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第2章

ギーターの要旨

テキスト

サンジャヤ ウヴァーチャ
タンタタークリパヤーヴィシュタン
アスルプールナクレクシャナン
ヴィシダンタミダンヴァキャン
ウヴァーチャマドゥスーダナハ

Synonyms

sañjayaḥ uvāca — サンジャヤは言った; tam — アルジュナに; tathā — このように; kṛpayā —同情心によって; āviṣṭam —圧倒されて;aśru-pūrṇa-ākula —涙をためて; īkṣaṇam —目; viṣīdantam —嘆き悲しむ; idam — これらの; vākyam — words; uvāca —言った;madhu-sūdanaḥ — マドゥを殺した者.

Translation

サンジャヤ言う: 哀れみと悲しみに胸ふさがれてはらはらと涙ながすアルジュナを見てマドゥスーダナ(クリシュナは)はこのように語られました――

Purport

 物質次元の同情、悲嘆、涙などはすべて、自己の本質(真実の自我を知らない証拠である。永遠の魂のために同情するなら、ただ一つ、自己実現を得ていないことを哀れむべきである。この詩節の“マドゥスーダナ”という呼び名はまことに意味深長、重要である。主クリシュナは悪魔マドゥを殺されたので、この別名がついている。そして今、アルジュナは、義務遂行を妨害する迷妄の悪魔をクリシュナに殺していただかねばならない。どこに同情すれば正しいのか、誰も知ろうとはしない。溺れている人を見て、服がぬれて気の毒だ、と同情するのは見当外れというもの。無知の大海に落ちている人を救うには、着物を保護することばかり考えてはだめなのである。この場合、着物とは肉体のこと――。この理を知らずに、ただ外側の衣服のことだけ心配している人間を、シュードラというのである。心配する必要のないことを心配する人たちである。アルジュナはクシャトリヤだから、シュードラのような行動をとってはいけないのである。だが言うまでもなく、主クリシュナは無知な人々の悲しみを消散させることができるし、そのためにこそ、このギーターを語られたのである。この章は肉体と魂の本質を至上の権威によって分析解剖し、くわしく説明してあり、それを学ぶことで、私たちは自己実現とはどういうことか、自己の本性とは何かを次第に理解していくのである。自己実現は、仕事の結果や利益に執着しないで活動し、“真実の自我”の概念をしっかり体得したとき、可能になる。
おお、アルジュナよ

テキスト

シュリーバガヴァーンウヴァーチャ
クタストヴァーカシュマラミダン
ヴィーシャメサムタスティタン
アナールヤジュスタマスヴァルグヤン
アキールティカラマルジュナ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca —バガヴァーンは言った; kutaḥ — どこから; tvā — あなたに; kaśmalam —汚れ;idam — この悲嘆; viṣame — 重大局面において; samupasthitam — やってきた; anārya —人生の価値を知らない人; juṣṭam — ~によって実行される; asvargyam —高位の惑星に導かない; akīrti —不名誉; karam — ~の原因; arjuna — O Arjuna.

Translation

バガヴァーン語る:アルジュナよ、なぜそんな世迷言を言うのかおよそ、人生の意義を知る者の言葉ではないそんなことでは、より高い惑星にも行けず汚名をきて下に堕ちるばかりだ.

Purport

クリシュナとバガヴァーンは同一である。ゆえに主クリシュナはギーターを通じて“バガヴァーン”と呼称されるのである。バガヴァーンこそ究極の絶対実在である。絶対実在、または絶対真理といってもよいが、それには3つの相がある。
 (1)ブラフマン――宇宙に遍満する非人格的光
 (2)パラマートマー――各個の生物のハートに配置された絶対者の局面。または   生きとし生けるもののハートに宿る最高神。
 (3)バガヴァーン――至上者なる最高神、クリシュナ
『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-11)には、絶対真理についての、この考え方を次のように説明している。 

vadanti tat tattva-vidas
tattvaṁ yaj jñānam advayam
brahmeti paramātmeti
bhagavān iti śabdyate

 「絶対真理をさとった人は、絶対真理、実在の3様相を会得している。その3相は不異であり、一なるものの局面であることを知っている。3相とは即ち、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンである。」

 この聖なる3局面を太陽にたとえて説明してみよう。太陽にも、3つの局面がある。光線と、表面と、太陽という天体そのもの。太陽の光線についてだけ学んでいる人は、まだ初歩的段階である。太陽の表面の事情についてよくわかっている人は、かなり進歩している。そして、太陽星の中まで入れて、全体のことをことごとく知っている人は最高である。普通一般学徒は、太陽光線のことだけ理解して、それで満足している――光の普遍性と、非人格的なまばゆい光輝。これだけで満足しているのは、絶対者のブラフマンの相(すがた)だけを理解できる人にたとえられる。もう少し進歩した学徒は、太陽の表面のことについても知っている。これは、パラマートマーの知識を得た段階である。そして、太陽星の核心(ハート)まで入っていける学生は、至上絶対真理の人の姿相(すがた)を悟った人にたとえられる。したがって、絶対真理、実在のバガヴァーン相を知って、彼を信じ愛する人々――つまり献身者(バクタ)は、最高最上の超越主義者なのである。真理は一つ。真理を求める学生は、同じ一つの対象を学んでいる。太陽光線と、太陽の表面と、太陽星の内容全部。この3つは決して分けられない。だが、それぞれの局面だけを学んでいる学生たちは、同じカテゴリーには属さないのである。

 “バガヴァーン”というサンスクリット語を、ヴャーサ聖者の父であるその道の大権威者、パラーシャラ・ムニは次のように説明している。――あらゆる種類の富、完全な強さ、不朽の名声、完璧な美しさ、完全な知識、そして、これらを含めたすべてのものに対する全くの無執着。この6つを兼ね具えた最高の人物をバガヴァーンと称す――。

īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ
sac-cid-ānanda-vigrahaḥ
anādir ādir govindaḥ
sarva-kāraṇa-kāraṇam

 非常な大資産家、ずぬけて力のある人(肉体的、精神的、社会的いずれにも)、きわめて美しい人、大変有名な人、学問の奥義を究め尽くした人、まことに公平無私で執着心のない人。以上のような人々は、古今東西、その数は多いが、この条件を全部兼ね具えた人は一人もいない。ただクリシュナひとりを除いては……。ゆえにクリシュナはバガヴァーンなのである。ブラフマーも、シヴァも、ナーラーヤナでさえ、クリシュナほどすべてのものを具えてはいない。その6つを一つ一つ詳しく比較検討した結果、主ブラフマー自身が『ブラフマ・サンヒター』のなかで、主クリシュナこそバガヴァーンである、と断言している。だれひとり、彼と肩を並べ、彼の上に出るものはない。彼こそ最初の、第1の“主”であり、ゴーヴィンダとして知られるバガヴァーンである。そして彼こそすべての原因の究極的原因であり、至上の大目的なのである。また次のように述べられている。

 「バガヴァーンとしての特質をそなえている人格は数多いが、そのなかでクリシュナが最高にすぐれている。彼は至上人格であり、彼の体は永遠に、知識と歓喜に満ちている。彼は原初の主、ゴーヴィンダ、すべての原因の大原因である。」(『ブラフマ・サンヒター』5-1)『シュリーマド・バーガヴァタム』には、バガヴァーンの化身の一覧表が出ているが、特にクリシュナは、多勢の化身たちのなかでも本源のバガヴァーンご自身である、とされている。

ete cāṁśa-kalāḥ puṁsaḥ
kṛṣṇas tu bhagavān svayam
indrāri-vyākulaṁ lokaṁ
mṛḍayanti yuge yuge

 「ここに挙げた神の化身たちは、バガヴァーンの完全分身、または完全分身の部分体であるが、クリシュナはバガヴァーン自身なのである。(『シュリーマド・バーガヴァタム』1-3-28)

 ゆえに、クリシュナはバガヴァーン自身なのである。クリシュナは絶対真理であり、スーパーソウルであり、また非人格――宇宙の存在原理ブラフマンなのである。

 この至上の御方がいらっしゃる前で、前述のようなアルジュナの嘆きは、まことに当を得ないもの――だからクリシュナは驚いて、“クタハ”「なぜそんな言葉を――」とおっしゃった。そんな男らしくない文句が、アーリアン人の口から出るとは予想もしていなかった。“アーリアン”という言葉は、“生命の意義を知り、自己実現を目標とした文明を持つ人”という意味である、物質的なもの、目に見えるもののことしか考えていない人々は。人生の目的が、わかっていないのである。こうした人々は、物質世界の外面的な形象に捕らえられていて、真の“自由”がどういうものであるか、まったく知らない。物質世界の鎖につながれていて“自由”の知識を持たない人を、“非アーリアン人”と呼ぶ。アルジュナは、クシャトリヤの義務である戦うことを拒否した。こんな臆病な行為は、非アーリアン人のものである。自分の義務から逃げるという行動は、精神的向上の助けにもならないし、この世で成功する機会も逃してしまう。主なる神クリシュナは、アルジュナの、同族に対する“同情”なるものを、決して是認なさらない。

テキスト

クライビャンマスマガマハパールタ
ナイタットヴァユパパダャテ
クスドランフリダヤドゥルバリャン
チャクトヴォッティスタパランタパ

Synonyms

klaibyam —無力; mā sma — ~するな; gamaḥ — ~へ行く; pārtha — おお、プリターの息子よ; na —決して~ない; etat — これは; tvayi — あなたに; upadyate — ふさわしい; kṣudram —つまらない; hṛdaya —心の; daurbalyam —弱さ; tyaktvā —捨て去って; uttiṣṭha—立ち上がれ; param-tapa — おお、敵の懲罰者よ

Translation

プリターの子よ、女々しいことを考えるなそれは君にまったく不似合いだ仇敵(かたき)をこらしめ罰する者よ卑小な心を捨てて、さあ立ち上がれ!

Purport

 ここでプリターの息子と呼ばれているように、アルジュナはクリシュナはクリシュナの父、ヴァスデーヴァの姉にあたるプリターが生んだ子です。したがってクリシュナとアルジュナは血縁関係にあります。クシャトリア階級に生まれた男子が、もし戦闘を断ったりしたら、それは名前だけのクシャトリアです。もしブラーフマナの息子が不徳名な行いをしたら、それは名だけのブラーフマナです。こんな息子たちは父親にとって何の値打ちもない子、不肖の子、恥さらしです。クリシュナはアルジュナにそんな息子になってほしくないと思っています。血縁というだけでなく、クリシュナにとってアルジュナは無二の親友で、現にこうして自ら御者の役を買って出ています。こうした事情の元にあるのに、もしここでアルジュナが戦闘をボイコットしようものなら、彼の今までの名声はたちまち地に堕ちることでしょう。ですからクリシュナは「そんな態度は君らしくない」と言いました。アルジュナは「尊敬してやまぬビーシュマ祖父をはじめ、親類縁者を殺したくない」という寛大な気持ちから戦闘放棄するのだと主張するかもしれませんが、そんな寛大さや高潔さなどは、本当は心の弱さからきていておよそ見当違いだとクリシュナは考えています。クリシュナ自らがじきじきに彼の戦車を駆って導いているのです。アルジュナはこの期に及んで、非暴力主義などを唱えるべきではありません。

テキスト

アルジュナ ウヴァーチャ
カタン  ビーシュマーマハン サンキェー
ドローナン チャ マドゥスーダナ
イシュビヒッ プラティヨーットシャーミ
プージャールハーラヴァリスーダナ

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; katham — どのように; bhīṣmam — ビーシュマ; aham — 私は; sańkhye — 戦いにおいて; droṇam — ドローナ; ca — もまた; madhu-sūdana — おお、マドゥを殺したものよ; iṣubhiḥ —矢で; pratiyotsyāmi —反撃する; pūjā-arhau —尊敬すべき人々; ari-sūdana — おお、敵を殺すものよ

Translation

アルジュナ言う: おお敵を滅ぼす者よ、マドゥを殺した者よビーシュマやドローナのような方々にどうして弓が向けられましょうか私はむしろ彼らを礼拝したいのです.

Purport

 ビーシュマ祖父やドローナ先生のような立派な年長者に対しては、常に敬慕し拝礼しなければいません。たとえ彼らが攻撃してきても、反撃してはいけないのです。立派な年長者に対しては口争い、口ごたえすらしてはなりません、というのが常識的な作法です。時には彼らからひどい仕打ちをされることがあっても、やわらかに応対するのが道です。そんなわけですから、どうしてアルジュナは彼らと戦争などできましょうか。クリシュナでさえ、自分の祖父であるウグラセーナや、師のサンディパーニムニに対して、攻撃したことなど一度もないではありませんか。こうした事実もアルジュナの主張の根拠となっているのです。

テキスト

グルーナハトヴァーヒマハーヌバーヴァン
シュレヨボクトゥンバイクシャマピーハローケ
ハットヴァールタカーマームストゥグルーニハイヴァ
ブーンジーヤボーガーンルディラプラディグダーン

Synonyms

gurūn —目上の人々; ahatvā —殺さないこと; hi —確かに; mahā-anubhāvān —偉大な魂たち; śreyaḥ — ~の方がよい; bhoktum —人生を楽しむ; bhaikṣyam —乞うことによって; api — ~でさえ; iha — この人生において; loke — この世界で; hatvā —殺すこと; artha —獲得;kāmān —望んで; tu — しかし; gurūn —目上の人々; iha — この世界で; eva —確かに; bhuñjīya —楽しまなければならない; bhogān —楽しめる者; rudhira —血; pradigdhān — ~で汚れた

Translation

師と仰ぐ立派な人々を殺すくらいなら私は乞食をして暮らす方がよいたとえ欲深でも年長の人を殺せば戦利の物は血でのろわれましょう。

Purport

 聖典の法規によると、もし師たる者が言語同断な忌まわしい行いをしたり、正気を失って正邪の判断力がなくなった場合は、弟子は師を見捨ててもよいとされています。ビーシュマとドローナは、ドゥルヨーダナから財政的援助を受けていたのが理由で彼の側につきました。本来、それくらいの理由で悪者に手を貸すべきではありませんでした。ですから彼らは師としての品位を失っているのです。それでもなお、アルジュナは彼らを年長として慕っています。ですから、彼らを殺して物質的利権を得るのは血で汚れた戦利品を喜んで収めることだ、と思うのです。

テキスト

ナチャイタドヴィドマカタランノガイヨー
ヤドヴァジャイェマヤディヴァノジャイェユー
ヤネヴァハットヴァナジジヴィサマス
テヴァスティタプラムケダールタラストラー

Synonyms

na — でない; ca — もまた; etat — これ; vidmaḥ — 我々は知っている; katarat — どちらが; naḥ —我々にとって; garīyaḥ — ~のほうがよい; yat vā — ~かどうか;jayema —我々が征服する; yadi — もし; vā — または; naḥ —我々を; jayeyuḥ —彼らが征服する; yān — (~である)人々; eva —確かに; hatvā—殺すことによって; na —決してない; jijīviṣāmaḥ —我々は生きたいと思うだろう; te —彼ら全員; avasthitāḥ — 位置して; pramukhe — ~の前に; dhārtarāṣṭrāḥ — ドリタラーシュトラの息子たち

Translation

おお我らはいかにすればよいか敵に勝つべきか また負けるべきか殺せば我らも生を望まぬドリタラーシュトラの子たちと対陣するとは――

Purport

 クシャトリヤとしての義務とはいえ、無益な殺生が行われるのを覚悟の上で、今ここで戦ったほうがよいのか、それとも戦わずに乞食になったほうがよいのか、アルジュナは迷っています。敵に勝たなければ、乞食になるよりほかに生きる道はありません。勝敗は五分五分です。正義はこちらにあるのだから必ず勝利する、としても、もしドリタラーシュトラの息子たちが皆死んでしまったら、その後の自分の生涯はさぞ苦しいものになるだろう、この戦いでの勝利は別な意味の敗北につながるのだ、。以上のようなアルジュナの考えは彼が主の偉大な献身者であるばかりでなく、真理の知識にもたいそう明るくまた心と感覚を完全に支配できる人物だということを、はっきり証明しています。王家に生まれた身でありながら、乞食になってもよい、これはまた無執着の証拠でもあります。グルであるシュリークリシュナの訓戒に対する信。そして見事な自制心。これらから、アルジュナは真の自由を得るに全くふさわしい人物であると言えます。感覚を制御できなければ知識の高台に上ることはできません。知識と献身がなければ、自由(解脱)を得ることはできません。アルジュナは肉体的物質的にも実に多くの長所を持っていますがそれらをはるかにしのいで、精神的な特性を具えていたのです。

テキスト

カルパンヤドソパハタスヴァバーヴァハー
プラッチャミトヴァンダルマサムダハチェタハ
ヤクチェレヤシャンニスチタンブルヒタンメ
シシャステーハンサディマントヴァンプラパンナン

Synonyms

kārpaṇya —不幸の; doṣa —弱さによって; upahata —悩まされて; sva-bhāvaḥ —特徴; pṛcchāmi — 私は尋ねよう; tvām — あなたに; dharma —宗教; sammūḍha —当惑した; cetāḥ — ハートの中で; yat —何が; śreyaḥ —最もよい;syāt — であるかもしれない; niścitam —確信して; brūhi —話して下さい; tat — それ; me —私に; śiṣyaḥ —弟子; te — あなたの; aham — 私は~です;śādhi — どうか教えてください; mām — 私に; tvām — あなたに; prapannam —身をゆだねた.

Translation

心の弱さゆえに平静を失い義にかなう道はいずれか迷い果てました願わくは最善の法を教えたまえ私はあなたの弟子、絶対に服従します。

Purport

 どんな種類の仕事や遊びでも、およそ物質的、感覚的な活動を続けている限り、人はいつか必ず矛盾を感じ、困窮して途方に暮れる。これが自然の成り行きである。こんな状況になるたびに、人は自分に適当な指示を与えてくれる精神の師(グル)に近づく。この精神の師(グル)は、人生の真の目的を達成させてくれる、正しい誠実な人物でなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、必ず起こる人生の難局を切り抜けるために、「真正の師を求めよ」と、あらゆるヴェーダ関係の書物には書いてある。山火事というものは、誰も火をつけないのに自然に起こる場合がある。それと同じように、人生行路においては、にっともさっちもいかない状態が――むろん誰もそんな状態を望んだわけではないのに、自然に起こってくる。誰も山火事など望んでいないのに、火事になる。私たちはあわてふためき、途方に暮れる。だからヴェーダの智慧は、人生における困難な問題を処理し、また解決の方法を学ぶために、真正は精神の師(グル)に近づけと勧めているのである。精神の師(グル)――これは、バガヴァーンから代々、師から弟子へと受け継いだ人のことである。このような精神の師(グル)についていると、あらゆることを教えていただける。物的、感覚的な現象に悩み迷っていないで、真正な精神の師(グル)のもとに行きなさい。この節は、そのことを説いているのである。

 物質的現象に悩み苦しんでいるのは、どんな種類の人だろうか?人生とは何か。人生の目的は何か。この問題がわかっていない人々である。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャド』(3-8-10)には、次のように書いてある。「人間として、人生とは何かを理解しないのは、まことに哀れである。彼は自己の本性を知る方法もわからずに、猫や犬と同様にこの世を終わる。それは真に不幸な人である。」

 人間の形で生きることは、生物にとって最も価値高く、また有益である。なぜなら、この形は“生”の問題を学び、解決するのに最も好都合だからである。ゆえに、このせっかくの機会を利用しない人間は、まことに哀れな人である。これに反して、知性が十分に発達しているため、この体を、生の問題解決のために役立たせている人――ブラーフマナもいる。
 クリパナたち――哀れな人々は、家族、社会、国、その他“生”の物質的な側面に、必要以上にのめり込んでいる。ある人々は家庭第一主義で、妻や子供などに執着しきっている。互いに皮一枚だけの関係なのに――。クリパナたちは、自分が家族の生命を守っていると思い、また自分の家族や社会は自分の生命を守ってくれるものと思っている。家族間の愛着などは、ずっと低級な動物でも持っている。彼らだって命がけで子供を育てる。アルジュナは知性が発達していたので、家族に対する感情と、彼らの生命を守りたいという希望が、自分の苦悩と迷いの原因であることを、よく承知していた。戦うのが義務であることはよくわかっているが、心の弱さゆえに、義務を遂行することができない。それで彼は主クリシュナに、至上の精神の師(グル)に決定的な答えを求めたのである。彼は「私はあなたの弟子です」と申し出て、友人としての言葉使いを止めようと思った。師と弟子の間における問答は、まことに重大である。今やアルジュナは、精神の師(グル)の前で真剣に問うのである。つまり、クリシュナこそ、『バガヴァッド・ギーター』を教えた最初の精神の師(グル)であり、アルジュナこそ、『ギーター』を会得した最初の弟子なのである。アルジュナがどのように『バガヴァッド・ギーター』を理解したかは、『ギーター』そのもののなかに書いてある。だが、愚かな俗学者たちは、「人であるクリシュナに従う必要はない。“目に見えぬ内なるクリシュナ”を考えればよい」などと説明する。クリシュナに内と外の区別はない。こんな感覚で『ギーター』を理解しようとするのは、愚の骨張というものである。

テキスト

ナヒプラパシャーミママーパヌドヤード
ヤクチョカムッチョサナミンドリヤーナン
アヴァーピャブーマーヴァサパトナンリッダン
ラージャンスラーナーマピチャーディパテャン

Synonyms

na — でない; hi —確かに; prapaśyāmi — 私は見る; mama —私の; apanudyāt —追い払うことができる; yat — (~である)もの; śokam —悲しみ; ucchoṣaṇam —干し上がらせる; indriyāṇām —感覚の; avāpya —獲得する; bhūmau — ;地上で; asapatnam—無敵の; ṛddham — ;繁栄した; rājyam —王国; surāṇām —神々の; api — でさえ; ca — もまた; ādhipatyam—主権

