Default View
Dual Language View
第1章
純粋な献身奉仕の特徴
『母よ、物質的な恩恵や哲学的思索に関心がない私の純粋な献身者たちは、ただ私に奉仕することだけしか考えていません。ですから彼らが私に何かを求めることはありません。彼らが求めるのはただ私に奉仕することだけです」と『シュリーマド・バーガヴァタム』第1編29章12~13節でシュリーラ・カピラデーヴァは、純粋な献身奉仕の特徴について母に教えをお授けになりました。
解放には5種類あります。すなわち、主と一体になること、至高主と同じ惑星に住むこと、主と同じ姿を持つこと、主と同じ富を楽しむこと、主の交際者となることの5つです。献身者は、物質的な感覚満足は言うまでもなく拒否します。しかも、それだけではなくこれら5つの解放にも関心がありません。献身者はただ主に愛の奉仕を捧げることだけで満足しているのです。これが純粋な献身奉仕の特徴です。
この『シュリーマド・バーガヴァタム』のシュリーラ・カピラデーヴァの言葉の中で、純粋な献身者の段階と献身奉仕の基本的な特徴が定義されています。ルーパ・ゴースヴァーミーはさまざまな教典を引用しながら純粋な献身奉仕の特徴を次のように挙げています。
(1)純粋な献身奉仕によってあらゆる物質的苦悩からの解放が得られる。
(2)純粋な献身奉仕からあらゆる吉兆さが生まれる。
(3)純粋な献身奉仕から自然に超越的な喜びが得られる。
(4)純粋な献身奉仕が達成されるのは稀である。
(5)純粋な献身奉仕を行う者にとって、解放は重要なものではない。
(6)クリシュナを魅了するのは純粋な献身奉仕のみである。
クリシュナが全ての魅力を持っていらっしゃいます。しかし純粋な献身奉仕はクリシュナさえも魅了します。純粋な献身奉仕はクリシュナの内的エネルギーなので、クリシュナ自身よりも強力な超越的力を持っているのです。
物質的な苦悩からの解放
「他のあらゆることを全て捨て去り、私に服従せよ。私は、服従した魂をあらゆる罪の反動から救う」と『バガヴァッド・ギーター』で主はおっしゃいました。またシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは「罪の報いによる苦しみは、現世での罪と、前世に犯した罪の結果によるものである」と語っています。一般に私たちは無知のために罪を犯します。しかし無知のために罪を犯したとしても、その報いから逃れる口実にはなりません。罪深い活動には、熟性と未熟性という2種類があります。現在私たちが苦しんでいる原因となっているのが、熟性の罪の活動です。私たちの内に蓄えられていて、私たちの将来の苦しみの原因となっているものが、未熟性の罪の活動です。例えば、犯罪者がまだ逮捕されていないとします。彼は見つかると同時に逮捕されます。同じように私たちの犯した罪の中には、私たちの内に蓄えられていて将来私たちが苦しむ原因となるものや、現在私たちに苦しみを与えているものがあります。
このようにして、罪の活動とその結果としての苦悩が連鎖しています。そして束縛された魂は、これらの罪の活動のために生まれても生まれても苦しんでいます。つまり束縛された魂は前世からの罪の結果によって現在苦しみ、そして将来の苦しみを生み出す罪を現在犯しているのです。例えば慢性病をわずらう、犯罪に巻き込まれる、身分の低い堕落した家庭に生まれる、教育の程度が低い、容姿が悪いというのが熟性の罪深い活動の現れです。
過去に犯した多くの罪のために私たちは現在苦しんでいます。そして現在犯している罪のために、苦しみが将来訪れます。しかし私たちがクリシュナ意識を受け入れれば、これら全ての罪の報いは全く止まってしまいます。これを証明するためにルーパ・ゴースヴァーミーは『シュリーマド・バーガヴァタム』第11編14章19節を引用しています。この節は主クリシュナがウッダヴァにお授けになった教えです。その節で主クリシュナは「燃え盛る火に薪をいくら入れても、薪は灰になってしまう。私への献身奉仕もそれと同じだ」と主クリシュナはおっしゃいました。燃え盛る炎にいくら薪を入れても、薪はすぐ灰になってしまいます。同様に主クリシュナへの献身奉仕は罪の活動という薪をすべて灰に変えてしまうのです。例えば『バガヴァッド・ギーター』では、アルジュナは戦闘が罪悪だと思っていましたが、クリシュナはアルジュナに命じて戦場に立たせました。そのようにしてアルジュナにとっては戦闘が献身奉仕になりました。ですからアルジュナには罪の報いはないのです。
またここでシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは、『ジュリーマド・バ-ガヴァタム』第3編13章6節を引用しています。その節ではデーヴァフーティが息子のカピラデーヴァに、「主よ、献身奉仕には、聞くこと、唱えることに始まる9つの過程があります。御身の遊戯を聞き、御身の栄光を唱え、御身に尊敬の礼を捧げ、御身のことを考えるなどして、9つの献身奉仕のいずれかひとつでも行う人は、犬喰い(最低の人種)の生まれであっても、すぐに供犠を行う資格を持つことができます」と語りかけています。
犬喰いであっても供犠を行う資格を得ることができるのですから、完全なクリシュナ意識で献身奉仕をしている人が浄化されないはずはありません。クリシュナ意識で献身奉仕を行っている人は、物質的な罪深い活動の汚れから疑いなく自由になることができます。このように、献身奉仕は罪深い活動のあらゆる報いを打ち消すことができるのです。それにもかかわらず、献身者は注意深く罪深い活動を避けています。献身者はそのような特別な性質を持っています。『シュリーマド・バーガヴァタム』のその節が示すように、献身奉仕を行えば、たとえ犬喰いの生まれであったとしてもヴェーダに規定されている供犠を行う資格を得るのです。この節が暗示しているように、犬喰いの家系に生まれた人はヤジュニャ(供犠)を行うのに適さないと一般的に考えられています。ヴェーダに定められている供犠を行うのは聖職カーストのブラーフマナです。ブラーフマナでなければ、これらの供犠を行うことはできません。
犬喰いであっても供犠を行う資格を得ることができるのですから、完全なクリシュナ意識で献身奉仕をしている人が浄化されないはずはありません。クリシュナ意識で献身奉仕を行っている人は、物質的な罪深い活動の汚れから疑いなく自由になることができます。このように、献身奉仕は罪深い活動のあらゆる報いを打ち消すことができるのです。それにもかかわらず、献身者は注意深く罪深い活動を避けています。献身者はそのような特別な性質を持っています。『シュリーマド・バーガヴァタム』のその節が示すように、献身奉仕を行えば、たとえ犬喰いの生まれであったとしてもヴェーダに規定されている供犠を行う資格を得るのです。この節が暗示しているように、犬喰いの家系に生まれた人はヤジュニャ(供犠)を行うのに適さないと一般的に考えられています。ヴェーダに定められている供犠を行うのは聖職カーストのブラーフマナです。ブラーフマナでなければ、これらの供犠を行うことはできません。
ブラーフマナの家系に生まれるのも、犬喰いの家族の一員となるのも、過去の活動の結果です。犬喰いの家族の一員になるということは、過去の活動が全て罪深いものであったことを示しています。しかしそのような人も献身奉仕の道に入り、主の聖なる御名、ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー/ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレーを唱えれば、ただちに供犠を行う資格を持つことができるのです。これは罪深い活動がたちどころに中和されたことを意味しています。
『パドマ・プラーナ』によれば罪深い活動には、(1)まだ結実していない効果、(2)種として蓄えられている効果、(3)熟した効果、(4)ほぼ熟した効果、という4つの効果があります。また『パドマ・プラーナ』には、バガヴァーン・ヴィシュヌに服従した人はこれらの4つの効果から解放され、完全なクリシュナ意識で主に奉仕するようになる、と述べられています。
「ほぼ熟した効果」とは現在苦しみを与えている罪の活動の効果のことです。「種として蓄えられている効果」はハートの奥に蓄えられています。ハートの奥には罪深い欲望が種子のように蓄えられています。クータムというサンスクリット語は「種子、もしくは種子の影響を産む準備がほぼ整った」という意味です。「結実していない効果」とは実ばえの過程がまだ始まっていないことを示しています。この『パドマ・プラーナ』の記述から理解できるように、物質的な汚れは非常に微細なものです。私たちには汚れの結果として苦しみが与えられます。初期状態の汚れ、汚れの結実、そしてその結果としての苦しみ、これらは大きな連鎖反応の各部分を構成しています。病気を患ったとき、その原因、どこから始まったか、どのように進行してきたのか、などの問題を明らかにするのは困難です。しかし病気の苦しみは突然訪れるものではありません。一定の時間が経ってから発病するのです。医者は感染の進行を予防するためにワクチンを注射します。同様にハートの奥に眠っている罪深い活動の発芽を止める予防注射は、ただクリシュナ意識を行うことです。
