扇ぎなさい』と指示して下さるのはいつの日のことでしょう」と語っています。その節では、バガヴァーンの体を扇で扇ぎたいという彼の望みが語られています。これは、彼が至高主に直接仕える交際者になることを望んでいることを意味しています。全ての献身者は、召使、友人、恋人としての立場で、献身者としてそれぞれ自分の立場に応じて常に主と直接交際しています。個別魂は個別の味わいをもっているので、献身者はこれらの関係の中のいずれか1つを望むのです。この節で彼は主の召使となり、主の内的エネルギー、ラクシュミーと呼ばれる幸運の女神と同じように、主を扇ぐことを望んでいます。そしてまた彼は、どのように扇げばよいのかバガヴァーンが喜んでお示しになることも望んでいます。このラーラサーマイー・ヴィジュニャプティと呼ばれる超越的な望みを持って服従する段階は、精神的な悟りの最高完成段階です。
同じく『ナーラダ・パンチャラートラ』でも、服従の例がさらに1つ挙げられています。そこでは献身者は、「親愛なる主よ、蓮華の目を持つお方よ、私がヤムナーのほとりで狂ったように御身の聖なる御名を唱え続け、両の目から涙を流し続けるようになるのはいつの日のことでしょうか」と語っています。これもまた完成段階です。主チャイタニヤも、「御身を見ることができないために、一瞬が気の遠くなるような長さに感じられ、全世界が全く虚しく思われ」るような境地に達することをお望みになりました。私たちは感情を込めて祈りを捧げ、自分の特定の奉仕を主に熱心に捧げることができるようになるべきです。これは全ての偉大な献身者の教えであり、主チャイタニヤは特にそのような教えをお授けになりました。
私たちは主を求めて泣くことを学ぶべきです。私たちはこのささやかな方法を身に付けなければなりません。そして自分が特定の奉仕を捧げることができるように、大きな熱意を持って実際に泣くべきです。このように泣くことはラウリャと呼ばれています。そのような涙によって最高の完成を得ることができるのです。主に会い、自分の特定の奉仕を主に捧げることを大きな熱意を持って望むことがラウリャなのですが、このラウリャによって人は神の王国に入って行くことができるのです。そのようなラウリャを持たない人は、その他にどれほど物質的なものをさまざまに持っていたとしても、神の王国に入って行くことはできません。神の王国に入るために私たちが持つべきものは、ラウリャ・ラーラサーマイー、すなわち望みと大きな熱意なのです。
著名な祈りを捧げる
高い学識を持つ学者によれば、『バガヴァッド・ギーター』には全編を通じて著名な祈りが収められていますが、アルジュナが主の宇宙体に祈りを捧げている第11章には、特に数多くの権威ある祈りが含まれています。また『ガウタミーヤ・タントラ』では、これらの全ての節は祈りであると言われています。また『シュリーマド・バーガヴァタム』の中では何百節もの祈りが主に捧げられています。献身者は自分が唱える節を、これらの中からいくつか選ぶべきです。これらの祈りの栄光について、「舌が常に主クリシュナへの祈りで飾られている献身者に、偉大な聖人や聖者でさえも尊敬を捧げる。神々でさえもそのような献身者を崇拝する」と『スカンダ・プラーナ』に述べられています。
知性の乏しい人は、クリシュナを崇拝するよりも、何らかの物質的恩恵を求めてさまざまな神々を崇拝することを好みます。しかしこの節に述べられているように、主にいつも祈りを捧げている献身者は、神々からさえも崇拝されるのです。純粋な献身者は、どのような神々にも恩恵を求めて祈りません。逆に神々が純粋な献身者に祈りを捧げようとしているのです。
「主クリシュナの神像の前に来てさまざまな祈りを捧げる人は、ただちに全ての罪の報いから解放され、疑いなくヴァイクンタローカに入る資格を得る」と『ナラシンハ・プラーナ』に述べられています。
プラサーダを頂く