Translation

たとえ地上に無敵の王国を勝ち得ても天国の神々(デーヴァ)のような主権を持つとも心も枯れ朽ちるような悲しみを追い払うことはできません

Purport

 アルジュナは宗教的、道徳的見地に基づいた知識をあれこれ並べ立てて、一生懸命に自分の意見を主張してみますが、グルである主クリシュナの助けがなくては、現在ぶつかってる問題を解決することはできません。彼は自分の持つ知識なるものが、自己の全存在を空虚にするほどの大問題を解決するのに、何の役にも立たぬことに気づきました。主クリシュナのようなグルの助力がなくては、どうにもならないのです。大学で教える月並みな知識や学問、または高い社会的地位、このようなものは、人間にとって一番肝心な問題、つまり生命や人生の問題については全く無力なのです。これに手を差し伸べてくれるのは、ただクリシュナのようなグルだけです。クリシュナ意識に満ちたグルだけがこの問題を解決してくれるのです。「社会的地位のいかんにかかわらず、クリシュナ意識を身につけた人こそが、真正のグルである」と主チャイタンニャは言われました。

kibā vipra, kibā nyāsī, śūdra kene naya
yei kṛṣṇa-tattva-vettā, sei ‘guru’ haya

「クリシュナに精通している人が真正のグルである。その人がヴェーダ学者でも卑賎の生まれでもまた出家だろうとそうしたことは一切関係がない。」(チャイタンニャ・チャリタームリタ、マデャ8.128) つまり、クリシュナ意識を修めた人でなければ、真正のグルではない、ということです。ヴェーダ文献にもつぎのような記述があります。

ṣaṭ-karma-nipuṇo vipro
mantra-tantra-viśāradaḥ
avaiṣṇavo gurur na syād
vaiṣṇavaḥ śva-paco guruḥ

「全ヴェーダに精通したブラーフマナの学者でもヴァイシュナヴァでなければ、すなわちクリシュナ意識に精通していなければ、グルとして不適格である。だが、たとえ低いカーストの生まれでもヴァイシュナヴァならばグルとなり得る」(パドマ・プラーナ)

物質的存在に関する諸問題、生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと。これらの苦悩はいくら富を積んでも社会がよくなっても無くすることは出来ません。世界には、豊かで物が有り余ってる国もあります。生まれてから死ぬまで社会保障の完備している国もあります。ですが、そこにも生老病死の苦悩は依然としてあります。そうした国の人々も含めて世界中の人々が様々な方法で平和を求めています。心身の平安を求めています。しかし、真実の幸福は、クリシュナに尋ねなくては得られません。それは『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』によってクリシュナの事を学ぶこと。そしてクリシュナ意識に満ちたクリシュナの正統な代理者の導きに従うことなのです。

家族、社会、国家、また国際的紛糾、こうした悩みが経済的に発展し物が豊富になって、消えてなくなるものであればここでアルジュナが「地上に無敵の王国、、、」とは言わなかったでしょう。彼はクリシュナ意識に保護を求めたのです。そして、これこそ真の平安と調和に至る正道です。経済の発達も世界制覇も自然界に大異変が起これば一瞬の夢と消えてしまいます。たとえ地球より高級な天体に昇り住んだとしても、、、人類は今、月に場所を探しているようですが、、、そんな生活も時の一撃で消滅するでしょう。ギーターにもはっきりと記されています。「善行の果報が尽きたとき、その人は幸福の絶頂から奈落の底に落ちる」と。世の多くの政治家たちが、こうした道をたどっています。没落は、出世しない前より、苦悩と悲観が多いのです。

永久の悲苦から解放されたいと望むのでしたら、その方法はただ一つ。クリシュナに保護していただくことです。アルジュナのように。アルジュナはクリシュナに問題解決を一任しました。クリシュナの指示に絶対服従しようと決心しました。これがクリシュナ意識の道なのです。

テキスト

サンジャヤウヴァーチャ
エーヴァムクトヴァフリシケーシャン
グダケーシャパランタパハ
ナヨッツヤイティゴーヴィンダン
ウクトヴァトゥスニンバブーヴァハ

Synonyms

sañjayaḥ uvāca — サンジャヤは言った; evam — このように; uktvā —話して; hṛṣīkeśam —感覚の主、クリシュナに;guḍākeśaḥ — 無知を阻止する主人アルジュナ; parantapaḥ —敵の懲罰者; na yotsye — 私は戦わない; iti — このように; govindam —感覚に喜びを与える者、クリシュナに; uktvā —言って; tūṣṇīm — ;沈黙して; babhūva — ~になった; ha —確かに

Translation

サンジャヤ言う: 敵を滅ぼす者(パランタバハ)=アルジュナはこのようにクリシュナに申し上げ「ゴーヴィンダよ、私は戦いません」と黙り込んでしまいました

Purport

アルジュナに戦う気がなく、はじめから戦場を脱落しそうだということがわかったので、ドリタラーシュトラは大いに喜んだことでしょう。ですが続いてサンジャヤがアルジュナのことを「滅敵者パランタパ」と呼んだので、またがっかりしてしまいました。アルジュナは現在一時的に、家族のことで誤った悲嘆にくれているけれども、至上のグルであるクリシュナに、弟子として絶対服従することを誓ったのです。ということは、まもなく誤りの悲嘆から解放されて、自己実現の知識で光明化されるはず。そしてそのクリシュナ意識によって正々堂々と戦うに違いないのです。ドリタラーシュトラの喜びは瞬時にしてむなしくなったのです。

テキスト

タムヴァーチャフリシケーシャ
フラハサンニヴァバーラタ
セーナヨールバヨールマデェ
ヴィシーダンタミダンヴァーチャ

Synonyms

tam —彼に; uvāca —言った; hṛṣīkeśaḥ —感覚の主、クリシュナ; prahasan —微笑んで; iva — そのような; bhārata — おお、バラタの子孫、ドリタラーシュトラよ; senayoḥ —軍隊の; ubhayoḥ —両軍の; madhye — ~の間で; viṣīdantam — unto悲嘆している者に; idam —次の; vacaḥ —言葉.

Translation

おおバラタの子孫よ、このときクリシュナは にっこり笑い両軍の間で悲しみに沈むアルジュナに向かって語られました

Purport

 本来、これはフリシーケーシャとグダケーシャとの親友同士の語らいで、二人は同等の立場にあったのですが、片方が自発的に他方の弟子となりました。友が弟子になると申し出たので、クリシュナは微笑みました。万有万物の主であるクリシュナは、上位の立場にありますが、各人の望みに応じた役割をしてくださいます。彼を友と思いたい者に対しては、無二の友となり、彼の親でありたいと思う者には、子供となります。愛人にもなります。そしてひとたび師の役を引き受けたときには、ただちに威厳をもったグルとして語る、、、この師弟問答が両軍の面前で公然と交わされたことは、ここにいるすべての人々の精神的向上の糧とするためでした。すなわち、この『ギーター』の内容は或る特別な個人や社会、集団のためのものではありません。全人類に向ってのメッセージであり、友も敵も、等しくこの言葉を聴く資格を持つのです。

テキスト

シュリーバガヴァーンウヴァーチャ
アショーチャナンヴァソーチャストヴァン
プラジュナヴァダンスチャバシャシェ
ガタスナガタスンスチャ
ナヌショチャンティパンディタハ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言った; aśocyān —嘆く価値のないもの; anvaśocaḥ —嘆いている; tvam — あなたは; prajñā-vādān —学識の或る話; ca — もまた; bhāṣase —話している; gata —失われた; asūn —生命; agata —過ぎ去らない; asūn —生命; ca — もまた; na —決して ない; anuśocanti —嘆き悲しむ; paṇḍitāḥ —学識のある.

Translation

バガヴァーン語る: 博学なことを君は話すが悲しむ値打ちのないことを嘆いている真理を学んだ賢い人は生者のためにも死者のためにも悲しまぬ

Purport

 主は即座に師としての立場をとり、間接的に「なんじ、愚か者よ」と言って弟子を懲らしめられました。学識ある人間のような話し方をしているが、お前は、学んだ人とはいかなる人物の事を指すのか、まるでわかっていないではないか。学んだ人とは、肉体とは何か、魂とは何かを、真に理解できた人のことです。その人は体がどんな段階にあろうと、そんなことで悲しんだりしません。肉体が生きていようと、死んでいようと。
後の章で説明していますが、知識とは物質と精神、および両者の管理者を知ること、を意味しています。アルジュナは、政治的、社会的なことより、宗教の原則を重視すべきだ、と主張しています。しかし彼は、物と魂、および神に関する知識の方が、ありきたりの宗教的規定より、もっともっと重要だということを知りませんでした。一番肝心なことを知らないのに、知識人ぶったことを言う。真の知識がないから、悲しむ必要のないことを悲しみ、嘆きます。この世に生まれた肉体は死ぬことに決定しています。その時は今日か明日か、それどころか一瞬先かもしれないのです。ですから肉体は魂ほど重要ではありません。このことが本当にわかっている人は、肉体がどのような状態にあろうとも、決して悩んだり悲しんだりしないのです。

テキスト

ナトヴェーヴァハンジャトゥナサン
ナトヴァンネメジャナディパー
ナチャイヴァナバーヴィシャマー
サルヴェーヴァヤマタパラン

Synonyms

na – never; tu – but; eva – certainly; aham – I; jātu – at any time; na – did not; āsam – exist; na – not; tvam – you; na – not; ime – all these; jana-adhipāḥ – kings; na – never; ca – also; eva – certainly; na – not; bhaviṣyāmaḥ – shall exist; sarve vayam – all of us; ataḥ param – hereafter.na —決して でない; tu — しかし; eva —確かに; aham —私が; jātu — どんな時でも
; na — しなかった; āsam —存在する; na — でない; tvam — あなたが; na— でない; ime — これら全ての; jana-adhipāḥ —王たち; na —決して でない; ca — もまた; eva —確かに; na — でない bhaviṣyāmaḥ —存在するだろう;sarve vayam —我々全員; ataḥ param — この後.

Translation

私も、君も、ここにいる王たちもかつて存在しなかったことはなく将来、存在しなくなることもない始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

Purport

 あらゆる生物は、それぞれのカルマ(行動、及びその反作用)によって、異なった位置と状態で存在します。こうした無数の生物の存在を維持するのが、バガヴァーンである、と『ヴェーダ』『カタ・ウパニシャッド』または『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』のなかで説明されています。そのバガヴァーンの一部分は、生物ひとつひとつのハートの中に在って生きています。聖者と呼ばれているような人々だけが、自己の内にも外にも同一の神が存在することを知って、永遠絶対の平安を得ることができるのです。

nityo nityānāṁ cetanaś cetanānām
eko bahūnāṁ yo vidadhāti kāmān
tam ātma-sthaṁ ye ’nupaśyanti dhīrās
teṣāṁ śāntiḥ śāśvatī netareṣām

(Kaṭha Upaniṣad 2.2.13)

このヴェーダの真理がここで、アルジュナに授けられるのです。彼ばかりではなく、自分では学識があると自惚れているが実際は、ごく貧弱な知識しか持ち合わせていない世の全ての人々に。主なる神は、はっきりおっしゃいます。神ご自身、アルジュナ、そしてこの戦場に集まっている王族たちは、永久に個別の存在であり、主なる神は永遠に、個々の生物の支え手であり養護者である、と。カルマに縛られて不自由な段階にあるときも、解脱して自由自在になってからも、主の支えがなければ、生物は一瞬たりとも存在できないのです。バガヴァーンは至上のお方であり、そして主の永遠の友であるアルジュナもそこに集まっている王族たちも皆、それぞれ永遠の人なのです。はるかな過去からそれぞれ個人として存在し、そのようにして未来永劫に絶え間なく存在し続けるのです。したがって、個々の生物について悲しんだり嘆いたりする必要は全くありません。

マーヤーヴァーディーと呼ばれている学説があります。マーヤーにつまり幻覚、迷妄に覆われているために個々に分かれている魂は、マーヤーを引き剥がして自由になると非人格的宇宙存在原理であるブラフマンに溶け込んで個別性を失う、という理論なのですが、これは最高の権威、主クリシュナによって、ここで支持されていません。といって時間や空間その他に制約された状態での個別性を考えるだけでいい、という学説もまた支持されません。クリシュナははっきりと言明してます。『ウパニシャッド』で確認されているように、主、及び人々の個別性は、未来も永遠に存在し続ける、と。クリシュナのこの声明には絶対の権威があります。なぜなら、クリシュナは絶対に幻覚や迷妄の影響を受けることがないので。もし個別性というものが本当でないのなら、クリシュナがそのことを未来にわたってまでも、これほど強調されるはずがありません。マーヤーヴァーディは、ここでクリシュナが言われた、個別性なるものは、精神的なものでなく、物質的、肉体上のものであると主張するかもしれません。もしそうだとしたら、クリシュナ自体はどうなるのでしょう。クリシュナは自ら過去における個別性を断言し、また未来における個別性をも確認されました。彼は様々に確認なさっています。非人格的なブラフマンは彼に従属している、と宣言されています。クリシュナは精神的な個別性をずっと保ち続けています。もし彼が各個の生物と同じような意識をもった制約された魂の一つだとすれば、彼の語ったギーターなどは権威ある聖典としての値打ちはないでしょう。人間としての欠点や弱さを持つ普通の人は、耳を傾けて聴くに値するような内容を他人に説教することなど、到底出来ません。バガヴァッドギーターは普通の人が書いた普通の文字や哲学とは全く種類の違うものなのです。もしクリシュナが私たちと同じ人間であれば、バガヴァッド・ギーターはさほど重要視する必要はありません。マーヤーヴァーディーはこの節に述べられている複数形の形を、作文上の習慣的、形式的なもので、もちろん肉体のことを言っているのだ、と主張します。ですが、すでに前の節で肉体的な意識は完全に否定されています。生物を物質的、肉体的側面からだけ見る考え方をはっきりと否定した後でクリシュナともあろう御方が、形式だからといって前言をひるがえすようなことをするでしょうか。したがってここの複数形はあくまで精神的立場のことを言っているのです。これはシュリー・ラーマーヌジャのような偉大なグルたちも明言しています。またギーターの各所に、主の献身者たちがこのことをよく了解するとはっきり書いてあります。ある種の嫉妬と羨望の気持ちから、クリシュナがバガヴァーンであることに異論のある人々は、この古今無比の著作の真意に触れることはできません。非献身者がギーターの教えを理解しようとする場合、それは蜜の壷の縁をなめている蜂に似ています。壷の中に入って蜜そのものをなめなければ、蜜の味はわかりません。それと同じようにバガヴァッド・ギーターの神秘は、クリシュナの献身者にだけ理解できるのであって、そのほかの人々にはわかりません。これは第4章に述べられています。主の存在そのものに異論を唱える人々はこの本に触れることもできません。ですからマーヤーヴァーディーによるギーターの解説はまさに真理の歪曲で、人を誤らせるものだと言っても過言ではないでしょう。主チャイタンニャは私たちにマーヤーヴァーディーの書いた注解を読むな、とおっしゃいました。そしてマーヤーヴァーディーの哲学に頼っている人は、ギーターの神秘を会得する能力を、完全に失ってしまう、と警告されました。個別性というものが、五感で経験できる世界だけに限られているなら、主なる神がここでわざわざ教えをたれる必要はありません。神も個々の多数の魂たちも永遠の実在である、これは前述の諸ヴェーダにも明らかに記載されていることです。

テキスト

デヒノースミンヤターデヘー
コーマラムヨウヴァナムジャラ
タタハーデーハンタラプラプティール
ディーラスタットラーナムヒャティ

Synonyms

dehinaḥ —肉体をまとった者の; asmin — この中の; yathā — ~のように; dehe — 肉体において; kaumāram —少年; yauvanam —青年;jarā —老年; tathā —同様に; deha-antara —肉体を変えることの; prāptiḥ —達成; dhīraḥ —目覚めた人;tatra — それに関して; na —決して~でない; muhyati —惑わされる.

Translation

肉体をまとった魂は死後捨身して直ぐ他の体に移る自己の本性を知る魂はこの変化を平然と見る

Purport

 どの生物も個別の魂であり、一瞬一瞬、絶え間なく体を変化されて、あるときは、あどけない子供の相を、またあるときはみずみずしい青年の相を、そして終わりが近づくと枯れ果てた老人の相を表現する。外の姿は変わっても、内なる魂は何も変化しない。個々の魂は最後には体そのものを換えて転生する。それが物質的な体にせよ、もっと精妙な精神的な体にせよ、いずれにせよ転生したら必ず別の体を具えるのである。ゆえに、アルジュナが“死”を嘆く理由は全くない。ビーシュマ祖父のことも、ドローナ先生のことも、なに一つ心配する必要はない。むしろ、老いて古びた体から新しい体に変わる――彼らのエネルギー更新を祝ってあげるのが本当である。次の体が喜ばしいものか悲しむべきものかは、今生でどんな行いをしたかによって正確に定まる。ビーシュマやドローナは、まことに気高い魂なのだから、次生では必ずや精神的な体を持つか、少なくとも物質的存在としては最高に楽しく天界で生活するはずである。どちらにしても、いったい、どこに悲しむ理由があるだろうか。

 個々の魂。スーパーソウル。そして物質と精神の本性。この3つのことについて完全な知識をもっている人を、ディーラ(最も目覚めた人)と呼ぶ。この人は、生物の体相の変化に決してだまされず、もちろん、悩むこともない。

 魂になれば、皆同じだ、というのがマーヤーヴァーディーの論理だが、では、魂が細かく断片に砕き分けられるものだというのであろうか。そんな考えはとても受け入れられない。そうすると、至上者は裂けたり変化したりするものだということになり、“スーパーソウルは不動不変”という原理に反することになる。
 『ギーター』で確認されている限り、至上者の断片部分は“クシャラ”と呼ばれていて、それは永遠の存在(サナータナ)であるが、物質力の影響下に入りやすい傾向を持つ。彼らは永遠の存在だから、いわゆる“解脱”した後も同一の個人としての魂でありつづける。ただ、ひとたび解脱すれば――自己の本性を悟れば、その後はバガヴァーンとともに歓喜と知識に満ちた永遠の生活をする。個々の生物にパラマートマーとして宿るスーパーソウルが、個々の生物と異なることは、反映の理論を当てはめてみるとわかりやすい。空が水面に映るとき、太陽か月、それから星々の姿も映像として見える。小さい星々は生物たち。太陽また月は至上主にたとえられる。至上なる魂はバガヴァーン、シュリー・クリシュナであり、アルジュナは極小な魂を代表している。両者は同一レベルの存在ではない。そのことは第4章の始めのところで明白になる。もしアルジュナがクリシュナと同じレベルにあり、クリシュナがアルジュナよりすぐれていないならば、教える者と教えられる者、という関係は無意味になる。もし両者とも幻想エネルギー(マーヤー)に惑わされているのなら、教えたり教えられたりする必要はない。無意味である。そんな“教え”は何の役にもたたない。なぜなら、マーヤーに捕らえられている者は、正しい、権威ある、そして信頼できる教師にはなり得ないからである。したがってこの場合、主クリシュナは至上主であり、アルジュナはマーヤーに惑わされている生物、ということなのである。

テキスト

マートラースパルシャーストゥクンテヤ
シートスナシュカドゥフカダハー
アーガマーパーイノニテャース
ターンスティティクシャスヴァバーラタ

Synonyms

mātrā-sparśāḥ —感覚による知覚; tu — ただ; kaunteya — おお、クンティーの子よ; śīta —冬; uṣṇa —夏; sukha —幸福; duḥkha — そして苦痛; dāḥ —与えること; āgama —現れ; apāyinaḥ —消滅; anityāḥ —一時的な; tān— それら全て; titikṣasva — ただ耐えよ; bhārata — おお、バラタ王朝の子孫よ

Translation

おおクンティーの子よ、苦楽は夏冬(きせつ)のめぐるごとく去来するがすべての感覚の一時的な作用に過ぎないバラタの子孫よ、それに乱されずに耐えることを学べ

Purport

 義務を着実に行うにあたって、人は一時的な幸・不幸にいちいち心を乱されないように修養しなければならない。ヴェーダの指示によれば、私たちは早朝に沐浴をすることになっていて、マーガ月(1月~2月)でも例外にはできない。大そう寒い時季だけれども、宗教規律を熱心に守る人は少しもためらわずに早朝に沐浴する。また婦人は酷暑の最中の5、6月に、台所で火を使い料理をするのを当然のこととしている。気候や天気がどんなに悪くても、人はなすべきことをなさなければならない。それと同じことで、戦うことはクシャトリヤの宗教原則なのであって、たとえ相手方に友人や血縁者がいても、義務はおろそかにすることはできない。宗教上の規律を守らなければ、知識を得ることは不可能であり、そして知識と信仰だけが。人間をマーヤー(幻想力)のわなから解放してくれるのである。

 アルジュナは2つの別名で呼びかけられているが、どちらの名にも意味がある。カンテーヤ……クンティー妃の息子、母方の偉大な血縁を表す。バラタ王の子孫……父方の偉大さ。アルジュナは両方から偉大な遺産――権利、性質など――を受け継いでいる。大いなる遺産には、それにふさわしい責任をともなう。義務は完全に果たさなければならない。戦いを避けてはいけないのである。

テキスト

ヤマ ヒ ナ ヴャタヤンティ エテ
プルシャン プルシャルシャバ
サマデュッカスカンディラン
ソーアムリタテュワヤカルパテ

Synonyms

yam — (~である)人; hi —確かに; na —決して でない; vyathayanti — 乱されている; ete — これらすべて; puruṣam — 人に;puruṣa-ṛṣabha — おお、人々の中で最も優れた者よ; sama —変えない; duḥkha — 不幸のときに; sukham — そして幸福; dhīram —忍耐強い;saḥ — 彼は; amṛtatvāya —解脱には; kalpate — ふさわしいと考えられる.