これに関連して、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは『シュリーマド・バーガヴァタム』第6編2章17節でアジャーミラの物語を語っています。アジャーミラはもともと義務に忠実で立派なブラーフマナだったのですが、青年時代に売春婦に遭遇したのがきっかけとなって完全に堕落した生活を始めるようになりました。しかしその堕落した人生の最期にナーラーヤナ(クリシュナ)という名前を呼んだために、彼は罪深い一生を過ごしたにもかかわらず救われました。罪深い活動を打ち消すために、苦行、布施、供犠を行うことをシュカデーヴァはここで勧めていますが、ただそれらを行うだけでは、ちょうど青年時代のアジャーミラのように、ハートの奥にある欲望の種子を取り除くことは不可能であるという点も指摘しています。この罪深い欲望の種子を取り除くには、クリシュナ意識を達成する他に方法がありません。これを達成するのは非常に簡単です。主チャイタニヤ・マハープラブがお示しになったように、マハー・マントラすなわちハレークリシュナ・マントラを唱えればよいのです。すなわち献身奉仕の道に入らないかぎり、全ての罪の報いから100%浄化されることはありえません。
ヴェーダ的な供犠や布施、苦行生活を行えば、罪深い活動の報いからの一時的な解放を得ることができるでしょう。しかしそれだけでは、次の瞬間に再び罪深い活動に落ちてしまいます。例として性病を挙げることができます。性生活にあまりに耽り過ぎたために性病を患う人がいます。苦痛に満ちた治療が終わった後、しばらくは小康状態が続くでしょうが、しかしハートの奥にある性欲は依然としてそのままなので、また性生活に耽って再び同じ病を患うことになるでしょう。治療によってそのような苦しみから一時的な解放を得ることはできますが、性生活が忌まわしいものであると教えられなければ、苦しみは何度も繰り返されるのです。同じように、供犠、布施、苦行生活がヴェーダのなかで勧められていますが、これらは一時的に罪深い活動を停止させるだけです。ハートの奥が浄化されなければ、人は罪深い活動を何度も繰り返します。
これに関して『シュリーマド・バーガヴァタム』はもうひとつ象の例を挙げています。象は川で体浴し、とても清潔に身体を洗い清めます。ところが岸に上がると、すぐに地面から埃を吸い上げ、身体全体に吹きかけます。同じように、クリシュナ意識の修練を受けていない人は、罪深い活動に対する欲望から完全に自由になることは不可能です。ヨーガ・プロセスや哲学的思索、果報的活動を行っても、私たちは罪の欲望から救われません。献身奉仕を行った場合にのみ、そのような欲望から救われるのです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』第4編22章39節でも、そのことがさらに証明されています。その節ではサナット・クマーラが、「親愛なる王よ、人間の偽我意識はとても力強く、あたかも強力な縄のように人を物質界に拘束する。しかしクリシュナ意識を行うことによって、献身者のみがこの縄の強い結び目をいともたやすく解くことができる。クリシュナ意識に関心を持たず、ただ偉大な神秘家や偉大な祭司になろうとする者は、献身者のように向上することができない。ゆえに、誰もが偽我意識の束縛や物質的活動から自由になるために、クリシュナ意識を実践するべきである」と言っています。
この偽我意識の束縛は無知によるものです。自分の正体が理解できないかぎり、誤った行動をして物質的な汚れの中に縛られることは避けられません。自分の正体に関する無知もクリシュナ意識によって霧散します。「クリシュナ意識の純粋な献身奉仕が最も高い悟りである。この悟りはあたかも森の大火のように、欲望という名の不吉な蛇を全て焼き滅ぼす」と『パドマ・プラーナ』に述べられています。森に火事が起これば、森に住む蛇は全て焼死します。森には多くの蛇が住んでいますが、火事が起これば枯れ草は焼け、蛇も焼かれてしまいます。4本足を持つ動物は火から逃げることができます。少なくとも逃げようとすることはできるはずです。しかし蛇はたちまちのうちに焼け死にます。同じようにクリシュナ意識は燃えさかる炎のように、無知という蛇をただちに焼き滅ぼしてしまいます。
クリシュナ意識は完全に吉兆である
シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは吉兆さを定義して、「吉兆さとは全世界の全人類のための福祉である」と言いました。現在さまざまな団体が社会、共同体、国家のためという大義名分で福祉活動を行っています。世界援助のために国際連合という努力さえもなされています。しかし国家的活動とは普遍的なものではありません。そのような欠点があるために、全世界のための、この国際連合という福祉活動も実際的には不可能です。しかしながらクリシュナ意識運動は非常に素晴らしいものなので、全人類に最高の恩恵をもたらすことができます。クリシュナ意識運動はあらゆる人を魅きつけ、そしてあらゆる人がその結果を感じ取ることができます。それゆえルーパ・ゴースヴァーミーやその他の高い学識を持つ人々は、クリシュナ意識の献身奉仕を全世界に広く伝道することが最も崇高で人道的な福祉活動であると意見を同じくしています。