「プラサーダを慎んで頂き、神像の前以外の場所で規則に従ってプラサーダをチャラナームリタ(主の蓮華の御足に捧げられた水で、トゥラシーの種が混ざっている)とともに食べる人は、供犠を一万回行うのに等しい敬虔な活動の結果をただちに達成することができる」と『パドマ・プラーナ』に特に記述されています。
チャラナームリタを飲む
毎朝、主の衣装替えをする前に献身者は主を沐浴します。チャラナームリタはそのときに得られます。香水や花の香りを帯びて、水が主の蓮華の御足を流れ下り、それが集められ、ヨーグルトと混ぜられます。このようにチャラナームリタはたいへんよい香りがするだけではなく、創造も及ばない精神的な価値も持っています。『パドマ・プラーナ』に述べられているように、施し物をすることもできず、大きな供犠を行うこともできず、ヴェーダを学ぶこともできず、主を崇拝することもできなかった人、つまり敬虔な活動を全く行うことができなかった人でさえも、寺院の中にあるチャラナームリタをただ飲むだけで神の王国に入る資格を得るのです。寺院にはチャラナームリタを入れる大きな容器があります。神像に尊敬の礼を捧げに来た献身者は、手に3滴のチャラナームリタを取り、超越的な至福の中で幸福感を味わうのです。
神像に捧げられたお香、花の香りを嗅ぐ
寺院で捧げられたお香について、「教典に指示された薬草の香りを嗅げば、毒蛇に噛まれた傷が癒されるように、神像に捧げられたお香の香りを味わう献身者は物質の汚れの毒から解放される」という記述が『ハリ・バクティ・スドーダヤ』に見られます。蛇に噛まれた人の意識を取り戻すための薬草の調合法を知っている人がいます。彼らは森の中でそのための薬草を見つけることができます。その薬草の香りを嗅げば、毒蛇の傷はすぐに治ってしまいます。同じように寺院に来て神像に捧げられたお香の香りを嗅ぐ人は、ただちに自分の持つ全ての物質的な汚れが治癒されるのです。
果物であれ、花であれ、お香であれ、献身者が寺院を訪れるときには必ず何かを神像に捧げるべきです。もし金銭で何も買うことができない人も、何らかの物を捧げるべきです。インドでは、朝、寺院に参拝する人々は誰もが多くの捧げ物を持って来るのがしきたりになっています。一握りの米しかなくても、一握りの小麦粉しかなくても、献身者は何かを主に捧げるべきです。聖者に会いに行くときや寺院の神像を見に行くときには、必ず何か捧げ物をしなければならないことになっています。捧げ物はささやかなものでもかまいません。金銭的には無に等しいものであってもよいのです。ひとつの花、小さな果物、わずかの水など、どのようなものでもかまわないのです。必ず捧げ物をしなくてはなりません。献身者がそのようにして毎朝神像に捧げ物をするためにやって来ると、必ずお香の芳香を味わうことができます。するとただちに物質存在の毒から彼らは浄化されるのです。
『タントラ・シャストラ』には、「寺院の神像に捧げられた花輪の香りを嗅ぐ人は、罪への束縛がただちに解かれる。たとえ罪が全くない人でも、主に捧げられた花の香りを嗅ぐことによってマーヤーヴァーディーから献身者へと自らを高めることができる」という記述が見られます。マーヤーヴァーディーが献身者になった例は数多くありますが、その中でも4人のクマーラの例は有名です。4人のクマーラはマーヤーヴァーディーだったのですが、寺院の中で捧げられた花とお香の芳香を嗅ぐことによって、献身者になりました。この節ではマーヤーヴァーディーがある程度汚れていることが暗黙のうちに了解されていますが、実際に彼らは純粋ではありません。
「全ての罪の報いを洗い浄めた人でなければ純粋な献身者になることはできない。純粋な献身者はバガヴァーンが至上の存在であることに全く疑いを持たず、クリシュナ意識で献身奉仕を行う」と『シュリーマド・バーガヴァタム』に確言されています。同じように、「鼻孔の汚れを浄化するために、我々は寺院でクリシュナに捧げられた花の香りを嗅ぐように努めるべきである」という記述が『アガスティヤ・サンヒター』にも見られます。