Translation

おお人類の中で最もすぐれた男(アルジュナ)よ幸福と不幸に心を乱さず常に泰然としてゆるがぬ者こそ大いなる自由(解脱)を得るにふさわしい

Purport

 精神的に向上しよう、真理を体得しようと堅く決心して、不幸にあっても気を落とさず、幸福な環境にあっても慢心せず、つまり心を乱さないでいられる人は、やがて確実に真の自由、解脱を得られる人です。ヴァルナーシュラマ規定における人生の第4段階、すなわちサンニャーサは、忍苦奨励の場です。ですが、自己生命の完成に向って熱心に努力する人は、あらゆる困難をこえて必ずサンニャーシーとなります。困難のうちでも最大のものは、家族関係を断つ事、妻子を捨てることです。もし人がこの苦痛に耐え得たならば、自己実現の道は達成されたも同然です。ですからここでアルジュナは血縁の人々や愛する人々と戦うのがいかにつらくても、クシャトリヤとしての義務を遂行せよと励まされたのです。主チャイタンニャは24歳のときにサンニャーシーとなりましたが、その当時、若い妻と老婆は彼一人を頼りにしていました。しかし、彼は大儀のためにサンニャーサの道をとり、家族扶養よりもはるかに高い義務を遂行されました。これが物質または肉体の束縛から解脱する方法です。

テキスト

ナーサトヴィデャテバーヴォ
ナーバーヴォヴィデャテサター
ウバーヨラピドリストンタス
トヴァナヨスタットヴァダルシビー

Synonyms

na —決して~でない; asataḥ —非実在のものについて; vidyate — ; ~がある; bhāvaḥ —持続性; na —決して~でない; abhāvaḥ —質の変化;vidyate — ~がある; sataḥ —永遠のものについて; ubhayoḥ —二つの事柄について; api —真に; dṛṣṭaḥ —気づいた; antaḥ —結論; tu —実に; anayoḥ — それらの; tattva —真理の; darśibhiḥ —見る者によって

Translation

物質と精神の本性を学んで真理を徹見した人々は非実在(肉体)現象しても持続せず実在(魂)は永遠に存在することを知る

Purport

 肉体は絶えず変化していて、一刻でも同じ状態にいることはありません。無数の細胞が休みなく作用と反作用を繰り返しているので、肉体は一瞬ごとに変化し続けています。これは現代の科学でも認めている事実です。そして赤ん坊は少年となり、壮年となりやがて老人になります。ですが体と心の状態がどんなに変わっても内なる魂は普遍であり永久に存在し続けます。ここが物質と精神の異なるところです。体は無常であり、魂は永遠です。この結論は絶対真理を人物とする派、また人物でないとする派とを問わず、あらゆる種類、階層の真理を体得した人たちによって確証されています。『ヴィシュヌ・プラーナ』には「ヴィシュヌとその住居はすべて光り輝く精神的存在である」と書いてあります。存在とは精神のためにある言葉で、非存在とは物質のためにある言葉である、これは真理を知る者が皆口をそろえて言っていることです。このことが、無知の闇に迷う生物たちに向って下された、主の教えの第一声です。この無知を除去することによって崇拝する者と崇拝されるべきものの間の永遠の関係を、再確立しなければなりません。全一体の極小部分である生物と全一体そのものであるバガヴァーンとの差異を決定的に了解するのです。

自己とは何か、これを徹底的に研究すると、神とは何か、もわかってきます。自己と神との関係は部分と全体の関係だということがわかってきます。『ヴェーダーンタ・スートラ』でも『シュリーマド・バーガヴァタム』と同様に神は万物の起源なり、とされています。そして万物は、最上層から最下層にわたる自然連鎖のなかに組み込まれています。生物は上層自然に属しています。このことは第七章で明示されています。エネルギーとエネルギーに満ちたもの、この二つは同じですが、エネルギー(自然)はエネルギーに満ちたもの(至上者)に従属すると解釈されています。したがって、生物は常に主なる神に従わなければなりません。ちょうど主人と召使の関係、または教師と生徒の関係のように。この明確必然の知識を、無知の闇に包まれている人は理解することができません。ですからこの無知を追い払うために、万物に対する永遠の教科書として、主なる神はバガヴァッド・ギーターを賜ったのです。

テキスト

アヴィナーシトゥタドヴィッディ
イェナサルヴァミダンタタン
ヴィナーシャマヴャヤシャーシャ
ナカシュチットカルトゥマルハティ

Synonyms

avināśi —不滅の; tu — しかし; tat — それ; viddhi — それを知る; yena — (人に)よって; sarvam —体全体; idam — これ;tatam — ゆきわたる; vināśam —破壊; avyayasya —不滅のものの; asya — それの; na kaścit — だれも~でない; kartum — ~する; arhati — ~できる.

Translation

体内にあまねく充満しているものは 決して傷つかず 壊されもしない たとえ いかなる人でも方法でも 不滅の魂を 滅ぼすことはできないと知るべきだ

Purport

 この節は、もっとはっきり魂の本質を説明しています。それは体全体に広がっている。体中に広がっているもの、それはだれでもわかるでしょう。意識です。苦痛と快感、体の一部分でも体全体としても、一人一人がそれを感じています。この意識の広がりは、各個人の体の中だけに限られています。一個体の快苦は、他の個体には感じられません。ですから個々の体にはそれぞれに、個別の魂があります。個々の意識こそ、魂があるというしるしなのです。この魂の大きさは、毛先の一万分の一だとされています。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』には次のように明記してあります。

bālāgra-śata-bhāgasya
śatadhā kalpitasya ca
bhāgo jīvaḥ sa vijñeyaḥ
sa cānantyāya kalpate

「一本の毛先を百等分し、その一等分をまた百等分する。これが魂の寸法である」次の詩節もこれと同じです。

keśāgra-śata-bhāgasya
śatāṁśaḥ sādṛśātmakaḥ
jīvaḥ sūkṣma-svarūpo ’yaṁ
saṅkhyātīto hi cit-kaṇaḥ

「精神的原子は無数にある。その大きさは毛先の一万分の一」

個々の魂は、物質原子より小さい精神的スパークであり、宇宙に数え切れないほど存在しています。この極微小な精神的スパークが肉体存在の根源で、その生気は体中に広がっています。ちょうどある種の強力な薬品の成分が全身に回って影響するのに似ています。全身に行き渡った魂の気流が、意識として感じられます。意識こそ魂が存在する証拠なのです。どんな人でも、肉体マイナス意識イコール死体、ということはわかっています。死体に対してはどれほどすばらしい物質的な手当てをしても、けっして意識はもどってきません。ですから意識は物質には関係がなく、魂と結合したものであることがわかるでしょう。『ムンダカ・ウパニシャッド』にはまた原子魂の寸法について次のような記述があります。

eṣo ’ṇur ātmā cetasā veditavyo
yasmin prāṇaḥ pañcadhā saṁviveśa
prāṇaiś cittaṁ sarvam otaṁ prajānāṁ
yasmin viśuddhe vibhavaty eṣa ātmā

「魂は精神的原子であり、これは完全な知識を達した人によってのみ看取される。この原子魂は心臓の中に位置し、また体内における5種の気流(プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、サマーナ、ウダーナ)の中を流動し、生物の肉体にあまねく影響を及ぼす。この生理的気流の汚れを落として清浄となったとき、魂の本性が発現する」

ハタ・ヨーガというのは、この5気流をさまざまな座法によってコントロールするためのものであって、美容や健康が目的ではありません。生理的物質的束縛から魂を自由にするのが目的なのです。

この原子魂の本質については全ヴェーダ文献が認めているところで、健全な考え方の人なら実地の修行によって了解できるところです。ただ病的な心理の人だけが、この原子魂のことを「宇宙に遍満するヴィシュヌ・タットヴァ」だと考えています。

原子魂の影響は、ある特定の個体のすみずみにまで及んでいます。この原子魂は『ムンダカ・ウパニシャッド』によると、各生物のハートの中に在ります。ところが原子魂の寸法が、物質次元の科学者の理解を超えているものですから、科学者の中には愚かにも「魂なんて存在しない」などと主張する者がいるのです。原子魂は個々の生物のハートの中に、スーパーソウルとともに断固として存在します。そして肉体活動のすべてのエネルギーは、ここから発するのです。肺から酸素を運ぶ血球は魂からエネルギーを取り入れます。魂がこの場所から去ってしまえば、血液の作用も止まります。医学は赤血球の重要さを認めながらそのエネルギーの源が魂であることを理解できません。ですが、肉体に関する全エネルギーの所在地が心臓であることを、医学は認めています。

原子魂、全一霊の原子部分は、太陽光線の光子に例えられます。日光の中には無数の光子が存在しています。それと同じように、原子魂は至上主が放つ光の火花なのであり、これは「プラバー」(上位エネルギー)と呼ばれています。ヴェーダのみならず、現代の科学においても、肉体の中に魂が存在することは否定できないはずであり、その魂のことについて『バガヴァッド・ギーター』ではバガヴァーンみずからがはっきりと説明してくださるのです。

テキスト

アンタヴァンタイメデハー
ニッテャスヨクターハシャリーリナハ
アナーシノプラメヤシャ
タスマードユダヤスヴァバーラタ

Synonyms

anta-vantaḥ —死滅する運命の; ime — これら全て; dehāḥ —肉体; nityasya —永遠の存在である; uktāḥ — 言われる;śarīriṇaḥ —肉体をまとった魂; anāśinaḥ —決して破壊されない; aprameyasya —測ることの出来ない; tasmāt — それゆえ;yudhyasva —戦え; bhārata — おお、バーラタの子孫よ

Translation

生きとし生けるものは永遠不滅でありその実相は人知によって測りがたい破壊され得られるものはただ肉体だけであるゆえに戦え、バラタの子孫よ!

Purport

 肉体は滅びるのが自然の法則です。今すぐ死ぬか、百年後に死ぬか、ただ時間の問題です。無期限に保存しておくことは絶対に不可能です。しかし魂はあまりにも精妙微細ですから敵の目にも見えないし、殺されることもありません。前節で説明したように、物質原子よりも小さいから、だれもその大きさや目方を測ることは出来ません。どちらの観点からしても嘆き悲しむ必要などないでしょう。生命体は決して殺されません。ただ肉体だけは、遅かれ早かれ必ず滅びます。全一霊の極小部分は仕事をするために肉体を獲得しました。活動には、宗教上の法則を守ることが大いに役立ちます。『ヴェーダーンタ・スートラ』では、生き物は光であるといいます。なぜなら彼らは至上光の一部分だから、といいます。太陽の光が宇宙全体を支えているのと同様に、魂の光がこの肉体を支えています。魂がこの肉体から去った途端に肉体は変質し腐敗し分解していきます。肉体を存続させているのは魂なのです。肉体そのものは、さして重要ではありません。ですからアルジュナはここで、クシャトリヤとして戦い肉体の為に宗教の決まりを無視するべきではない、と勧められているのです。

テキスト

ヤエナンヴェッティハンターラン
ヤスチャイナンマンヤテハタン
ウバウトウナヴィジャーニート
ナーヤンハンティナハンヤテ

Synonyms

yaḥ — (~である)人は; enam — これ; vetti —知る; hantāram —殺す者; yaḥ — (~である)人は; ca — もまた; enam — これ;manyate —考える; hatam —殺される; ubhau —両方とも; tau —彼らは; na — 決して~でない; vijānītaḥ — 知識の中にある; na —決して でない; ayam— これ; hanti —殺す; na — ~でもない; hanyate —殺される

Translation

生物が他を殺す、また殺されると思うのは彼らが真実相を知らないからだ知識ある者は 自己の本体が殺しも殺されもしないことを知っている

Purport

 物質体(肉体)をまとった存在が、武器で致命傷を受けた場合、その肉体を持った生物それ自身は、殺されないのだということを知るべきです。魂は極小ですから、物質の武器で殺すことは不可能です。したがって、魂としての存在である生物を殺すことは不可能です。したがって、魂としての存在である生物を殺すことは不可能です。殺されたとか、殺されるだろうと言うのは、生物がまとっている肉体のことだけなのです。しかりながら、この事実は、肉体を殺しても差し支えない、ということにはなりません。「全ての生物に暴力を加えることなかれ」これがヴェーダの命令です。”生物は死なないのだ”といって、動物を殺すことなど、もってのほかというべきでしょう。何の根拠もないのに他人の体を殺すなど、言語道断の行為であり、国の法律で罰せられるばかりでなく、神の法によっても、きびしく罰を受けるでしょう。アルジュナの場合は、道義に基づいての戦争に出陣したのであって、決してきまぐれに人殺しをしようというのではありません。

テキスト

ナジャヤテムリヤテヴァカーダチン
ナヤンブトヴァバヴィタヴァナブヤー
アジョニッチャシャスヴァトヤンプラーノ
ナハンヤテーハンヤマネシャリレ

Synonyms

na —決して~でない; jāyate —誕生する; mriyate —死ぬ; vā — どちらも(~でない); kadācit — いかなる時でも(過去、現在、未来); na —決して~でない;ayam — これ; bhūtvā — (過去のある時点で)生じた; bhavitā —将来現れる; vā — または; na —決して でない; bhūyaḥ — または再び現れる; ajaḥ —生まれない; nityaḥ —永遠な ; śāśvataḥ —不変な; ayam — これ; purāṇaḥ —最古の; na —決して でない; hanyate —殺される; hanyamāne —殺されても; śarīre —肉体.

Translation

魂にとって誕生はなく死もない原初より在りて永遠に在り続け肉体は殺され朽ち滅びるともかれは常住して不壊不滅である

Purport

質の上からいえば、至上精神の極小部分(原子魂)至上者と不異である。かれは肉体のように変化することはありません。だから魂のことを’クータスタ’(不変者)と呼ぶこともあります。肉体は六種の変化をします。母体の子宮から誕生して成長し、しばらく留まり、副産物をつくってやがて次第に衰え、しまいに忘却のかなたへ消滅します。魂はこんなふうには変化しません。魂は誕生などしません。ただ、魂が肉体を着るとその肉体が誕生します。魂そのものは生まれもせず、したがって死にもしません。生まれたものは必ず死ぬのです。魂は生まれないから過去から現在とか未来とか言うものもありません。かれは永遠であり常住であり原始からある、ということはいつ魂が存在するようになったのかをいくら探索しても無駄だということです。私達は肉体の印象を基礎にして、その誕生、老い、病などの原因を追跡しますが、同じ次元で魂を追跡しても無駄なのです。魂は老いることなく病気にもなりません。ですから、いわゆる老人は自分では子供時代や若い頃と同じ精神でいるのです。肉体の変化は魂に何の影響も及ぼしません。魂は樹木やその他の物質のように時間によって質が低下したりはしません。魂は何の副産物も作りません。肉体の副産物、つまり子供達はそれぞれに個別の魂たちなのです。肉体的観点から、彼らは、 ’だれそれの子供’と見られているだけのこと。魂が住んでいれば肉体は発展変化しますが魂そのものは分家もしないし、変化もしません。魂は肉体の6変化とは無関係です。

『カタ・ウパニシャッド』にも同じような章句があります。

na jāyate mriyate vā vipaścin
nāyaṁ kutaścin na babhūva kaścit
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre

この意味は本節と同じですが、ただ、”ヴィパシュチット”という特別な一語が使われています。これは、知識ある、という意味です。

魂は知識に満ちています。言葉を変えれば、意識に満ちています。意識こそ魂のしるしです。たとえ魂が心臓の座にあることを認められない人でも、意識が存在するということによって、魂の存在が理解できるはずです。雲やその他の理由によって太陽の姿が空に見えない場合でも、日光によってあたり一面が明るいから、私たちは、昼間である、つまり太陽がこの空にあることを確信します。明け方、ほんの少し東の空が明るみかけると、もう私たちは太陽が空にあることを理解します。同じように生きとし生けるものすべての体、人間でも動物でも、には多かれ少なかれ意識がありますから、魂があるのがわかるのです。ですが、この魂の意識は、至上者の意識とは違います。至上意識は過去、現在、未来にわたる完全智です。ですが個々の魂の意識は不完全でまことに忘れっぽいのです。自分の本性を忘れてしまったときには、クリシュナの教訓を受けて教育され啓発されなければなりません。クリシュナは個々の魂とは全然違います。もし同じようなものなら、ギーターにおけるクリシュナの教えは役に立たないでしょう。

魂には二種類あります。微小な粒子魂(アヌアートマー)とスーパーソウル(ビブアートマー)。これに関して、『カタ・ウパニシャッド』には次のように明記されています。

aṇor aṇīyān mahato mahīyān
ātmāsya jantor nihito guhāyām
tam akratuḥ paśyati vīta-śoko
dhātuḥ prasādān mahimānam ātmanaḥ

「スーパーソウル(パラマートマー)と原子魂(ジーヴァートマー)は、生き物の胸の中にある一本の樹に住んでいる。全ての物質的欲望と悲観から解放された者だけが至上者の慈悲を受けて、魂の栄光と至福を知る。」 以後の章で説明する通り、クリシュナこそ至上魂の本源であり、そしてアルジュナは自己の本性を忘れた原子魂です。ですから彼は、クリシュナか、クリシュナの正統な代理者(グル、精神の師)によって啓発されなければならないのです。

テキスト

ヴェダーヴィナーシナンニチャン
ヤエナマジャマヴャヤン
キタンサプルシャパールタ
カングハータヤティハンティカン

Synonyms

veda —知る; avināśinam —破壊されない; nityam —常に存在している; yaḥ — (~である)人; enam — これ(魂); ajam —誕生しない;avyayam —不変な; katham — いかにして; saḥ — それ; puruṣaḥ —人; pārtha — 、おおパールタ(アルジュナ); kam — それを; ghātayati—傷つける原因となる; hanti —殺す; kam —誰を

Translation

おおパールタよ、魂は不生不滅にして 不壊不変なりと知る者がどうしてだれかを殺し、まただれかに殺されることができようか

Purport

目に見えぬ魂が別の体に移動すること、これもまた、スーパーソウルの恩恵です。人が友人の希望をかなえてあげるように、スーパーソウルは原子魂の希望を満たしてくれるのです。諸ヴェーダの中でも『ムンダカ・ウパニシャッド』や『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』には、この考えを美しいたとえで確証した記述があります。一本の木にとまっている二羽の仲良し鳥。これは2種類の魂のことです。一羽の鳥(微小な魂)は、木の実を食べています。もう一羽の方(クリシュナ)は、ただその友を見つめているだけ。二羽の鳥は、ともに本性は同じなのですが、一方は物質という木の実に魅せられて、とりこになっています。他方はただそれを目撃しています。クリシュナは目撃している鳥で、アルジュナは木の実を食べている鳥です。二人は友人である、といっても、やはり常に一方は主であり、他方は従なのです。この関係を忘れてしまった微小な魂は、木の間をあちこち飛び移り、つまり、次々と体を変えて再生を繰り返します。肉体の木にとまった微小な魂は、不自由で苦しくてたまりません。ですが、アルジュナが自発的にクリシュナの訓令に服したように、微小な魂がもう一羽の鳥を至上のグルとしたならば、彼はたちどころに自由となり、あらゆる苦悩から解放されるのです。これは『ムンダカ・ウパニシャッド』と『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』で確認されていることです。

テキスト

ヴァーサンシジルナーニヤターヴィハヤ
ナーヴァーニグリナティナローパーラニ
タターシャリラーニヴィハーヤジルナン
アンヤーニサミャーティナヴァニデヒ

Synonyms

vāsāḿsi —衣服; jīrṇāni —着古した; yathā — ちょうど~のように; vihāya —捨て去って; navāni —新しい衣服; gṛhṇāti —受け取る; naraḥ — 人; aparāṇi — ほかのもの; tathā — 同じように; śarīrāṇi —肉体; vihāya —捨て去って; jirṇāni —古くて役に立たない; anyāni —別の; saḿyāti — まさに受け取る; navāni —新しい肉体; dehī —肉体をまとった者人

Translation

肉体をまとった者人が古くなった衣服を捨てて新しい別の衣服を着るように魂は古びて役に立たない肉体を脱ぎ捨て次々と新しい肉体をまとうのである

Purport

 目に見えない魂が、肉体を変えていく、この事実には反論の余地がないでしょう。最近の科学者の中には魂の存在は信じないけれども、心臓を動かすエネルギーがどこから来るか説明できない人たちがいます。そういう科学者でも、生物が子供から成人へ、そして老年へと状態が移るのは肉体が絶えず変化しているからだということを認めないわけにはいかないでしょう。老年から別の体に移転するのです。このことはすでに前の節2-13で説明してあります。

 目に見えぬ魂が別の体に移動すること――これもまた、スーパーソウルの恩恵である。人が友人の希望をかなえてあげるように、スーパーソウルは原子魂の希望を満たしてくれるのである。諸ヴェーダのなかでも、『ムンダカ・ウパニシャド』や『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』には、この考え方を美しいたとえで確証した記述がある。一本の木にとまっている2羽の仲良し鳥。これは2種の魂のことである。1羽の鳥(微小な魂)は、木の実を食べている。もう1羽の方(クリシュナ)は、ただその友を見つめているだけ――。2羽の鳥は、ともに本性は同じなのだが、一方は“物質”という木の実に魅せられて、とりこになっている。他方はただそれを目撃している。――クリシュナは目撃している鳥であり、アルジュナは木の実を食べている鳥である。2人は友人である、といっても、やはり、常に一方は主であり、他方は従なのである。この関係を忘れてしまった微小な魂は、木の間をあちこち飛び移り……つまり、次々と体を変えて再生をくりかえす。肉体の木にとまった微小な魂は、不自由で苦しくてたまらない。だが、アルジュナが自発的にクリシュナの訓令に服したように、微小な魂がもう1羽の鳥を至上の精神の師(グル)としたならば、彼はたちどころに自由となり、あらゆる苦悩から解放されるのである。これは『ムンダカ・ウパニシャド』(3-1-2)と、『シュヴェータラシュヴァタラ・ウパニシャド』(4-7)で、確認されているところである。

samāne vṛkṣe puruṣo nimagno
’nīśayā śocati muhyamānaḥ
juṣṭaṁ yadā paśyaty anyam īśam
asya mahimānam iti vīta-śokaḥ

 「2羽の鳥は同じ木に住んでいるが、木の実を食べている鳥は、常に渇望と落胆を繰り返して不安である。だが、どうにかして顔を友に向けて、友の栄光を知ったなら、たちどころに悩める鳥は一切の悲苦より解放される。」今やアルジュナは、顔を永遠の友、クリシュナに向けて、彼から『バガヴァッド・ギーター』を学びつつある。こうしてクリシュナの言葉を聞き、主の無常の栄光を理解して、苦悩から解放されるのである。

 アルジュナはここで、年老いた祖父や師の肉体的更新を嘆くな、と諭されました。正当な戦いで死ねば、もろもろの肉体的業報は瞬時に浄化されるのですから、アルジュナはむしろ二人の体を殺すのに喜びを感じるべきです。犠牲壇に身を横たえて命を神に捧げたり、または正当な戦いで死ねば、肉体的業報は直ぐに浄化されてより高い境涯に昇進することが出来るのです。ですからアルジュナの嘆きは全く意味がありません。

テキスト

ナイナンチンダンティシャストラーニ
ナイナンダハティパーヴァカハ
ナチャイナンクレダヤントヤーポ
ナショシャヤティマールタハ

Synonyms

na —決して~でない; enam — この魂; chindanti —切り刻むことが出来る; śastrāṇi —武器; na —決して~でない; enam — この魂; dahati —焼く; pāvakaḥ —火; na —決して~でない; ca — もまた; enam — この魂; kledayanti —漏らす; āpaḥ —水; na —決して~でない; śoṣayati—乾燥させる; mārutaḥ —風.