全世界がクリシュナ意識運動に注目し、あらゆる人々がクリシュナ意識の中で幸福を得ることができることについて「完全なクリシュナ意識で献身奉仕を行っている人々は全世界に最高の奉仕活動をしていて、彼らは世界中の全ての生き物に喜ばれていると理解するよう努めよ。木々や動物でさえもそのようなクリシュナ意識運動に魅かれている。それゆえ、そのような人々は人類だけではなく、木々や動物にも喜ばれている」という記述が『パドマ・プラーナ』に見られます。サンキールタナ運動を広めるための旅の途中で、主チャイタニヤが中央インドのジャーリカンダの森を通り抜けていらっしゃったとき、実際にその例が示されています。主チャイタニヤと一緒に、虎や象、鹿たちはそれぞれの方法でハレークリシュナを唱え踊りました。
さらに、クリシュナ意識で活動し献身奉仕を行っている人々は、神々に見られる良い性質を全て備えることができます。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは『シュリーマド・バーガヴァタム』の第5編18章12節で「親愛なる王よ、クリシュナに断固たる信念を持つ誠実な人は、神々が持つ良い性質を全て身につけることができる。献身者は高い段階のクリシュナ意識を持っているために、神々でさえもそのような献身者とともに暮らすことを望む。それゆえ、そのような献身者には神々の持つ性質が備わっていると理解されるのである」と述べています。
一方、クリシュナ意識でない人は良い性質を全く持っていません。高い学歴があったとしても、クリシュナ意識でない人は動物よりも下劣であると考えられます。高い学識を持っていたとしても、心の段階にいるかぎり、物質的な活動しか行うことができません。ですからそのような人は不純であるとみなされます。最高学府で高い物質的な知識を得たにもかかわらず、クリシュナ意識運動を受け入れることができず、神々の良い性質を身につけることのできない人々は現代において多数存在します。例えば、クリシュナ意識の人は高い学識を持っていなくても、不正な性行為、ギャンブル、肉食、陶酔物をただちにやめることができます。逆にクリシュナ意識でないために、高い学歴を持っているにもかかわず、飲酒、肉食、不正な性行為、ギャンブルに耽る人々はしばしば見かけられます。クリシュナ意識の人は良い性質を大いに発展させることができ、クリシュナ意識でない人は良い性質を育むことができないことを、この例が如実に示しています。クリシュナ意識を修練している青年たちは、若いにもかかわらず、映画、ナイトクラブ、ヌードショー、レストラン、飲酒などに対する執着を捨て去り、そのような悪癖から完全に解放されました。煙草、飲酒、観劇やダンスなどで無駄にしていた時間を彼らは取り戻したのです。そのような例を私たちは実際に経験してきました。
逆にクリシュナ意識でないために、高い学歴を持っているにもかかわず、飲酒、肉食、不正な性行為、ギャンブルに耽る人々はしばしば見かけられます。クリシュナ意識の人は良い性質を大いに発展させることができ、クリシュナ意識でない人は良い性質を育むことができないことを、この例が如実に示しています。クリシュナ意識を修練している青年たちは、若いにもかかわらず、映画、ナイトクラブ、ヌードショー、レストラン、飲酒などに対する執着を捨て去り、そのような悪癖から完全に解放されました。煙草、飲酒、観劇やダンスなどで無駄にしていた時間を彼らは取り戻したのです。そのような例を私たちは実際に経験してきました。
普通、クリシュナ意識でない人は半時間でさえも静かに座っていることができません。無言の行をすれば自分が神であるという悟りを開くことができる、とある種のヨーガ・システムでは教えています。そのようなヨーガ・システムは、物質的な人々にとっては素晴らしく思えるかも知れませんが、どれほどの時間彼らが無言でいられるのでしょう。表面的にはいわゆる「瞑想」をしたとしても、彼らはヨーガ行が終わればすぐに不正な性行為、ギャンブル、肉食やその他多数の無意味な行動を行うでしょう。しかしクリシュナ意識の人は、このような「瞑想」を努力して行わなくても、しだいに自分自身を精神的に向上させることができます。ただクリシュナ意識を実践するだけで、自然にこれらの無意味な活動を放棄し、より高い性質を身につけることができるのです。純粋な献身者になれば、最も高い性質を身につけることができます。つまりクリシュナ意識でなければ、真の意味での良い性質を持つことは不可能なのです。
クリシュナ意識の幸福