神像に触れる
『ヴィシュヌ・ダルモッタラ』には主の蓮華の御足に触れることに関する記述があり、「ヴァイシュナヴァとしての入門を受け、クリシュナ意識で奉仕している人だけが、神像の体に触れる権利を持つ」と述べられています。ガンジーが政治運動を行っていた時代にインド内で意見の対立がありました。当時はヴェーダの制度に従って、道路掃除人やチャンダーラといった身分の低い人々は寺院に入ることが禁じられていました。彼らは不潔な習慣のために寺院に入ることを禁じられていたのですが、その一方で純粋な献身者との交際によって献身奉仕の最高段階に高められる機会が彼らに与えられていました。どのような家系に生まれた人も差別されるわけではありませんが、浄化されていることが要求されます。そのために浄化儀式があるのです。ガンジーはただ彼自身が彼らのために作ったハリ・ジャナ(「神の子」という意味)という名前を彼らにつけることによって彼らを浄化しようとしたのでした。そのようにしてしばらくの間、寺院の聖職者とガンジーの信奉者の間で主導権争いがありました。
しかしいずれにしても、現在では浄化された人ならば誰でも寺院に入ることができることになっています。これが、全ての教典に基づく正統的な原則です。正しく入門を受け、正しく規定原則を守っている人だけが寺院に入って神像に触れることができるのです。全ての人が触れることができるわけではありません。規定原則に正しく従っている人が神像に触れたとき、ただちに物質的な罪の汚れから解放され、全ての望みがたちどころに満たされるのです。
神像を見る
『ヴァラーハ・プラーナ』には、寺院の中のシュリー・クリシュナの神像を見ることを讃えている記述が見られます。そこでは献身者が、「親愛なるヴァスンダラーよ、ヴリンダーヴァナに行ってゴーヴィンダデーヴァの神像を見た人は、ヤマラージャの法廷に行くことから免れ、神々の住む最高の惑星に入ることが許される」と語っています。普通の人が好奇心のためにヴリンダーヴァナを訪れ、偶然にそこの寺院、特にゴーヴィンダデーヴァの寺院を見たとき、たとえ精神王国に昇ることはできなくとも、疑いなく最高の惑星に昇ることはできることをこの節は意味しています。つまりヴリンダーヴァナのゴーヴィンダの神像を見るだけで、敬虔な生活の中で大きな進歩が得られるのです。
主のアーラティや祝祭を催す
神像のアーラティ(崇拝)を見ることによって得られる結果について、「アーラティが行われているときに主の顔を見る人は、何千、何百万年もの昔から犯し続けてきた罪の報いからも完全に解放される。ブラーフマナを殺した罪や、それと同じような禁止事項を犯した罪の報いからさえも自由になれる」と『スカンダ・プラーナ』に記述されています。
これまでにも述べたように、クリシュナの降誕祭、主ラーマチャンドラの降誕祭、著名なヴァイシュナヴァの降誕祭、主をブランコにのせるジュラナヤートラーやドーラヤートラー(3月の主の活動)など、さまざまな祝祭があります。これらの祝祭では主が山車に乗せられ、町のさまざまな通りを山車が進んでいきます。このようにして、幸運にも人々は主を見ることができるのです。「そのような祝祭でチャンダーラ(犬喰い)が山車にお乗りになっている主を好奇心のために見たとしても、主ヴィシュヌの交際者になることができる」と『バヴィシュヤ・プラーナ』に述べられています。
「寺院内の神像崇拝を喜びの中で見る人は、パンチャラートラ教典に書かれているクリヤー・ヨーガの結果を達成する」と『アグニ・プラーナ』に記述されています。クリヤー・ヨーガは献身奉仕に似たプロセスを行うヨーガ・システムですが、特に神秘的ヨーギーのためのものです。つまりこのプロセスによって、神秘的ヨーギーもしだいに向上し、主への献身奉仕の段階に高められるのです。