Translation

どのような武器を用いても魂を切り刻むことはできない火でも焼けず 水にもぬれず風にも干からびることはない

Purport

 あらゆる種類の武器、、、剣、火災、豪雨、竜巻、その他、何を用いても魂を殺すことはできません。現代に使われている火砲兵器ばかりでなく、その当時はもっといろいろ、土、水、空気、エーテルなどを利用した兵器があったことは確かです。最新の核兵器なども火の兵器の類に入りますが、もっと様々な物質元素を用いた兵器があったのです。火器には水の兵器で対抗、、、いまだ現代の科学でも知られていない方法がありました。竜巻の兵器についても現代の科学者たちはまだ何も知りません。とにかく、どんな工夫をしても、何をどれほど使っても、魂を滅ぼすことは出来ないのです。

マーヤーヴァーディーの理論では、なぜ個々の魂が無知であってマーヤーに包み込まれてしまうのか、説明できません。個々の魂を元のスーパーソウルの永遠な独立した一部なのです。個々の魂は永久に原子魂なのですから、その微小なるがゆえにどうしてもマーヤーに圧倒される傾向があります。マーヤーに包み込まれてしまうと、至上主との交際が切れます。それはちょうど火花が火と質的にはおなじですが、火から離れると、とかく消えがちであることと似ています。『ヴァラーハ・プラーナ』には「生物は至上者の一部分である」と記してあります。彼らは永久にそうである、、、『バガヴァッド・ギーター』の節もこれとおなじです。ですから幻マーヤーから解放された後も、生物各自の個別性はそのまま永続します。この事実は主がアルジュナに下された教えによっても明白です。アルジュナはクリシュナから受けた知識によって自由になりましたが、決してクリシュナと同一になったのではありません。

テキスト

アクチェドヨーヤマダーヨーヤン
アクレドヨショーシャエヴァチャ
ニッテャーサルヴァガタースターヌル
アチャロヤンサナータナー

Synonyms

acchedyaḥ —壊れない; ayam — この魂; adāhyaḥ —焼けない; ayam — この魂; akledyaḥ —溶けない;aśoṣyaḥ —乾燥させることができない; eva —確かに; ca — そして; nityaḥ —永遠な; sarva-gataḥ — あまねくゆきわたっている; sthāṇuḥ —不変な; acalaḥ —不動の; ayam — この魂; sanātanaḥ —永遠に同じ.

Translation

この個々の魂は壊れず 溶けず燃えることなく乾くことなく不朽にして あらゆるところに充満し不変にして 不動、不滅である

Purport

 これらの資質からみても、原子魂は永久に全一霊の原始的部分であり、永遠不変に同一の原子であり続ける、ということがはっきりわかる。この場合、一元論を当てはめることは非常に困難である。なぜなら、個々の魂は決して均一的にはならない、等質にはなり得ないからである。物質汚染から浄化され自由となった後、原子魂は自らの選択によって、バガヴァーンの光輝のなかの一火花として存在してもいいが、知性の進んだ魂たちは、神と親しく交わるために、精神界の惑星に入っていく。

 “サルヴァ・ガタ”「あらゆるところに充満する」という言葉は非常に重要であり、意味深い。生きとし生けるものはすべて神の創造である。彼らは陸に水に空気中に、地中に、また火の中にさえ住んでいる。生物は焼却することによって断滅し得る、という考え方は受け入れられない。なぜなら、ここに、「魂は火で焼けぬ」と明白に述べられているからである。ゆえに疑いもなく、太陽星にさえ生物は住んでいる――そこに適した体を具えて。燃えさかる太陽球に生物は住めないのなら、ここの“サルヴァ・ガタ”「あらゆるところに充満する」という言葉が意味をなさない。

テキスト

アヴャクトヤマチントヨヤン
アヴィカールヨヤムチャテ
タスマーデヴァンヴィディトヴァイナン
ナーヌショチトゥマラハシ

Synonyms

avyaktaḥ —目に見えない; ayam — この魂; acintyaḥ —想像を絶する; ayam — この魂; avikāryaḥ —変化しない; ayam — この魂; ucyate —言われる; tasmāt — それゆえ; evam — このように; viditvā — それをよく知って; enam — この魂; na — ~でない;anuśocitum — 嘆き悲しむ; arhasi — あなたは~に値する

Translation

魂は5官で認識することはできない目に見えず人知で想像も及ばぬもの常に変化しないものと知って肉体のために嘆き悲しむな

Purport

 以上の節で描写されているように、魂は、物質的計算上、非常に小さい存在なので、たとえどんなに精度の高い顕微鏡を用いても、見ることはできない。だから、魂は不可視なのである。その存在に関しては、どれほど実験を重ねても、シュルティ、つまりヴェーダに書いてある以上の立証は不可能なのである。魂の存在について、ほかに知識の出所はないのだから、ヴェーダに書いてある事実を私たちは認めるべきであろう。目上の、信用のおける人がそう言った、また権威ある文書にそう書いてある、という理由で私たちは実に多くの物事を是認している。だれも父親の存在を否定できない。母親の言うことを信頼しているからである。それ以外に父を認知する方法がないのである。それと同じように、魂に関しては、ヴェーダを学ぶよりほかに知識の出所がないのである。言いかえると――魂は、人間の経験的知識では想像もつかないような存在だ、ということである。魂は意識である――これもヴェーダの声明だから、私たちは受け入れなければならない。体は変化するが、魂は変化しない。永遠不変であって、無限大であり、原始魂は極微小である。ゆえに、極微小の魂は、不変であっても、無限大の魂と同等になることは、決してあり得ない。無限大の魂とはバガヴァーンのことである。この考えは、諸ヴェーダのなかで繰り返し繰り返し別の言い方で説明されている。物事を間違いなく完全に理解するためには、反復、繰り返し、ということが必要なのである。

テキスト

アタチャイナンニッテャジャータン
ニテャンヴァーマンヤセムリタン
タターピトヴァンマハーバーホ
ナイナンショーチトゥマーラハシ

Synonyms

atha — だが、たとえ~としても; ca — もまた; enam — この魂; nitya-jātam —常に生まれる; nityam —永久に; vā — どちらか; manyase — あなたがそう考える; mṛtam —死んでいる; tathā api — それでもなお; tvam — あなたは; mahā-bāho — おお大勇の士よ; na —決して~でない; enam —魂について; śocitum — 嘆き悲しむ; arhasi — ~に値する

Translation

また、もし魂(生命の徴候)が誕生と死を絶え間なく 繰り返すものと君がたとえ考えていたとしても悲しむ理由は何もない。おお大勇の士よ

Purport

 この肉体のほかに魂などというものは存在しない、と信じている仏教類似の哲学者たちはいつの時代にもいる。主クリシュナが、『バガヴァッド・ギーター』を語られた時代にも、その種の人たちがいた。ローカーヤティカ、またヴァイバーシカという派の哲学者たちである。この人たちは、物質がある状態に結合すると生命現象が現れるのだ、と主張していた。現代の唯物的科学者や哲学者も、同じような考え方をしている。彼らの説によると――物質元素が数種集まって結合し、ある一定の段階になると、互いに作用しあって生命現象を起こす。これが生命の体である、というのである。人類学も少なからずこの哲学が基礎になっている。昨今、アメリカなどで、偽宗教が次々と出現しているが、みなこの考え方を受け継いである。虚無的で非敬虔な仏教の宗派も、これに当てはまるだろう。

 もしアルジュナがヴァイバーシカ派の人たちのように魂の存在を信じていなかったとしても、悲しむ原因などどこにもない。いくらかの容積(かさ)の化合物を無駄にしたからといって、身も世もなく嘆き悲しむ人などいないであろう。いわんや、悲しみのために定まった義務まで放り出すようなことは――。話は別だが、現代の科学戦争では、敵に勝つために実に膨大な化合物を無駄にした。ヴァイバーシカ派の哲学によると、いわゆる“魂”または“アートマー”は、肉体の変質と共に消え失せてしまう。だから、いずれにしても――アルジュナがヴェーダの説に従って魂の存在を信じていても、他派の説によって魂の存在を否定していても、悲しむ理由は全くないのだ。一瞬の休止もなく生命体は発生し続けているのだし、また絶え間なく生命体は消滅しつつあるのである。こんな事件を一々悲しんでいてどうなるであろう。祖父や先生を殺したことが原因で、罪の応報を受けるという心配はないはずである。クリシュナまた同時に、アルジュナのことを“大勇の人”とひやかし半分に呼んでいる。ヴェーダの知識を無視しているヴァイパーシカ派の哲学を受け入れない、と見ているからである。クシャトリヤの一人として、アルジュナは生まれたときからヴェーダ式の教育を受けてきたのだから、その法規に従って行動せざるを得ないのである。

テキスト

ジャタシャヒドゥルヴォムリチュール
ドゥールヴァンジャンマムリタシャチャ
タスマダパリハリャルテ
ナトヴァンソチトゥマーラシ

Synonyms

jātasya —誕生した者について; hi —確かに; dhruvaḥ — 事実; mṛtyuḥ —死; dhruvam — それもまた事実である;janma —誕生; mṛtasya —死んだ者について; ca — もまた; tasmāt — それゆえ; aparihārye —不可避のものについて; arthe — このことについて; na — でない; tvam — あなたは; śocitum — 嘆き悲しむ; arhasi — ~に値する.

Translation

生まれたものは必ず死に死したものは必ず生まれる必然不可避のことを嘆かずに自分の義務を遂行せよ

Purport

 生物は活動するために、何か自分の仕事をするために生まれてくる。活動の1期限が終了すると死ぬことになる。死ぬのは、また新しく生まれるためである。欲望がある限り、生と死の反復は続く。生物はこの環境から逃れることはできない。しかし、このことは、不必要な殺人や屠殺や戦争の言いわけにはならない。でも人間社会においては、ある種の暴力と戦争が、どうしても必要な場合がある。法と秩序を保つためのものは――。

 クルクシェートラの戦争は、至上者の意志なので、必然的に起こるのである。そして、正しい理由で戦うのはクシャトリヤの義務なのである。血縁の者たちが死ぬからといって、自分の義務を遂行するのに悩み苦しむべきではない。アルジュナとしては、法規を破る権利などないし、といって年長の者を殺すという罪深い行為の応報も受けたくない。ジレンマに陥っているわけである。だが、彼の義務の遂行を中止しても、親戚縁者たちの死を止めることはできないし、そのうえ、行為の道を誤ったことによって、面目を失い、人間としての段階が下がるのである。

テキスト

アヴャクタディニブータニ
ヴャクタマダヤニバーラタ
アヴャクタニダナンイェヴァ
タトラカパリデヴァナ

Synonyms

avyakta-ādīni — 始めにおいて形がない; bhūtāni —被創造物はすべて; vyakta —形をあらわす; madhyāni — 中間において; bhārata — おお、バラタの子孫よ; avyakta —形がない; nidhanāni —滅びた時; eva — すべてはそのようである;tatra — それゆえ; kā —何; paridevanā —悲嘆

Translation

万物はその始めにおいて色相(かたち)中間の一時期に色相(かたち)を表現しまた終わり滅して無色相となるこの事実のどこに悲しむ必要があるか

Purport

2種類の哲学者――魂の存在を信じる人と、信じない人がいるとして、どちらの場合とも“死”を嘆く理由はない。ヴェーダの知識の信奉者たちは、魂の存在を信じない人々を“無神論者”と呼ぶ。この無神論の理論からいっても、悲嘆の理由など全くない。魂の有るなしは別にしても、物が創造される前は、物質元素は目に見えない状態に在るのである。この極微細で捕らえがたい、未発現で色相をなさない状態から、万物は発現するのである。エーテル(宇宙にみなぎる精気)から空気が生じた。空気から火が生じた。火から水が生じた。水から土が現れた。そして大地から様々な生物が発現した。たとえば、高層ビルディングも土から現れたものである。壊れて分解したならば、発現物はまた見えなくなって――原子という基本相になって存在する。エネルギー保存の法則があり、時のめぐりにしたがって物は現れ、物は消える。ただそれだけのこと。――こうした自然のめぐりに対して、なぜ嘆かなければならないのか?見えなくなったから、5官に感じられなくなったからといって。物がなくなったわけではない。物というものは始めと終わりには色相がなく、ただ中間にだけ色相が見える、感覚に捕らえられる、ということ。事物の本質を理解すれば、悲嘆の種など、どこにもありえないのである。

 また、『バガヴァッド・ギーター』に書いてあるような、ヴェーダの説――肉体は時が来れば滅びるが、魂は永遠である――を信じるならば、私たちは常に肉体を衣服だと思うように習慣づけなければならない。ドレスを着替えるのでなぜ騒ぐのか?嘆き悲しむのか?永遠の魂にとって、肉体は夢のようなものに過ぎない。私たちは夢のなかで空を飛んだり王様になったりする。だが、目覚めると、空を飛んでもいなければ、王様でもないことがわかる。「肉体は真実の存在ではないのだ。汝は肉体ではない、汝自身を知れ、汝本来の姿を知れ」とヴェーダの知識は私たちを励ましている。いずれにしても――魂の存在を信じなくても、肉体の死には全く悲しむ要素などないのである。

テキスト

アーシュチャーリャヴァットパシャティカシュチッデナン
アーシュチャーリャヴァドヴァダティタタイヴァチャーンヤハ
アーシュチャーリャヴァクチャイナマンヤハスリノティ
シュルトヴァーピェナンヴェーダナチャイヴァカシュチット

Synonyms

āścarya-vat — 驚くべきものとして; paśyati —見る; kaścit — ある者は; enam この魂; āścarya-vat — 驚くべきものとして; vadati — ~を語る; tathā —このように; eva —確かに; ca — もまた; anyaḥ —他の者は; āścarya-vat —同様に驚いて; ca — もまた; enam — この魂;anyaḥ —他の者は; śṛṇoti — ~を聞く; śrutvā — すでに聞いた; api — でさえ; enam — この魂; veda —知る; na —決して~でない; ca — そして; eva —確かに; kaścit — ある者

Translation

ある人は魂の神秘を見て驚嘆しある人はその驚くべき神秘を語りある人はその神秘について聴くが他の人々は聞いても全く理解できない

Purport

 『ギートーパニシャド』はそのほとんどが各『ウパニシャド』に基づいているから、『カタ・ウパニシャド』(1-2-7)の中にこのような節を見い出せたとしても何ら驚くことはない。

śravaṇayāpi bahubhir yo na labhyaḥ
śṛṇvanto ’pi bahavo yaṁ na vidyuḥ
āścaryo vaktā kuśalo ’sya labdhā
āścaryo ’sya jñātā kuśalānuśiṣṭaḥ

 原子魂は巨大な動物の体の中や、バニヤンのような巨大な植物体の中に在るのと同様に、顕微鏡でしか見えないような菌類のなかにも存在している。ほんの少しの場所に万も億もいる細菌類にも魂があるということは、まことに驚嘆に値する。知性の低い人間や、いいかげんな人間には、この個々の精神的火花の驚異が理解できない。宇宙での最初の生物、ブラフマーにさえ教えを授けたほどの、知識において無上の権威者がじきじきに説明して下さっても、彼らには理解できないのである。極微な原子が、象のように巨大にもなり、ヴィールスのように微小にもなる――このことは、物事を物質的な観念でしかとらえられない現代の大部分の人たちには想像もつかぬことである。だから人々は、どんなに説明されても“不可思議な存在”と思っているのである。物質エネルギーに幻惑された人々は、感覚欲を満足させることに夢中になっていて、「自己とは何者なのか?」を考える暇がほとんどない。「自己とは何か」――自分の本性が、実相がわかっていなければ、すべての行動、活動はただ生存のための苦闘、しかも必ず敗北する結果となる空しいあがきになるというのに――。魂について学び、どうすれば物質次元の悲苦から解放されるかを学ぼうとしない人間は、まことに哀れなものである。

 ある程度に達した人々は、魂のことについて知りたい気持ちになり、その種の会合に出て講義を聴く。だが、彼らは知性が十分でないため、スーパーソウルと原子魂を同一のものと誤認してしまう傾向がある。魂の状態について――スーパーソウルと原子魂、各自の役目、お互いの関係、その他こまごまとしたことについて、完全にわかっている人に出会うのは、非常に難しい。そういった人はめったに見つからない。まして、そのことを他人にわかるように説明できる人、その知識を自他の精神向上の糧として十分に役立てることのできる人――こんな人を見つけるのは、もっともっと難しい。だがもし、何とかしてこの魂の知識を身につけたならば、その人生は成功である。

 魂の問題――つまり自己の本性についての知識を得る最もやさしい方法は、最高最大の権威者である主クリシュナによって語られた、『バガヴァッド・ギーター』の内容を受け入れることである。そして、これ以上の言説に惑わされないことである。しかし、クリシュナをバガヴァーンと認めるようになるためには、今生と前生において、大いなる懺悔苦行と奉仕が必要である。だが、純粋な献身者の原因のない慈悲によって、至高者クリシュナを知ることができる――この他の方法はない。

テキスト

デニーニチャマヴァラーヨヤン
デヘサルヴァシャバーラタ
タスマートサルヴァーニブーターニ
ナトヴァンショーチトゥマラシ

Synonyms

dehī —肉体の所有者; nityam —永遠に; avadhyaḥ —殺されない; ayam —この魂; dehe — 肉体の中に; sarvasya — すべての人々; bhārata — おお、バラタの子孫よ; tasmāt — それゆえ; sarvāṇi — すべての; bhūtāni —(生まれる)生物; na —決して~でない; tvam — あなたは; śocitum — 嘆き悲しむ; arhasi — ~に値する

Translation

おおバラタの子孫よ肉体のなかに住むそれは永遠不滅にして殺すことは不可能だゆえにすべての生物について悲しむな

Purport

 ここで主クリシュナはついに、「魂は不滅。肉体は一時的な存在」と、はっきり宣言なさった。したがってアルジュナは、ビーシュマ祖父とドローナ先生の戦死を恐れるがゆえに、義務を遂行しない――などということはクシャトリヤの一人として決して許されない。シュリー・クリシュナの権威なる言葉によって、私たちは魂の存在を信じなければならないのである。肉体のほかに魂などはないのだ、物質元素の相互作用で化学変化が起こり、それが一定の成熟度に達すると生命現象が起きるのだ、などという説を信じてはいけない。だが、魂が不滅だからといって、暴力や殺生を行ってもいいということではない。どうしても必要な戦争の場合は、戦うのに遠慮するなということである。その必要性は、主なる神の裁可によるのであって、人間の都合や気まぐれで決まることではない。

テキスト

スヴァダルママピチャーヴェクシュヤ
ナヴィカンピトゥマラシ
ダルマヤーッディユッダークレヨンヤト
クシャトリヤシャナヴィデャテ

Synonyms

sva-dharmam —自分自身の宗教原則; api — もまた; ca —本当に; avekṣya —考えて; na —決して~でない; vikampitum —ためらうこと; arhasi — あなたは~に値する; dharmyāt —宗教原則のために; hi —本当に; yuddhāt —戦うよりも; śreyaḥ — より良い活動; anyat —他にどんなものも; kṣatriyasya — クシャトリヤの; na — ~しない; vidyate —存在する

Translation

クシャトリヤの義務から考えても宗教原則(ダルマ)を守るための戦いに参加する以上の善事はないのにどこにためらう必要があるのか

Purport

  人間社会における4階級の中で、第2番目の階級をクシャトリヤと言う。“クシャ”とは傷害のこと。“トラヤテー”は保護するという動詞。すなわちクシャトリヤとは、人々を傷害から守る階級なのである。だからクシャトリヤ階級の人々は、森へ入って敵を殺す訓練をする。一人で密林へ入って行き、剣で虎と闘ったりもする。そして、殺された虎は特別な儀式をともなって火葬される。この制度は現代でもジャイプール州の王族たちによって受け継がれている。クシャトリヤたちは、戦闘と殺人のスペシャリストである。なぜこんな階級があるかというと、この世では時折宗教上から“厳正な暴力”が必要だからである。したがってこの階級の人は、そのままじかに出家の境涯には入れないことになっている。政治の世界で“非暴力”を説くのは、一種の外交政策であり、たてまえであって決して本音ではない。宇宙の公理などではない。宗教法規の本には次のように書いてある。

āhaveṣu mitho ’nyonyaṁ
jighāṁsanto mahī-kṣitaḥ
yuddhamānāḥ paraṁ śaktyā
svargaṁ yānty aparāṅ-mukhāḥ
yajñeṣu paśavo brahman
hanyante satataṁ dvijaiḥ
saṁskṛtāḥ kila mantraiś ca
te ’pi svargam avāpnuvan

 「戦場において、王またはクシャトリヤの者が、妬心をいだく敵対者と闘って死んだ場合、彼は天国に行く資格を得る。それは、ブラーフマナが動物を犠牲にして聖火に供えることによって、天国に行くのと同様である。」だから宗教法規にしたがって戦場で敵を殺したり、聖火に供えて動物を殺したりするのは、決して“暴力”ではないと考えられている。なぜなら、人間でも動物でも、宗教の影響下に入ることはその生物にとってまことに有益なのだから。犠牲として供えられた獣は、進化の過程をたどる必要もなく、直に人間に生まれ変わることができるし、戦死したクシャトリヤは、犠牲を供えたブラーフマナのように天国に行くことができるのである。

 明確に定められた義務(スヴァ・ダルマ)には2種類ある。まだ解脱していない人は、現在まとっている肉体に応じた義務を、宗教の規則にしたがって遂行すること。それが解脱に至る方法である。そして、解脱した人は、その特定に義務は精神的なものとなる。もう物質次元、肉体次元の義務ではない。肉体次元においては、ブラーフマナ、クシャトリヤにはそれぞれ特定の義務があって、決しておろそかにしてはいけない。このスヴァ・ダルマは主なる神が定められたものであって、詳細は第4章で明らかになる。肉体次元のスヴァ・ダルマは“ヴァルナーシュラマ・ダルマ”と呼ばれ、精神的な理解の手段なのである。人間教化はこのヴァルナーシュラマ・ダルマの段階から始まる。各自の義務を遂行することによって、生命のより高い階段へと進んでいくのである。