幸福の源を分析したうえで、シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは幸福を次の3種類に分類しました。その3つの幸福とは、(1)物質的な快楽から得られる幸福、(2)自分が至上ブラフマンであると知ることによって得られる幸福、(3)クリシュナ意識から得られる幸福、の3種類です。
「我が妻よ、ゴーヴィンダの蓮華の御足に服従し、純粋なクリシュナ意識を得たならば、マーヤーヴァーディーが望んでいる完成を全て得ることができる。そしてさらに、純粋な献身者だけが達成できる幸福さえも手に入れることができるのだ」と主シヴァは妃サティーに『タントラ・シャーストラ』の中で語っています。
純粋な献身奉仕から得られる幸福は永遠です。ですから純粋な献身奉仕による幸福が最も優れた幸福です。物質的なものを達成することによって得られる喜びや、自分がブラフマンであると知ることによって得られる幸福は一時的なものに過ぎないので、より劣った幸福です。物質的な幸福は必ず人のもとから去っていきます。自己が非人格ブラフマンであると悟ることによって精神的幸福の段階に達した人も、落ちる可能性がないとは言えません。
偉大なマーヤーヴァーディー・サンニヤーシーたちが高い学識を持ち、ほとんど悟った段階にいたにもかかわらず、政治的活動を始めたり、社会福祉活動に入って行くこともあります。至高絶対真理が人格を持つということを理解していないため、彼らは超越的な究極の幸福を得ていません。ですから、彼らはそのような物質的な段階に降りてきて、俗的な行動をするのです。特にインドでは、マーヤーヴァーディー・サンニヤーシーたちがそのような物質的な段階に再び落ちた例は多数あります。しかし完全なクリシュナ意識の人は、どのような物質的な段階にも戻って来ません。物質的な活動がどれほど魅力あるものだとしても、クリシュナ意識の精神的な活動とは比較にならないことをクリシュナ意識の人は熟知しています。
完成を達成したヨーギーは8種類の神秘力を持っています。アニマー・シッディとは、石の中にも入ることができるほど体を小さくする能力のことです。現代科学の進歩にともなって、石の中に入ることは不可能ではなくなりました。現代、多くの地下鉄が敷設され、トンネルが作られています。つまり石の中に入るアニマー・シッディの神秘的完成が物質的科学によって達成されたのです。同じように、その他のヨーガ・シッディ(ヨーガ的完成)も物質的なテクニックに過ぎません。あるヨーガ・シッディを達成すれば、体重を軽くして空中や水上に体を浮かせることも可能です。これらの神秘力もまた、現代科学の進歩によって達成されました。飛行機で空を飛び、船で水面に浮き、潜水艦で水中に潜ることが現代では可能です。
これらの神秘的ヨーガ・シッディと物質科学の完成を比較してみれば、物質科学の完成が神秘的ヨーガ・シッディと同じものを目指していることが理解できます。このように、神秘力の完成と物質主義の完成は全く同じものなのです。「いわゆるヨーガの完成は、すでに物質的科学者たちも達成している。私はそれらに関心がない」と語ったドイツの科学者がいました。それを見抜く知性を持っていた彼はインドに行き、バクティ・ヨーガすなわち献身奉仕を通じて、至高主との永遠の関係を理解する方法を学びました。
もちろんヨーガ・シッディの中には物質的科学者がまだ達成していないものもあります。例えば、神秘的ヨーギーはただ太陽光線を使って太陽の中に入ることができます。これはラギマーとよばれるヨーガ・シッディです。またヨーギーは指で月に触れることもできます。現代の宇宙飛行士は宇宙船を用いて困難な空間移動を行い、月に行くのですが、神秘的完成を達成した人はただ手を伸ばせば月に指で触れることができるのです。この完成はプラープティ(獲得)と呼ばれています。このプラープティ・シッディによって、ヨーギーは月に触れるだけではなく、どこにいたとしても手を伸ばして望む物を何でも手に入れることができます。何千マイルも離れたところにある庭に手を伸ばして、そこの果物を取ることもできます。これがプラープティ・シッディです。
現代科学者たちが発明した核兵器によって、人類は地球を部分的に破壊する能力を持つようになりました。しかしイーシターというヨーガ・シッディによって、自分の意志によって1つの惑星を創造、破壊することができます。他にヴァシターと呼ばれるヨーガ・シッディがあり、ほかの人を自分の支配下に置くことができます。これは一種の催眠術で、このヴァシターに抵抗することはほとんど不可能です。少しこのヴァシター神秘力を達成したヨーギーが、人々の中でありとあらゆるナンセンスを語り、人の心を支配し、人を利用した果てに、人々の金銭を騙し取って逃げることもあります。
プラーカーミャ(魔法)とよばれるヨーガ・シッディがあります。このプラーカーミャによって自分が望むことを全て行うことができます。例えば目の中に水を入れ、そしてまた出すこともできます。自分の思う通りに不思議なことができるのです。
