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(一)

1. 生命のあかしは、覆われる雲に伴う雷鳴と稲妻のごとく。濃紺の雲に覆われ‐―その装いを見せる。雲にひそむ雷鳴と光の輝きは、新たなる人生への希望を奏でる。

快晴の空は、絶対真理にたとえられます。生命たちは、物質自然のさまざまな在り方に関連して顕れた真理です。紺の雲は、果てしなく続く空の、ごく一部分を隠します。そしてこれは、無知の性質、つまり生物が本来の性質を忘れることにたとえられます。それでも生命は、果てしなく続く空のように、純粋なのです。しかし、物質界を楽しむという傾向を持つがために〃忘れやすい〃という雲に隠されてしまうのです。このtamas(無知)という要素のために、自分は絶対的全体とは異なると信じ込み、本来持っていた快晴の空のように純粋な性質を忘れてしまいます。この〃忘れやすい〃という性質が、にせの自我の独自性を起こさせます。記憶を失った生命たちは、個人または集団で、雷雲のような音を発します。〃私は何々です〃〃それは私たちのものです〃〃それは私のものです〃といったように。このにせの独自性はrajas(激情)の特徴であり、そこからタマスの在り方を独自に支配するひとつの創造的力が生じてきます。稲妻は知識へと導いてくれる唯一の希望光であり、それはsattova(サットバ)、すなわち有徳の在り方にたとえられます。

果てしなく続く空、つまりすべてに広がる絶対真理(Brahman:ブラフマン)は、雲に隠された空の一部と同じものですが、同時に空全体と害黒雲に隠されやすい一部分とは、異なったものです。雷雲が、果てしなく続く空全体を、隠すことはできません。ゆえに、空全体になぞらえられている絶対真理は、顕れた生物とある意味では同じですが、同時に異なるのです。生物は絶対真理の見本にすぎず、無知というはかない雲に隠される傾向を持ちます。

二種類の哲学者たちがおり、一般には、一元論者と二元論者として知られています。一元論者は、絶対真理と生物が同一である、と信じますが、二元論者は、生命と絶対真理が、各自に個別性を待っていると信じます。これら二種類の哲学を越えているのacintya-bhedābheda tattva(アチンティヤ-ベーダベーダ タットバ)の哲学すなわち〃同時に同じで異なる〃という真理です。この哲学は、主Śrī Caitanya Mahāprabhu(シュリーチャイタンニャマハプラブ) によって『Vedānta-sūtras』(ヴェーダンタ-スートラ)の解説の中で説かれました。ヴェーダーンタは、哲学的な解釈の媒体としての役を果たすもので、特定の哲学者だけの所有物にはなり得ないのです。絶対真理を真剣に探している人は、ヴェーダーンティスヴェーダトと呼ばれます。尽昌とは、知識を意味します。ありとあらゆる知識は、ヴェーダ知識の一部として呼ばれ、そしてヴエーダーンタとは、それらの知識の、最終的な結論を意味します。哲学が、全科学の極致として呼ばれるように、ヴェーダーンタは、すべての哲学的思索の極致なのです。