テキスト

ヤダルクチャヤーコパパンナン
スヴァルガドヴァーラマパーヴリタン
スキーナハクシャトリヤーパールタ
ラバンテユッダミードリシャン

Synonyms

yadṛcchayā —自分自身の宗教原則; ca —もまた; upapannam — ~に達した; svarga —天国の惑星の; dvāram —戸;apāvṛtam —広く開いた; sukhinaḥ — たいへん幸運な; kṣatriyāḥ —王侯階級の人々; pārtha — おお、プリターの息子よ;labhante — 成し遂げる; yuddham —戦争; īdṛśam — このような

Translation

おおプリターの子よ、クシャトリヤとしてこのような機会にめぐり会うとはなんと幸せなことか、彼らのために天国の惑星は門を開いて待っている

Purport

 世の最高の精神の師(グル)として、主クリシュナはアルジュナの態度をおしかりになる。アルジュナは、「この戦いには何の益もないと思う。ただ無間地獄へ堕ちる原因になるだけだ」と言った。こんな言葉は無知から出てくる。彼は自分に定められた義務を履行するにあたって、“非暴力”でいることを欲する。クシャトリヤが戦場において暴力を用いない――こんな阿呆の考えである。ヴャーサデーヴァの父であり、偉大な聖者だったパラーシャラがつくった宗教法典、『パラーシャラ・スムリティ」には、次のように書いてある。

kṣatriyo hi prajā rakṣan
śastra-pāṇiḥ pradaṇḍayan
nirjitya para-sainyādi
kṣitiṁ dharmeṇa pālayet

 「あらゆる種類の困難から市民を守るのがクシャトリヤの義務である。そのため、規定された条件のもとでは、あえて暴力を用いなければならない。害意ある王たちの軍勢に打ち勝ち、宗教の教えに従って世界を統治しなければならない。」

 その点からみても、アルジュナが戦いを拒否できる理由はない。もし敵に勝てば、領土を治めて栄華を楽しみ、たとえ戦死したとしても、天国の惑星に昇ることができよう。天国の門は大きく開かれて、彼を待っているのである。どちらにしても、戦うことは彼にとって大いなる益ではないか――。

テキスト

アタチェットヴァミマンダルミャン
サングラーマンナカリシャシ
タタースヴァダルマンキールティンチャ
ヒットヴァーパーパマヴァープシャシ

Synonyms

atha — それゆえ; cet — もし; tvam —あなたが; imam — これ; dharmyam — 宗教的義務として; sańgrāmam —戦い; na — ~しない;kariṣyasi —果たす; tataḥ — そうすれば; sva-dharmam — あなたの宗教的義務; kīrtim —名誉; ca — もまた; hitvā —失うこと;pāpam —罪の反動; avāpsyasi —得るだろう

Translation

だがもし、この正義の戦いにきみが参戦しないならば義務不履行の罪を犯すことになり武人としての名誉を失うのだ

Purport

 当時、アルジュナは天下に鳴り響いた大戦士だった。彼は多くの強力な神々と戦って名誉を得たのである。主シヴァとさえ闘った。狩人の姿をしたシヴァと闘って勝ったとき、主シヴァはむろん喜んで、褒美として“パシュパタ・アストラ”という武器を賜った。彼が偉大な戦士であることは誰でも知っている。軍楽の師、ドローナ先生さえも彼を祝福してある特別な武器を授けた。この武器を使えば彼はドローナ先生をも殺すことができる。そのほかにも様々な武術の最高権威から多くの免許皆伝証をもらっている。養父にあたるインドラ神――天界の王――からも、ある免許証を授けられている。しかし彼がこの戦争に参加しなかったら、クシャトリヤとしての義務を無視することになるばかりか、いままで築き上げてきた名声や善い評判をすべて失ってまっさかさまに落ちることになるであろう。戦うことによってではなく、戦わないことによって彼は地獄へ堕ちるのである。

テキスト

アキールティンチャピブーターニ
カタイシャンティテヴャヤーン
サンバーヴィタシャチャーキルティ
マラナーダティリクヤテ

Synonyms

akīrtim —不名誉; ca — もまた; api — その上さらに; bhūtāni — すべての人々; kathayiṣyanti —語るだろう; te — あなたについて; avyayām —永久に; sambhāvitasya —誉れある者にとって; ca — もまた; akīrtiḥ —悪い評判; maraṇāt —死よりも; atiricyate — より多くなる

Translation

後の世までも人々は常にきみの汚名を語り継ぐだろう名誉ある者にとってこの屈辱は死よりも耐え難いことではないか

Purport

 アルジュナに対する友として、また哲学者として、主クリシュナは彼の戦闘拒否にここで最終的判断を下される。主はおっしゃる――「アルジュナ、君が戦場を離脱したら、もうそれだけで人々は声高に君を臆病者、卑怯者とののしるだろう。どんなに罵倒されてもいいから自分の命を助けたいと、もし君が思っているのだとしたら、わたしは忠告する――戦って死んだほうがはるかによい、と。君のように人格高潔で名望のある人間にとって、酷名は死よりも悪いのだ。命惜しさに逃げてはいけない。戦って死ぬほうがずっといいのだ。社会的地位を失い、末代まで汚名を残さぬように、私の友情を素直に受け入れたまえ――。」

 アルジュナに対する主の最終裁定は――退いて命を全うすることではなく、「戦って死ね!」だったのである。

テキスト

バヤードラナードゥパラタン
マンシャンテトヴァンマハーラタハ
イェシャーンチャトヴァンバフマト
ブートヴァーヤーシャシラーガヴァン

Synonyms

bhayāt —恐れから; raṇāt —戦場から; uparatam — やめた; maḿsyante —彼等は考えるだろう; tvām — あなた;mahā-rathāḥ —偉大な将軍たち; yeṣām — ~にとって; ca — もまた; tvam — あなた; bahu-mataḥ — 大きな尊敬の中に; bhūtvā — ~であった; yāsyasi — あなたはなるだろう; lāghavam —価値が減って.

Translation

いままで、君の名をたたえていた将軍たちは 君が戦いを恐れて戦場から逃亡したものと思い臆病者よと軽蔑するだろう

Purport

 主クリシュナは評決を続けられる。「ドゥルヨーダナ、カルナ、敵方の大将たちは、君が祖父や兄弟のためを思って戦線を離脱したとは決して考えないよ。自分の命が惜しくて逃げ出したと思うに決まっている。そうなれば君に対するいままでの高い評価は、あっという間に消し飛んでします。」

テキスト

アヴァーチャヴァーダームシュチャバフーン
ヴァディシャンティタヴァーヒタハ
ニンダンタスタヴァシャーマルタヤン
タトドゥカタランヌキン

Synonyms

avācya —不親切な; vādān — でっち上げの言葉; ca —もまた; bahūn —多くの; vadiṣyanti —言うだろう; tava — あなたの; ahitāḥ —敵の者たち;nindantaḥ —悪口を言う間; tava — あなたの; sāmarthyam —能力; tataḥ — それよりも; duḥkha-taram — もっと苦痛である; nu — もちろん; kim —何があるか

Translation

敵方の者たちは、こぞって聞くに耐えぬ言葉で悪口を言い君の能力を見くびってののしるだろうこれにまさる苦痛があると思うか

Purport

 はじめ主クリシュナは、アルジュナの理由なき同情からくる思いもかけぬ愚痴を聞いて、びっくり仰天してしまわれた。そして、そんな同情をおよそアーリアン人らしくない、と言われた。これまでの様々な言葉を用いて主は、アルジュナの“同情”なるものが、いかに的外れであるかを話されてきた。

テキスト

ハトヴァープラープシャシスヴァルガン
ジトヴァーヴァーボクシャシェマヒーン
タスマードゥッティシュタクンテヤ
ユッダーヤクリタニシュチャヤハ

Synonyms

hataḥ —殺されて; vā — どちらか; prāpsyasi — あなたは得る; svargam — the天国の王国; jitvā —征服することによって; vā —または;bhokṣyase — あなたは楽しむ; mahīm — この世界; tasmāt — それゆえ; uttiṣṭha —立ち上がれ; kaunteya — おお、クンティーの息子よ; yuddhāya —戦うt; kṛta —決心する; niścayaḥ — 確かに

Translation

おおクンティーの子よ、君が戦死すれば上級の惑星に往って天国の幸を味わい勝てば地上で王侯栄華を楽しむのださあ、立ち上がって戦う決心をせよ

Purport

 たとえ勝利がおぼつかなくとも、アルジュナは戦わなければいけない。もしこの戦場で死ねば、彼は天国の惑星に行くことができるのである。

テキスト

スカドゥケヘサメクリトヴァー
ラーバーラーボウジャヤージャヨー
タトユッダハーヤユジャスヴァ
ナイヴァンパーパマヴァープシャシ

Synonyms

sukha —幸福; duḥkhe — そして不幸; same — 平静に; kṛtvā — そうすること; lābha-alābhau —損と得のどちらも; jaya-ajayau —勝利と敗北のどちらも; tataḥ — その後; yuddhāya —戦いのために; yujyasva —(戦い)従事する; na —決して~でない; evam — このようにして; pāpam —罪の反動; avāpsyasi — あなたは得るだろう

Translation

幸と不幸 損と得勝ち負けのことを少しも考えずにただ義務なるがゆえに戦うならば決して君は罪を負うことがない

Purport

 主クリシュナはアルジュナに向かって、「他のことは一切考えずに、ただ戦うために戦え」と、はっきりおっしゃっている。なぜなら、この戦争はクリシュナの意志なのだから――。クリシュナ意識の活動においては、幸・不幸、損得、勝敗などの考えは、全くない。クリシュナのためにすることは何事によらず超越意識であり、それに物質的、肉体的活動からの反作用(応報)は伴わないのである。自分の感覚を満足させるために活動した人は、それが親切心から行ったにせよ、怒りや愛の情熱から行ったにせよ、必ず善か悪かの反作用を受ける。しかし、クリシュナ意識の活動に、全面的に従ったならば、その人はもう誰の命令にも服する必要はなく、また誰に対しても責任を負わなくてよい。

devarṣi-bhūtāpta-nṛṇāṁ pitṝṇāṁ
na kiṅkaro nāyam ṛṇī ca rājan
sarvātmanā yaḥ śaraṇaṁ śaraṇyaṁ
gato mukundaṁ parihṛtya kartam

 「一切の義務を捨て、全身全霊をもってクリシュナ、ムクンダ(クリシュナの別名)に従う者は、誰に対しても責任を負うことはなく、誰かれも強制されることはない――神々(デーヴァ)にも、聖者たちにも、一般の人にも、血縁者にも、人類にも、先祖たちにも」(Bhag.11-5-41)と言われている。この節ではもっとはっきり説明されている。

テキスト

エシャーテビヒターシャンカイェ
ブッディールヨゲトヴィマーンシュルヌ
ブッディーヤーユクトヤヤーパールタ
カルマバンダンプラハーシャシ

Synonyms

eṣā — これらすべて; te — あなたに; abhihitā —説明した; sāńkhye—分析的考察によって; buddhiḥ —知性; yoge — 結果を期待せずに働くことで; tu — しかし; imām — これ; śṛṇu — さあ、聞きなさい; buddhyā —知性によって; yuktaḥ — ぴったり合った;yayā — ~によって; pārtha — おお、プリターの息子よ; karma-bandham—反動の束縛; prahāsyasi — あなたは~から放される

Translation

これまで分析的知識(サーンキャ)を述べたがプリターの子よ、さらにブッディ・ヨーガの知識をきけ結果を期待せずに働くことにより君は仕事(カルマ)から解放されるのだ

Purport

 『ニクルティ』(ヴェーダ辞典)によれば、“サーンキャ”とは「現象を詳細に説明すること」を意味し、また、魂の本質を説明する哲学をもサーンキャという。そして“ヨーガ”は感覚の制御をその中に含んでいる。アルジュナの「戦わない」という申し出は、感覚を満足させたい気持ちが原因である。最も重要な義務を忘れて、彼は戦わないことを希望した。その理由は、ドリタラーシュトラの息子たち、すなわち自分の従兄弟たちを征服して王侯の栄華を味わうより、血縁者たちを殺さないことの方が幸福に感じる、というのである。どちらにせよ、根本的な考えは“感覚の満足”以外のなにものでもない。従兄弟たちを征服することによって得る幸福と、血縁者が生きているのを見る幸福――いずれも、個人的感覚の喜びである。そのために知識と義務が犠牲になっている。だからクリシュナはアルジュナにこんこんと説明された――祖父の肉体を殺しても、魂は殺しえないのだ。クリシュナ自身を含めすべての個人は、永久にその個別性を失うことなく生き続けるのだ。過去においても、現在も、そして未来永劫に――。なぜならすべては永遠不滅の個々の魂なのだから――。私たちはただ、各自の違ったやり方で肉体という着物を取りかえるだけのこと。そして自由な境涯になって、肉体の衣を着なくてもよくなった後も、個別性を持ち続けるのだ――と。

 魂と肉体について、これまで主クリシュナに実は鮮明に描写して下さった。この、異なった観点から詳説した魂と体の写実的な知識を、ここではニクルティ辞典流に“サーンキャ”と言っている。このサーンキャは、ペテン師カピラの説くサーンキャ哲学とは何の関係もない。ペテン師カピラのサーンキャよりはるか昔に、真実のサーンキャ哲学は『シュリーマド・バーガヴァタム』なかで明細に述べられている。解説者はほんもののカピラ――主クリシュナの化身である主カピラである。母上であるデーヴァーフーティーに向かってこの哲学を説明している。活動的なプルシャ(至上主)はプラクリティ(自然)を“見る”ことによって創造した、と明確に説明されている。このことは諸ヴェーダでも『ギーター』においても認められている。諸ヴェーダはこんなふうに描写している――主は自然(プラクリティ)を一目見て個々の原子魂を妊ませた、と。こういった魂たちは感覚の満足を追い求めて、物質界の中で活動している。彼らは物質エネルギーに魅せられて、自分が楽しむ者だ、と考えている。そして、この考えを解放の最終的な段階まで、引きずっていく。解放の最終段階では、魂は主と一体になりたいと望むのだが、この望みこそ、感覚満足の幻想(マーヤー)の最後の罠の他ならない。実に多くの誕生を繰り返しながら楽しもうと努めた後、初めて偉大な魂はヴァースデーヴァ、主クリシュナにすべてを捧げ、究極の真理を体得するのである。アルジュナはすでにクリシュナを精神の師(グル)として、すべてを一任した。その結果として、クリシュナはここで彼にブッディ・ヨーガの実践方法を話して下さる。ブッディ・ヨーガは、またの名をカルマ・ヨーガといって、主なる神を満足させるためだけ、献身奉仕を実践することである。このブッディ・ヨーガについては、第10章第10節で、「各自のハートにパラマートマーとして住む主なる神との交際」と、はっきり説明してある。しかし、こうした直接の交際は献身奉仕なしには起こり得ない。したがって、献身奉仕、また超越的愛の奉仕を実践している人――つまりクリシュナ意識を持った人だけが、主の特別な恵みによって、ブッディ・ヨーガのこの境地に達することができる。主はおっしゃる――常に神を愛し神に仕える者には、献身(バクティ)についての真実の知識を授ける、と。このようにして献身者は、永遠に至福の神の国にいらっしゃるあの御方のところへ、容易に行くことができるのである。

 以上の説明でわかる通り、この節でいう“サーンキャ”は、ペテン師カピラが発表した無神論的サーンキャ・ヨーガとは無関係だということを、私たちはよくよく心にとめて、誤解しないようにしなければならない。無神論サーンキャは当時の人々に問題にもされていなかったし、第一、主クリシュナがそんな神を無視した哲学などを、取り上げるはずがない。繰り返すが、真実のサーンキャ哲学は『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で、主カピラが述べておられるが、これも話題にしていることとは関係がない。ここで用いられているサーンキャという語は、あくまで「体と魂についての詳細な説明」という意味である。主クリシュナは、アルジュナにブッディ・ヨーガ、またはバクティ・ヨーガの核心を理解させるために、魂について詳細な分析的説明をされたわけである。したがって、最終的には主クリシュナのサーンキャと、主カピラのサーンキャとは、同じことだと言える。両方ともすべてバクティ・ヨーガである。だから主は「サーンキャ・ヨーガとバクティ・ヨーガを区別するのは、知性の少ない人々だ」とおっしゃった。

 言うまでもなく、無神論的サーンキャ・ヨーガは、バクティ・ヨーガとは何の関係もない。それなのに知性の低い人は、『バガヴァッド・ギーター』のなかで無神論的サーンキャ・ヨーガが取り入れられている、と主張する。

 ブッディ・ヨーガとはクリシュナ意識で働くことである――このことを私たちははっきり理解しなくてはならない。完全な知識と歓喜の中で、神に奉仕することである。主なる神の喜びのためだけ働く人は、たとえどんなに難しい仕事をしていても、常に高尚な満足感を味わっている。こうした活動(ブッディ・ヨーガ)を続けていると、主の恵みによって自動的に心身が浄化されて、真理を悟る能力がますます強くなり、やがて真正の解脱を得ることができる。知識を得るために的外れの努力などする必要な全くないのである。クリシュナ意識で働くのと、結果を期待して――ことに自分や家族の物質的幸福を得るのが目的で働くのとでは、外見は同じようでも両者の間には大差がある。私たちが行う仕事の、外見ではなく質の超俗性、優秀性がブッディ・ヨーガなのである。

テキスト

ネハービクラマナーショスティ
プラテャヴァーヨナヴィデャヤテ
スヴァルママプヤシャダールマシャ
トラーヤテマハトバヤート

Synonyms

na — ~がない; iha — このヨーガには; abhikrama — 努力には; nāśaḥ —損失; asti — ~がある; pratyavāyaḥ —退歩; na —決して ない; vidyate — ~がある; su-alpam — 少しの; api — たとえ~でも; asya — これの; dharmasya —仕事; trāyate —解放する; mahataḥ — たいへん大きな~から;bhayāt —危険

Translation

この努力には少しの無駄も退歩もなくこの道をわずかに進むだけでももっとも危険な種類の恐怖から心身を守ることができるのだ

Purport

 クリシュナ意識でする活動、または、自分の感覚の満足を期待することなしに、ただクリシュナに捧げるためだけにする活動は、最も高貴なすぐれた仕事である。ほんの少し始めただけでも、それが無駄になることはない。物質や肉体を対象とする仕事を始めたら、最後まで順調に運ばなければならない。もし途中で邪魔が入って中止することになれば、その試みが全部無駄になってしまう。だが、クリシュナ意識で始めた仕事なら、たとえどんなことでも、永久に有効である。中途までしかできなくても、それは決して無駄にはならない。クリシュナ意識で1パーセントできたことは、永久に効力を持続する。つまり、次に始める時は2パーセントのところからでよい。物質的な仕事は百パーセントまでいかないと、利益にならない。アジャーミラは義務をクリシュナ意識で何パーセントか行ったのだが、最後には主の恩益で百パーセントの結果を得た。このことに関して『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-5-17)にとてもよい1節がある。

tyaktvā sva-dharmaṁ caraṇāmbujaṁ harer
bhajann apakvo ’tha patet tato yadi
yatra kva vābhadram abhūd amuṣya kiṁ
ko vārtha āpto ’bhajatāṁ sva-dharmataḥ

 「ある人が世俗的な職務を捨て、クリシュナ意識の仕事をした。そしてそれも完成できず途中でやめた。それでも彼は何一つ損をせず、むしろ大いなるものを得たのだ。物欲が動機の世俗的仕事を、たとえその人がどれほど見事に完遂しても、その人にとって何の益にもならなず、ただむなしいばかりである。」また、キリスト教でもこう言っている。「たとえ全世界を得るとも、永遠の魂を失って何の益があろうか。」

 物質的、世俗的な仕事と、その結果として獲得したもの――富でも名誉でも、肉体とともに消滅してしまう。しかし、クリシュナ意識での働きは、肉体を捨てた後でも途絶えることなく続いて行く。この世に再生する場合は必ず人間として生まれ、しかも徳高く学識豊かなブラーフマナの家庭か、または裕福な貴族の家庭の子として誕生し、恵まれた環境のゆえに必ず向上の機会を与えられることになっている。これがクリシュナ意識による仕事の比類なくすばらしい特質なのである。

テキスト

ヴィヤヴァサーヤートミカーブッディール
エケハクルナンダナ
バフシャークハーヒャナンターシュチャ
ブッダヨビャヴァシャーイナーン

Synonyms

vyavasāya-ātmikā —堅固なクリシュナ意識で; buddhiḥ—知性; ekā — ただ一つ; iha — この世界で;kuru-nandana — おお、最愛のクルの王子よ; bahu-śākhāḥ—多くの部門を持って; hi —本当に; anantāḥ —限りない; ca — もまた; buddhayaḥ —知性;avyavasāyinām — クリシュナ意識でない者たち

Translation

この道を行くものは断固たる意志を持ち一なる目的に向かってまっすぐ進むだが愛すべきクルの王子よ、優柔不断の者たちは多くの枝葉に虚しく知力を外らしている。

Purport

 人を最高の完成段階に導くクリシュナ意識の強い信仰――これをヴィヤヴァサーヤートミカー知性と称する。『チャイタンニャ・チャリタームリタ』(マディヤ22-62)にはこう書いてある。

‘śraddhā’-śabde – viśvāsa kahe sudṛḍha niścaya
kṛṣṇe bhakti kaile sarva-karma kṛta haya

信仰とは、何か卓越したもの、崇高なものに対する断固たる信頼のことである。人がクリシュナ意識の仕事をするようになると、世俗的な活動をする必要はない。つまり、家族や祖父に対する伝統的な責務、また人類や国家に対する義務もなくなる。報いを期待する仕事というのは、その人が過去においてした善悪の行為の反作用としてある。ひとたびクリシュナ意識に目覚めたならば、その人はもう仕事に好結果をを得ようとして努力する必要はない。クリシュナ意識に定着した人の行動はすべて、絶対水準にあるのであって、すでに生命が物質だという観念が皆無になる。クリシュナ意識が深まっていくと、自然にこの境地に達する。

 クリシュナ意識の人の確固たる目的は知識に基づいている。――クリシュナ意識の人はまれに見る良い魂で、クリシュナ(ヴァースデーヴァ)こそあらゆる顕現事象の根元であるという、断固とした信念を持っている。根に水を与えれば自動的に枝や葉を養うように、クリシュナ意識の人はだれに対しても最上の奉仕をしていることになる――自分自身にも、家族にも、社会にも、国家にも、そして人類にも――。クリシュナが満足する行動は、すべての人にとって大いなる喜びとなるのである。