神秘力の最高完成はカーマーヴァサーイターと呼ばれます。これもまた魔法ですが、プラーカーミャが自然現象の許容範囲内で不思議な効果を生み出すのに対して、このカーマーヴァサーイターは自然現象に反することを行うヨーガ・シッディです。すなわちこのカーマーヴァサーイターによって不可能なことを行うことができるのです。もちろんこのようなヨーガの物質的完成を達成すれば、一時的な幸福を大いに得ることができるでしょう。
現代物質科学の発する幻光に目が眩んでいる人は、クリシュナ意識運動は知性の低い人のためのものである、と考えています。「良いアパートに住んでいる。家庭生活、性生活に恵まれている。全く理想的な暮らしだ」と、そのような活動に満足している人々は、いついかなる時にも、そのような物質的な状況は失われ得る、ということを知りません。そのような人々は無知のために生命が本来永遠であることを知らないのです。体を一時的に慰めることが人生の目的ではありません。現代物質科学の発達によって、人々はより発達した物質的快楽を得ることができます。人々はそのために、底知れず深い無知によってその進歩の幻光に魅せられているのです。ですから「物質的知識の発達の幻光によって人々は本来の自己を忘れてしまう。それゆえ物質的知識の進歩は人々をより愚かにする」とシュリーラ・バクティヴィノーダ・タークラは言いました。人間の義務は物質的な汚れから自分自身を自由にすることです。ですから、本来の自己を忘れてしまうことは人間にとって破滅行為です。物質的知識の発達にともなって、人々は物質の罠に深く陥れられてしまいます。この破局から逃れる希望は、彼らにはありません。
「親愛なる主よ、繰り返し何度も御身の蓮華の御足にお祈りいたします。どうか私の献身奉仕がさらに強いものとなりますように。私のクリシュナ意識がさらに強く揺るがないものとなるように、ただお祈りします。クリシュナ意識と献身奉仕から得られる喜びはとても大きいので、ただその喜びを手にするだけで、宗教、経済発展、感覚満足の全ての完成や、そればかりではなく物質界からの解放さえも得られるのです」と主の偉大な献身者であるプラフラーダ・マハーラージャが半獅半人の化身ナラシンハデーヴァに祈っていることが『ハリ・バクティ・スドーダヤ』に記述されています。
クリシュナ意識の献身奉仕から、超越的な幸福が無限に得られます。そしてその喜びはほかの幸福とは比較になりません。ですから、純粋な献身者はそれらさまざまなものを手に入れることには関心がありません。クリシュナ意識から得られる幸福の一滴は他から得られる喜びの大海とさえも比較することができないと言われています。このように純粋な献身奉仕をほんの一滴でも得ることができれば、宗教、経済発展、感覚満足、解放から得られる全ての幸福をたやすく捨て去ることができるのです。
主チャイタニヤの偉大な献身者に、コーラーヴェーチャー・シュリーダラという人がいました。彼は清貧に甘んじて暮らしていました。バナナの葉でコップを作る小さな商いを営んでいた彼には、無に等しい収入しかありませんでした。彼はそれでも収入の半分をガンジス川の崇拝に費やし、残りの半分で生活していました。ある時、この親密な献身者コーラーヴェーチャー・シュリーダラの前に主チャイタニヤが姿をお現しになり「どんな富でも授けよう」とおっしゃいました。しかしシュリーダラは物質的な富を求めませんでした。彼は自分の立場にとても満足していたのです。彼が望んだことはただ、主チャイタニヤの蓮華の御足に揺るぎない信念と献身の念を得ることだけでした。これが純粋な献身者の態度です。もし1日24時間、献身奉仕ができるなら、献身者は他に何も求めません。解放の幸福すなわち至上者と一体になることさえも望まないのです。
「献身奉仕をほんのわずかでも得た人にとっては、宗教、経済発展、感覚満足、5種類の解放から得られるいかなる幸福も取るに足らないものとなる」と『ナーラダ・パンチャラートラ』に記されています。宗教、経済発展、感覚満足や解放などから得られる幸福は、純粋な献身者のハートの中に入ろうとさえしません。女王の後ろには、女王の召使や女中がおごそかに従い歩きます。同じように、宗教、経済発展、感覚満足、解放から得られる喜びは、主への献身奉仕に自動的に付随するものなのです。つまり献身奉仕以外のものから得られる幸福は、どのようなものも、自然に献身者のところにやってくるのです。純粋な献身者が望むものは、クリシュナへの奉仕だけです。しかし、たとえ純粋な献身者がクリシュナ以外のものを望んだとしても、彼がそれを主に願わなくとも、主はその望みをかなえて下さるのです。
稀な献身奉仕