 しかし、クリシュナ意識による奉仕は、クリシュナの真正の代理者たる精神の師(グル)の指導の下に行うことが最も理想的である。真正の師は学徒の生まれつきをよく理解して、性向に応じた指導をしてくれる。こうして学徒はクリシュナ代理者に絶対服従し、誠実に行動して、クリシュナ意識の完熟を期さなければならない。真正の精神の師(グル)に教示されたことを、今生の使命だと思って受け入れるのである。 シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークルは、かの有名な“精神の師(グル)への祈り”のなかで、私たちに次のように教えて下さった。

yasya prasādād bhagavat-prasādo
yasyāprasādān na gatiḥ kuto ’pi
dhyāyan stuvaṁs tasya yaśas tri-sandhyaṁ
vande guroḥ śrī-caraṇāravindam

「精神の師(グル)が満足すればバガヴァーンは満足する。精神の師(グル)を満足させなければクリシュナ意識へ昇る機会はない。ゆえに私は日に3度、わが精神の師(グル)の慈悲を請うて瞑想し、そして恭しく礼拝する。」

 最も肝要なのは、「自分は肉体ではない、魂なのだ。肉体と魂は全く別のものだ」という完璧な知識を、徹底的にわがものとすることである。理想的に理解するだけではなく、この知識を実際に身につけたなら、必ずそれにふさわしい行動が伴うはずである。もう感覚を満足させるために仕事の結果を期待するなどということはなくなるはずである。心の定まらない人が、成果を求めてあれこれとさまざまな仕事をして、無駄に気力を浪費しているのである。

テキスト

ヤーミマーンプシュミターンヴァーチャン
プラヴァダンテャヴィパシュチタハ
ヴェーダヴァーダラターパールタハ
ナーンヤダスティーティヴァーディナハ
カーマートマーナハスヴァアルガパラー
ジャンマカルマパラプラダーン
クリヤーヴィシェシャバフラーン
ボガイシュヴァルヤガティンプラティ

Synonyms

yām imām — これら全て; puṣpitām —華麗な; vācam —言葉;pravadanti —言う; avipaścitaḥ —知識の少ない者; veda-vāda-ratāḥ — ヴェーダに従うとされる者; pārtha — おお、プリターの息子よ; na —決して~でない; anyat —他に何か else; asti — ~がある; iti — このように; vādinaḥ —唱道者たち; kāma-ātmānaḥ —感覚満足を望んでsvarga-parāḥ —天国の惑星に達することを目指して;janma-karma-phala-pradām — いい所にうまれるなどの好結果を得る; kriyā-viśeṣa —豪華な儀式;bahulām —様々な; bhoga — 感覚の楽しみの中で; aiśvarya — そして富裕; gatim —進歩; prati — ~に向かって

Translation

知識の少ない者たちは天国の惑星に上ること、よき所に転生することまた権力を手に入れたりするために効用のあるさまざまな行事を勧めるヴェーダの華麗な詩句を無上に喜び感覚の満足と贅沢な生活に心を奪われて、それを追い求め人としてこれにまさる望みはないという

Purport

 一般に、人々はさほど知性的ではないので、そのためヴェーダのカルマ・カーンダ部で勧めている活動――効用のある行事に非常に執着する。彼らは天国の生活が最上のものだと思っている。欲しい物は何でも手に入り、酒も女も豊富なところ――そこに住む以上のことはないと思っている。ヴェーダには、天国の惑星に移住するするための様々な供儀法が出ているが、そのなかでもジョーティシュトーマ供儀が有名である。実際「だれでも天国に上りたい人は、これらの供儀を行うべし」と、はっきり書いてある。それで知識の乏しい人々は、これがヴェーダの智慧のすべてだと思い込んでいる場合が多い。こうした未熟な人たちにクリシュナ意識の活動をさせるのは、非常に難しい。愚者たちはその危険も知らなずに毒の木の実に惹かれる。同じように、真理を知らぬ人々は、物質豊富で何不自由なく暮らせる天国に惹かれる。

 ヴェーダのカルマ・カーンダ部には、「4ヶ月の苦行を修する者はソーマラサを飲む資格ができ、それを飲んで不死と永遠の幸福を享受することができる」と書いてある。まだこの地上にいるうちから、このソーマラサを熱心に飲みたがっている連中もいる。彼らはより多くの物欲肉欲を満たすため、体力の増大を願っているわけである。こういう連中は、物質の束縛から自由になることなど、およそ考えてもみない。ヴェーダ式供儀の、豪華な祭典行事が彼らにとってはたいそう魅力的に感じられるのである。こうした官能的な人々にとっては、肉欲の満足が人生の最高の目的であって、そこでは天女のように美しい女たちと親しみ、ソーマラサ酒をふんだんに飲むことができる――彼らはこんな話を聞いて、そこに憧れている。こんな感覚的な幸福は、ちょうど地上の王たちの支配力が一時的であるように、はかなくむなしいものなのである。

テキスト

ボーガイシュヴァルヤプラサクターナン
タヤーパユリタチェタサーン
ヴャヴァサーヤートミカーブッディー
サムードーナビディーヤテ

Synonyms

bhoga — 物質的喜びに; aiśvarya — そして富;prasaktānām —執着している人々に; tayā — そのような物事によって; apahṛta-cetasām —心が惑わされて;vyavasāya-ātmikā —固い決心で; buddhiḥ —主への献身奉仕; samādhau — 心を支配して; na —決して~でない; vidhīyate —起こる

Translation

富の蓄積と感覚の歓びに執着しその追求に右往左往する人々の心には至上主へ献身をしようという堅い決意はおこらない

Purport

 “サマーディ”は「不動心」という意味である。ヴェーダ辞典の『ニクルティ』には、「心が自己の本性を悟って不動なる状態、これをサマーディと呼ぶ」とある。肉体感覚の喜びに関心を持っている人には、サマーディは不可能である。この世のはかない物事を追って右往左往している人々に、サマーディは起こるはずがない。多少の差はあっても、彼らは物質エネルギーの支配下にあるのである。

テキスト

トライグンヤヴィサヤーヴェダー
ニストライグンヨバーヴァールジュナ
ニルドヴァンドヴォニチャサットヴァスト
ニルヨーガクシェマートマヴァン

Synonyms

trai-guṇya —物質自然の三様式に関して; viṣayāḥ — その主題について; vedāḥ — ヴェーダ文献; nistrai-guṇyaḥ —物質自然の三様式を超越した; bhava — ~になれ; arjuna — おお、アルジュナ;nirdvandvaḥ —二元相対なしに; nitya-sattva-sthaḥ — 精神的存在の純粋な状態で; niryoga-kṣemaḥ —利益と保身の概念から自由になって; ātma-vān —自己の内に確立する

Translation

ヴェーダはおもに自然界の三性質(トリグナ)を説くアルジュナよ、この三性質(トリグナ)と二元相対性を超えて利得と安全に心を煩わすことなく確固として自己の本性に住せよ

Purport

物質次元の仕事はすべて、自然界の三性質(トリグナ)のなかで作用と反作用を伴う。何らかの成果を得るための仕事だから、こうした行動が物質界につながれる原因となる。諸ヴェーダはおもに、一般大衆をだんだん浄化している――つまり、盲目的な感覚欲の世界から、段階的に引き上げて清浄神聖な世界へと導くための行事を詳細に説明している。だがアルジュナはここで、主クリシュナの弟子としてまた友人として、自身をヴェーダーンタ哲学で説く超越的境地にまで高めよ、と勧められている。この哲学ではまず始めに、ブフマ・ジジュニャーサー、すなわち、絶対真理を知りたいという意志と探究心が必須である。ところが物質界に住む生物は激烈な生存競争に苦闘していて、真理探究に心を用いるゆとりがない。主は彼らのために、物質世界を創造した後でヴェーダ知識を与え、どのように生きれば物質上の困難や紛糾を排除することができるかを示して下さった。そして感覚満足のための活動が終わった時、つまり“カルマ・カーンダ章”を卒業した時点で、『ウパニシャド』を提供して精神的悟りのチャンスを与えられたのである。『バガヴァッド・ギーター』が第5ヴェーダである『マハーバーラタ』の一部であるように、『ウパニシャド』もヴェーダの一部であって、これは、超俗生活の開始を表明している。

 肉体がある限りでは、三性質(トリグナ)の中での作用、反作用が必ず生じる。幸と不幸、また寒さと暑さといった二元相対の現象に直面して、私たちは“耐えること”を学ばなければならない。相対現象に振り回されず、耐えることによって私たちは利害得失の観念から解放される。クリシュナ意識に満たされたとき、人はこの聖なる境地に達するのである。

テキスト

ヤーヴァーナルトーダパーネ
サルヴァターサンプルトダケ
ターヴァーンサルヴェシュヴェデシュ
ブラーマナシャヴィジャナタハ

Synonyms

yāvān — (~である)すべてのこと; arthaḥ —意味される; uda-pāne — 井戸の水で; sarvataḥ — あらゆる点で; sampluta-udake — 巨大な貯水池で; tāvān —同様に; sarveṣu — すべてにおいて;vedeṣu — ヴェーダ文献; brāhmaṇasya —至高ブラフマンを知る人の; vijānataḥ —完全な知識のある(人).

Translation

巨大な貯水池は小さな井戸の役目をすべて果たすようにヴェーダの真義を知る者はヴェーダのすべての目的を知る

Purport

ヴェーダ文献のカルマ・カーンダ部門に書いてある祭典や供犠は、自己の悟りの段階的発達を助長するためのものです。そして自己の悟りの目的はギーターの第十五章十五節にはっきりと述べられている――諸ヴェーダを学ぶ目的は、万物万象の根元なる御方、主クリシュナを知るためである、と。ですから、自己の悟りとは、クリシュナを知り、クリシュナと自分との永遠の関係を了解することなのです。ギーターの第十五章七節には生物とクリシュナとの関係についても説明しています。生きとし生けるものはすべて、それぞれにクリシュナの一部分です。したがって個々の生物におけるクリシュナ意識の回復は、ヴェーダ知識の最高完成です。このことは『シュリーマド・バーガヴァタム』でも次のように確言されています。

aho bata śva-paco ’to garīyān
yaj-jihvāgre vartate nāma tubhyam
tepus tapas te juhuvuḥ sasnur āryā
brahmānūcur nāma gṛṇanti ye te

「おおわが主よ、あなたの聖なる御名を唱念する人は、たとえチャンダーラ(犬喰い)のごとき賤民の家に生まれていても、真理体得の最高境地にいます。このような人は過去においてあらゆる種類の苦行と供儀を、ヴェーダの祭式にしたがって実行し、そして幾度となく聖地を巡って沐浴し、あまたのヴェーダ文献を学んだに違いありません。このような人はアーリアン家系のなかでも、最上の人物とみなされています。」

 したがって、私たちはヴェーダの祭式にだけとらわれずに、ヴェーダの真の目的を理解できるほどの知性を持っていなければならない。そして、もっと自由に物欲や肉欲を満たすことのできる天国のような惑星に昇進しようなどという、つまらない欲望を持たぬことだ。現代に住む一般人にとって、ヴェーダに書いてある祭式の規則を全部守ったり、『ヴェーダーンタ』、『ウパニシャド』をくまなく勉強することは、まず不可能といってよいだろう。そうするのは大変な時間と労力と知識と資産が必要なのだから――。これは、現代ではとても無理なことである。ところが、ヴェーダから得られる最上のもの、まさにエッセンスが、主の聖なる御名を唱えることによって、わがものとなる。堕ちた魂たちの救い主である主チャイタンニャが勧めて下さった方法が、これなのである。主チャイタンニャは偉大なヴェーダ学者のプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに「あなたはなぜヴェーダーンタ哲学を学ばずに、まるで愚痴っぽい感情家のように唱名などしているのですか?」と聞かれたときに、こうお答えになった。「わたしの精神の師(グル)わたしを大ばか者だとごらんになり、主クリシュナの御名を唱えよとおっしゃったのです。」師の命に従って専一に唱名を続けているうちに、主チャイタンニャは最深のエクスタシーに入り、まるで狂人のようになられた。カリ期と称される現代は、大部分の人々は頭が悪く、ヴェーダーンタの哲理を理解することができない。だが、主の聖なる御名を唱えることによって、ヴェーダーンタ哲学が示す最高の目的地へ無理なく達するのである。ヴェーダーンタはヴェーダの知識の究極点である。そして、ヴェーダーンタの著者でありそれを知り尽くされているのが、主クリシュナ自身である。そして、最高のヴェーダンティストは、主の聖なる御名の唱名を心から喜ぶ偉大な魂のことである。これが、ヴェーダによる神秘の教えの究極目標なのである。

テキスト

カルマンイェヴァーディカーラステ
マーファレシュカダーチャナ
マーカルマファヘトゥルブール
マーテサンゴストヴァカルマニ

Synonyms

karmaṇi — 定められた義務において; eva —確かに; adhikāraḥ —権利; te — あなたの; mā —決して~でない; phaleṣu — 成果について;kadācana — いかなる時でも; mā —決して~でない; karma-phala — 仕事の結果について; hetuḥ —原因; bhūḥ — ~になる; mā —決して~でない; te — あなたの; sańgaḥ —執着; astu — ~があるべきである; akarmaṇi — 定められた義務をしないこと

Translation

君に定められた義務を行う権利はあるが行為の結果についてはどうする資格もない自分が行為の起因で自分が行為するのだとは決して考えるなだがまた怠惰に陥ってはいけない

Purport

 ここに3つの考え方がある。定められた義務。気ままな仕事。それから無活動――怠惰とも言い換えられる。第1の、定められた義務というのは、自然界の性質(グナ)の中で、その人が占める位置による活動のこと。2番目の、気ままな仕事というのは、権威ある人や文書によって容認されていない活動のこと。最後の、怠惰――これは定められた義務を行わないこと。主クリシュナはアルジュナに向かって、怠惰になるな、結果を考えることなく義務を積極的に行え、と勧められている。自分のした仕事の結果に執着する人は、その行為の起因は自分だと思っている。だから彼は、行為の結果によって喜んだり悲しんだりするのである。

 定められた義務は、3つに分けられる。日常の決まり切った仕事。非常事態における仕事。それから、希望を達成するための活動。日常の仕事のうち、聖典で指示されている伝統的行事は、別に報いを期待することなく行われている。それは徳性(サットヴァ)の仕事である。結果がどうなるかを気にしなければならない仕事は、束縛の原因となるから、そんな仕事をしても幸福にはなれない。誰にも定められた義務を行う権利はある。しかし、結果を気にせずに、ただ心をこめて義務を行うこと――これによって私たちは必ず自由解脱の道へ入ることができる。

 アルジュナは主クリシュナから、義務なのだから戦え、と勧められた。結果を期待せずに戦えと――。アルジュナが戦争に参加しないというのも、別の面での執着である。そんなことをしても、人間は決して救われない。どんな執着も――積極的なものでも消極的なものでも、束縛の原因となる。怠惰(義務不履行)は立派な罪である。はかのことは一切考えずに、ただ義務として戦う――これだけが、アルジュナにとって唯一の、祝福された救いの道なのである。

テキスト

ヨーガスタハクルカルマーニ
サンガンテャクトヴァーダナンジャヤ
シッダーヤシッダヨハサモブートヴァ
サマトヴァンヨーゴッチャテ

Synonyms

yoga-sthaḥ —平衡をとって; kuru —行え; karmāṇi — あなたの義務; sańgam —執着; tyaktvā —捨て去って;dhanañjaya — おおアルジュナ; siddhi-asiddhyoḥ — 成功と失敗において; samaḥ —平衡をとって; bhūtvā —~になって; samatvam—平静; yogaḥ — ヨーガ; ucyate — ~と呼ばれる.

Translation

アルジュナよ、義務を忠実に行えそして成功と失敗に関するあらゆる執着を捨てよこのような心の平静をヨーガというのだ

Purport

 クリシュナはアルジュナに、「ヨーガの行動をせよ」とおっしゃる。では、ヨーガとは何か?常に乱れ騒ぐ感覚を統制して、心を至上者に集中することである。では至上者とはだれか?至上者は主なる神である。その主御自身が、アルジュナに「戦え」とおっしゃるのだ。アルジュナは戦争の結果に何の関与も許されない。利得も勝利もクリシュナのもの。アルジュナはただ、クリシュナの指示に従って行動すればよいのである。クリシュナの命に従うことこそが、本当のヨーガなのである。そしてこれがクリシュナ意識の活動である。このクリシュナ意識によってのみ、人は“自分のもの”という思い、所有感を捨てることができる。だから人間はクリシュナの召使にならなければいけない。あるいはクリシュナの召使の召使になるべきである。これが、クリシュナ意識で義務を遂行する正しい道であり、ヨーガの活動を助ける唯一の方法なのである。

 アルジュナはクシャトリヤ階級の一人であって、ヴァルナーシュラマ・ダルマを構成する一員である。『ヴィシュヌ・プラーナ』には「ヴァルナーシュラマ・ダルマの全目的は、ヴィシュヌを満足させること」と明記してある。自分自身を満足させるのが、物質界の常識なのだが、そうではなくて、クリシュナを満足させなければならない。したがって、クリシュナを満足させるためには、ヴァルナーシュラマ・ダルマの原則を正しく行動に表すことである。つまり、ここでアルジュナは間接的に、「クリシュナの言う通りにせよ」と助言されているのである。

テキスト

ドーレナヒャヴァランカルマ
ブッディヨーガーッダナンジャヤ
ブッドーシャラナマンヴィッチャ
カルパナーファラケタヴァー

Synonyms

dūreṇa — それを遠くに捨てよ; hi —確かに; avaram—忌まわしい; karma —活動; buddhi-yogāt — クリシュナ意識の力で; dhanañjaya — おお、富の征服者よ; buddhau — そのような意識で; śaraṇam —完全に身を委ねよ; anviccha — ~しようと努める; kṛpaṇāḥ — けちな者よ;phala-hetavaḥ —実のある結果を望む人々.

Translation

おおダナンジャヤよ、奉仕の精神をもちすべての悪い活動を献身奉仕で避けよその様な意識で主に委ねよ果報を求めて働くのはけちな人間なのだ

Purport

 自分の本当の立場――自分は主なる神の永遠の召使なのだ、ということを心底から了解した人は、物質界におけるあらゆる契約を破棄して、クリシュナ意識での活動だけに従事する。すでに説明してきたように、ブッディ・ヨーガとは、主に対する献身奉仕のことである。献身奉仕こそ、生物にとって最も高く、最も正しい行為なのである。自分でした仕事の果報を期待し、それを得ると喜び、損をしたら悲しむ――こういう連中は、“哀れな欲張り”なのだ。彼らはそうした行為が物質界に縛られる原因を次々とつくっていくことを知らない。クリシュナ意識での活動以外は、どんな仕事でもすべて忌まわしいものである。なぜなら、それをしている限り生死輪廻の繰り返しから脱けることができないのだから。それゆえ私たちは、「これは私の仕事だ、私がするのだ」などという考えを決して持ってはいけない。何事もすべて、クリシュナを満足させるためにクリシュナ意識で行動するべきである。“哀れな欲張り”族は、幸運によって得た富にせよ、並々ならぬ努力によって得た富にせよ、その富をどのように使用すればよいのか、わかっていない。人はその全エネルギーをクリシュナ意識の活動に注ぐべきであり、そうすればその人は真実の成功を勝ち獲ることができるであろう。“哀れな欲張り”族のような不幸な人々は、せっかくの人間にう生まれたのに、そのエネルギーを主に仕えるために使わないのである。

テキスト

ブッディユクトジャハーティハ
ウブヘスクリタドゥシュクリテ
タスマードヨガーヤユジャスヴァ
ヨーガーカルマスコーシャラン

Synonyms

buddhi-yuktaḥ —献身奉仕に従事している人;jahāti —免れることができる; iha — この世において; ubhe —両方の;sukṛta-duṣkṛte —善と悪の結果; tasmāt —それゆえ;yogāya —献身奉仕のために; yujyasva — そのように従事せよ; yogaḥ — クリシュナ意識; karmasu — すべての活動における; kauśalam —秘訣

Translation

献身奉仕をする人はすでにこの世において善悪の行為を離れるゆえにアルジュナよ、ヨーガに励めこれこそあらゆる仕事の秘訣なのだ

Purport

 はるか遠い昔からことかた、個々の生物は善悪の様々なカルマを重ねてきている。ということは、自己の本来の地位について現在までずっと無知だったということになる。この無知は、『ギーター』の「主シュリー・クリシュナに完全に身を委ねよ」との教えによって払いのけることができる。そして、作用・反作用の堂々めぐり――この苦悩の鎖を断ち切って自由になれるのである。生まれ変わり死に変わり――生死輪廻から降りることができるのである。だからここでアルジュナは、超越意識――クリシュナ意識で行動せよと助言された。このような活動は行為をも結果をも浄化するのである。

テキスト

カルマジャンブッディユクターヒ
パラントャクトヴァーマニーシナハ
ジャンマバンダヴィニルムクタハー
パダンガッチャントャナーマヤン

Synonyms

karma-jam —結果を求める活動による; buddhi-yuktāḥ —献身奉仕に従事して; hi —確かに; phalam—結果; tyaktvā —放棄して; manīṣiṇaḥ —偉大な聖者や献身者たち; janma-bandha —生と死の束縛から; vinirmuktāḥ —解放される; padam —場所; gacchanti—彼らに達する; anāmayam — みじめさのない

Translation

偉大な賢者や献身者は献身奉仕によって物質界のカルマから自由になるこのようにして輪廻転生から解脱して無憂の境地に達するのだ(神の国に帰ることによって)

Purport

解脱した魂の行く先は、物質次元の苦悩が全くないところである。『シュリーマド・バーガヴァタム』(10-14-58)にはこう書いてある。

samāṣritā ye pada-pallava-plavaṁ
mahat-padaṁ puṇya-yaśo murāreḥ
bhavāmbudhir vatsa-padaṁ paraṁ padaṁ
padaṁ padaṁ yad vipadāṁ na teṣām

「大宇宙の保護者として、“自由に恵む者”(ムクンダ)として知られる、主なる神の蓮華の御足なる船に乗った人にとって、物質界の大海は仔牛の足跡にたまった水のよう。彼は何の苦悩もなく危険もない処(パランパダム)、ヴァイクンタへと渡っていく。」

 一寸先は闇。一歩進めばどんな危険に会うかわからない――物質界は悲惨な場所なのである。だが無知な人はそのことを知らない。無知な人々、知性の劣った人々は、もうかる仕事や地位につこうとして努力を惜しまない。経済的に豊かになったり有名な地位につければ、必ず幸福になれるものと思っている。この宇宙のどんな場所でも、どんな種類のものでも、肉体を持って生きていれば苦悩はつきものである。この事実が彼らにはわからない。物質界には至る所に悲しみ、苦しみが満ちている。生まれる苦しみ、死ぬ苦しみ。そして僕(しもべ)であると悟った人は、まっすぐに主バガヴァーンを愛し主に奉仕する生活に入る。その結果、彼はヴァイクンタ惑星に行く資格を得る。この惑星には物質界にあるような悲苦は一切なく、老いもなく死もない。自己本来の地位を知るということは、すなわち主が至上至高である、すべてのすべてであると知ることを意味する。だが、「われわれは本来、主と同じなのだ」などと間違って考えている連中は、無明の闇の中にいるのであって、主を愛し主に仕えることはできない。そんな人はいずれどこかの小君主にでもなって、生死の繰り返しを継続するだけであろう。しかし、主に仕えるのが自己本来の地位なのだと知って、奉仕の生活に入った人は、直にヴァイクンタ惑星行きの切符が得られる。主に仕えること、すべてを主に捧げることを、カルマ・ヨーガと称し、ブッディ・ヨーガともいう。一言でいえば、主への献身奉仕のことである。

テキスト

ヤダーテモハカリラン
ブッディールヴャティタリシャティ
タダーガンターシニルヴェダン
シュロタヴャシュヤシュルタシュヤチャ

Synonyms

yadā — ~のとき; te — あなたの; moha —幻想の; kalilam —密林; buddhiḥ —知性をともなう超越的奉仕; vyatitariṣyati —超える; tadā — そのとき;gantā asi — あなたは~になる; nirvedam —無関心な;śrotavyasya —聞くであろうすべてのことに; śrutasya — すでに聞いたすべてのことに; ca — もまた

Translation

知性が迷妄の密林から抜け出るといままで聞かされてきたことこれから聞くであろうことのすべてに超然として惑わされなくなるのだ

Purport

 献身奉仕によって、ヴェーダの礼拝儀式に無関心になる――こうした例は、優れた献身者たちの生涯において数多く見られる。クリシュナとは何か、自分とクリシュナとはどんな関係にあるのか、この2つが本当にわかったならば、人は果報を求めて礼拝儀式などに関心がなくなる。それを長年にわたって専門的にやってきたブラーフマナの場合でも、例外ではない。シュリー・マーダヴェーンドラ・プリーは偉大な献身者であり、また精神の師(グル)でもあるのだが、こう言っている。

sandhyā-vandana bhadram astu bhavato bhoḥ snāna tubhyaṁ namo
bho devāḥ pitaraś ca tarpaṇa-vidhau nāhaṁ kṣamaḥ kṣamyatām
yatra kvāpi niṣadya yādava-kulottaṁsasya kaṁsa-dviṣaḥ
smāraṁ smāram aghaṁ harāmi tad alaṁ manye kim anyena me

「主よ、私は日に3度ひれ伏してあなたを礼拝し、全身全霊をもってあなたを賛美します。身を清めて私は心からなる尊敬の念を捧げます。天地のもろもろの神々よ!わが祖先の御霊たちよ!あなた方にお仕えできないことをお許しください。私はどこにいてもあのヤドゥ王朝の子孫(クリシュナのこと)、カムサの敵である御方を想い、それによってあらゆる罪深い行為と束縛から無関係でいることができる。これで私は十分なのです。」

 ヴェーダの礼拝儀式、日に三度の勤行を含むさまざまな礼法、たとえば、毎朝早くに沐浴すること、祖先を供養すること等々は、人間生活にとって必要欠くべからざるものとされています。しかし、クリシュナ意識に浸りきって、主への献身奉仕にたずさわっている人は、このような形式的な規則には無関心になります。なぜなら、その人はもうすでに完成の域に達しているのですから。至上の主、クリシュナに仕えることによって真理を悟ったならば、もう聖典に書いてある他の苦行や供犠などを行う義務はありません。さまざまな行を勧めている諸ヴェーダの目的はただ一つ、クリシュナに達することです。その目的も知らずにただ形式的な行事を繰り返しているのは、まことに時間の浪費というもの。クリシュナ意識の中に在る人は、シャブダ・ブラフマ、つまりヴェーダとウパニシャッドの範囲を超えているのです。

テキスト

シュルティヴィプラティパランナーテ
ブッディールヴャティタリシャティ
タダーガンターシニルヴェダン
シュロタヴャシャシュルタシャチャ

Synonyms

śruti — ヴェーダの啓示の; vipratipannā —結果や利益に影響されないで
; te — your; yadā — ~のとき;sthāsyati — ~のままでいる; niścalā —不動の; samādhau — 超越的な意識、つまりクリシュナ意識において; acalā— ひるまない; buddhiḥ —知性; tadā — そのとき;yogam —自己実現; avāpsyasi — あなたは到達するだろう.

Translation

君の心がヴェーダの美辞麗句に決して惑わされることなく自己実現の三昧(サマーディ)に入ると至誠(神)の意識に到達するのだ

Purport

 三昧に入る、ということはすなわち、クリシュナ意識に満ちる、ということです。完全な三昧に入った人は、ブラフマンと、パラマートマーと、バガヴァーンとを理解します。最高にして完全な自己の悟りとは、自分は永遠にクリシュナの僕であり、なすべき唯一のことはクリシュナ意識で義務を遂行することである、ということを知ることなのです。クリシュナ意識の人、または主の断固たる献身者は、諸ヴェーダの美辞麗句に惑わされてはいけません。天国での安逸な生活を得るための仕事に携わってはいけません。クリシュナ意識に徹したならば、人は直接にクリシュナと交わるようになり、クリシュナの指図がすべてわかるようになります。このような聖なる活動をしていると、必ず究極的な知識に達することができます。だから私たちは、クリシュナの指示、または彼の代理であるグルの指示を完遂することだけに心身を用いなければいけないのです。

テキスト

アルジュナウヴァーチャ
スティタプラギャーシャカーバハーシャー
サマーディスタハシャケシャヴァ
スティタディーキムプラバハーシェタ
キマーシータヴラジェタキム

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; sthita-prajñasya —不動のクリシュナ意識の人; kā —何; bhāṣā —言葉; samādhi-sthasya —三昧の境地にある人の; keśava — おお、クリシュナ; sthita-dhīḥ —不動のクリシュナ意識の人; kim—何; prabhāṣeta —話す; kim — どのように; āsīta —座す; vrajeta —歩く; kim — どのように

Translation

アルジュナ問う:超越者に意識を没入した人はどのような特徴を持っていますかどのような言葉を語りどのようにして座し、また歩きますか

Purport

 人間は職業とか社会的地位によって、それぞれに共通した特徴を持っているものです。同じようにクリシュナ意識の人にも独特なしるしがあります。話し方、歩き方、考え方、感じ方等々に特徴があります。金持ちには金持ちの特徴があり、病人には病人の特徴が、学者には学者の特徴がありますから、他人が見ればすぐそれとわかります。クリシュナ意識を持った人も、さまざまな点で特徴があります。どんな特徴があるかは、ギーターを読めばわかります。その中で最も重要なのは、話し方です。なぜなら、話す能力と話す内容とが、人間の値打ちを決めるほど重要なものだからです。馬鹿も口をきかぬ間は馬鹿とわからぬ、と言われている通り、全くのところ立派な服装をしていれば馬鹿も馬鹿とは見えません。ですが口をきけば即座にわかってしまいます。クリシュナ意識の人のすぐわかる特徴は、クリシュナのことと、クリシュナに関係したことしか話しません。その他の特徴は自然とそれに従って現れます。以下のように、、、。

テキスト

シュリーバガヴァーンウヴァーチャ
プラジャハーティヤダーカーマーン
サルヴァーンパールタマノガターン
アートマンイェヴァートマナートゥシュタハ
スティタプラギャスタドチャテ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言った; prajahāti —捨て去る; yadā — ~のとき; kāmān —感覚満足への欲望; sarvān — あらゆる種類の; pārtha — おお、プリターの息子よ; manaḥ-gatān —心によってでっち上げた; ātmani — 魂の純粋な状態において; eva —確かに; ātmanā —浄化された心によって; tuṣṭaḥ —満足する; sthita-prajñaḥ —超越的に位置する; tadā — そのとき; ucyate — ~と言われる

Translation

バガヴァーン言う: プリターの子よ、心から生じる様々な感覚の欲望をことごとく捨て去って心を清め自己の本性に満足して泰然たる人を純粋超越意識の人と呼ぶ

Purport

 「クリシュナ意識に満ちた人、別な言葉でいえば主への献身奉仕に撤した人は、偉大な聖者に見られる善い性質をすべて具えている。そこまでいかぬ人々は、どうしても小我の考えに左右される率が多いから、性質において劣っている。」  このように『バーガヴァタム』は断言しています。だから、ここではあえて、すべての感覚欲、エゴが思い描いたすべての欲望を捨てよ、と言っているのです。ですがこうした欲望を人為的に止めることは不可能に近いでしょう。しかし、クリシュナ意識で行動することによって、苦しい努力をしなくても楽に欲望を抑えることができます。したがって人間はためらいなくクリシュナ意識で行動しなければいけません。とにかく、献身奉仕が解脱に至る最短の道なのです。精神的に高い境地にいる魂は常に自己の本性に満足しています。至上主の永遠の僕であることを悟ってそれに歓喜しています。このような超越した境地の人は物質次元の欲望など持っていません。そんなつまらぬ、取るにたりない欲望に気をとられたりしません。自然の状態で、あるがままの姿で、至上主に仕えていて彼は常に幸福なのです。

テキスト

ドゥケヘシュヴァヌドヴィグナマナー
シュケシュヴィガタスプラハ
ヴィータラーガバヤクロダハ
スティタディールムニルチャテ

Synonyms

duḥkheṣu — 三種類の苦しみにおいて; anudvigna-manāḥ —心がかき乱されることなく; sukheṣu — 幸福なとき;vigata-spṛhaḥ —興味を持たず; vīta — ~から自由である; rāga —執着; bhaya —恐れ; krodhaḥ — そして怒り;sthita-dhīḥ —不動の心の(人); muniḥ — 聖者; ucyate — ~と呼ばれる

Translation

三重の逆境に処して心を乱さず順境にあって決しておごらず執着と恐れと怒りを捨てた人を不動心の聖者(スティタ・ディール・ムニ)と呼ぶ

Purport

 ムニというのは、さまざまな哲学的理論を心の中で思い巡らして、自分の心をかきたてる人、という意味です。別に結論を出す必要もありません。ですから、どのムニもそれぞれ異なった見解を持っています。ほかのムニと違った意見を持っているのが条件であり、私はあなたと同じ考えです、などという人は、ムニの資格がありません。しかし、この節で主が語られている’スティタ・ディール・ムニ’という種類のムニは、普通のムニではありません。スティタ・ディール・ムニは、ありとあらゆる哲学的考察をして、それをすべて卒業したうえで、いまはクリシュナ意識に浸っている、というムニなのです。かれは”あらゆる空論を捨てて、クリシュナ意識に達した者”と呼ばれています。クリシュナ(またはヴァースデーヴァ)が、すべてのすべてであると悟った人のことです。ですから不動心のムニと称されます。クリシュナ意識に満たされている人は、三重の苦痛に襲われても、まったく心を乱しません。平然としています。三重とは、1、自然界からくるもの、天災地変その他。2、人間を含めた他の生物からくるもの。3、それから自分の肉体の弱さからくるもの、病気その他。この三種類のことです。不動心のムニは、どんな不幸や災難にあっても、それは主のお慈悲なのだと思って、ありがたく受け止めます。自分が過去に犯した罪のカルマとしては、もっともっと大きな苦痛を味わなければいけないのに、主のお慈悲によって、かくも最小限にとどまっているのだ、と考えます。また、何もかも順調にいって幸福な場合も、彼は主なる神のおかげだと思っています。自分はこんな快適な環境にいられるような値打ちのある人間ではないのに、と思って主のお恵みに心から感謝し、ご恩に報じるため、ますます主のお役に立とうと励むのです。主に仕えるに当たっては、常に積極的に思い切った行動をとり、しかも人や事物に執着せず、冷淡にもなりません。執着、または愛着は事物を自分の感覚満足のという面でのみとらえるから生じるのであり、冷淡とはそうした感情が全くないことです。しかしクリシュナ意識に心を置いている人は、愛着もせず冷淡でもありません。なぜなら、その人は生涯を、全生命を主に捧げているから――。したがって自分のしていることがうまく運ばなくても、決していらいらしたり腹を立てたりしません。クリシュナ意識の人は、常に着実であり、また決心をぐらつかせたりすることはないのです。

テキスト

ヤーサルトヴァトラーナビースネハス
タッタトプラープヤシュバハーシュバン
ナービナンダティナドヴェスティ
タスヤプギャープラティスティター

Synonyms

yaḥ — (~である)人; sarvatra — どこでも; anabhisnehaḥ —愛着せずに; tat — それ; tat — それ; prāpya —成し遂げる; śubha—良い; aśubham —悪い; na —決して~でない; abhinandati —賞賛する; na —決して~でない; dveṣṭi — ねたむ; tasya —彼の; prajñā —完全な知識; pratiṣṭhitā —固定された

Translation

善を見て愛慕せず悪を見て嫌悪せず好悪の感情を超えた人は完全な知識を得たのである

Purport

この世、この物質世界には、善と悪の大変動が絶え間なく起こっています。こうした現象世界の変動に自分自身をかき乱されない人は、好悪の感情を超えた人であり、クリシュナ意識を会得した人です。この物質世界にいる限り、人は善になったり悪になったりせざるを得ません。なぜなら、この世は二元対立の世界ですから。ですが、クリシュナ意識に安住している人は、この二元性に煩わされません。その人はただ、絶対完全の善であるクリシュナにのみ関係しているのですから。一切の対立を超えた、この完璧な超越的な境地を、専門語で″サマーディ″というのです。

テキスト

ヤダーサンハラテチャーヤン
クールモンガーニーヴァサルヴァシャハ
インドリヤーニーンドリヤールテバハヤス
タスヤプラギャープラティスティター

Synonyms

yadā — ~の時; saḿharate —巻き上げる; ca — もまた; ayam — 彼; kūrmaḥ —亀; ańgāni —手足; iva — のように; sarvaśaḥ —完全に; indriyāṇi —感覚; indriya-arthebhyaḥ —感覚の対象から; tasya —彼の; prajñā —意識; pratiṣṭhitā—固定された

Translation

亀が手足を甲羅に収めるように眼耳鼻舌身(ごかん)の対象からおのが感覚を引き払うことのできる人は完璧な意識に安定したといえる

Purport

ヨーギー、献身者、いわゆる、悟った人、こうした人たちが本物かどうかを試すには、感覚を統御できるか否かを見ればいいでしょう。この世の大部分の人たちは感覚の召使であって、感覚の命ずるままに動いています。前記の三種類の人たちは、そうではないことになっています。彼らは感覚の召使ではなく、感覚の主人です。諸感覚は毒蛇に例えられています。彼らは勝手気ままに動きたがります。上記のヨーギーたちはこの蛇たちを厳しく統御しなければなりません。ちょうど蛇使いのように。蛇に勝手な行動を許してはいけません。これに関して諸聖典には多くの命令や禁令が示されていて、このようにするな、このようにせよ、と実に綿密な指導をしています。感覚欲を克服してこれらの命令に従えるようでなければ、クリシュナ意識に定着することはできません。感覚統御の最もよい例として、ここに亀をあげています。亀はいつでも五感をさっと引っ込めることができますし、また何か目的があるときはいつでも出して、用を足します。それと同じように、クリシュナ意識の人は主に仕える目的のためだけに感覚をつかってその他の場合には亀のように内に引っ込めておくのです。自分の満足のためにではなく、主への奉仕に感覚を利用するようにと、ここでアルジュナは教えられています。常に感覚を主への奉仕にのみ利用し、それ以外の時には引っ込めておく、このような姿勢は亀に見習うべきです。

テキスト

ヴィシャヤーヴィニヴァルタンテ
ニラーハーラシャデヒナハ
ラサヴァルジャンラソプヤシャ
パランドリシュトヴァーニヴァルタテ

Synonyms

viṣayāḥ —感覚の楽しみの対象; vinivartante — ~を制御する訓練がなされる; nirāhārasya —消極的な制限によって; dehinaḥ —肉体をまとった者にとって; rasa-varjam —味わいを捨て去る; rasaḥ —感覚の楽しみ; api — しかし、~がある; asya —彼の; param — はるかに優れたもの; dṛṣṭvā —経験することによって; nivartate — 彼は~をやめる

Translation

肉体を持った魂は禁欲しても経験してきた味わいを記憶しているだが、より高い意識を味わうことでその記憶も消えうせるのだ

Purport

 神聖な意識に定着しない限り、人間は感覚欲を抑えることはできません。いろいろな規則を守って感覚の楽しみを制御するのは、病人が一定の食べ物を制限するのに似ています。ですが病人の場合はやむを得ずそれを行っているのであって、その食べ物に対する好みをなくしたわけではありません。アシュターンガ・ヨーガのような、つまりヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナなどの修行の段階における感覚制限がそれに似ていて、こうした方法は比較的に知性の低い人たちに勧められています。すぐれた知識を持ち合わせていない人々です。しかし、ひとたび至上主クリシュナの美しさを味わった人は、それはクリシュナ意識発達途上で得られる神秘体験ですが、もう決して屍のような物質次元の楽しみに見向きもしなくなります。ですから、抑制という言葉は修道の初心者のためにあるのであって、実際にクリシュナ意識を経験している人にとっては、その同じ行動は、幸福以外の何者でもありません。本当にクリシュナ意識になった人なら、肉欲、物質欲の対象など火葬場の灰ほどにしか感じられないのです。

テキスト

ヤタト ヒ アピ カウンテヤ
プルシャッシャヴィパシャチタ
インドリヤーニプラマーティニ
ハランティプラサバムマナ

Synonyms

yatataḥ —努めている間; hi —確かに; api — にもかかわらず; kaunteya — おお、クンティーの息子よ; puruṣasya —人の; vipaścitaḥ— full of discriminating knowledge; indriyāṇi —感覚; pramāthīni — かき乱す; haranti —投げる; prasabham —力で;manaḥ —心

Translation

アルジュナよ、感覚の欲求はまことに強く激しいものでそれを支配しようと努める分別ある人の心さえも力ずくで奪い去るのだ

Purport

 世の中には学識深い聖人や、哲学者、また超越主義者たちが多勢いて、それぞれに五感の統制に努めていますが、必死の努力にもかかわらず、なかなか成功しません。最も優れたヨーギーでさえ、時として肉体的快楽に溺れてしまいます。それほど”心”の煽動は強烈なのです。偉大な賢者であり完全なヨーギーだったヴィシュヴァーミトラさえも、メーナカーに惑わされて肉体関係を結んでしまいました。厳しい苦行とヨーガ実修によって感覚コントロールに専念していたにもかかわらず、、、。世界始まって以来、同じような例は実に多くあります。クリシュナ意識に満たされない場合、心と感覚を制御するのがどんなに困難なことか、わかるでしょう。心をクリシュナにしっかり結び付けなければ、完全にクリシュナ意識でなければ、人間はどうしても物質次元に堕ちてしまいます。実際的な例として、偉大な聖者であり、献身者のシュリー・ヤームナーチャーリャは次のように言いました。

yad-avadhi mama cetaḥ kṛṣṇa-pādāravinde
nava-nava-rasa-dhāmany udyataṁ rantum āsīt
tad-avadhi bata nārī-saṅgame smaryamāne
bhavati mukha-vikāraḥ suṣṭhu niṣṭhīvanaṁ ca

「私の心が主クリシュナの蓮華の御足に専一お仕えするようになってから、わたしはいつも新しく清々しい愉快な気分でいる。女との性生活のことをふと思ったりすると、反射的にそこから顔をそむけて、その思いにツバを吐く。」

 肉体的な快楽が自然に不味くなって厭になる――これはクリシュナ意識が他の修行法を寄せ付けないほど卓越した点である。ちょうど飢えた人が栄養満点の食物を腹いっぱい食べて、満ち足りた状態だと考えられる。マハーラージャ・アンバリーシャもまた、心をクリシュナ意識に没入しただけで、偉大なヨーギーであるドゥルヴァーサー・ムニに勝った。

テキスト

タニサルヴァニサムヤムヤ
ユクターシタマトパラー
ヴァセヒヤスエンドリヤニ
タスヤプラギャープラティスティター

Synonyms

tāni —感覚; sarvāṇi — すべて; saḿyamya —制御する; yuktaḥ —引き付ける; āsīta —位置すべきである;mat-paraḥ — 私と交流する; vaśe — 完全に征服; hi —確かに; yasya — その人; indriyāṇi — senses; tasya—彼の; prajñā —意識; pratiṣṭhitā —固定された

Translation

肉体の感覚を統御して意識を私にしっかりと固定できた人を不動智を得た聖者と呼ぶ

Purport

 ヨーガ完成についての最高概念は、ほかならぬクリシュナ意識です。このことが本節に明言されています。事実、クリシュナ意識にならなくては、人間が感覚を統御することなど不可能と言ってよいでしょう。前節に出した大聖者ドゥルヴァーサー・ムニの場合ですが、彼はマハラージ・アンバリーシャに論争を挑みました。ところが彼はプライドのために不必要な思いを発してしまいました。つまり感覚を制御できなかったのです。一方アンバリーシャ王は、ヨーギーとしてはその聖者ほど優れてはいませんでしたが、主の献身者だったので、聖者の不法を静かに耐えていました。その結果、王の勝利はだれの眼にも明らかになりました。王は『シュリーマド・バーガヴァタム』に書いてある次のような資格によって、諸感覚を統御することが出来ました。

sa vai manaḥ kṛṣṇa-padāravindayor
vacāṁsi vaikuṇṭha-guṇānuvarṇane
karau harer mandira-mārjanādiṣu
śrutiṁ cakārācyuta-sat-kathodaye
mukunda-liṅgālaya-darśane dṛśau
tad-bhṛtya-gātra-sparśe ’ṅga-saṅgamam
ghrāṇaṁ ca tat-pāda-saroja-saurabhe
śrīmat-tulasyā rasanāṁ tad-arpite
pādau hareḥ kṣetra-padānusarpaṇe
śiro hṛṣīkeśa-padābhivandane
kāmaṁ ca dāsye na tu kāma-kāmyayā
yathottama-śloka-janāśrayā ratiḥ

  「アンバリーシャ王は、心を主クリシュナの蓮華の御足にしっかりと結びつけ、言葉で主の御国の荘厳を語り、両手で主の御寺を清め、耳では主の遊戯(リーラ)について聞き、目は常に主の御姿を眺め、体で主の献身者たちと触れ合い、鼻で主に供えられた花々の香りを嗅ぎ、舌で主に供えられたトゥラシーの葉を味わい、足で主の御寺のある土地を旅し、頭を下げて主を礼拝し、そして彼は主の御心を満足させることだけを願っていた……これらすべての徳によって、彼は主のマト・パラ献身者になったのである。」

 この“マト・パラ”という言葉が最も重要なのである。人はどうすればマト・パラになれるのか――それはアンバリーシャ大王の一生を見るとわかる。シュリーラ・バラデーヴァ・ヴィッデャーブーシャナは優れた大学者であり、また、マト・パラ正統のアーチャーリヤだが、彼はこう言っている。「ただクリシュナに対する献身奉仕の力によってのみ、諸感覚は完全に統御し得る」と。また時折“火”の例をとって説明した――「室内にある小さな火が、部屋の中のものを全部焼いてしまうように、ヨーギーの胸に宿る主ヴィシュヌは、あらゆる種類の不浄を焼き尽くす」と。『ヨーガ・スートラ』でも、「ヴィシュヌを瞑想せよ。“空”を瞑想するな」と指導している。いわゆるヨーギーたちのなかで、ヴィシュヌ以外の何かを瞑想している人々は、無駄に時間の浪費をしている。彼らは幻影を追い求めているのである。私たちはバガヴァーンにひたむきに仕え、クリシュナ意識になるべきである。これが真実のヨーガの目的なのである。

テキスト

ダヤヤトーヴィサヤンプンサハー
サンガステーシュパジャーヤテ
サンガトサンジャヤテカマハー
カマトクr-ドビジャヤテ

Synonyms

dhyāyataḥ —考えている間; viṣayān —感覚の対象; puḿsaḥ —人の; sańgaḥ —執着; teṣu —感覚の対象の中; upajāyate —発展させる; sańgāt —執着から; sañjāyate —現れる; kāmaḥ —望み; kāmāt —望みから;krodhaḥ —怒り; abhijāyate — becomes manifest.