精神生活の最初の段階では、自己の悟りを達成するために、謹厳生活や苦行、その他のさまざまな方法があります。しかし人がそれらの方法を実行して物質的な欲望を全く失ったとしても、献身奉仕の段階に到達することはまだできません。クリシュナは誰にでも献身奉仕をお授けになるのではありません。献身奉仕の段階に到達しようと自分ひとりで熱心に望んでも、献身奉仕に到達することは不可能です。物質的幸福ならば、クリシュナはすぐにお与えくださいます。解放でさえも容易く与えてくださいます。しかし献身奉仕の活動に関しては、主はそれほど容易に授けません。献身奉仕は、ただ純粋な献身者の慈悲を通してのみ得られるものです。「クリシュナの純粋な献身者であるグルの慈悲とクリシュナ自身の慈悲がなければ、献身奉仕の段階に到達することはできない。その他に方法はない」と『チャイタニヤ・チャリタームリタ』(マッデャリーラー19-151)に記述されています。
「わが親愛なるサティ-よ、さまざまな知識の過程を分析研究できる卓越した哲学者は、物質の束縛から解放される。ヴェーダに示されている供犠を行う者は、敬虔な活動の段階に高められ、物質的な喜びに満ちた生活を最大限に楽しむことができる。しかしそれら全てを行ったとしても、主への奉仕を得ることはできない。そのような方法をとっているかぎり、何千回生まれ変わって努力したとしても、主への献身奉仕を得ることはできないのだ」と『タントラ・シャーストラ』に記述されています。その節で、主シヴァは妃サティーに献身奉仕は稀にしか得られないことについて語っています。純粋な献身奉仕の段階に到達することは、このように非常に稀なことなのです。
自分一人で努力していても、より高い権威の教えに従っていても、ただそれだけでは献身奉仕の段階に達することは不可能であると『シュリーマド・バーガヴァタム』でプラフラーダ・マハーラージャが確言しています。献身奉仕の段階に到達するためには、物質的な欲望の汚れから解放された純粋な献身者の蓮華の御足の埃によって祝福されなければならないのです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』第5編6章18節でも、「王よ、ムクンダと呼ばれる主クリシュナこそが、パーンダヴァ兄弟やヤドゥ王家を永遠に保護していらっしゃるのである。また主クリシュナはあなたのグルであり、あらゆる点であなたを教え導いていらっしゃる。あなたにとって主クリシュナこそが崇拝すべき神でいらっしゃるのだ。主は親愛と慈愛に満ちたお方でいらっしゃる。そして主はあなたたち一人ひとりを導いていらっしゃるばかりではなく、またあなたの家族全体も導いていらっしゃるのだ。それのみではない。主はあなたの伝令でもあるかのように、あなたの命令に従っていらっしゃる。王よ、あなたたちはいかに幸運なことであろう。至高主が下されたこれらの好意は、ほかの者にとっては夢にも見ることができないものだ」とナーラダはユディシュティラに語っています。つまり、主は解放を容易にお与えになりますが、しかし魂に献身奉仕をお授けになることは稀にしかありません。なぜなら献身奉仕の代価として、主は自らを献身者にお授けになるからです。
至上存在と一体になる幸福
至上存在と一体になる幸福はブラフマーナンダと呼ばれています。そのブラフマーナンダを百万兆倍したとしても、献身奉仕の幸福の大海の中の一滴にも比較できないとシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは語っています。
『ハリ・バクティ・スドーダヤ』の中に、「親愛なる宇宙の主よ、御身の前にいるだけで超越的な喜びが感じられます。今私は大海のような幸せに浸っています。この大海のような喜びに比べれば、プラフマーナンダの幸福は牛のひずめの跡に溜った水にすぎません」というプラフラーダ・マハーラージャの言葉が記述されています。プラフラーダ・マハーラージャはナラシンハデーヴァを祈りの言葉でなだめながら、そのように話しました。「我が主よ、御身の献身奉仕の喜びの海に遊び、御身の遊戯の甘露を味わう恵まれた人々の中には、宗教、経済発展、感覚満足、解放とは比較にならない恍惚愛を知っている人が確かにいます。献身奉仕以外のいかなる幸福であったとしても、そのような超越的な献身者にとっては道端の草と同じです」とシュリーダラ・スヴァーミーによるシュリーマド・バーガヴァタムの解説書『バーヴァールタ・ディーピカ』に記されています。
クリシュナを魅惑する