Translation

感覚の対象を見、また思うことで人はそれに愛着するようになりその愛着より欲望が起こり欲望から怒りが生じてくる

Purport

 クリシュナ意識を持たない人は、感覚の対象を見たり想像したりすると、必ず欲望を起こします。感覚は対象とじかに接触することを激しく求めますから、主なる神への奉仕をしていない人々は、必ず物質至上主義になって、物を追い求めるようになります。この物質世界においては、天国の神々は言うに及ばず、かの偉大な主シヴァや主ブラフマーに至るまで、感覚の対象に支配されてしまいます。この物質現象のわなから脱出するには、クリシュナ意識になるより他に方法はありません。主シヴァは、かつて深い瞑想に入っていましたが、美少女パールヴァティーの誘惑に負けて、彼女と結婚し、カールティケーヤという子供をもうけました。ところが主の若き献身者だったハリダース・タークルはやはりマーヤー・デーヴィーの化身である女性に誘われましたが、あっさりとこの試験にパスしました。なぜなら彼は主クリシュナに対する純粋な信仰と愛を持っていたからです。前述のシュリー・ヤムナチャーリャの言葉のように主の誠実な献身者は、主との交わりによってすばらしい精神的歓喜を味わうので、だんだんと肉体的な快感を嫌悪するようになります。これが成功の秘訣です。ですがクリシュナ意識に入ってない人は、たとえどんなに意志が強くても、どんな方法で人為的抑圧をしても、結局は感覚の欲望に負けてしまいます。なぜなら、感覚の快楽のことがちらっと心をよぎるだけで、感覚を満たそうという衝動に駆られますから。

テキスト

クローダドバーヴァティサモハー
サムモハットスムリティヴィブラマー
スムリティブラムサドブッディナソ
ブッディナサトプラナシャティ

Synonyms

krodhāt —怒りから; bhavati — takes place; sammohaḥ —完全な幻想; sammohāt —完全な幻想; smṛti —記憶;vibhramaḥ —当惑; smṛti-bhraḿśāt —記憶が混乱した後; buddhi-nāśaḥ —知性を失う;buddhi-nāśāt —知性を失ってから; praṇaśyati —堕ちる

Translation

怒りに気が迷って妄想が生じ妄想によって記憶が混乱し記憶が混乱すれば知性を失いその結果、人は再び物質の淵にに落ちる

Purport

 シュリーラ・ルーパ・ゴースワーミーはこのような教訓を与えています。

prāpañcikatayā buddhyā
hari-sambandhi-vastunaḥ
mumukṣubhiḥ parityāgo
vairāgyaṁ phalgu kathyate

(Bhakti-rasāmṛta-sindhu 1.2.258)

 クリシュナ意識の発達に従って、あらゆる事物が主への奉仕に役立つことがわかってきます。このクリシュナ意識について知識のない人々は、物質的なものを故意に避けようとしますが、その結果は希望に反してどうしても真の自由解脱、放棄を得られません。彼らの考えている放棄は”パルグ”(さほど重要ではないもの)と呼ばれます。ですがクリシュナ意識の人はどんな事物でも主への奉仕に使うことができます。彼は決して物質意識の犠牲にはなりません。たとえばマーヤーヴァーディにとっては、主、つまり”絶対者”は人物ではないから、物を食べるなどという事はしない、と考えています。ゆえにそれに近づこうとする修行者は、故意に食べ物の誘惑を避けようとし、ことに美味なもの、栄養の豊富なものを食べようとしません。ところが献身者は、クリシュナが最高に楽しむ者であり、愛をこめてお供えしたものは何でも喜んで召し上がることを知っていますから、主に美味しいものを供え、そのお下がりを喜んでいただきます。このヴィシュヌに供えた食べ物のお下がりをプラサーダムといいます。このようにすべてのものは精神化されるから、物質の深淵に落ちる危険がありません。献身者はプラサーダムをクリシュナ意識で食べ、そうでない者はこれを物質だとして拒みます。マーヤーヴァーディたちは、人生を楽しむことができません。不自然な禁欲をしているものですから、ちょっとした誘惑にも負けやすく、いつも堕落の危険と隣り合わせに生きています。そうした種類の魂たちは、やっとの思いで解脱しても、献身奉仕の支えがないので、また堕ちてしまうのです。

テキスト

ラーガドヴェシャヴィムクタイストゥ
ヴィシャヤーニンドリヤイシュチャラン
アートマヴァシャイルヴィデェヤートマー
プラシャーダマディガッチャティ

Synonyms

rāga —執着; dveṣa — そして無執着; vimuktaiḥ — ~から自由になった人によって; tu — しかし; viṣayān —感覚の対象; indriyaiḥ —感覚によって; caran — ~に従って行動して; ātma-vaśyaiḥ —支配下に; vidheya-ātmā —規定された自由に従う人; prasādam —主の慈悲; adhigacchati —到達する

Translation

あらゆる執着と嫌悪から離れ解脱の規定原則で感覚を制御できる者は主の完全な慈悲を受け入れられる

Purport

 すでに説明してきたように、感覚統御は外形的、技術的な方法によって行うことも出来ますが、それを主への奉仕に向けない限り、常に失敗の機会が待ち構えています。クリシュナ意識に満ちた人の場合は、たとえ外見は感覚的に行動しているようでも、内実は決してその行動に執着していません。クリシュナ意識の人の関心は、ただクリシュナの満足だけで、それ以外のことには何の関心ももっていません。つまり、無執着なのです。もしクリシュナが欲したならば、献身者はどんなことでも、一般に嫌悪されていることでも、することができます。そしてクリシュナが欲しないなら、自分が個人的にしたいと願っていたことでも、しません。するのも、しないのも、クリシュナの指図次第であり、彼は完全に自分の感覚、行動をコントロールできます。この聖なる意識は主の計り知れないお慈悲のあらわれです。これによって献身者たちは物質執着から離れて、常楽の境地に達することができるのです。

テキスト

プラサーデサルヴァドゥクハーナーン
ハーニラショパジャーヤテ
プラサンナチェタショヒャーシュ
ブッディーパルヤヴァティスタテ

Synonyms

prasāde —主のいわれなき慈悲を得たとき; sarva — すべての; duḥkhānām —物質界の苦しみ; hāniḥ —破壊; asya —彼の; upajāyate —起こる; prasanna-cetasaḥ —幸福な心境の人の; hi —確かに; āśu — すぐに;buddhiḥ —知性; pari —十分に; avatiṣṭhate —確立する

Translation

クリシュナ意識に満ちた人にとって物質界の三重苦は消滅しこの幸福豊かな境地においてすみやかに知性(ブッディ)は安定する

テキスト

ナースティブッディラユクタシャ
ナチャーユクタシャバーヴァナー
ナチャーバーヴァヤタハシャーンティル
アシャンタシャクタハスカム

Synonyms

na asti — ~がありえない; buddhiḥ —超越的な知性; ayuktasya — クリシュナ意識と)結びつかない人の; na — でない; ca — そして; ayuktasya — クリシュナ意識が欠けている人の; bhāvanā — (幸福に)固定された心; na — でない; ca — そして; abhāvayataḥ —固定しない人の; śāntiḥ —平和; aśāntasya —心が平和でない人の;kutaḥ — どこに~があるか; sukham —幸福.

Translation

クリシュナ意識で至上主と関係しない者は心も統御されず知性も安定せず平安の境地は望むべくもない平安なき所に真の幸福はないのだ

Purport

 人間はクリシュナ意識に入らぬかぎり平安にはなれません。だから第五章二十九節ではっきり言っているように、人間は「すべての供犠や苦行の善果を受け楽しむのはただ一人、クリシュナである」こと、「彼が宇宙万物の所有者である」こと、そして、「彼はすべての生物の真実の友である」ことが、心底から理解できたとき、はじめて真実の平安を得られます。従ってクリシュナ意識にならないうちは、心の旅路はまだ目的地についていません。生命の根本原理、究極目的がわからないから絶えず不安がつきまとうのであって、クリシュナがすべての受け手であり、所有主であり、そしてすべてのものの最良の友であることをはっきり悟ったとき、人は心の平和を達成することができます。ですから、クリシュナと関連なく生活している人は、常に苦悩し、心配事が絶えません。表面上はどんなに幸福そうに見えても、また精神的に進歩したように見えても、それは一種の虚勢です。クリシュナ意識は、クリシュナと固く結びついた場合にだけ到達できる自己を悟った平和な状態なのです。

テキスト

インドリヤーナーンヒチャラターム
ヤンマノヌヌヴィディーヤテ
タダシャハラティプラギャーン
ヴァーユルナーヴァミヴァームバシ

Synonyms

indriyāṇām —感覚の; hi —確かに; caratām —放浪している間; yat — ~と; manaḥ —心; anuvidhīyate —絶えず従事するようになる; tat — それ; asya —彼の; harati —取り去る; prajñām —知性; vāyuḥ —風; nāvam — 舟; iva — ~のように; ambhasi —水上の.

Translation

水の上を航く舟が強い風に吹き流されるように感覚のただ一つにさえ心を許したなら人の知性はたちまち奪われてしまうのだ

Purport

五感のすべてをあげて主に奉仕しなければなりません。そのうちのたった一つ、目でも耳でも、自分の欲望満足のために用いたならば、その献身者は超越的な進歩の道からそれることになりかねません。アンバリーシャ大王の生涯が示すように、全感覚をクリシュナ意識に従わせなければなりません。これこそ心を統御する正しい技術なのです。

テキスト

タスマードヤシャマハーバーホ
ニグリーターニサルヴァシャハ
インドリヤーニーンドリヤールテバヤス
タシャプラギャープラティスティター

Synonyms

tasmāt — それゆえ; yasya — (~である)人; mahā-bāho — おお、大勇の士よ; nigṛhītāni — そのように抑制される; sarvaśaḥ —周囲一面に; indriyāṇi —感覚; indriya-arthebhyaḥ —感覚の対象から; tasya —彼の; prajñā —知性; pratiṣṭhitā —固定された

Translation

ゆえに剛勇の士よ諸々の感覚はそれぞれの対象から断固として抑制できる人の覚智はまことに安定しているのだ

Purport

 感覚を満足させようという衝動を抑える唯一の方法は、クリシュナ意識になること、すなわち、全感覚を主への超越的愛の奉仕に従わせることです。敵を制するには、相手に勝った軍勢を用います。それと同じように、感覚を制するには人間の努力ではだめです。ただ主への奉仕に従わせることだけが、諸感覚を制御する唯一の方法です。つまり、クリシュナ意識によってのみ人間の知性は正しく確立され、そのためには真正のグルについてこの技術を習得すべきです。このことをはっきりと理解した人を、サーダカ(解脱を得る資格のある人)と称するのです。

テキスト

ヤーニシャーサルヴァブーターナン
タシャーンジャーガルティサムヤミー
ヤシャーンジャーグラティブーターニ
サーニシャパシャトムネー

Synonyms

yā —(~である)もの; niśā —夜である; sarva — すべて; bhūtānām —生物の; tasyām — その時; jāgarti —目を覚ましている; saḿyamī —自制のある人; yasyām — ~のとき; jāgrati — 目を覚ましている; bhūtāni — すべての生き物; sā — それは~である; niśā —夜paśyataḥ —内省的な~にとって; muneḥ —聖者

Translation

あらゆる生物が夜としている時は自制の賢者にとって昼であるあらゆる生物が昼としている時は内観する聖者にとって夜である

Purport

 知恵のすぐれた人に2種類あります。物質的、肉体的な欲望追求の活動についてたいそう頭のよい人。もう一方は、自己実現を追及する上において大そう賢い人。内観的な聖者、または思想の深い人々の活動は、物質次元のことに浸りきっている連中からみれば夜のようなものです。自己実現、または絶対真理について無知、無関心な物質主義者は、その方面では目を閉じて眠っているからです。内観する聖者は、この物質主義者の夜に目を開けていて活動します。聖者は自分の精神的向上に、えも言われぬ喜びを感じます。ところが物質次元で活動している人たちは、自己の本質、本性について知ろうともせず、眠りこけています。そして感覚的快楽の夢をみて、夢のなかで幸福だと感じたり、悲嘆にくれたりしています。内観する人は常に物質次元の幸、不幸には無関心です。したがってカルマに妨げられることなく、ひたすら自己実現の道を進んで行くのです。

テキスト

アープールヤマーナマチャラプラティスタン
サムドラマーパハプラヴィシャンティヤドヴァト
タドヴァトカーマーヤンプラヴィシャンティサルヴェ
ササーンディマープノティナカーマカーミー

Synonyms

āpūryamāṇam —常に~で満ちていて; acala-pratiṣṭham — どっしりと位置している; samudram —大海; āpaḥ —水; praviśanti—入る; yadvat — ~のように; tadvat — そのように; kāmāḥ —欲望; yam — その人に; praviśanti —入る; sarve —全て; saḥ — その人;śāntim —平和; āpnoti —達成する; na — ~でない; kāma-kāmī —欲望を満たそうと望む人

Translation

無数の河川が流れ込んでも海は泰然として不変であるごとく欲望が次々と起こってきても追わず取り合わぬ人は平安であるが欲望を満足させようと努める者はそうではない

Purport

 広々とした大洋はいつも水で満ちています。いつもいっぱいだけれども、ことに雨季にはもっと水が増えているはずです。しかし、海は同じです。変化なく泰然としています。少しも騒がず、海岸線を越境して陸を侵すようなこともありません。クリシュナ意識に安定した人もちょうどそれに似ています。肉体を持っている間は、肉体的欲望は続きます。ですが献身者はそうした欲望に惑わされません。なぜなら必要な物はすべてクリシュナが揃えて下さいますから。ですから彼は海のようです。いつも彼自身で満ち足りています。大海に注ぐ河川のように、もろもろの欲望が寄せてきても、彼は少しも乱されず、自分の仕事に打ち込んでいます。これがクリシュナ意識の人の特徴です。欲望があっても、それに取り合いません。主クリシュナへの、絶対の愛と奉仕で満足しきっていますから、大海のように悠然と安定して、静けさ、安らかさを楽しんでいます。ですが他の人々は、真の自由を得るまで(解脱するまで)欲望を満たすため右往左往し、物質次元の成功、不成功の話ばかりしていて、およそ”心の平和”など持ち合わせていません。果報を期待して働く人々、それから救済活動、およびそれに類似した仕事をしている人々、そして神通力や超能力を求めて修行しているヨーギーたち、みんな不幸な人々です。なぜならいつも満たされない気持ち、欲しい気持ちでいるのですから。これに反してクリシュナ意識の人々は、主クリシュナに奉仕していて常に幸福です。彼には満たす欲望などはありません。物質界の束縛から解脱したい、という欲望すらありません。クリシュナの献身者には物質次元の欲望がありませんから、常に全く平和なのです。

テキスト

ヴィハーヤカーマーンヤサルヴァーン
プマーンシュチャラティニスプラハ
ニルマノニラハンカーラハ
ササーンティマディガッチャティ

Synonyms

vihāya —捨て去る; kāmān —感覚満足への物質的欲望; yaḥ — (~である)人; sarvān — すべて; pumān — 人; carati —生きる; niḥspṛhaḥ —欲望を持たないで; nirmamaḥ —所有の観念がなく; nirahańkāraḥ —偽の自我がなく; saḥ — 彼は;śāntim —完全な平和; adhigacchati —達成する

Translation

物欲、肉欲をすべて放棄した人諸々の欲望から解放された人偽我なく、所有感なき人この人のみが真の平安に達する

Purport

 無欲になる、ということは、感覚的な歓楽を追求しない、という意味です。つまりクリシュナ意識になりたいと欲することは、無欲になることです。完全なクリシュナ意識とは1.自分はこの肉体ではなく、精神的存在であって、クリシュナの永遠の僕であること2.世の中の事物はすべてクリシュナの所有であって、自分の所有物は何一つないことこれらを悟徹した境地です。この境地に達した人は、宇宙万物はその所有主であるクリシュナを満足させるために使うべきだ、ということを知っています。アルジュナは自分の欲望満足のためには戦う気がありませんでしたが、ひとたびクリシュナ意識に満ちたとき、クリシュナが彼に戦うことを欲したゆえに戦いました。自分のためには全く戦う気持ちのなかったアルジュナがクリシュナのためにベストを尽くして戦ったのです。クリシュナを満足させたいという欲望は、無欲ということです。欲望を無理に押さえつけるのはわけが違います。欲望皆無、感覚皆無、こんなことは生物にとって不可能です。ただその欲の質を変えなければならないのです。物欲のない人は、たしかに万物がクリシュナのものであることを知っています。ですから、彼は何ものも自分の所有にしたいとは思いません。この超越的な知識、最勝の知恵は、自己実現によって生じます。つまり全生物は、魂として永遠にクリシュナの一部分であり、したがって、クリシュナと同等であったり、それ以上であるということは決してない、という真理を完全に体得したとき得られます。このクリシュナ意識に関する理解こそ、真の平和の基本原理なのです。

テキスト

エーシャブラーミスティティパールタ
ナイナーンプラープヤヴィムヒャティ
スティトヴァースヤーマンタカーレピ
ブラフマニルヴァーナンリッチャティ

Synonyms

eṣā —これ; brāhmī —精神的な; sthitiḥ —位置; pārtha — おお、プリターの子よ; na —決して~ない; enām — これ; prāpya —達成すれば;vimuhyati —人は困惑する; sthitvā —位置すれば; asyām — この中に; anta-kāle —人生の終わりに; api — もまた;brahma-nirvāṇam —神の精神王国; ṛcchati —人は達する

Translation

これが精神的で聖なる道ここに達すれば一切の迷いは消える死ぬ時においてすらここに至れば必ずや神の領域に往くのだ

Purport

 今すぐ、このクリシュナ意識、聖なる生活に入れる人もあり、また、何百万回生まれ変わり死に変わりしてもこの境地に達しない人もいます。ただ真理を理解して受容するか否かの問題です。カトヴァーンガ・マハラージは、死の数分前にこの境地に達しました。死の間際になってクリシュナに全面服従しました。ニルヴァーナ(涅槃)とは、物質次元の生命過程が終了した、という意味です。仏教哲学によれば、この肉体生活が終わったら後は「空」だと言います。しかし、バガヴァッド・ギーターの教えは違います。本当の生活は、肉体がなくなってから始まる、と教えています。はなはだしく物質的な人にとっては、この物質界での生活が無事終了すればそれで十分なのでしょうが、精神的に進んだ人々にとっては、肉体生活終了後に、また別の生活が待っているのです。物質界での生活が終わる前に、もし幸いにもクリシュナ意識になったならば、その人は直ちにブラフマ・ニルヴァーナの境地に達します。神の国での生活と献身奉仕の生活には、何らの差異もありません。ともに相対観念を超越した至福の境涯です。自分のすべてを主に捧げきり、任せきった生活は、即、精神界の生活です。物質界には感覚欲を満足させるための活動があり、精神界にはクリシュナ意識の活動があります。今生でクリシュナ意識になることは、肉体を持ったままブラフマンに達したことなのです。肉体を着たまま神の国に入って生活していることなのです。

  ブラフマンとは、物質と相反するもの。したがって”ブラーフミー スティティ”とは、「物質次元の活動の場ではない」という意味です。主への献身奉仕は解脱の境地であると、バガヴァッド・ギーターでは確認されています。ですから、”ブラーフミー スティティ”は物質の鎖から解放された状態のことなのです。

シュリーラ・バクティヴィノーダ・タークルはこの第二章をバガヴァッド・ギーター全体の要約としました。ギーターの主内容は、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、およびバクティ・ヨーガですが、この第二章においては、カルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガについて詳細明白に説明され、また、バクティ・ヨーガの内容も一見できます。

 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第二章”ギーター”の要旨に関するバクティヴェーダンタの解説は終了です。