献身奉仕はクリシュナさえも魅きつける、とシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは語っています。クリシュナは全ての者を魅きつける魅力を持っていらっしゃいます。しかし献身奉仕はそのクリシュナさえも魅惑してしまいます。最高の献身奉仕の象徴がラーダーラーニーです。クリシュナはマダナ・モーハナという別名も持っていらっしゃいます。マダナ・モーハナという名前は、クリシュナの魅力が何千ものキューピッドよりも優れているということを示しています。しかしラーダーラーニーはクリシュナでさえも魅惑してしまいます。ラーダーラーニーはクリシュナよりもさらに大きな魅力を持っていらっしゃるのです。ですから献身者はラーダーラーニーのことをマダナ・モーハナ・モーヒニーと呼びます。これはキューピッドを魅惑するお方を魅惑する人という意味です。
献身奉仕を行うということは、ラーダーラーニーの足跡に従うことです。ヴリンダーヴァナの献身者は、献身奉仕の完成を達成するためにラーダーラーニーの慈悲のもとに自分を置きます。つまり献身奉仕は物質界の中の行動ではなく、ラーダーラーニーの直接の支配のもとにある活動なのです。マハートマーと呼ばれる偉大な魂はダイヴィー・プラクリティ(内的エネルギー)すなわちラーダーラーニーの保護のもとにいる、と『バガヴァッド・ギーター』に確認されています。献身奉仕はクリシュナの内的エネルギーに直接支配されています。ですから献身奉仕はクリシュナ自身さえも魅惑するのです。
「ウッダヴァよ、私は献身者の奉仕に大きな魅力を感じる。しかし人々が神秘的ヨーガ、哲学的思索、供犠、ヴェーダーンタ研究、謹厳生活、そして自分の所有物全てを施すことなどを行っても、私は献身者の奉仕ほどには満足しない。それらは確かに素晴らしい行為なのだが、私にとっては献身者の愛に満ちた超越的な奉仕ほどには魅力的でない」と『シュリーマド・バーガヴァタム』第11編14章20節でクリシュナはおっしゃっています。
『シュリーマド・バーガヴァタム』第7編10章48~49節では、クリシュナが献身者の献身奉仕に魅力を感じていらっしゃることについて、ナーラダの説明が記述されています。その節では、プラフラーダ・マハーラージャの性質の素晴らしさを高く評価しているマハーラージャ・ユディシュティラにナーラダが語り掛けています。献身者はほかの献身者の行動を高く評価するものです。そこでは、マハーラージャ・ユディシュティラがプラフラーダの性質を高く評価しています。ほかの献身者を高く評価することは純粋な献身者の性質です。純粋な献身者は決して自分が偉大であるとは思いません。ほかの献身者のほうが自分よりも優れていると思っています。「プラフラーダ・マハーラージャは実際に主の献身者でいらっしゃるのに、私は何者でもない」とユディシュティラが考えていたとき、ナーラダがユディシュティラに次のように語りました。
「ユディシュティラ王よ、あなたたち(パーンダヴァ兄弟)がこの世界で最も恵まれている。バガヴァーンがこの惑星に降誕され、あなたたちの前に人の姿でお現れになった。そして主はいかなる時もあなたたちとともにいらっしゃる。主はあなたたちとともに暮らしていて、ほかの人々の目の前にはお現れにならない。ほかの人たちは、クリシュナが至高主であることも理解できない。しかしクリシュナは従兄弟として、友人として、あなたたちとともにいらっしゃる。主はあなたたちの伝令さえも勤めてあなたたちと一緒にいらっしゃるのだ。ゆえにあなたたちがこの世界で最も恵まれていると知りなさい」
「ユディシュティラ王よ、あなたたち(パーンダヴァ兄弟)がこの世界で最も恵まれている。バガヴァーンがこの惑星に降誕され、あなたたちの前に人の姿でお現れになった。そして主はいかなる時もあなたたちとともにいらっしゃる。主はあなたたちとともに暮らしていて、ほかの人々の目の前にはお現れにならない。ほかの人たちは、クリシュナが至高主であることも理解できない。しかしクリシュナは従兄弟として、友人として、あなたたちとともにいらっしゃる。主はあなたたちの伝令さえも勤めてあなたたちと一緒にいらっしゃるのだ。ゆえにあなたたちがこの世界で最も恵まれていると知りなさい」
「クリシュナよ、私は御身を従兄弟だと思っておりました。何度も『クリシュナ』、『友よ』などと呼びかけては、御身に尊敬を示しませんでした。御身は私の理解を遥かに越えた偉大なお方でいらっしゃったのです」クリシュナが宇宙体を現したとき、アルジュナは『バガヴァッド・ギーター』の中でそのように祈りました。これが、パーンダヴァ兄弟の立場だったのです。クリシュナは、偉大な人々の中で最も偉大なお方でいらっしゃいます。それにもかかわらず、パーンダヴァ兄弟たちの大きな献身、友情、愛によってバガヴァーン・クリシュナはパーンダヴァ兄弟たちといつもともにいらっしゃったのです。まさにこのことが、献身奉仕の過程がどれほど偉大なものであるかを証明しています。神は偉大なお方でいらっしゃいます。しかし神さえも魅了する力を持っている献身奉仕は、神自身よりも偉大なのです。献身奉仕を行わない人は、主に奉仕することがどれほど偉大なことなのか決して理解できません。